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お世話になります。

古代、日本は朝鮮半島に出兵して
朝鮮南部である任那?に日本府を置いたと聞きました。
高校時の社会のプリントにも書かれていたのですが、
これは事実なのでしょうか?俄かには信じられません。

当時の日本は技術貧国であり、
多くの技術を大陸系渡来人に頼っていたのは周知の事実です。
渡来人は4、5世紀あたりに集中して日本にやってきています。
そして日本の朝鮮出兵は4世紀中盤です。
渡来人の渡来時期と、朝鮮出兵の時期が微妙に被るのですが、
そもそもここからしておかしくないでしょうか?
渡来人は比較的高い地位を与えられていたらしいのですが、
彼らはどうして祖国と戦争することに反対しなかったのですか?
あるいはどうして戦争をしかけてくるような国に渡来したのですか?

歴史はあまり得意ではなかったので、
最近このことを知ってとても疑問に思っています。
どうか、どなたか分かりやすく説明して頂けないでしょうか?

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A 回答 (5件)

 歴史で習う有名な663年「白村江の戦い」は、既にこれまでの回答にあった百済が滅亡した直後、その王族と共に百済の再興を掛けて戦いに臨んだものです。


 ですから旧百済国民は戦争に反対どころか積極的に支援したものと思われます。
 また、この時点で大量の百済難民が日本に流入することにもなりました。この場合の難民というのは庶民ではなく、王族や貴族などです。彼らは敗軍の将、ということで国内に留まれば命なども危なくなりますから。
 また、こうした緊迫した朝鮮情勢のため、お互いにかなり頻繁な交流があったことは間違いありません。渡来人が多数来たことも不思議ではありません。

 さらに、これも既に書かれているように「任那日本府」の実在には議論があるものの、当時の日本は朝鮮の一部に関してある程度大きな影響力(支配力)を持っていたことはほぼ確実です。ただ、これは後の時代のような出兵、というものとは違うと思います。
 当時の日本語と百済の言葉などはかなり共通してもいたようですし、その頃は陸路よりもむしろ海路の方が先に発達していました。国に対する意識も現代とは全く異なっていますし、相当自由に行き来していた、というのが実情ではないでしょうか。
 そのため、日本の勢力が朝鮮にあるからといって新羅や高句麗とも当初は比較的友好的な関係を取っており、両国からも使節や僧侶、さらにはおそらく帰化人も来ていたようです。

 また、技術的にも最新技術は朝鮮・中国から導入するにしても、既に巨大古墳を造れるような能力はありましたし、工芸品なども国内で生産できています。いわゆる工業力、軍事力、という点ではさほど劣っていないか比較する根拠はありませんけれど勝っていた可能性もあります。
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この回答へのお礼

>歴史で習う有名な663年「白村江の戦い」は、既にこれまでの回答にあった百済が滅亡した直後、その王族と共に百済の再興を掛けて戦いに臨んだものです。
ですから旧百済国民は戦争に反対どころか積極的に支援したものと思われます。

そのような背景があったんですね…

>当時の日本語と百済の言葉などはかなり共通してもいたようですし、その頃は陸路よりもむしろ海路の方が先に発達していました。国に対する意識も現代とは全く異なっていますし、相当自由に行き来していた、というのが実情ではないでしょうか。

俄かに理解しがたいですが…
その当時の考え方では国とは言わばムラ同士のような認識だったのでしょうか?
当時の百済と日本の言葉に共通点があったというのは初耳です。
どちらかの言語がどちらかに影響を与えた、もしくは発生に同じ流れを汲む二つの言語という関係にあったのでしょうか?
知れば知るほど謎は深まるばかりです。

そもそも渡来人に対する考え方が間違っていたようですね。
今では他国に帰化するのはかなりの勇気と覚悟が必要ですが、
その頃は引越しとか住民票移動くらいにしか考えていなかったんですかね?
ん~~古代は奥が深いです。
勉強していなかった自分が恨めしいくらいです。

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2008/09/18 20:04

 当時の朝鮮半島は俗に三国時代と言われる時代でNo.1様も書いておられる通り統一した王朝はありませんでしたわ。

日本と友好を持っていた百済(ペクチェ)に対して新羅(シルラ)と高句麗(コグリョ)は日本との仲は良くありませんでしたの。
 さて、ご質問の任那日本府の事ですけれど、その実在に関しては確証は出ていないそうですわ。でも、それがあったといわれているところは加羅諸国と言われ小国家の集合体でしたし遺跡が大和朝廷のものに近いということで日本人のかかわりは深いといえますわね。
 詳しいお話はどうであれ当時の朝鮮半島には3つの王国と1つの小国家の集合体があり一つの統一された国ではなかったこと。日本の影響のある古墳などが事実加羅に存在するということ。この二つをおさえておけば、日本府があってもおかしくはないという事がお分かりになるかと思いますわ。

この回答への補足

>遺跡が大和朝廷のものに近いということで日本人のかかわりは深いといえますわね。

ネットで少し調べてみたのですが、
確かに埴輪?や古墳に似た遺跡が出土されているようですね。
このことを韓国の人たちはどう思っているんでしょうね。
そこらへんも少し気になるところです。

>詳しいお話はどうであれ当時の朝鮮半島には3つの王国と1つの小国家の集合体があり一つの統一された国ではなかったこと。日本の影響のある古墳などが事実加羅に存在するということ。この二つをおさえておけば、日本府があってもおかしくはないという事がお分かりになるかと思いますわ。

あくまで確証はないのですね…
確証がない限り盲目に信じることはできませんが、
あったかもしれない、という歴史のロマンを感じることは楽しいですね!
今までより古代について興味が沸いてきました。

ご回答有難うございました。

補足日時:2008/09/18 19:53
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質問者さんは「技術」の問題を重大視しておられるようですが、これは4世紀や5世紀の段階では、軍事力の行使にはあまり影響なかったと思われます。

何しろ、使っている兵器がごく初歩のものばかりですから。

古代社会において、軍事力のレベルを決めるのは、
1. 人口
2. 金属加工技術、金属資源
3. ウマの活用。騎兵の歩兵に対する優位は大きなものがありました。
といったものです。

この辺については、「銃・病原菌・鉄」という本を読むと理解ができるのではないでしょうか。この本は、大航海時代に至るまでに欧州諸国が全世界を征服できるだけの軍事力を身につけることが出来たのはなぜか?を主に考究した本ですが、上記のことについてもヒントがいろいろ見つかると思います。

4世紀から5世紀の日本と朝鮮半島について、上記の3要素で考えて見ますと、

(1)の人口について。古代から、朝鮮半島より日本の方が温暖湿潤で、水稲耕作が普及すればより多くの人を養うことが可能です。即ち、より多くの兵で戦を出来ることになります。

(2)の金属加工・金属資源について。日本は銅の産出に恵まれていたようですし、製鉄についても「たたら製鉄」と言った技術で鉄器を作っていたようです。

(3)のウマの使用について。古墳からウマの埴輪が出土しており、相応の使用レベルに達していたと思われます。

以上から考えまして、
「九州~対馬~釜山近辺を経由して朝鮮半島に兵を行き来させることが出来る」
「朝鮮半島に拠点<友好国>があり、物資の貯蔵、上陸拠点の確保が可能」
という条件があれば、当時の日本が朝鮮半島で軍事力を発揮できたとしても特に不思議はありません。

逆に言いますと、7世紀に日本と伝統的に敵対関係にある新羅が朝鮮半島を統一し、
「朝鮮半島に拠点<友好国>があり、物資の貯蔵、上陸拠点の確保が可能」
と言う条件が消えてしまいますと、朝鮮半島での軍事力行使は絶えてしまいました。
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この回答へのお礼

ご丁寧な回答有難うございます。

戦争をするのに、確かに機織や焼きものの技術なんてあまり必要ないですね…
私は当時の日本をかなり過小評価していたようです。
生活レベルも軍事力も、大陸と比べればずっと劣る弱小国だと思っていましたし、
諸外国と外交をしていたなんて想像もつきませんでした。

そんな大昔に、我々の祖先は、
はるか朝鮮半島の国々と友好関係を結んだり、
逆に侵略の標的として定めたり、
さまざまなドラマがあったんですね…目からウロコでした。

「銃・病原菌・鉄」ですね。
今度図書館で探してみようかと思います。
大変勉強になりました。
ご回答どうも有難うございました。

お礼日時:2008/09/18 19:52

おはようございます。


回答にはなりませんが、自分が勝手に思っていることです。
当時朝鮮には、新羅、百済、任那?はじめ、小国家が乱立していた
と思いますが、そこへの出兵と言うと、朝鮮での自治権等の確立、拡大と
いうことになりますが、実は室町時代の倭寇と同じようなものでは、
なかったかと思っています。
当時、回答者さんがおっしゃるとおり、日本は技術貧国であり、貿易を
しても、たいした輸出品もなかったと思います。(金がでるようになったのは
ずっと後代)
そんなことから、朝鮮の技術や人を連れ帰るということが、行われて
いたのでは?
実際に、秀吉の朝鮮の役では、薩摩島津家が、大量の朝鮮人を連れ帰り
陶器を焼かせたりしています。
士分として待遇はしていますが、そういうことが古代にもあったのでは?
と、おもいます。
 もちろん、乱国時代の朝鮮、中国に見切りをつけて、渡来した人々も
いたのでしょう。(秦氏のような)
 自分は右でも左でも、親朝鮮でもありませんが、教科書の記述が
全部正解とは思っていません。子供の頃にすりこまれると、こわいなぁ
と思いますが、韓国や中国の反日て教科書、これも疑問です。
 
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この回答へのお礼

>そんなことから、朝鮮の技術や人を連れ帰るということが、行われて
いたのでは?

なるほど。
確かにそういった考え方もできますね。

>教科書の記述が全部正解とは思っていません。
子供の頃にすりこまれると、こわいなぁと思いますが、韓国や中国の反日て教科書、これも疑問です。

確かに歴史なんて極端な話本当かどうかなんてその時代に行ってみない限り絶対に分かりませんよね。
資料だって、江戸時代以降ならまだしも、それ以前は捏造や誇張が平気で行われていたみたいですし。

お礼日時:2008/09/18 19:47

まず、当時の朝鮮半島は高句麗や新羅、百済といったいくつもの国に分かれており、統一政府などはありません。


当時の日本は百済と仲が良く、(出兵して征服したかどうかは分かりませんが)任那にも強い影響力がありました。
この時期の渡来人は百済から来た人が多く、戦争相手ではなく友好国に来たのです。
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この回答へのお礼

>当時の朝鮮半島は高句麗や新羅、百済といったいくつもの国に分かれており、統一政府などはありません。

そうなんですか!?
恥ずかしながら今まで新羅や百済、高句麗などは、
日本で言う江戸時代の藩のようなスタンスだと思っていました。

>当時の日本は百済と仲が良く、任那にも強い影響力がありました。
この時期の渡来人は百済から来た人が多く、戦争相手ではなく友好国に来たのです。

その頃から百済と協定関係にあったなんて、目からウロコです。
日本はずっと日本列島の中だけで平和に暮らしていたと思っていました。

ご回答有難うございました。

お礼日時:2008/09/18 19:43

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