No.1
- 回答日時:
直接となると…運が良かったとかになると思うのですけど(^^)
まぁ間接的な理由から言いますと
1.地の利
尾張が京都に近からず遠からずの丁度良いところにあり、
♯近すぎるとライバルが多いし、先の内戦でぼろぼろだ
♯し、遠すぎると京都までの補給線が長すぎる。
また土地が裕福だった。戦争における信長の戦略は桶狭間を除いて勝つべくして勝ってます。それはひとえに土地が豊かだったからです。
2.信長の個性
これは有名なんで言うこともないでしょう。一言で言えば経済・軍事に関する先見の明でしょうか。
3.有力な同盟国
前半は斎藤道三、後半は徳川家康の存在が大きかったでしょうね。まこれも信長の外交力のおかげとも言えなくもないでしょうが。
No.2
- 回答日時:
◆Naka◆
popesyuさんがうまくまとめてくださっているので、オマケ程度に…
やはりまず第一に来るのは、桶狭間(田楽狭間)の戦いにおける勝利でしょう。現在では歴史研究も進み、桶狭間は台地の上にあったことがわかっていますが、信長軍は丘を匍匐しながら登り、ゲリラ的に今川氏を壊滅させることができましたね。これがはずみになったことは間違いないでしょう。
信長の強さは、米の安定収入を計ったところにもあります。
「検地」というと秀吉が有名ですが、実は信長もやっております。(もちろん秀吉のように全国的なものではありませんが)
米の収穫の2/3を年貢として徴収していましたが、自然災害時には年貢の減免も行っていました。それによって農民の人心を得た、ということが言えます。
また、堤防の修復など治水や開墾にも力を注ぎ、一部費用を出したりして生産を安定させることに腐心しました。
あと、優秀な家臣を持ったことも強さの秘密と言えるかもしれません。
武田氏と並び、綺羅、星の如く人材が揃っていましたからね。
有名所では、木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)、明智光秀(結局、この人に倒されちゃいましたが…)、丹羽長秀、中川重政、柴田勝家、滝川一益など、誰でも名前ぐらいは聞いたことのある家来が集っていたんですね。
また、その家臣たちを適材適所(とは言えない場面もあったけど)うまく使ったのも勝因の一つと言えるでしょう。
こんなところでしょうか。
No.3
- 回答日時:
質問に対しては少し異なる答えですが、織田信長について世間一般と異なる視点で書かれた本があります。
『二人の天魔王 「信長」の真実』 明石散人 講談社文庫
読み物としてもおもしろいし、織田信長に対する見方が変わるので必見です。
ただ、授業で用いるには少々難かもしれないので(授業で要求しているのは世間一般の見方の話でしょうから)、あくまで参考に。
No.4ベストアンサー
- 回答日時:
信長の成功例は多くあるんですけれど、僕が最も尊敬する点は「発展的解消」を実践していったところです。
これは、新たなものを想像するために、敢えて既存のものを破壊するというものです。(きっと、今の日本にも求められているような気もしますが)また、過去の成功例を繰り替えりしたり、安穏としたりせず、次々に新たなものを生み出していこうとした想像力・向上心があったからではないでしょうか。
具体的なところになりますと、信長は軍隊の整備、とりわけ兵農分離を行ったと言われます。これにより、信長軍は結束力の強い軍になり、諸大名を軍事的に圧倒したとのことです。
Nakaさんも言われていますが、人材と地の利も大きな要素です。あれだけの人材を登用したこと自体もすごいのですが、なんと言っても活用できたことが天晴れ・信長!といった感じです。生産性の無くなった実績ある家臣を切ったり(リストラですね)、木下藤吉郎に墨俣城を築城させたりと人材活用術は当時の常識では考えられなかったのではないでしょうか。
最後に地の利ですが、広大で豊かな濃尾平野を本拠にしていたことがよかったのでしょう。家康もいるので後顧の憂いは断っていたし、一時期は信玄とも盟約を結んでいましたしね。
まとまりに欠けてごめんなさい。
No.5
- 回答日時:
信長は当時の観点にとらわれず、常に新しい観点で時代を見抜いたからだと思います。
その例として、鉄砲の導入がそれを物語っています。諸大名は、鉄砲は使いにくい兵器だと考えていましたが、信長は使いにくさを数の多さで克服し、さらに長篠合戦では鉄砲隊を3列構成にして、弾の装填に時間の空きがないようにしたことは有名です。次に内政面でも革新を起こしました。楽市楽座です。領地内では関所、税金を撤廃し物流をスムーズにし本拠地岐阜はかなり栄えたと、聞いています。
以上、自分の考えが入っていて必ずしも正しいとはいえませんが、信長はその時代の考えにとらわれず、常に新しいことを考えていた人物だと私は確信しています。
No.6
- 回答日時:
私は、Mhiroさんもおっしゃていますが、兵農分離がかなり大きかったと思います。
確かどなたかの著書にもありました。楽市楽座での経済の安定化
→兵を専門職化させた。
兵の農地からの解放
→強兵を身近におくことが可能になり機動力UP。
戦争から戦略以外の季節要因を排除した
→兵を練兵と戦争のみに集中できた。
で、あとは典型的な信賞必罰ではないでしょうか。
No.7
- 回答日時:
織田信長は、まず発想がその時代の10年以上先を常に行っていたとおもいます。
鉄砲の有効活用、家臣統制、積極的かつ奇抜な戦略、そしてあまり知られていないかもしれませんが、領民からのウケがよかった(^.^)
うつけと言われていた若かりし時代、じつは様々なことを、尾張国主になるまえに試していたという見方もできます。そのなかでも、後々にわたって信長が多用した鉄砲(当時は火縄銃)の改良が私は好きです。
何をしたかというと、当時火縄銃は、弾丸をつめて火薬をつめて(順番ちがうかもしれませんが)、そしてそのあと、それらを棒でしっかり押し込んで火を付けて発射、というとても面倒くさい段階を踏まないといけなかったんです。それを信長は、弾丸&火薬のセットを作って、そんな面倒なことをせずに、なるべく短時間で撃てる装置を発想していました。
家中の家臣達は結局、うつけの言うこと、と取り合わず、最終的には本格的な実用にはいたりませんでしたが、他にも巧妙かつ大胆な発想で、うつけと呼ばれながらも、様々な工夫をしていたんだと思います。
あと実際にレポートの役には立てないかもしれませんが、週刊少年サンデー連載の「ミスターシパング」をオススメします(^.^)
それまで、実はあまり信長が好きではなかった私ですが、この漫画を読んでファンになりました!
No.8
- 回答日時:
既に皆さんの書かれていることで事足りるかと思いますが、蛇足的に書きます。
当時、三河や甲州、美濃、越後、関東の兵隊に比べ、尾張周辺の兵の質は低い、という見方もあったようです。桶狭間は博打的に勝ちましたが、信長はその他の戦争では概ね慎重ですし、合理的です。信長は意外に苦戦したり負けたりすることも多々あり、斎藤、浅井、本願寺を始めとして、難しい戦争を幾度もしています。そのため信長は戦争のために大枠で2つのことに腐心しました。(1)兵農分離や関所の廃止、堺の自治の廃止などにより、多方面に大量の軍隊を動かせる素地をつくること(物量面の充実)(2)勝てそうにない相手には勝てそうになるまで外交によって穏便に済ましておくこと(武田や上杉など東方勢力には卑屈なほど柔軟な外交を展開した時期があります)。お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!
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