仏教がインドから中国にどのように伝わったか教えてください。伝わったことで中国にはなにか影響とかあったのでしょうか?それから後世どんな感じで発展したのでしょうか?

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A 回答 (6件)

経路について。


1・1)仏図澄・鳩摩羅什に代表される「西域僧」による仏教東漸。
1・2)法顕・玄奘・義浄に代表される中国僧による仏教移入。
2・1)北回り(西域経由)でのいわゆる大乗仏教。または北伝仏教。
2・2)南回り(海路経由)での上座部仏教。または南伝仏教。

重要なことは、いわゆる阿含系経典(中村元『ブッダの言葉』など)も大乗系経典(『法華経』・『浄土三部経』)も、歴史的成立順とは無関係にインドから中国へと導入されたということです。そのため中国では「教相判釈」と呼ばれる経典解釈学が成立しました。この解釈上の立場によって、どの経典を重視するかの立場が発生し、現在いうところの宗派が発生したと理解していいでしょう。もっとも中国における宗派というものは学派というほどで、日本における宗旨の違いほど厳密なものではありません。
中国の仏教を史的に概観すると、隋唐時代をエポックとしてその前後に分けて考えることができます。それ以前は貴族たちの趣味的な援助を受けての導入期、隋唐時代は国家的な援助を受けての発展期、それ以降は個人の宗教としての成熟期、となるでしょうか。(ここでの「○○期」の用語には学術的背景はありません。筆者の気分です。)
言い換えるならば、隋初に天台智顗による『法華経』を中心とした教相判釈が確立したことをもって中国独自の仏教が完成し、唐代に密教が移入された後、「会昌の廃仏」をもって仏教の興隆が終った、とみなすことができるということです。以降、中国の仏教は禅と浄土との流れにまとまっていきます。
以上、インドから中国にどのように伝わったかについてでした。仏教の中国への影響や、後世の発展の詳細については省略させてください。
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少し、思ったことを書いておきます。



 私としては、中国仏教史と直接は結びつきのないサブカルチャーを取り上げて、その影響云々を言ってもキリがないとは思うのと、日本仏教史における禅仏教と中国のそれと比較するのは、かなり困難だと思うのです。確かに、中国でも、一部の士族に広まったとはありますが、日本では、現在でも世界的に評価の高い道元禅師のように、カリスマ的に、我々の一般文化にまで影響を及ぼした人物は、中国にはいなかったと思うのです。それは、日本の禅仏教は、江戸時代の長きに渡り禅仏教(主に臨済宗)が支配階級に深く関わりを持ったことにも影響があるのではないかと思うのです。また、中国の現代まで残る一般的な仏教は念仏禅であって、日本にも、一休宗純が、その特色を現しますが、どちらかというと、日本人には、なじみがないかもしれません。

 それはともかくとして、中国では、六祖慧能の後に、一気に禅仏教は最盛期を迎え、道元や栄西が留学し、また、やがて、正統派中国禅仏教の終末期には、日本にそのメインストリームを移したことも幸いしているのかもしれません。その後、もはや、正統派中国禅仏教は、六祖慧能以降の南宗も、まして少林寺を中心とする北宗ともに衰退してしまったわけで、サブカルチャーとしての仏教は、様々な民衆には溶け込んだとしても、メインストリームに、その禅仏教の宗教性は残してなかったのではないかと考えるのです。それは、不幸にして、時の政権の廃仏令や政変が大きく災いしているのだろうと思います。

 ただし、中国のサブカルチャーとして、宗教関連で特記すべきことは、念仏宗の「白蓮教」の流れを汲む19世紀末の「義和団事件」があります。未だに、中国政府は、この事件を引きずっているようで、「法輪功事件」の時に、政府は強行な弾圧をしたわけです。

 また、私の知る範囲において、中国の禅定は、仏教の隆盛よりも昔の歴史を持ち、内丹・導引で知られるような中国原産というべき独特の功法を持って、ひじょうに合理的かつ生理的に適った瞑想法があったと思われます。禅が老荘思想などと極めて近く感ずるのは、そういう影響下にあったのではないか推測しています。仏教徒として、出家・在家ともに「戒」を持つが、それを持たない、またはそれに反する者の禅(禅定=ディヤーナ)は、本来、仏教とは関係ないというしかありません。その点においても、日本でも、終戦後、一部の宗派の仏教徒や左翼思想家が、戦時中の禅宗の僧の言動を強く批判しました。

 それと余談ですが、宮本武蔵の話が出ていましたので、つけ加えておきます。
かなり前の映画で、内田吐夢監督、萬屋(中村)錦之助主演の『宮本武蔵』の中では、宝蔵院の僧たちの浪人狩りに、錦之助演じる武蔵は、その僧の殺戮の矛盾に強い憤りを現しました。小説では読んでいたもの、私は、その武蔵の叫びは、ずっと仏教に対する違和感として残っています。我々は、現代でもくすぶりつづける、イスラーム教にしても、キリスト教においても、まして、仏教においても、すくなくとも宗教人として「戒律」を持ち、その教えを説くにも関わらず、宗教としての「戒律」を破り、人を傷つけ、人を殺すような自己矛盾に強い疑問を持っております。安易に宗教に結びつけたところで、人の命を重んじ、人が生き繁栄を願わないような宗教は、宗教であってはならない、と思うからなのです。それは、日本の宗教にまつわる事件の数々でも、いえるのではないでしょうか?単なる歴史上の記録ではなく、まさに、我々が現実に向かわなくてはならないことではないか、と思うからなのです。

なお、少林寺の歴史としては、以下が面白い。
http://www.alpha-net.ne.jp/users2/axian/sankou/s …
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質問者の方の質問の答えにもなると思うので


あえてNo.3の方に対して反論をしときます。

僧の間で禅の修行が格闘技とは関係がないと言う意見
でありますが確かにそう思われても仕方ないかもし
れません。ただ少林寺は格闘技として禅を修行してる
わけではなく目的は禅と同じで無心を求める為に行ってをり、その為の1つの手段にすぎないと言う考え方です。
また日本の剣道や武道でも剣禅一致と言う精神があり
宮本武蔵や柳生新陰流も座禅の修行を行っています。
理由は戦いに勝つために平常心が必要だからです。

この事から見ても中国の仏教が格闘技の修行に
影響を与えたと言えるでしょう。
また中国や日本の武道は精神性も求める為、禅の
影響があったからこそ発展したと考えられます。
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こんにちは。



これは、何十年も前の私の記憶からの意見であって、正確な歴史的考察ではないことを最初にお断りしておきます。

 中国に仏教が伝わったと言っても、私は、ひじょうに複雑な化学変化をしたものだと思っております。もともと、中国は、儒教の国でしたから、仏教のように超個人主義の考え方は、中国ではあまりにも不都合です。また、仏教思想は思索的であり、中国は、実利的・現実的な思想が好まれるので、それも受け入れ難いものだったに違いないでしょう。

 最初は、紀元1世紀ごろ、西域から、中央アジアのイラン系遊牧民族からもたらされたといわれ、2世紀に入ってから、大乗仏教経典が持ち込まれ、国の保護を受けたといわれます。仏教史からすると、4世紀に入り、西方の浄土教が最初強かったようで、仏教とは言っても、厳密な意味でのインド仏教とは多少異なるものではなかったかと思います。また、有名な鳩摩羅什(クマーラジーバ)も、中央アジア出身者であり、阿弥陀経の訳出などをみても、それが色濃いわけです。

 6世紀に達磨が伝えたとする「禅宗」は、おそらくは、今日、伝わるものとは、かなり違ったものだと思われます。我々が最も禅宗で知りうる人物としては、達磨以外では、7世紀の禅宗第六祖の慧能です。当初の禅宗は、決して、無言で伝えるような、「教外別伝」などというものでなかったのは、史実で明らかです。また、当時の中国にとっては、達磨に対する度重なる暗殺計画があったことから、強い抵抗があったことだけは伺えます。なお、少林寺拳法なるものが、いかなる歴史を持っているかは分りませんが、いやしくも、仏教徒たるものが、かような武術を維持することは理解できませんし、仏教とは関係がないように思います。無為自然、自法爾には、仏教の専売特許のように言われるけれども、これは、決して、仏教を土台にしたものではないわけです。

 7世紀に、僧玄奘がインドには留学するものの、それ以降の中国仏教は、氏が、どれほどの語学力があったかは別として、これ以降、以前の時代の「旧訳」に対して、これ以降、彼の翻訳が基盤となってしまい、膨大な原本は失われてしまったわけです。その後、中国仏教の再興は起こされたものの、完全には成しえなかったのは、こうした中華思想の理由からではないでしょうか?

 その後、8世紀になり、インドの僧である、善無畏、金剛智など、名前でも想像できるように、密教の僧が訪中したが、これ以降の出家の仏教としは、必ずしもはかばかしい状態ではなかったと思うのです。

 対して、仏教は、道教化し、民間信仰として変化するものの、中国仏教とは、果たして、インド仏教と根を同じものとするものなのか、似ていて非なるものではないか、と思うことがあるのです。現代の中国が、決して、仏教国とは言えないと同時に、かの地の暴力と侵略の歴史は今なお続き、それは日本と同じく罪深いのではないか、と思うのです。
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伝わって経緯についてはNo.1の方の意見の通りだと


思いますので中国にどの様な影響があったかと言うと
禅宗の発達だと思います。
少林寺で始まった禅宗は様々な武術に禅宗の
修行を取り入れられ中国伝統の思想の気と禅が
結びついて独自の修行法が生まれました。

もちろんこれだけでなく政治面でも日本と同じ様に
様々な影響があったでしょう。

また日本の仏教にも中国からの密教や宗派、禅が
伝わり今の日本の仏教の基礎になってると思います。
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長文になりますので以下を参照してみてください。


中国仏教史
http://homepage3.nifty.com/54321/chuugoku.html
ウィキペディア 仏教
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E6%95%99
インド仏教史
http://homepage3.nifty.com/54321/indo.html
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Q木版印刷が盛んだった中国の影響を受けて、 10世紀以降、お隣の朝鮮半島でも印刷技術が大いに発展し、1

木版印刷が盛んだった中国の影響を受けて、

10世紀以降、お隣の朝鮮半島でも印刷技術が大いに発展し、13世紀にはきわめて本格的な仏教経典が製作されています。

6,500巻に及ぶ「高麗版大蔵経」をつくったときの版木の枚数は、実に8万枚を超えていたほどです。
http://www.jfpi.or.jp/printpia/part2_03-03.html

質問ですが、朝鮮半島で、『一般大衆に』活版印刷技術や活版印刷物が普及するようになったのは何年くらいからか、わかりますか?

Aベストアンサー

あえて苦言を呈しますが、活版印刷と木版印刷は異なった印刷技術です。
前提として提示された「高麗版大蔵経」は木版印刷なので、
木版印刷があったから活版も発展したというのは早計です。
確かに、朝鮮における活版印刷の歴史はグーテンベルクの聖書より古く、
現存する金属活字印刷物で最古のものも朝鮮製とされています。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B4%E6%8C%87%E5%BF%83%E4%BD%93%E8%A6%81%E7%AF%80
(注:金属活字ではなく木製や膠泥活字ならば宋にもありました)
「高麗版大蔵経」の場合、国難に対しての国家事業ですが、
技術を他に生かすことは少なく、印刷技術は全く発展しませんでした。

そういう意味で、回答としては、
活版印刷が本格的に行われたのは欧米技術が導入された18世紀末頃、
両班などの貴族階級や裕福な層ならば購入可能でしたが、
広く一般大衆というなら日本の統治下で生活が安定してから
ということになります。



日本と比較するなら、日本は木版印刷が盛んで、
19世紀までなら欧米の活版印刷より日中の木版印刷が盛んでした。
江戸時代を見ても、日本には本屋や貸本屋があり、
庶民には錦絵や「東海道中膝栗毛」や「南総里見八犬伝」など
流行した本などの印刷物がありました。
「江戸買物独案内」によると、42の書物問屋(読本などの書籍)と
18の地本問屋(草紙などの印刷物)があり、このうち書物問屋の
上総屋は大体年間1から2冊の出版をしていたそうです。
例えば、「南総里見八犬伝」では年間発行が500部程度で
当時のベストセラーです。

李氏朝鮮の官版は金属鋳字で1冊あたり100刷程度です。
このうち8割は内賜本として下賜されるもので、
臣下にはこの上ない名誉なものでした。
ただしこれは中央政府のお話で、地方は木版印刷です。
木版印刷は作るのが大変ですが版木が残るので何度でも刷れ、
木版が残れば版木からでも年代測定が可能です。
しかし、金属活字は耐久性がありますが、毎回組み替えるので、
(壬午や甲申など)干支で年号を表記することが多い朝鮮では
年代の特定がしにくいことが多いようです。
16世紀頃に官立書肆の建白がありましたが、そのまま立ち消え。
18世紀頃に官立書肆ができましたが、機能を発揮せずに廃止。
民間に至っては購読者層が少なすぎてほとんど機能していません。
18世紀末頃から一部で出版と書店での販売がありましたが、
この時の購読層は裕福な両班と中人(医学・天文・数学の専門家)で
人口比率で見ると数%程度です。

ちなみに、朝鮮における印刷物入手方法で一般的なのが
版元の紙を送って印刷してもらう方法です。
当時の紀行文を読めばわかるように、朝鮮では植林の概念がなく
多くがはげ山で、紙の原料となる木は多くありません。
余談ですが、宋時代の中国は竹紙が主流で、コウゾで作る韓紙
(高麗紙)はむしろ高級品であり、外貨を稼ぐ輸出品でした。
ただし、技術的な問題で2枚以上を合わせて1枚にしたため
強度は強くても筆書きに適さず、「熱河日記」(朴趾源)にも
 高麗紙は絵を描くのに適当でなく、搗練しない物は
 毛羽が多く立ち、打った物はあまりにも堅く尚筆が
 滑りやすいので墨を吸わない。紙は墨をよく吸い
 筆跡の様態をよく表せる物を貴重な物とするが、
 丈夫で破れない物はまだそこには至っていない物である。
とされています。
朝鮮では紙は貴重品です。



町に書店があったといっても、人口構成の約7割が農民の朝鮮で、
地主や舎音の横暴に苦しむ一般小作人が本を買う余裕はなく、
日本の江戸時代のような貸本制度もありませんので、
一般大衆が読むことはほとんどありません。
「書店があったから一般人も購入していた」
「実際に書籍が印刷された事実があるから一般にも普及していた」
「ハングルが読めるから本も読んでいたはず」
とはとても言えない状況でした。

あえて苦言を呈しますが、活版印刷と木版印刷は異なった印刷技術です。
前提として提示された「高麗版大蔵経」は木版印刷なので、
木版印刷があったから活版も発展したというのは早計です。
確かに、朝鮮における活版印刷の歴史はグーテンベルクの聖書より古く、
現存する金属活字印刷物で最古のものも朝鮮製とされています。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B4%E6%8C%87%E5%BF%83%E4%BD%93%E8%A6%81%E7%AF%80
(注:金属活字ではなく木製や膠泥活字ならば宋にもありました)
「高麗版大蔵経」の場合、国難...続きを読む

Qインドで仏教が廃れてしまったのはどうしてでしょうか?

インドでは仏教というのは廃れてしまったいるようです。
歴史上いつごろから廃れてしまったのでしょうか?
また廃れるようになった理由は何でしょうか?
諸外国に仏教は広がったので、逆輸入ということはなかったのでしょうか。
現在のヒンズー教徒が仏教を受け入れないのはどうしてでしょう。

よろしくお願いします。

Aベストアンサー

●インドで仏教が廃れた理由と時代
ご存知と思いますが、仏教はバラモン教のウパニシャド哲学を土台に、紀元前5世紀頃に、ジャイナ教と共に生まれたものです。
バラモン教は身分制度・いわゆるカースト制そのものであす。僧侶以下の身分や民衆の大部分を占めるアウトカーストの者にとっては大変な差別社会であり、これを否定して打ち壊してくれる宗教や思想として大々的に受け入れられました。
しかし、輪廻転生と多神教が基本のインドでは中庸という考え方は受けが悪かった上、カースト制の恩恵を受けていた権力者の巻き返しによって弾圧が5世紀頃に始まりました。(他のアジアの国に仏教を広げたのはこの時インドから脱出した仏教徒です)
そして13世紀初め教団根拠地であったビクラマシラー寺院というのがイスラム勢力に破壊されて結局インドでは消えてしまったのです。

●ヒンドゥー教
仏教やジャイナ教の流行で力を失いかけていた時代、カースト制の最上位にあったバラモン(僧侶)はバラモン教を中心にインド全域の宗教を取り入れて民衆化させました。これがヒンドゥー教です。現在のインドの8割近い人がこの信者です。
ヒンドゥー教の特徴は多神教であることと、カースト制を積極的に肯定していること。
上で述べたように、この方が民衆にとって元々の信仰を認めてもらえるものだったため、結局権力に巻かれる形で定着してしまいました。

●現在の仏教
弾圧で逃げ出さずインドに残った仏教徒はカーストの最下層「不可触民」スードラに強制的に入れられました。
その中から後にアンベードカルという不可触民解放の運動家が、結局カースト制がある限り差別はなくならないと考え、カースト制を否定するインドの思想を調べて仏教を復活させました。
ただ、それで改宗したのはヒンドゥー教でも疎外されてきたアンベードカルと同じ不可触民のカーストの人だけです。
その最下層民も、制度的に階級が存在しないイスラム教勢力がインドに侵攻しはじめると、そちらに支配されて流れてしまったため、仏教はあまり広がらなかったのでした。

●インドで仏教が廃れた理由と時代
ご存知と思いますが、仏教はバラモン教のウパニシャド哲学を土台に、紀元前5世紀頃に、ジャイナ教と共に生まれたものです。
バラモン教は身分制度・いわゆるカースト制そのものであす。僧侶以下の身分や民衆の大部分を占めるアウトカーストの者にとっては大変な差別社会であり、これを否定して打ち壊してくれる宗教や思想として大々的に受け入れられました。
しかし、輪廻転生と多神教が基本のインドでは中庸という考え方は受けが悪かった上、カースト制の恩恵を受けていた権...続きを読む

Q世界史 インド 古典文明 仏教・ジャイナ教について

新宗教のうち
   
   仏教は、クシャトリヤから支持を受け、
   ジャイナ教は、ヴァイシャから支持を受けた

  とのことですが、

なぜ、仏教はクシャトリヤという階級から、ジャイナ教はヴァイシャという階級
から支持を受けたのですか?

仏教にはクシャトリヤの既得権益を守るような利点があったのでしょうか?


         よろしくお願いします。

Aベストアンサー

こんばんはです。

ジャイナ教では、
非常に厳しい《不殺生》を求められるので、
商業くらいしか仕事をできません。
なので、
結果的にヴァイシャ階級の人々から篤い信仰を受けるようになりました。

農業をすれば、鍬などを使って田畑を耕すとき、誤って、土の中の無視などを殺すおそれがあるので。

敬虔なジャイナ教徒は、
誤って空気中の虫などを吸い込まないようにマスクをし、
道を歩くときは、小さな放棄のようなものを常に持ち、虫などを踏んでしまわないように、足を踏み出す先をその箒で履きます。
仏教でお坊さんがハタキのようなものを持っているでしょう。
これは、ジャイナ教徒の箒のようなものが仏教に取り入れられたもの、といわれています。

対して仏教の《不殺生》は、無闇に生き物を殺してはいけないと縛りが緩い。
しかも、四族(バラモン・クシャトリア・ヴァイシャ・シュードラ)の平等を説きますので、
新興勢力に都合がよいうえに、
多民族からなるインドを支配する統一の原理になります。

生まれの卑しい新興クシャトリア勢力にとって、
生まれのよさを重要視しない仏教は非常に都合のいい宗教だった。
たとえば、
仏教を保護したアショーカ王もカニシカ王も、
非アーリア系の出身です。
極めて政治的な理由からです。

仏教の経典を読むとわかりますが、
長者と呼ばれる人たちの多くは(新興の)商業者です。
仏教もヴァイシャ階級から篤い信仰を受けていました。
そして、
出家者の多くはバラモン階級出身です。

ということで。

こんばんはです。

ジャイナ教では、
非常に厳しい《不殺生》を求められるので、
商業くらいしか仕事をできません。
なので、
結果的にヴァイシャ階級の人々から篤い信仰を受けるようになりました。

農業をすれば、鍬などを使って田畑を耕すとき、誤って、土の中の無視などを殺すおそれがあるので。

敬虔なジャイナ教徒は、
誤って空気中の虫などを吸い込まないようにマスクをし、
道を歩くときは、小さな放棄のようなものを常に持ち、虫などを踏んでしまわないように、足を踏み出す先をその箒で履きます。
仏教...続きを読む

Q南伝仏教と北伝仏教

南伝仏教と北伝仏教をそれぞれ小乗仏教(小さい乗り物)、大乗仏教(大きい乗り物)というのは知っているのですが、なぜ小さい乗り物、大きい乗り物なのかがよくわかりません。

誰か知っている方がいれば教えてください。

Aベストアンサー

こんばんは。。

 URLにも触れてあると思いますが、小乗という言い回しは、大乗側からの蔑称で、最近はあまり用いられなくなりました。「上座部」という名称がよく見られます。

http://www.miyagawa.com/syuha/osie/b.html

http://www.tcat.ne.jp/~eden/Hst/dic/mahayana.html

 出家主義を採り、仏教を「仏(=お釈迦さま)の教え」と捉えていた上座部仏教に対して、出家を軽視したわけではないものの、在家での仏教実践を広く認め、仏教の「仏の教え」という面だけではなく、「誰もが仏になるための教え」という面を全面に打ち出して強調したのが、大乗仏教と言えると思います。

 また、上座部仏教は、出家して修行してもお釈迦さまと同格の「悟り」は得られず、その一歩手前の境地までしか得られないと考えていましたが、大乗仏教は誰もがお釈迦さまと同格の「悟り」を得られる可能性を有すると考えたという違いも大きいと思います。
 大乗仏教は、出家であれ、在家であれ「仏教の修行者」(=菩薩)としての自覚を持ち、自らを律し他者を生かす菩薩としての実践行を行うことを広く勧め、「悟りを開いた人の理想像」として「如来」を、「修行者の理想像」として「菩薩」を、さまざまな形で説き、やがて数多くの如来・菩薩が想定され、信仰を集めるようになっていきます。
 また大乗仏教は、仏教を単なる「お釈迦さまの教え」としてではなく、普遍的な「真理」と位置付け、その「法」(=教理)はお釈迦さまが悟ろうが悟るまいが、既に、そして常に有り続けていたもので、これからの有り続けると捉えています。
 上座部仏教にもそういう傾向はありますが、大乗仏教ではこの点を強調し、前提としていると言えるでしょう。


 仏教では古来から「悟り」に至ることを「向こう岸に渡る(彼岸に到る)」というイメージで表現することが多かったので、この岸(此岸)から向こう側(彼岸)へ渡る渡し舟を「乗り物」とし、大乗側は、自分達はみんなを彼岸へ渡す大きな舟だが、従来の仏教は出家修行者一人だけが渡る小さな舟だ、として「小乗」と呼んだわけです。

 荒っぽい説明になりましたが、ご参考になればよいのですが、では。

こんばんは。。

 URLにも触れてあると思いますが、小乗という言い回しは、大乗側からの蔑称で、最近はあまり用いられなくなりました。「上座部」という名称がよく見られます。

http://www.miyagawa.com/syuha/osie/b.html

http://www.tcat.ne.jp/~eden/Hst/dic/mahayana.html

 出家主義を採り、仏教を「仏(=お釈迦さま)の教え」と捉えていた上座部仏教に対して、出家を軽視したわけではないものの、在家での仏教実践を広く認め、仏教の「仏の教え」という面だけではなく、「誰もが仏になるための...続きを読む

Q鎌倉時代の新仏教と旧仏教

鎌倉時代の新仏教と旧仏教の違いについてききたいです。
新仏教は、たとえば浄土宗で、専修念仏を唱えていれば、人は救われる。また臨済宗では公案解決により悟りに達して救われる。というように易行で民衆を救うというものだと思います。それに対し旧仏教の華厳宗や法相宗では、易行では民衆を救うことはできず、きちんと戒律を守って、厳しい修行を積んだ結果、悟りに達して救われるというもの。おおまかに分ければ、こんなかんじでいいでしょうか?また、救われるというのは、悟りに達することを指しているのですか?

Aベストアンサー

大まかに別ければそのとおりです。

しかし、
法相宗では「行基」「徳一」がおります。
律宗の叡尊(真言律宗の祖師)がいます。
南都六宗の僧侶は社会的救済事業、インフラ整備に力を入れた方が多く見受けられます。

一方、鎌倉新仏教ではそのようなことは、財政面等で不十分でした。
日蓮は、良観の社会慈善事業のことを、税金を使って更に民を苦しめると主張した。と伝えられています。

これは、仏性と菩薩行の考え方の違いです。

簡単に書きますと、
仏性は、誰にも宿る=悉有仏説(先天的に誰でも仏性がある。)
仏性は、誰にでもある訳ではない=五性格別説

があります。
五性格別説は法相宗で徳一が主張しました。鎌倉時代以降は廃れましたが、南都六宗(いわゆる旧仏教派)が社会的救済活動したのはその影響があったからだといわれています。
五性格別説は、運命で仏性があるか決まる。しかし、それは菩薩行という他人への慈悲の行い。という修行をしなければ仏性があるかどうかわからないそうです。
ですから、悉有仏性説よりも菩薩行を行わなければなりません。

悟りについて、
易行によって
浄土宗、浄土真宗では、「信心決定」という言われ方がされています。
これは、死後浄土に行けることが約束された大安心の境地です。

日蓮系では、過去世での法華誹謗の罪が滅罪し、仏の境地に生きながらなれる。(しかし、実際は現世で過去世の罪を滅罪して、来世での成仏の種を下種することができる。)
この法華経の行者を諸天喜神(神道の神)が守る。これが現世利益と強く結びつきました。

新仏教と旧仏教について、
この区分は正確ではない。という説があります。
鎌倉時代に発生した宗派は、戦国時代に隆盛したものです。
鎌倉時代では異端の宗派で、親鸞にいたっては、その名が第三者の文書に見つからなく、親鸞架空人物説があったくらいです。やっと比叡山で見つかったそうです。
日蓮は膨大な文書が残っていますが、日蓮教団作成のものがほとんどです。
いわゆる旧仏教は、祈祷などの密教系が主で顕密仏教と区分し、鎌倉新仏教はその異端に過ぎない。鎌倉新仏教を戦国仏教と呼称した方がより正確である。と記述されている本もありました。

大まかに別ければそのとおりです。

しかし、
法相宗では「行基」「徳一」がおります。
律宗の叡尊(真言律宗の祖師)がいます。
南都六宗の僧侶は社会的救済事業、インフラ整備に力を入れた方が多く見受けられます。

一方、鎌倉新仏教ではそのようなことは、財政面等で不十分でした。
日蓮は、良観の社会慈善事業のことを、税金を使って更に民を苦しめると主張した。と伝えられています。

これは、仏性と菩薩行の考え方の違いです。

簡単に書きますと、
仏性は、誰にも宿る=悉有仏説(先天的に...続きを読む


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