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薩長の仲が悪かったのはどうしてでしょうか?
黒船来航以降の意見の違いはともかく、歴史的な問題があったのだと思います。

よろしくお願いします。

A 回答 (5件)

江戸時代開始以来の犬猿の仲という訳ではなかったでしょうが、同じ外様とはいえ、江戸幕府との関係には距離があったことは確かです。



関が原の戦いでともに西軍につきながら、120万石→30数万石に減らされて、家臣の家禄も激減せざるを得なかった長州藩、かたや、日本の南端という地の利を生かして、1万石たりとも削らせず、西軍につきながら領土を維持できた薩摩藩。

江戸幕府も、薩摩藩とはもめたくたくなかったので、琉球貿易などの密貿易も黙認し続けていたようです。

こんな経緯から、黒船来航にあって長州藩は早い時期から尊王倒幕を目指し、したたかな薩摩藩は当初は純粋な尊王思想というよりは、政治的駆け引きのため朝廷に近づいていた、というのが実態だと思います。

この時期は、互いに外様で尊王という共通点があるように見えた薩長も、禁門の変では、一見主張が食い違うはずの会津と薩摩が、対長州ということで団結して長州藩を京都から追い出し、決定的な対立が生まれました。
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長州は一貫して倒幕派ですが、薩摩は公武合体~倒幕に変化と流れに違いがあるように思います。

いずれにしても両藩とも自藩が革命の主導権を取り新政権の中心になるいうのが本音だったのではと思います。長州からすれば初期から討幕運動を起し矢面にたっているのにのに薩摩は幕府と組んで長州を攻めていますので信用できないし恨みもある。薩摩からすれば考えや計画もなしに倒幕と叫ぶだけの長州などと組めるかという所ではないでしょうか。ちなみに薩長共に関が原では西軍に付いていますので、伝統的に反幕府体制だと思います。
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長州藩が倒幕には一番過激な藩でしたが、禁門の変において、薩摩・会津連合軍に破れ、京都を放逐されました。


これを恨みに思い、「薩賊会奸」とよんで、薩摩藩と会津藩を宿敵と考えるようになります。
この時、長州藩が御所に向かって発砲したことを理由に朝敵となり、第一次長州征伐を受けます。
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最初の対立点は公武合体か倒幕かの路線の違いですね。


その対立から禁門の変では薩摩は会津などとともに長州軍ほかを迎え撃ち戦いました。
そののちの第一次長州征伐には薩摩は参加していますが、そののちに薩摩も倒幕路線をとるようになり、第二次長州征伐の時には禁門の変以来の対立を水に流して薩長同盟が成立して倒幕で同一歩調をとるようになりました。
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幕府の長州征伐のときに薩摩は参加しています。

これも一つの原因だったと思います。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
それ以前に、つまり江戸時代の初期から犬猿の仲だと思っていました。

お礼日時:2006/01/23 11:04

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