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みなさんこんにちは。
中世~現代のヨーロッパの歴史映画が最近のマイブームで、この間「第三の男」を観ました。
そこでハリー・ライムという男が
「ボルジア家の圧制はルネサンスを生んだが、スイス500年の平和は何を生んだ?鳩時計だけさ」
と言います。

ボルジア家とは毒殺などで有名な悪名高い一族というイメージを持っていたのですが、ルネサンスにどのような貢献をしたのでしょうか?
ルネサンスの芸術家を支えたのはたしかメディチという方だった記憶があります。

ということはメディチはボルジア家の者だということでしょうか??
図書館などで本を調べてもわからなかったので是非お分かりになる方は回答をお願いします。

A 回答 (1件)

 図書館で調べても分からない????



 ルネッサンス当時統一国家となって、王権・皇帝権がその国内で確立し、統一国家と認識されていた、フランス・ドイツ・スペイン・イギリスなどと異なり、イタリアは分裂国家でした。(戦国時代、各地で有力な大名が育っていても、京都に近い経済活動の活発な先進地域である畿内が、中小領主や自治都市の集合体であったのに似ています。)

 イタリアの分裂国家の中で、有力な国家はベネツィア(貴族の集団指導体制)ミラノ(領主:スフォルッアー家)フイレンツェ(最有力者:メディチ家)ローマ教皇領、シチリア王国などでした。

 ボルジア家は、ローマ教皇領の中心であるローマ周辺地域、ロマーニャ地方の名家で、枢機卿・教皇を輩出しました。ローマ教皇の息子、チェザーレ=ボルジアは教皇領内にロマーニャ公国を作り、妹を政略結婚でシチリア王国王妃とし、ローマ教皇軍総司令官にもなり、事実上、南部・中部イタリアをほぼ統一しました。
 更に、イタリア統一を目指し、中部イタリアに唯一つ残った有力国家、フィレンツェ支配を意図してメディチ家と争いました。

 つまり、メディチ家とボルジア家は仇敵といってもいいでしょう。(単に政治の上だけでなく、文化的名声でも争ったといってもよいでしょう。)

 詳しくは、塩野七生「チェーザーレ・ボルジア あるいは優雅なる冷酷」を参考にどうぞ。
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この回答へのお礼

なるほど!文化的名声でも、という点が面白いですね。
私は勘違いをしていました。解決してよかったです。
またわざわざ参考文献もありがとうございます。本屋に行って探してみます^^

お礼日時:2006/02/05 17:45

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