1902年に日英同盟が締結され、1921年の四カ国条約により、1923年に失効しました。
当時世界トップクラスの経済、軍事、発言力を持っていた英国との条約締結は、東西の巨大な海洋国家が手を取り合うことを意味し、諸外国に相当の効果を発揮したと思います。

 ではなぜ四カ国条約によって日英同盟は破棄されることになったのでしょうか?歴史に if は禁物ですが、もしあと10年同盟が続いていたならば日中戦争から太平洋戦争、またナチス・ドイツとの関係などの皆様の意見をお聞きしたく投稿いたしました。

 当時の世界情勢、日本の内政など多角的な観点からの回答をお待ちしております。
よろしくお願いいたします。

A 回答 (3件)

こんばんは


ロシアに対する、日本とイギリスの利害の一致によって日英同盟が成立します。すなわち、朝鮮・満州(中国東北部)の権益を巡ってロシアと対立していた日本と、ロシアの南下政策の脅威に直面していたイギリス、この両者が対ロシアで手を握ったのが日英同盟です。イギリスからすれば、日本は弱小国ですが、ロシアに対する押さえとして利用したわけですね。

ところが、アジアの小国と思っていた日本は、ロシアとの戦争に「勝利」し一躍アジアの大国として登場、アジア市場を巡ってイギリスのライバルとして成長してきます。

さらに、第一次世界大戦ではヨーロッパでの戦争にイギリスが忙殺されているスキに、「二十一か条要求」に示されるように、中国・アジアで「火事場強盗」的に市場・権益を拡大していきます。また、日露戦争で日本は米英などからの巨額の外債によって戦費をまかない巨額の債務(借金)をかかえていましたが、これも大戦景気によってチャラ、逆に債権国になります。
パリ講和会議によって、戦勝国日本は、中国、太平洋諸島におけるドイツ権益・領土をも継承し、アジアにおけるイギリス(アメリカ)の強敵と化すわけです。やっとドイツを潰した、と思ったら今度は日本か!というところでしょうか。

ここにいたって、米英はタッグを組んで日本を封じ込めにかかります。1921.10に始まる「ワシントン会議」がその場になります。この会議の主題は、海軍軍縮と、アジア太平洋地域の安定化=日本の膨張に歯止めをかける、ことですね。したがって、会議に出席する日本代表団の胸中には「列強の審判廷に引き出される被告の境地」が渦巻いていたといわれます。ドイツを封じ込めるヴェルサイユ体制とあわせて、ヴェルサイユ=ワシントン体制、と称されます。

四か国条約の目的は、アジア太平洋地域の現状維持と安定化ですが、すでに日本は米英にとってはパートナーではなく強力なライバル(仮想敵国)となります。したがって日英同盟は、(日本は継続を望んだとしても)ロシア・ドイツという脅威が消えた以上、イギリスにとっては無用の長物、アメリカにとって見れば目障りな存在と化します。

ちなみに、イギリスの兄弟国アメリカは1897年、対日戦争計画「オレンジ計画」の作成に着手しますが、その1911年版には以下のような記述があります。
「もっとも可能性の高い状況は、日本がアメリカの封じ込め政策を終わらせ、同時に自国の通商航路を防衛しながら側面海域を現在および将来の攻撃から守っていこうとするものだ。そうすることは必然的にフィリピン、グアム、そして多分ハワイまで占領して合衆国を西太平洋から駆逐することになるであろう。    
 より困難な状況の下で、米国は独力で日本を満州から撤退させるべく大陸への介入ではなく、海上の作戦によって戦うことになるだろう。それによって制海権を握り、失地を回復し、日本の通商路を抑え息の根をとめることになるだろう。」
ゆえに、アメリカの対日政策は、封じ込めつつも中国という広大な大地に日本を釘付けにし抜け出せなくする、ということになります。のちの、満州事変や日中戦争に際しアメリカが日本に対し断固とした措置をとらなかった理由とも言うことができますね。

したがって「もしあと10年同盟が続いていたならば」というif、についてですが、そのためには、「オレンジ計画」を白紙に戻すだけの変化がないとアメリカが黙っていなかったと思います。たとえば、ソビエトロシアが米英にとって(かつてのロシアのように)十分な脅威となること、そのために日本の利用が不可避であること、のように。(後のアジア冷戦構造がまさにこれですね)

ソ連が内戦の混乱・疲弊を経ずに急速に発展したとしたら、ひょっとすると、(狸の化かし合いですが)日独伊ソ四国同盟(=反ヴェルサイユ・ワシントン体制派と反資本主義のタッグ)VS米英仏資本主義超大国、という構図が現実のものとなったかもしれません。(かなり無理がありますけど)
    • good
    • 0
この回答へのお礼

早速の回答ありがとうございます。当時の様子を解り易く丁寧に回答していただいて、とてもよく解りました。

同盟締結時は利害が一致していたのに対し、ワシントン会議時では対立していたということですね。やはり国際関係は利害関係によって成り立っていたということが良く解りました。

また難しい(ありえない)歴史の if にも触れていただき本当にありがとうございました。

お礼日時:2006/01/31 06:50

日英同盟破棄も日米敵対情勢も全て日露戦争後のアメリカの鉄道王のハリマンと桂首相と約束した南満州鉄道共同経営を小村に反対されて反故にしてしまった、そのためにアメリカが中国への進出を拒否したことに反感を買ってしまいそれ以後日本はアメリカと敵対するようになる、日英同盟の破棄もアメリカの働きかけのためで、イギリスも第一次大戦の時に地中海に日本海軍が護衛艦程度派遣した程度で必要性を感じなくなっていたのではないだろうか。

すべてがハリマンとの約束違反につきる、もし満鉄がアメリカと共同経営していたなら、アメリカはその後の満州建国にも反対しないだろうし蒋介石の応援もしないし、したがって日中戦争もなく中国は国民党政権になっていただろう、またヨーロッパではユダヤ人の迫害のため中国へ逃れてくる者がいたため、ソ連と満州の国境にユダヤ人の入植地を作ろうとした河豚計画と称する考えもあったようだ、もしこの計画がうまくいっていたなら今の中東のイスラエルとアラブの紛争もなかったかもしれない。ドイツのヒットラーはどのようになったか想像がつかないが第二次世界大戦は起らなかった可能性がある。日本はアメリカと共同経営している事業があれば第一次大戦以後はどのような戦争もしていないだろう。しかし日本人が忘れてならないことはあの大戦がなければ欧米が植民地にしている現地人に独立など認めることは決してなかったはずだ、有色人種の日本人があれだけ戦えるならと他の有色人種に勇気を与えた戦争でもあり、もしあの戦争がなければアフリカ、東南アジアはいまだに植民地のままかもわかない。
日本一国だけの平和なら上記の過程が良かったかもしれないが人種差別
の存在する時代に全世界相手に戦わなければならなかった運命的なものを感ぜずにいられない。
    • good
    • 0

第一次世界大戦の戦場はヨーロッパでした。


ヨーロッパが戦場になったことにより、アジア太平洋地域に植民地を所有していたヨーロッパ諸国は、植民地軍や植民地住民を、ヨーロッパの戦場に駆り立てました。
その状況を見て日本は、日英同盟を利用して、アジア太平洋地域にあったドイツ植民地を占領し、さらに中国への利権拡大をねらったわけです。
そして大戦が終結すると、アジア太平洋地域における日本の勢力がかなり増強され、同じ地域に植民地を持つ英米仏が日本に対して脅威を抱いたのです。
本来この問題は、イギリスが中心となって対処していければ良かったのですが、イギリスにはすでに余力がなかったので、孤立外交を基本姿勢としていたはずのアメリカがここで乗り出したのです(ワシントン会議)。

この会議で成立した四カ国同盟は、日英米仏の四カ国で太平洋地域の現状維持を約したものです。四カ国が協力して太平洋地域の平和を維持しようということになったのです。四カ国が協力するわけですから、日英同盟という個別の同盟は不要です。
しかしアメリカの真のねらいは、英米仏の三国によって日本の太平洋地域における暴走を食い止めようとすることにあります。イギリスの後ろ盾を排除し、三国で日本を牽制したのです。

同様にワシントン会議で、九カ国条約と海軍軍備制限条約が締結されていますが、これも日本による中国への利権拡大阻止、アジア太平洋地域における日本の勢力拡大阻止をねらったアメリカの外交政策です。
ある意味日本は、アメリカの外交政策に屈したのです。

当時の日本政府の外交政策は、アジア太平洋地域への勢力拡大は、かなり前進したので、ひとまずこれで良しとし、社会主義政権を打倒しながら資源豊富なシベリアを獲得することになっていた(シベリア出兵)のも事実です。国内的には大戦景気も終焉を迎え、米騒動なども起こり不安定でしたし、アメリカと対決…というわけにはいかなかったでしょう。
アメリカと戦うよりも、社会主義政権を打倒することの方が重要だったはずです。

IFは、あえて回答を控えます。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

第1次大戦のヨーロッパ方面と絡めて説明していただくことで当時のアジア太平洋地域の状況も良くわかりました。

四カ国条約は日本を牽制する為のものということでしょうか。

ありがとうございました。

お礼日時:2006/01/31 15:11

このQ&Aに関連する人気のQ&A

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

このQ&Aを見た人はこんなQ&Aも見ています

このQ&Aを見た人が検索しているワード

このQ&Aと関連する良く見られている質問

Q日露戦争で日本が不利な戦いを行った理由は何でしょうか?

日本が日清・日露戦争を行った理由が南下政策を食い止めるためだというのは理解できます。
それに対して私は、日清・日露戦争の目的はロシアから日本を守るための自衛戦争と認識していましたが、日清・日露戦争の目的は自衛戦争ではないという人が結構います。
その中には、日本が南下政策を食い止めようとした理由は大陸への侵攻を行うにあたって邪魔になるからだという人もいました。

ならば、何故日本は日露戦争を行ったのでしょうか?当時の日本にとってロシアはまともに戦っても勝ち目のない強国だったはずです。ましてやこの戦争で負けたら日本は後がなかったのでは?ほぼ勝ち目がない上に負けた場合のリスクが大き過ぎる戦いまでして大陸を侵略しようとした意味は何でしょうか?

少なくとも日露戦争にて日本は数年分もの国費を使い果たし、ポーツマス条約で賠償金がとれないために国民の不満も高まりました。その埋め合わせをしたいから中国の侵略を企んだというのならまだわかりますが、朝鮮半島を支配する事で日本の命運を賭けるほどの利益を得られるとは思えません。

もし日本が日露戦争の時点で大陸の侵略を目論んでいたとしたら、リスクが大き過ぎる戦いを挑んでまで大陸の侵略をしようとした理由は何でしょうか?

また、南下政策を食い止める事が侵略目的ならば、日英同盟を組んだイギリスも南下政策を食い止めた暁に周辺のどこぞの国を支配しようと企んでいたのですか?

日本が日清・日露戦争を行った理由が南下政策を食い止めるためだというのは理解できます。
それに対して私は、日清・日露戦争の目的はロシアから日本を守るための自衛戦争と認識していましたが、日清・日露戦争の目的は自衛戦争ではないという人が結構います。
その中には、日本が南下政策を食い止めようとした理由は大陸への侵攻を行うにあたって邪魔になるからだという人もいました。

ならば、何故日本は日露戦争を行ったのでしょうか?当時の日本にとってロシアはまともに戦っても勝ち目のない強国だった...続きを読む

Aベストアンサー

日露戦争 太平洋戦争に日本が進んで行った原因は
単に帝国主義思想による領土拡大 自国の防衛という面では
捕らえられないいろいろの考えがあったように思われます

1 明治維新により江戸から明治になり国家としての「ていさい」はで  きましたが世界からかなりリードされていた
2 急激な富国強兵政策によりその差はちじまり、その延長線上に
  日清戦争がありましたが、当時清は日本より強国でしたが清の
  内政 外交の失敗により急速に弱体していたことが原因で偶然勝っ  てしまった
3 明治時代は軍事費が増大していき日本の歴史上もっとも軍事費が
  多い時代であった、このことが帝国主義海外拡張とつながっていく
4 一方産業の発達とともに財閥は肥大したが農村との格差が広がり農  家の次男以下は軍隊に入ることが多くなり生活を軍隊に求める人々  が増え 帝国主義的拡張に反対する民衆はほとんどいなかった  
5 民衆は安い賃金で雇われていたが、権利意識の芽生えとともに明治  末期より労働争議が多発国民の不満はかなり高くなっていった
6 帝国主義 自国防衛の観点からロシアの南下を食い止め無ければ
  ならないという考えが生まれマスコミ知識人たちのキャンペーン
  により開戦派の民衆が増えていった
7 当時のロシアの軍事力 国力からは日本は戦争する状態ではなく、  反対論もあったが、古くは元寇 直近の日清戦争の勝利により
  日本は神の国で負けることはないという不敗神話がうまれつつ
  あり、いざとなれば神風が吹き勝利するという考えが軍隊の中
  にも民衆にもあり桂太郎内閣も開戦派であり明治天皇も承認した
8 当時の民衆 知識人 マスコミは開戦やむなしで一致、ロシアの
  軍事力 国力を詳細に厳密に調査することはほとんど無かった

上記のような大きな歴史の流れが大国ロシアとの開戦となりましたが、
政府 国民のも負けたらどうしようという考えはありませんでした
危なくなったら講和すればいいという考えですでに開戦前より
各国に講和の仲介打診を熱心にすすめていました

ロシア革命まじかというロシア方の事情によりかろうじて講和となりましたが賠償もなく膨大な費用と人命を費やした戦争はなにも残らず終結し
後の太平洋戦争につながる歴史上の最悪の分岐点になってしまったようです
(参考サイト)
http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/nitirosennsou.htm
http://homepage1.nifty.com/SENSHI/study/5nitirosensou.htm
http://homepage1.nifty.com/SENSHI/data/zaisei.htm
http://www.tabiken.com/history/doc/I/I035C100.HTM

日露戦争 太平洋戦争に日本が進んで行った原因は
単に帝国主義思想による領土拡大 自国の防衛という面では
捕らえられないいろいろの考えがあったように思われます

1 明治維新により江戸から明治になり国家としての「ていさい」はで  きましたが世界からかなりリードされていた
2 急激な富国強兵政策によりその差はちじまり、その延長線上に
  日清戦争がありましたが、当時清は日本より強国でしたが清の
  内政 外交の失敗により急速に弱体していたことが原因で偶然勝っ  てしまった
3...続きを読む

Q日独伊三国同盟+ソ連の日独ソ伊四カ国同盟は可能だったか?

日独伊三国同盟+ソ連の日独ソ伊四カ国同盟は可能だったか?
第二次世界大戦中、ソ連は独ソ不可侵条約を結び日ソ不可侵条約も結んでいました。日、独が、ソ連の外交交渉に金を使い、枢軸国側に参加させられる可能性というのはあったのでしょうか?また、ソ連が枢軸国側で参戦したら世界はどう変わっていたでしょうか?

Aベストアンサー

おそらく、可能性は低いと思います。

ナチス・ドイツは、ポーランド・フランス・イギリスを相手にするために独ソ不可侵条約を結びましたが
それは、フランス・イギリスという当面の敵に対処するためだけのものでした。そのため、独ソ不可侵
条約を結ぶ一方で、対ソ連戦を企画立案していました。ドイツは、アメリカがヨーロッパ戦線に参戦する
ことを恐れていましたが、ソ連は「潰すべき敵」でした。ですから、実際はヨーロッパを完全に支配下に
おいてからアメリカと事を構えるなら構えたかったというのが本音でしょう。
そのため、日独伊三国軍事同盟を結んだのです。これは、独ソが開戦したら、シベリア方面から日本が
ソ連に圧力もしくは攻撃をかけることの期待が込められてていました。
しかし、日本はその情報を得ていなかったため、日ソ中立条約を結びます。日本としては、資源確保の
ため、南進を企図します。その時、ソ連を放っておくと満蒙が大変なことになりますから、日本としては
南進のために必要な条約でした。
ところが、ドイツにとっては、独ソ戦が間近に迫っている中、正直迷惑な話でした。日ソ中立条約の
日本側全権大使の松岡洋右は、意気揚々とドイツの外相リッペンドロープに報告しますが、
リッペンドロープの反応は冷めたものだったそうです。
結果、ソ連は背後を心配することなく、ドイツとの戦いに専念することが可能となりました。

>ソ連が枢軸国側で参戦したら
というよりも、日本がアメリカを無視してシベリアに攻め込んでいたら、違った展開になったかも
しれません。
ただ、そうならなかった時点で、日独伊三国軍事同盟は根本的な機能不全に陥ってしまったことに
なります。
なぜなら、ドイツと日本の思惑が結果的にずれたからです。
「ドイツはソ連を叩き、アメリカとは事をなるべく構えたくない。」
「日本はアメリカを叩き、ソ連とは事をなるべく構えたくない。」
ドイツは、第一次世界大戦の記憶がありますから、なるべくアメリカがヨーロッパ戦線に参戦する口実を
与えたくありませんでした。
一方日本は、ノモンハン事件等でソ連に痛い目にあってますから、北進ではなく南進、つまりアジアの
資源、権益が欲しい。そのためには、ドイツと一緒になってアジアの英・仏・蘭勢力を一掃したい。
しかし、アジアには、英・仏・蘭勢力だけではなく、アメリカも遅ればせながら関わって来ています。
日本と敵対する中国国民党はアメリカが肩入れをし、また、東南アジアにはフィリピンもあります。
結果、日本がアジアの資源と権益を確保するためには、最終的にアメリカを叩かなければ
ならなかったのです。

ですから、ソ連を敵に回したくない日本と、ソ連を攻撃目標としていたドイツの思惑は一致しないため
共に、ソ連に働きかけて日独伊にソ連を加えるという可能性は極めて低いと考えられます。

おそらく、可能性は低いと思います。

ナチス・ドイツは、ポーランド・フランス・イギリスを相手にするために独ソ不可侵条約を結びましたが
それは、フランス・イギリスという当面の敵に対処するためだけのものでした。そのため、独ソ不可侵
条約を結ぶ一方で、対ソ連戦を企画立案していました。ドイツは、アメリカがヨーロッパ戦線に参戦する
ことを恐れていましたが、ソ連は「潰すべき敵」でした。ですから、実際はヨーロッパを完全に支配下に
おいてからアメリカと事を構えるなら構えたかったというのが本音で...続きを読む

Q第一次世界大戦の日英同盟から、第二次世界大戦に至るまでについて質問させ

第一次世界大戦の日英同盟から、第二次世界大戦に至るまでについて質問させて下さい。
第一次世界大戦で共に連合国側で勝利を収めた日と英が、第二次世界では敵になったところまでの流れが知りたいです。日英同盟の中で、日本はイギリスからの兵力要請に応え、その活躍に感謝されたと何かで読んだのですが、関係が逆転した原因や背景を教えて下さい。

Aベストアンサー

補足説明として、

1)英国の国力の減退。
2)アングロサクソンの基準からはみ出した国家主義との対立。
3)両国の中国での利権が対立。
4)中国人の対外不満を日本に集中させるために日本を悪者化。

Q日英同盟について

日英同盟は
イギリスは中国での権利を守るために
日本は大陸を侵略するためには
イギリスと協力するのが得策だから結ばれた

と書いてあったんですけど
中国での権利ってなんですか?

Aベストアンサー

直接的には
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E4%BA%AC%E8%AD%B0%E5%AE%9A%E6%9B%B8
北京議定書
と、それまでのいろいろな権益(香港割譲とか、鉄道敷設権とか、鉱山採掘権とか)とくにイギリスは揚子江流域権に関しては、強い権限を持っていた。

中国での権利を「ロシアから」守るため。というのがより正確になります。
義和団事件の結果1901の北京議定書締結の段階で、大軍を満洲に駐留させていました。
清国では、ロシアの力でイギリスの権益を減らそうという動きがありました。

イギリスの権益としては
http://homepage2.nifty.com/kitaqare/hist202.htm
最初に中国に進出していたイギリスは、1898(明治31)年揚子江(長江)沿岸の各省の不割譲を約束させ、香港の対岸の九竜(チウロン)半島を租借し、山東半島東端の威海衛を租借しました。

こんへんがでかいでしょう

Q日英同盟廃棄の原因

日英同盟廃棄の原因を教えて下さい。

僕は細かい史実は殆ど分からないんですけど、日英同盟が廃棄された原因は要するに、大まかに言うと、第一次世界大戦の時に日本が英国の要請にも拘わらず、ろくに軍隊を欧州に派遣せず、それでいて中国大陸の権益を火事場泥棒的に分獲ってしまったから、ということで良いのですか?あとアメリカの謀略などもあったのですか?

Aベストアンサー

日英同盟破棄には幾つもの要因が複雑に絡まって,なかなか読み解くのが難解です。
取り敢えず,4つに分けて纏めてみます。


・日本の日英関係重視から日米関係構築への移行論

第一次世界大戦を期に,英国の国際社会における求心力は急激に低下していきました。
変わって,第一次世界大戦の戦争特需で米国は急速に力をつけてきており,このまま沈んでいく英国に付くよりも,勢いに乗る順風満帆の米国に付いたほうが得ではないかという機運が一部にありました。
原敬内閣や高橋是清内閣では,実際に親米路線に軸足を置いた外国が展開されていきます。
とはいえ,日英関係を軽視したわけではなく,英国との衝突をなるべく避けつつ,米の勢いも利用して日本のさらなる躍進を目指そうという感じでした。
なので,『太平洋に関する四ヶ国条約』(後述)に乗っかってしまい,結果として英米関係の強化へ一役買うという悲劇(?)へと転がり落ちていきました。


・英国内での日英同盟慎重論

第一次世界大戦まで英国は中国での最大勢力でした。
ところが,第一次世界大戦後には日本が大躍進をしており,英国の中国国内での権益が失われる危機的な状況でした。
また,日英同盟が日本の躍進に繋がったという反省もありました。
そこで,戦前から結びつきが強い米国との関係改善を模索し始め,第三次日英同盟の満期をもって発展的解消がはかられました。


・国際連盟の発足

第一次世界大戦の教訓から,平和主義ムードが高まり国際連盟が発足しました。
国際連盟は紛争を外交的話し合いでもって解決しようという,日英同盟のような軍事同盟とは真逆にある政策です。
明らかに国際的ムードとは矛盾する条約でした。
その為,日英両国が更新に二の足を踏んだという事情もあったようです。


・米国の日英分離政策

よく米国の謀略だったなどと陰謀論で語られがちですが,あながち否定しきれない部分もあります。
植民地獲得競争に乗り遅れた米国は,なんとか中国大陸への権益を伸ばそうとしていました。
ところが,そこでは既に英国が君臨し,第一次世界大戦後には日本までが伸長してきました。
しかも,この二カ国が軍事同盟を結んでるときています。
そこで,戦後の平和的ムードに乗っかって『太平洋に関する四ヶ国条約(通称・四カ国条約)』(1921年)の妥結に向かいます。
この条約は米・日・英・仏の第一次世界大戦戦勝国間で,太平洋における紛争を回避すべくる領土的権利の相互尊重・協議での問題解決などが定められました。
参加国は四カ国ですが,米国の真の目的は日英同盟を破棄させることだったと言われています。
そして,これが後の太平洋戦争へと繋がったと主張する説があります。
個人的には,陰謀論者のように積極的に賛成できませんが,遠因の一つであったと思います。
日本側にも日英同盟を解消しようという動きがあったのも事実であり,米国の陰謀だけで事が運んだわけではありません。

とこんな感じでしょうか。
いずれにせよ,国際政治力学において第一次世界大戦後に大きく軸が動き,日英同盟は時代の要求に答えられなかったのでしょう。
今後,日米同盟(安保条約)もどうなるか分かりませんね。
今の環境では考えられませんが,いずれ日米同盟破棄~日中同盟締結なんてシナリオが実現するかもしれません。
教訓として一つの条約を終わらせたり,新たな条約を結ぶ時は,自国の損得だけでなく相手側の真意も推し量るインテリジェンスが求められるということでしょう。

ではでは、参考になれば幸いです。

日英同盟破棄には幾つもの要因が複雑に絡まって,なかなか読み解くのが難解です。
取り敢えず,4つに分けて纏めてみます。


・日本の日英関係重視から日米関係構築への移行論

第一次世界大戦を期に,英国の国際社会における求心力は急激に低下していきました。
変わって,第一次世界大戦の戦争特需で米国は急速に力をつけてきており,このまま沈んでいく英国に付くよりも,勢いに乗る順風満帆の米国に付いたほうが得ではないかという機運が一部にありました。
原敬内閣や高橋是清内閣では,実際に親米路線に軸...続きを読む

Q幕末の不平等条約締結による影響について

日本は幕末に
・領事裁判権
・関税自主権がないこと
を認めましたが、それによって日本は具体的にどのような不利益を被ったのでしょうか?
ご回答よろしくお願いします。

Aベストアンサー

不平等条約の問題は、具体的否不利益、というよりも、国際社会における地位の問題なのです。
現代の国際法では、大国も小国も、先進国も発展途上国も、主権国家としての地位は平等です。どんなに小さく弱い国でも、大国の横暴に対して、正当な抗議をすることができます。
しかし、当時の国際法では、国の格付けがありました。いわゆる一等国=文明国は、事実上、欧米のキリスト教国でしたが、国際社会の一人前の構成員であり、完全な主権を保持していました。
これに次ぐ二等国、日本はこれに格付けされたわけですが、これは国際社会の半人前の構成員であり、その主権には様々な制限が加えられました。その典型的なものが、関税自主権の制約(経済活動の主体としての資格の制限)、領事裁判権(司法権の制限)だったのです。
蛇足ながら、二等国の下には国際社会の構成員としての資格がまったく認められない後進地域(アフリカ、南米など)がありました。これらの地域は、無主物先占の法理により早い者勝ちで自由に領有・支配できる地域であり、そこの住民には人間としての権利を認められず、最悪の場合、ものを言う道具=奴隷として売買の対象とされたのです。
不平等条約を受入れざるを得なかった、という事実は、自らが二等国であることを認めざるを得なかったということです。
なお、領事裁判権のため当時の日本において外国人による犯罪が野放しにされていたという事実はありません。また、金銀の交換比率の違いは、当時の日本の経済界のモノサシが世界共通のモノサシと違っていたことを示すものであり、この違いは日本の商人にも(国内的)利益をもたらすものです。関税自主権の問題とは何の関係もありません。

不平等条約の問題は、具体的否不利益、というよりも、国際社会における地位の問題なのです。
現代の国際法では、大国も小国も、先進国も発展途上国も、主権国家としての地位は平等です。どんなに小さく弱い国でも、大国の横暴に対して、正当な抗議をすることができます。
しかし、当時の国際法では、国の格付けがありました。いわゆる一等国=文明国は、事実上、欧米のキリスト教国でしたが、国際社会の一人前の構成員であり、完全な主権を保持していました。
これに次ぐ二等国、日本はこれに格付けされたわけ...続きを読む

Q日英同盟について

 1902年に日英同盟が締結され、1921年の四カ国条約により、1923年に失効しました。
当時世界トップクラスの経済、軍事、発言力を持っていた英国との条約締結は、東西の巨大な海洋国家が手を取り合うことを意味し、諸外国に相当の効果を発揮したと思います。

 ではなぜ四カ国条約によって日英同盟は破棄されることになったのでしょうか?歴史に if は禁物ですが、もしあと10年同盟が続いていたならば日中戦争から太平洋戦争、またナチス・ドイツとの関係などの皆様の意見をお聞きしたく投稿いたしました。

 当時の世界情勢、日本の内政など多角的な観点からの回答をお待ちしております。
よろしくお願いいたします。

Aベストアンサー

こんばんは
ロシアに対する、日本とイギリスの利害の一致によって日英同盟が成立します。すなわち、朝鮮・満州(中国東北部)の権益を巡ってロシアと対立していた日本と、ロシアの南下政策の脅威に直面していたイギリス、この両者が対ロシアで手を握ったのが日英同盟です。イギリスからすれば、日本は弱小国ですが、ロシアに対する押さえとして利用したわけですね。

ところが、アジアの小国と思っていた日本は、ロシアとの戦争に「勝利」し一躍アジアの大国として登場、アジア市場を巡ってイギリスのライバルとして成長してきます。

さらに、第一次世界大戦ではヨーロッパでの戦争にイギリスが忙殺されているスキに、「二十一か条要求」に示されるように、中国・アジアで「火事場強盗」的に市場・権益を拡大していきます。また、日露戦争で日本は米英などからの巨額の外債によって戦費をまかない巨額の債務(借金)をかかえていましたが、これも大戦景気によってチャラ、逆に債権国になります。
パリ講和会議によって、戦勝国日本は、中国、太平洋諸島におけるドイツ権益・領土をも継承し、アジアにおけるイギリス(アメリカ)の強敵と化すわけです。やっとドイツを潰した、と思ったら今度は日本か!というところでしょうか。

ここにいたって、米英はタッグを組んで日本を封じ込めにかかります。1921.10に始まる「ワシントン会議」がその場になります。この会議の主題は、海軍軍縮と、アジア太平洋地域の安定化=日本の膨張に歯止めをかける、ことですね。したがって、会議に出席する日本代表団の胸中には「列強の審判廷に引き出される被告の境地」が渦巻いていたといわれます。ドイツを封じ込めるヴェルサイユ体制とあわせて、ヴェルサイユ=ワシントン体制、と称されます。

四か国条約の目的は、アジア太平洋地域の現状維持と安定化ですが、すでに日本は米英にとってはパートナーではなく強力なライバル(仮想敵国)となります。したがって日英同盟は、(日本は継続を望んだとしても)ロシア・ドイツという脅威が消えた以上、イギリスにとっては無用の長物、アメリカにとって見れば目障りな存在と化します。

ちなみに、イギリスの兄弟国アメリカは1897年、対日戦争計画「オレンジ計画」の作成に着手しますが、その1911年版には以下のような記述があります。
「もっとも可能性の高い状況は、日本がアメリカの封じ込め政策を終わらせ、同時に自国の通商航路を防衛しながら側面海域を現在および将来の攻撃から守っていこうとするものだ。そうすることは必然的にフィリピン、グアム、そして多分ハワイまで占領して合衆国を西太平洋から駆逐することになるであろう。    
 より困難な状況の下で、米国は独力で日本を満州から撤退させるべく大陸への介入ではなく、海上の作戦によって戦うことになるだろう。それによって制海権を握り、失地を回復し、日本の通商路を抑え息の根をとめることになるだろう。」
ゆえに、アメリカの対日政策は、封じ込めつつも中国という広大な大地に日本を釘付けにし抜け出せなくする、ということになります。のちの、満州事変や日中戦争に際しアメリカが日本に対し断固とした措置をとらなかった理由とも言うことができますね。

したがって「もしあと10年同盟が続いていたならば」というif、についてですが、そのためには、「オレンジ計画」を白紙に戻すだけの変化がないとアメリカが黙っていなかったと思います。たとえば、ソビエトロシアが米英にとって(かつてのロシアのように)十分な脅威となること、そのために日本の利用が不可避であること、のように。(後のアジア冷戦構造がまさにこれですね)

ソ連が内戦の混乱・疲弊を経ずに急速に発展したとしたら、ひょっとすると、(狸の化かし合いですが)日独伊ソ四国同盟(=反ヴェルサイユ・ワシントン体制派と反資本主義のタッグ)VS米英仏資本主義超大国、という構図が現実のものとなったかもしれません。(かなり無理がありますけど)

こんばんは
ロシアに対する、日本とイギリスの利害の一致によって日英同盟が成立します。すなわち、朝鮮・満州(中国東北部)の権益を巡ってロシアと対立していた日本と、ロシアの南下政策の脅威に直面していたイギリス、この両者が対ロシアで手を握ったのが日英同盟です。イギリスからすれば、日本は弱小国ですが、ロシアに対する押さえとして利用したわけですね。

ところが、アジアの小国と思っていた日本は、ロシアとの戦争に「勝利」し一躍アジアの大国として登場、アジア市場を巡ってイギリスのライバル...続きを読む

Q条約の種類(議定書 同盟 協定など)の違い

条約の種類(議定書 同盟 協定など)の違いを知りたいです。ポツダム宣言は、議定書の概観を呈している、、、ということが書かれていました。しかし、何をして議定書といえるのかまったく不明なので、おしえてください。

Aベストアンサー

議定書は、会議で議定した事項を記録した文書で
通常は会議に出席した一定の割合の賛成と
その文書への署名がないと発効せず、
署名した加盟国のみに適用されます。
会議に参加しても反対した国や、参加しなかった国には適用されません。
罰則がある場合もあるし、ない場合もある。
条約の一種ではあるが、条約よりも拘束力が弱く、
基本的には加盟国の自主判断に任されるものです。

協定は、それよりも拘束力が強いもので、
基本的に条約と同じ効力を持ちます。
協定には、違反罰則があることが多く、
独立した裁定機関が設けられることもあります。
会議に参加した全員が署名するのが普通で、
反対者がいた場合は協定そのものが流れることがあります。
逆に言えば、意見対立があっても、すり合わせが行われ
全会一致できるように調整されるということです。

同盟は国家間の条約で、国家が互いに共同の目的のために
同一の行動をとることを約すること、
またその結果として成立した提携関係をさしています。
軍事同盟のようなものが良く知られていますが、
軍事同盟は、同盟関係のなかの一つに過ぎません。
全体としては、通常の条約のことだと思っていいです。
連名でも二国間であっても、いずれも強い法的拘束力と
信用をもちます。罰則はないのが普通ですが、
違反した場合、著しい国際的信用の低下、友好関係の消滅など、
外交上好ましくない結果があらわれるのが普通です。
また大概は、それぞれの国の議会で条約の承認を行うため
法的にすぐには解消できない場合が多いです。

ポツダム宣言の場合、英米ソの三巨頭が協議した内容に
米英と中華民国が署名したような格好になり、
その他の連合国の全てのメンバーが承認する格好になったので
議定書のような形になってます。

議定書は、会議で議定した事項を記録した文書で
通常は会議に出席した一定の割合の賛成と
その文書への署名がないと発効せず、
署名した加盟国のみに適用されます。
会議に参加しても反対した国や、参加しなかった国には適用されません。
罰則がある場合もあるし、ない場合もある。
条約の一種ではあるが、条約よりも拘束力が弱く、
基本的には加盟国の自主判断に任されるものです。

協定は、それよりも拘束力が強いもので、
基本的に条約と同じ効力を持ちます。
協定には、違反罰則があることが多く...続きを読む

Qレーニンは、日露戦争をどのように見ましたか?

レーニンは、日露戦争をどのように見ましたか?

1905年に日露戦争はロシア帝国の敗北により終結しました。
これ以降、ロシア帝国は弱体化に拍車がかかり、ロシア革命の遠因に
なったとされています。
さて、革命の父と言えばレーニンですが、レーニンはこの日露戦争を
どのように評価しているのでしょうか?
日露戦争に対して、レーニンはどんなコメントをしていますか?

Aベストアンサー

レーニンは日露戦争が開戦した直後からその戦争期間中はもちろん、終戦後に亘り多くの論文や演説を残しています。その量は相当なものでほとんどはレーニン全集に納められてはいますが、まともに研究するなら独立した一冊の本が出来るほどです。

 ということでレーニンの詳細なコメントを含めた回答は不可能ですので、ざくっとした回答でお茶を濁らさせてもらいます。

 レーニンの日露戦争観は当時の日本を取り巻く諸国の知識人とはかなり違ったもので、中国や朝鮮のように小国が列強大国を見事に打ち破ったことに対して、無邪気に喜ぶというものではありませんでした。同時に反政府的思想を持っていたにもかかわらず、敗北という現実の前に止めようのないナショナリズムが湧いてきた、トルストイのような複雑な感情も持ち合わせてはいませんでした。

 レーニンは日露戦争開戦直後からこの戦争の本質と推移、そして戦後の変革を冷静に見つめ、これをいかに自己の思想闘争に活かし、なおかつ利用しようかということを分析し研究していたといってもよいでしょう。

 日露戦争は当時のヨーロッパやアメリカのインテリゲンチャと同じく、弱小国対強大国の戦いといった単純な見方ではなく、帝国主義的的植民地主義者たちの闘争であって、アメリカやヨーロッパ諸国の反動的ブルジョアジーたちの間に将来起こりうるであろう、新しい形の戦争の初期段階的なものであるとみなしていました。

 日露戦争開戦直後の小規模な戦闘でロシア軍が敗北を続けたとき、ロシア社会主義民主労働党中央委員会での労働者への呼びかけの中の一節です。
「戦争が始まった。日本人はすでにロシア軍に一連の敗北をもたらし、いまやツァー政府はこれらの敗北復讐を果たすために全力を注いでいる」とし、これらの結果がロシア人労働者、農民たちに新たな苦難を招き、人民やその家族に大きな惨禍をもたらし、さらなる税の過大なる負担を強いるであろう、と続けています。

 そしてレーニンはそこにツァー政府の将来的な破滅と崩壊を予想し、革命の実現という現実的な姿を見たのです。

 レーニンは前述したように戦争中、各戦闘の経過と結果について詳細に分析・研究を行っています。そしてその結果の原因の主なものに必ずツァー政府における官僚や軍人の腐敗性と、農民大衆の無教養や無気力などを挙げて、「露日戦争の仮借ない教訓によって、惰眠をむさぼるだけの広範な農民大衆を目覚めさせる」と結んで、巧妙にアジテートしています。

 さらにレーニンは機に乗じて日本をたくみに利用しており、あるときは帝国主義者、あるときは進歩的勢力と呼び、自身のイデオローグに効果的に組み込んでいる点でもしたたかな人物でした。

 日露戦争に関してのコメントしての集大成というなら、「新しい大戦争、専制制度に立ち向かう人民の戦い、自由を求めるプロレタリアートの戦争が近づいていることを意味していることに、この戦争の全世界的・歴史的意味がある」というのが、最もふさわしいかもしれません。

レーニンは日露戦争が開戦した直後からその戦争期間中はもちろん、終戦後に亘り多くの論文や演説を残しています。その量は相当なものでほとんどはレーニン全集に納められてはいますが、まともに研究するなら独立した一冊の本が出来るほどです。

 ということでレーニンの詳細なコメントを含めた回答は不可能ですので、ざくっとした回答でお茶を濁らさせてもらいます。

 レーニンの日露戦争観は当時の日本を取り巻く諸国の知識人とはかなり違ったもので、中国や朝鮮のように小国が列強大国を見事に打ち破ったこ...続きを読む

Q日英通商航海条約と治外法権撤廃他...

日英通商航海条約と治外法権撤廃他...

今歴史で学習していて頭がこんがらがっています。

日英通商航海条約で治外法権が撤廃されたんですか?
そもそも日米通商条約での話なのに何でイギリスとの条約で撤廃できるんですか?
そもそも対ロシアで協力体制をとるための航海がどうちゃらの
条約じゃなかったの?←あれ?これは日英同盟だっけ?

こんな状況です。助けて下さい。

Aベストアンサー

最近では、「通商航海条約」も覚える必要があるのですね。私の時代では、単に治外法権を最初に撤廃することに成功したのがイギリスと覚えただけでしたが・・。ちなみに「通商航海条約」という条約名を知ったのは、大学時代に第二次世界大戦に関係することを勉強した時でした。

 日米通商友好条約もそうですが、同種の条約を最初に結んだ国の条約だから覚えるのです。通商の条約を最初に結んだのがアメリカ(条約名は「友好通商条約」)、治外法権を最初に撤廃したのはイギリス(条約名は「通商航海条約」と考えれば如何でしょう。

・日英通商航海条約で治外法権が撤廃されたんですか?
  イギリスとの間ではそのとおりです。それをキッカケとして、アメリカその他との治外法権撤廃も進みました。


人気Q&Aランキング

おすすめ情報