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知覚と知識について自分の経験など具体例をあげて論じなさいという、テスト問題がでるのですが、哲学はちんぷんかんぷんで全くわかりません。どうか助けてください。ほかにも、客観性とは何か?知覚をモデルにして論じなさいという問題もあるのですが・・・・。いずれも身近な具体例を挙げてということなんです。もし教えて頂けるならどちらの問題でも結構ですので教えてください!

A 回答 (4件)

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哲学というのは幅が広い学問で、個々で質問されている内容から推測されることは、かなり現代的な哲学だろうと思われることです。


知覚というのは、しばしば「認知心理学」領域で話題になるものです。ことに、モデルというものを考えるのが、かつての行動主義心理学との大きな差違とも言えましょう。
たとえば、キャバクラへときどき行きますが、それが、「自分の経験」というものです。では、この経験から、「知覚」や「知識」ついてどのようなことが考えられるかということですが、最初についた女の子が可愛いと感じたら、それは知覚に関することです。その可愛さの程度を考えるとき、知識が必要になります。キャバクラのグレードや、立地条件、過去に同じような店で、どのような女の子がいたかという知識が役にたちます。それは、その知識に照らして、そのときの知覚がどのように左右されるかという問題につながります。ここで、「可愛さ」の客観性の問題も、知覚モデルの問題も、おなじような課題だと言うことが分かります。「可愛い」と感じても、すぐに指名しないのは、しばらくすると、次の女の子が出てくることを経験的に知っているからですが、これを知識と呼びます。
また、しばらく待てば、次の女の子が出てきますが、これでは、ゆっくりとくつろいで飲むことができません。そこで、可愛さが同じぐらいだとすれば、そのしばしの時間で彼女らが何を話したかを検証します。これも、知覚に関する出来事です。つまり、話している途中で、ひざに手を置いてくれた女の子は、ボディータッチを嫌がらないかもしれないと言うようなことを考えます。このような知覚で得た情報と知識から、総合的な判断をして、キャバクラ嬢を指名しているのです。ここで、指名率がその店で一番の女の子を「ナンバーワン」と呼ぶのですが、アトランダムなお客さんの指名行動という「投票」による結果です。客観性というのは、主観からはなれた性質を言うのですが、個々人の知覚の「集合」が、「ナンバーワン」という存在をもたらしているとすれば、そういう知覚を投票モデルとして考えれば、それも、可愛さの客観性を示すものとなり得ます。
これは、私の身近な例ですが、mi183さんの身近な例を考えられれば、解答がかけると信じています。
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はっきり申し上げてしまうとよく分からないのですが、


知覚することと知識とには、密接な関係がありそうな気はしますよね?
(もっとも、「知覚」の定義にもよるのかも知れませんが...)

例えば、ある対象を、一切知識に頼らずに知覚しようとしたらどうなるか?
と考えてみると、両者の関係が何となくつかめそうな気がします。
また、今度は逆に、ある対象を、全く知覚に頼らずに知る(知識にする)
ということはどういうことか? を考えてみると、また、両者の関係が
見えてきそうな感じがします。

こんなのでは、あまり参考にならない感じですが、何かのヒントになればと
思いまして...

# ところで、知識/知覚の最初の一歩って、どんなだったのでしょうね?
# そして、このような知識/知覚に基づく私たちの客観とは...?

講義を受けていないので何とも言えませんが、「認識論」とか
メルロ・ポンティの『知覚の現象学』とかいうのになるのでしょうか?
キーワードがあると、また回答も得やすいかと思います。
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 「感覚」と呼ばれるものがあります。

視覚、聴覚、触覚、嗅覚、味覚等々。例えば、赤ん坊は色々なものを口に入れたがります。目でみて関心が生じれば、口に入れて味や感触からそのものの性質を知ろうとしているわけです。口に入れた瞬間に苦かったり、不快だと感じられれば、すぐ口から吐き出し、それは口に入れるものではないという知恵が生まれます。しかし、口に入れて不快ではない場合、飲み込んでしまう誤飲ということもままあり、親が慌てたりするわけです。知識がなく、試行錯誤だけで生きている生き物は、こういうことがあるでしょう。

 一方、知識だけあっても知覚がないと、実感をもって実生活のなかで生きた知恵とはなりません。例えば、10mという長さについて、実際にその長さや高さのあるものをみたり、自分がその距離を歩いたりのぼったりしながら体感し、応用できるものになっていきます。

 知覚と客観性の問題は、主観性と、観念論、唯物論の組み合わせがあります。自分に知覚できる範囲だけしか世界が存在しないというのが、主観的観念論です。自分に知覚できない世界でも、誰か他の人、究極には人知を超えた神が知覚していると説明するのが、客観的観念論です。それに対して、神は存在せず、物体だけが客観的に存在していると説明するのが、客観的唯物論であり、感覚によって生じる知覚や感情さえも、人間の体内にある物質の化学的反応の結果にすぎないと説明します。主観的唯物論というのは考えられません。
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