菅原道真の北の方の名前なんですが、何と読むのでしょう。

A 回答 (2件)

正解はすでに#1、Rikosさんの回答に示されていますが、、、



>「来」を否定の「な」と呼ぶとすれば、「ふさなこ」ではないかと思っていたのですが・・・


「來(来)」の字には「な」という読み方はありませんし、否定の意味もありません。

pb1954さんは、勿来(ナコソ)の関で有名な[勿来]の「勿:ナ」と混同しておられるのではないかと推測したのですが。。。

無関係であればごめんなさい。。。
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宣来子(宜來子)【のぶきこ】と読むようです。



http://www.koutou.net/sinbutu/kameido.htm

この回答への補足

ただ、「のぶきこ」ではあまりに現代的であり「来」を否定の「な」と呼ぶとすれば、「ふさなこ」ではないかと思っていたのですが、それ以外に裏付けのとれる読み方があるのか考えていました。

補足日時:2001/12/24 23:20
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Q菅原道真は政敵を憎んでいましたか?

菅原道真は左遷されて怨霊になったそうですが、
それは左遷させた方のうしろめたい心理の反映でしょう。
菅原道真自身はどうおもっていたのでしょうか?
政敵をうらむ気持ちが強かったのでしょうか?
学問に秀でた人ですから、たかが左遷と泰然自若であったということはないですか。

よろしくお願いします。

Aベストアンサー

それは菅原道真の霊を呼び出して、本人に聞いてみなければわからないところですね・・・^_^;
他人にはわからない心の内の問題ですので、
私個人の考えとして、稚拙ながら述べさせていただきます。

道真は、宇多天皇というバックがあって地位を確立していったわけですが、
宇多天皇は当時、大きな権力を持つ藤原氏と対立関係にあり、
しかも次期天皇となる醍醐は、藤原家の娘を母に持つ、藤原家の外孫です。
もちろん宇多天皇が退位し、醍醐が即位すれば、再び藤原家の勢力が盛り返してくることは明らかだったはずです。
となると、宇多天皇によって藤原氏と対抗させられていた道真の立場はたちまち危ういものになってしまう。
頭のいい道真は、それくらいのことはわかっていたはずです。
そう考えると、道真にはすでにある程度の覚悟があったのではないかと思うわけです。
逆に、頭が良かったからこそ、宇多天皇退位後もうまくやっていけるという勝算があったのかもしれませんが、
それまで対立関係にあった、天皇の外戚である摂関藤原一族と渡り合って行けると、本気で思っていたとは考えにくい気がします・・・。
やはり頭のいい方ですし。

まぁ右大臣の位にまで昇った人ですし、
悟りを済ませたお坊さんでもない限り、それなりに野望もあったと思います。
身に覚えのない讒言で降格、左遷されればやはりうらむ気持ちもあったでしょう。

しかし、やはりある程度は覚悟の上、
勢力争いの末、身に覚えのないことで突然失脚していく人たちを見てきた立場としては、悔しいながらも、
「やっぱやられたか・・・悔しいけど、これも人生か・・・」
なんて諦めの気持ちもあったのではないかなぁなんて、
かってに妄想してしまいました。

やんごとなき方々の畏怖心から、
人が死んでは怨霊だ、雷が落ちれば祟りだのと騒がれ、
挙句は神として祭られるようになったのを、
本人は意外と客観的に見ていたかもしれないですね。
そういう意味では泰然自若だったのではないでしょうか?

浅い知識で、自分の想像をつらつらと書いてしまいました。
すみません(-_-;)

それは菅原道真の霊を呼び出して、本人に聞いてみなければわからないところですね・・・^_^;
他人にはわからない心の内の問題ですので、
私個人の考えとして、稚拙ながら述べさせていただきます。

道真は、宇多天皇というバックがあって地位を確立していったわけですが、
宇多天皇は当時、大きな権力を持つ藤原氏と対立関係にあり、
しかも次期天皇となる醍醐は、藤原家の娘を母に持つ、藤原家の外孫です。
もちろん宇多天皇が退位し、醍醐が即位すれば、再び藤原家の勢力が盛り返してくることは明らかだ...続きを読む

Q【歴史・日本史】菅原道真を祀っている北野天満宮は 当時は天災の神様だったんですね。 そうだと思っ

【歴史・日本史】菅原道真を祀っている北野天満宮は

当時は天災の神様だったんですね。

そうだと思った。

いつから学業の神様になったのだろう?

もしかして天災の神様を奉った神社が学業の神様の神社に変えたのは歴史が浅かったりして。

明治時代に変わったとか?

天災に見舞われて厄除けで建てたのに学業の神様っておかしいと思った。

普通、天災除けで学業の神様を奉る神社建てます?

おかしいでしょ?

全国の修学旅行生と学校の教師は馬鹿だね。

Aベストアンサー

> 明治時代に変わったとか?
西暦では1000年頃には既に文芸の神として尊敬を集め、著名な高官や文化人でもお参りする著名人が多かったようです。
なお、災害を避けたい、恨みの元を絶って起きたいというのは、その当事者(本人や関係者とその係累子孫)だけであって、他の人は、ほぼ最初(左遷される前やその後)から才能豊かな人物として、文化的素養、才能をありがたいものとしして崇め、尊敬していたようです。

http://www2u.biglobe.ne.jp/gln/77/7722/772208.htm
抜粋
匡房の曾祖父匡衡が寛弘九年(1012)に北野社に奉った願文に,公を文道の大祖,風月の本主と云っています。大江氏は菅原氏と並ぶ文章道の家です。北野,太宰府の廟社は忠平の門流に固定した藤原摂関家の庇護と,貴族文人の尊信を得て,次第に学問・文事の神としての神格を獲得し始めました。
室町時代に五山の禅僧の間に云い出された渡唐天神の話は,その代表です。所伝によりますと,鎌倉時代の仁治二年(1241),京都東福寺の開山聖一国師円爾弁円が宋から帰って九州博多の崇福寺に住したとき,夜に道真公が現れて禅を問いました。国師は,自分の師である宋の径山の仏鑑禅師無準師範を師とするよう答えましたところ,直ちに渡宋して禅師に参禅し,衣鉢を受けて帰り,再び国師の前に現れて,与えられた法衣を見せたと云います。この話に基づいて多くの渡唐天神の像が描かれました。手に梅の小枝を持つ中国風の文人像で,天神信仰の一側面を示しています。
法楽とは,神仏の前において講会を営み,楽を奏して供養することですが,北野社における法楽は聖廟法楽と呼び,有志が寄って和歌や連歌を奉納することでした。早くに鎌倉時代の元久元年(1204),北野社の社頭において歌合が行われていますが,室町時代における神前での月次連歌は恒例となりました。天神が生前に進んで冤罪を受け,衆生に代わって悩みを承けたと云う代受苦の信仰も起こり,神恩奉謝のために貴賎を問わず参集し,和歌・連歌を献じて,法楽としました。この時期に,ご神徳の一段と上昇した跡は著しい。
足利義満は明徳二年(1391),北野一万句興行を為し,また足利義教の夢想の発句による千句通夜興行も有名です。この義教が永享エイキョウ三年(1431)北野会所において連歌会を催したのが,北野社の連歌会所の初見で,高山宗砌が会所奉行に任ぜられています。宗砌の次が能阿ノウア,また宗祇ソウギも一時これに任じました。

> 全国の修学旅行生と学校の教師は馬鹿だね。
> 天災の神様に受験合格しますようにって願ってるのを想像したら笑えてしまった
そんなことをいっり書いたりしたら、笑われます。

> 明治時代に変わったとか?
西暦では1000年頃には既に文芸の神として尊敬を集め、著名な高官や文化人でもお参りする著名人が多かったようです。
なお、災害を避けたい、恨みの元を絶って起きたいというのは、その当事者(本人や関係者とその係累子孫)だけであって、他の人は、ほぼ最初(左遷される前やその後)から才能豊かな人物として、文化的素養、才能をありがたいものとしして崇め、尊敬していたようです。

http://www2u.biglobe.ne.jp/gln/77/7722/772208.htm
抜粋
匡房の曾祖父匡衡が寛弘九年(1012)...続きを読む

Q 学問の神様として祀られている菅原道真は、いつ頃から学問の神様として祀

 学問の神様として祀られている菅原道真は、いつ頃から学問の神様として祀られ受験生の参拝の対象となったのでしょうか。

 かつては、京の重職を左遷されたことで怨霊となり、事ある毎に災害や異変が起きると京都の人々は、菅原道真の怨霊だと恐れていましたが、怨霊封じで神社を建立し、英霊とすることで怨霊封じから学問の神様という流れになってきたとも思いますがどうでしょうか。

 分かる方おりましたらご回答ください。

Aベストアンサー

学問の神様と広く言われるようになったのは江戸時代からです。
徳川綱吉が湯島に学問所を作って以来、学問所の近くに元々からあった湯島天神が、学者さんや学生さんに信仰されるようになりました。その後、寺子屋でも祀られて庶民にまで浸透しました。

ちなみに湯島の学問所では、公式には孔子を祀っていました。

Q平清盛・源義経・菅原道真などは、なぜ苗字?のあとに「の」が付くのでしょうか?

タイトル通りです。
なぜ彼らには「の」が付き、徳川家康や織田信長には「の」が付かないのでしょうか?

Aベストアンサー

「名字」と「氏・姓(本姓)」の違いだそうです。

氏・姓は「賜姓」と言って、天皇(朝廷)から姓を賜ります。ですから正式な名乗りではこの姓を名乗り、~のとなります。昔の皇族が臣籍降下する場合などは、源や平姓を賜って、皇族と縁を切る訳です。

一方、こうして全国に散って行きますと、次第に姓だけでは家を区別出来なくなります。そういう時には姓だけでなく名字を名乗り、「木曽(に住んでる)次郎(と呼ばれている)旭将軍(という役職の)源の義仲」と名乗ったりする訳です。

ご質問のうち、徳川家康は源氏の支流、得川の系図にくっついているので「源姓」。つまり「徳川内大臣源朝臣家康」で織田信長は元々忌部で藤原姓から平姓になったので「織田弾正忠平朝臣信長」となる訳です。
※本来は賜姓なので秀吉の様なケースを除いて普通は姓は変えられない事になっています。ただし、戦国時代では家系図の偽造は頻繁に行なわれ、自らを名門であるかの様に名乗るケースが多くあった様です。

Q菅原道真

菅原道真公を左遷に追いやった人達(陰謀を企てたのは)で中心的な人物は誰と誰なんでしょうか?

Aベストアンサー

藤原時平ということになっていると思います。
道真の死の数年後、死んだので、道真の祟りということで、祟りを抑えるため、その後道真は復権されて、天神様として祭られた。


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