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1)「北条早雲」と呼ばれている人物
名字は伊勢、名は長氏、あるいは盛時、通称は新九郎。
号は早雲庵宗瑞。または伊勢宗瑞。
正式な名のりは、平長氏、あるいは平盛時。
北条氏を称したのは子の氏綱の時であるので
従って、「北条早雲」は存在しなかった。


2)「聖徳太子」とは呼ばれている人物
本名は厩戸皇子。
別名、豊聡耳・上宮王とも呼ばれた。
『古事記』では上宮之厩戸豊聡耳命と表記される。
『日本書紀』では厩戸皇子のほかに豊耳聡聖徳、豊聡耳法大王、法主王と表記されている。
聖徳太子という名は生前に用いられた名称ではなく、没後100年以上を経て成立した『懐風藻』にて初めて見られるものである。
従って、「聖徳太子」は存在しなかった。


3)「任那日本府」
『肥前風土記』(713年成立)松浦郡条に「任那日本府」が見え、
『日本書紀』(720年成立)崇神天皇条~天武天皇条に「任那日本府」が多く登場し、
『新撰姓氏録』(815年成立)に「任那」と見えている。
しかし、6世紀の正式な国名は「倭」であり「日本」ではなかった。
日本という国名が正式に用いられるのは、天武天皇の時代以降。
従って、「任那日本府」は存在しなかった。


以上の理屈により、現在は「北条早雲」「聖徳太子」「任那日本府」は歴史上存在しなかったという者がいます。
「北条早雲」と呼ばれている人物は歴史上存在しなかったのだから、伊勢宗瑞、あるいは平盛時と呼ぼうということです。
(韓国では「任那」の存在すら認めていませんが・・・)

あなたは以上の理屈は正しいと思いますか?
つまり「北条早雲」「聖徳太子」「任那日本府」は歴史上存在しなかったと思いますか?

A 回答 (9件)

「当時は××と呼ばれていた」は言えると思いますが、それが現在と異なっているからといって「存在しなかった」はおかしいです。



この理屈で言うと、例えば昭和天皇もいないことになります。
天皇陛下の正式名称は、存命中は「今上天皇」ですから、死ぬまで「昭和天皇」は存在しません。したがって歴史上存在しない事になります。
明らかにおかしいですよね。

「北条早雲」「聖徳太子」「任那日本府」は歴史上存在しました。
任那日本府が、日本の領土だったか保護国だったか、単に館(領事館或いは商館のようなもの)があっただけかは私には論証出来ませんが、何かがあったことは事実です。また他の二人(北条早雲、聖徳太子)は、呼び方は兎も角、存在したのは確実であり、その事跡も可成りの程度分かっています。


> 「北条早雲」と呼ばれている人物は歴史上存在しなかったのだから、伊勢宗瑞、あるいは平盛時と呼ぼうということです。
当時の名で呼ばなければならない必然性はなく、単に「伊勢宋瑞」を「北条早雲」と呼んでいるだけなので、実体としては何も変わらないです。
呼びたければご自由に、というところですね。
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この回答へのお礼

ありがとうざいます。
北条早雲と呼ばずに伊勢宗瑞、あるいは平盛時と呼ぼう。」と言っている日本人の歴史学者が多いことや、
当時、日本という名称がなかったので「任那日本府」は存在しなかったと韓国人の歴史学者のほとんどが言っています。

明らかにおかしいですよね。

お礼日時:2005/11/23 11:14

 おはようございます。



 「日本府」は情報不足なのですが。

 「北条早雲」、「聖徳太子」は、後世にそう呼ばれることになった人物が存在した、ということでいいのではないかと思います。それに、早雲は、北条一族の族祖として奉られた名前ですし、太子も、その徳(だけじゃなく、まあ政治的な事情もあったんでしょうが)を記念してつけられた名前でしょう。諡号に近いという解釈です。

 ただ……。

 「滝沢馬琴」と「ラフカディオ・ハーン」は、考えるところがあります。

 馬琴は、「曲亭馬琴」(亭号+号)もしくは「滝沢解」(本名)と呼ばれるべきで、滝沢という本姓と、馬琴という号をくっつけるのは変でしょう。例えば、古今亭志ん生は、本名を美濃部孝蔵といいますが、それを「美濃部志ん生」といってるようなものですから。
 これは、後世の人が奉ったというよりは、間違えて呼んでる、という方が正しいのではないかと思っています。
 もちろん、近世文学研究者の間では、「曲亭馬琴」ですが、いざ本を出す時、一般向けの場合、それでは分りませんからと、出版社に「滝沢馬琴」に直されたという話も聞きます。
 犯人は誰でしょうね。たぶん明治あたりの誰かだと想像しますが。

 「ラフカディオ・ハーン」は、明治26(1893)年、小泉節夫人の家に入る形で日本に帰化します。「八雲」という名も自分で選んだものです。
 研究者でも、帰化以降も「ハーン」と呼んでる人が多い気がします。
 自分がこう呼んでもらいたい、といってつけた名は、そう呼ぶのがいいと思うんです。
 異論はあるでしょうが、私としては、最終的な名前―「小泉八雲」―で通すべきだと思います。

 名前は、人から与えれるのが本質といいます。だから昔の人は、名がしょっちゅう変わったんでしょう。ややこしいです。でもそれにはおのずと「筋」があって然るべきでしょう。確かに正当な筋からつけられた名だったら、それが正しいと思います。
 むしろ、なくなって送られた名が、名前の本質としてはいちばんいいかも(じゃあ戒名で呼べってのは違うけど)。
 馬琴なんか、筋としても変だし、名として明かに間違いですから、論外なんですけどね。
 でも、「こう呼んで欲しい」といった人は、そう呼ぶべきでしょう。八雲なんか、とくにそうです。

 なんだか余談になりました。個人的な感想です。乱文陳謝。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
「滝沢馬琴」と「ラフカディオ・ハーン」は、参考になりました。
滝沢という本姓と、馬琴という号をくっつけるのは変ですね。
「明石家さんま」なら「杉本さんま」になるということですね。
名称の統一は後世の研究にとっても重要ですね。

お礼日時:2005/11/23 11:09

先日、室町に移転したのは足利義満になってからだから、足利尊氏が開いたのは〈室町〉幕府ではないという質問がありましたが、それと同じ揚げ足取りで、バカバカしいと思いますよ。


聖徳太子の事績とされている物は、厩戸皇子とは無関係だから、厩戸皇子は実在したが、聖徳太子は実在しなかったという説なら、論じる価値があると思いますが、呼び方だけで〈存在しなかった〉に飛躍するのは屁理屈です。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
私もそう思います。
当時、そういう呼び方がなかったから、存在しなかったというのは屁理屈ですね。

お礼日時:2005/11/23 11:06

energyflow2005さんの質問は、質問ではありませんね。


ご自分の考え方への同意を求められています。

しつもんであれば、少なくとも質問の体裁をとるべきです。

ご質問(?)内容も、まともに答えるに値しないものです。
「中国史」と言った場合、「中国」と名乗るのは、中華民国以後であるので、それ以前に中国は存在しなかったとするのと同じです。

この回答への補足

失礼ですが、私は「北条早雲」「聖徳太子」「任那日本府」も歴史上存在したと思っています。
そして呼び方もこれでいいと思っております。
こんなものは屁理屈です。

先日、学会に参加したところ、「北条早雲と呼ばずに伊勢宗瑞、あるいは平盛時と呼ぼう。」と日本人の歴史学者が言っていたことです。

当時、日本という名称がなかったので「任那日本府」は存在しなかったと言っているのは、韓国の歴史学者のほとんどです。

nacamさんは何か勘違いしていませんでしょうか?
同意を求めているとありますが、どちらの意見に同意を求めるとお思いでしょうか?

補足日時:2005/11/23 10:55
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他の方の回答にもありますが、energyflow2005さんは自分の中で明確な見解を


もっているわけですから、この質問はOKWeb/教えてgoo!の趣旨にあった質問
ではありませんね。
歴史について議論をしたいのであれば、OKWeb/教えてgoo!は、ふさわしい
場所ではありません。


ついでですが、釣られたついでにコメントします。
普通に歴史を覚えるのであれば、『北条早雲』『聖徳太子』で覚えてかまわない
と思います。
歴史について話をする際に、とりあえず学校で教える程度の知識は必要であり、
学校で習う際には早雲庵宗瑞とか厩戸皇子で覚えるより、覚えやすいからです。
(もっとも厩戸皇子の名前は、聖徳太子を題材にしたマンガが多いこともあり、
 知っている人もかなり多いと思いますが)

『任那日本府』は別の意味でなかったと私は考えていますが(逆説の日本史
の見解が正しいのではないかと思っているので)、まあ学校で習う分には
やはり『任那日本府』で覚えておいてよいかと思います。
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「北条早雲」「任那日本府」についてはわかりませんが、恐らく実在したと思います。


「聖徳太子」については谷沢永一著「聖徳太子はいなかった」(新潮選書)をお読み下さい。
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「任那日本府」に関して:


これは日韓の所謂「歴史認識問題」においても問題とされて居るものの一つです。
一つの事実として、日本が統治していたときに、旧日本軍が「任那日本府」の跡を探して、朝鮮の南部を出来る限り、聞いた所では1千万カ所以上とも言われていますが、発掘をしました。
しかし、「任那日本府」に関する遺跡、遺物は一つも見つかりませんでした。
これが「任那日本府」が無かったとする一つの根拠にされているようです。
また、当時の中国・朝鮮の文書にも記載がないはずです。

この回答への補足

中国史料における任那
(日本書紀(720年成立)よりも古い記述を含み、信頼性が高い。)

『魏志東夷伝』弁辰諸国条の「弥烏邪馬」が任那の前身とする説があるが、一般には認められていない。
『広開土王碑』400年条の「任那」が史料初見とされている。
『宋書』では、「弁辰」が消えて、438年条に「任那」が見え、451年条に「任那、加羅」と2国が併記され、その後も踏襲され、『南斉書』も併記を踏襲している。
『梁書』は、「任那、伽羅」と表記を変えて併記する。
525年前後の状況を記載した『梁職貢図』百済条は、百済南方の諸小国を挙げているが、すでに任那の記載はない。
『翰苑』(660年成立)新羅条に「任那」が見え、その註(649年 - 683年成立)に「新羅の古老の話によれば、加羅と任那は新羅に滅ばされたが、その故地は新羅国都の南700~800里の地点に並在している。」と記されている。類書の『通典』(801年成立)、『太平御覧』(983年成立)、『冊府元亀』(1013年成立)もほぼ同様に記述している。
これらから、中国史料における「任那」は、

三国時代(220年 - 280年)の「弁辰」に替わって、
宋代(420年 - 479年)にはすでに成立しており、
450年頃、加羅が任那から分立した。
任那は、梁代(502年 - 557年)に、特に525年以前に新羅に滅ばされた。
任那の故地に関する記憶は唐の高宗(649年 - 683年)の時代まで残っていた。
と総括できる。


朝鮮では任那の存在は殆ど認められていないが、
新羅が朝鮮半島を統一した時に、ほとんどの文献を焼いた際に、
任那の存在を記載した資料を焼いたからだと言われています。

『鳳林寺真鏡大師宝月凌空塔碑文』(924年成立)に「任那」が見えるが、
『三国史記』(1145年成立)の『本紀』には全くみえず、『伝』に僅かに1例が認められるのみである。

補足日時:2005/12/10 23:07
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以前任那日本府について回答したものですが、主旨が伝わらなかったようですので補足します。



「日本という国名が正式に用いられるのは、天武天皇の時代以降。従って、任那日本府は存在しなかった。」というのは、単に言葉の遊びで言っているのではありません。

「日本(にほん、やまと)」という言葉は、天皇という唯一の主権の存在を前提とした国家」を表す言葉です。一方「倭(わ)」は単一政権の支配力が及ぶ範囲を示す言葉ではなく、「倭人の居留する区域」を意味します。ですから、狗奴国さえ支配できなかった卑弥呼にも「倭王」の称号が与えられたのです。倭人の中の有力者には違いないですからね。

「日本府(やまとのみこともち)」は「日本」という統一国家の「主権の及ぶ範囲」を意味します。しかし6世紀以前の倭は、倭王の下に有力部族が集結した共同体のようなもので、当時の「やまと」はその中心勢力ではあっても、倭人全体を示す言葉ではなかったのです。このことはヤマトタケルの「やまとは国のまほろば・・・」の国偲び歌をみても明らかです。

当時の朝鮮半島に倭人が多数居住し、また倭王に従った国や小邑があったことは十分に想定されることであり、だれも否定していません。ただ、それを統一国家という概念が形成された7世紀以降の判断基準でとらえてはいけない、ということです。
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この回答へのお礼

大変良い回答をありがとうございます。

1、朝鮮半島南部には倭人が多数居住していた。
2、朝鮮半島の国の中には、倭王に従った国や小邑があった。
3、しかし、それは統一国家というレベルではなく、もっと原始的なものだった。

ということでしょうか?

お礼日時:2005/12/10 23:19

 聖徳太子の実在は、まず疑問視されませんね。

『日本書紀』以外にもその実在を示す史料は多く、『天寿国しゅう帳銘』『法隆寺釈迦三尊像光背銘』『道後湯岡碑銘』『上宮記』『元興寺伽藍縁起』『上宮聖徳法王帝説』等これらを対照吟味して実在を導き出せるのです。

『任那日本府』についてのかつての定説は、現在では動揺しており、新たな進展を求めつつ今なお論争中です。
 旧説では、『任那日本府』は近代の『朝鮮総督府』とオーバーラップして理解され、大和朝廷の【植民地】たる任那地方を支配する出先機関であると説かれてきました。しかし現在では、そのような『任那日本府』は虚像として否定されたといえます。
 当然のことですが、朝鮮史料を重視する韓国・北朝鮮の研究では日本列島の政治的影響が朝鮮半島に及んだとみる学説は一顧だにされないのが現状です。以下韓国・北朝鮮の代表的学説を簡単に述べると、
 『分国論』という学説によると、『日本書紀』に記された『任那』とは日本列島内に存在した任那系渡来人による殖民国すなわち任那本国の『分国』であり、『任那日本府』はそれを統括するために大和朝廷が設けた機関だとします。また任那は巨済島を指すとの見解もあります。このように韓国・北朝鮮では『任那日本府』を朝鮮半島を舞台とした歴史とは切り離して考えようとします。

 一方、最近の日本における研究では【植民地支配の出先機関】とする旧説こそ退けるものの、当時の日本列島の政治勢力が朝鮮半島南部の政治動向に何らかの関与をしたとの視点はなお継承されており、朝鮮における研究とは今なお大きな相違点があります。
 以上のような研究状況ですが、以下では主に日本における研究を中心に説明します。

○『任那日本府』とはどういうものか
 本来、任那とは現在の韓国釜山市付近を本拠とした国の名称です。朝鮮史料では、任那加羅、任那加良あるいは金官国と呼び、また単に伽やということもありましたが、任那と略称する使用例はありません。一方、『日本書紀』は、この国を任那・金官・南加羅などと呼びます。
 ところが、厄介なことに、『日本書紀』が記す任那とは必ずしも任那加羅国を指すとは限らず、他に(1)加羅(加耶・伽や)他地域全体の地理的名称、(2)加羅地域に存在した小国郡の総称、(3)任那日本府、などを意味する場合もあるのです。それでは、『日本書紀』に描かれた『任那日本府』とはいかなるものかということになります。
 現存最古の『日本書紀』注釈書である『釈日本紀』は『任那日本府』を『任那之倭宰』と注釈しています。つまり、『日本府』とは、『倭宰』(ヤマトノミコトモチ)の意味というのが、平安・鎌倉時代の解釈だったのです。(『ミコトモチ』とは『御言持』の意であり、天皇の使者を指します)。
 この『釈日本紀』の注釈を勘案しつつ、『日本書紀』を注意深く読めば、『在安羅諸倭臣』とあるのが注目されます。つまり、『日本府』の実体とは倭の使者そのものあるいはその集団であって、何らかの権力機構・機関を想像するのは妥当とは言えないのです。
 ところで、これらの『諸倭臣』が530年頃から安羅(慶尚南道咸安)に駐在したとの確証はありますが、任那加羅も含め安羅以外に居た証拠はないのです。従って、厳密には『任那日本府』と呼ぶのは正確ではないのです。
 要するに、『任那日本府』の実像は、安羅に駐在する『諸倭臣』が大和朝廷と連絡をとりつつ、任那諸国の代表と外交上の問題を協議し、時には百済王とも連絡している、ということになります。
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この回答へのお礼

充分な説明をありがとうございます。

お礼日時:2005/12/10 23:22

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