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 仮に、大嫌いな人がいるとします。その人の性格、考え方、行動が鼻について仕方がないとします。このような場合、心理学的に言って、自分の嫌な部分を相手の中に見ているという、「投影」にあたるのでしょうか?
 その場合、そのような状態を脱するためには、投影していると言うことを認識させれば、脱することが出来るのでしょうか?

A 回答 (2件)

 


  投影とは、無意識心理学の用語でしたが、いまやどういう意味だったのか記憶に遠いです。パーソナリティの意識的優位的領域に対し、無意識的劣位的位相というのがあるのは事実ですが、それが意識自我にとって価値があるかないかは必ずしも決まっていないはずです。いや、価値があるかないかでは、ポジティヴかネガティヴかです。
 
  一般的な話にしかならないので一般論ですが、意識で考えてみても、何故嫌いなのか、「合理的理由」が見出せない場合、貴方が認めたくない貴方自身の劣位的パーソナリティの表現だという可能性があります。しかし、それを「投影ではないか」と意識している段階で、それは素朴な意味の無意識的な投影ではなくなっているのです。
 
  相手の人の「嫌いな性格」「嫌いな考え方」「鼻をつく行動」とは、どういうことか、何故それが嫌いで鼻につくのか、意識的に客観的にメモで記録し、自分自身がどう感じるのか、何故嫌いなのかの考えられる「合理的理由」、何がなにでも「嫌いだ」という感情・感覚・直観判断、そして社会一般では、貴方自身と、その人を比較して、どういう風に相手が評価されるか、文章にして、考えてみられることです。文章にするということは重要なことで、分かっていると思っていたことが、文章にしようとすると実は分かっていなかったことが分かるというか、嫌いだ・鼻につくとは、どういうことだったのか、距離を置いて見ることができるようになります。
 
  また、何故「そのような状態を脱したいのか」も考えて文章にされてみるのがよいでしょう。
 
  人間にとって、不愉快な人物や、不愉快な対応や、不愉快な考えや、不愉快な、鼻をつく言動というのは、必ずあるもので、別に貴方でなくとも、誰でも不愉快だというような人なら、貴方の投影も何もないでしょう。投影であったとしても、貴方の自我よりも、もう少し深いレヴェルのパーソナリティ要素の問題でしょう。
 
  例えば、自分勝手で他人の思惑など気にしない軽薄な人間は、そういう人は、一般に、多くの人にとっても鼻につくでしょう。ただ、そういう人とも相性のよい人もいます。
 
  相手の不愉快な要素が、実は自分のなかにも、その傾向があり、自分でそれを嫌っている場合は、投影だとも言えますし、「受影」だとも言えます。相手に貴方を投影しているというより、相手のなかに自分の嫌な姿を見ているという自覚があるのは、貴方自身が自覚していなかった、あるいは明確に意識化していなかった、そうはなりたくない自分の姿を、具体的なモデルがいるので、まさに、自分のなかに、ああはなりたくない、という心があることの自覚の契機となっているのです。
 
  貴方の意識自我の自覚領域がそれだけ広がったのだとも言えます。
 
  そして、人は受け入れがたいものはやはり受け入れがたいのです。ささいなことですぐ曲解し、暴力を振るう、しかも嘘はつく、陰であることないことしゃべりまくる、恨み深く、執念深く、勝手で、自己中心で、その場しのぎの嘘ばかりつくような人がいれば、そんな人にはなりたくないと、多くの人は思うでしょう。この現代の文化は、暴力がものをいう社会ではないし、嘘を付く人は、社会人失格でしょう。
 
  相手がそういう人と云っているのではなく、普通、人が嫌だと思うような特性を並べただけです。
 
  色々な人が世のなかにはいるので、人間の個性とは、譬えですが、或る数の要素の強弱の組み合わせで決まっているのかも知れないのです。つまり、すべての人のその人である特性は、貴方のなかの心の特性のヴァリエーションだとも言えるということです。
 
  他者のなかに、自己の姿を見るということは、自己の可能性の認識になるのです。しかし、これはユング心理学の原理ですが、人が誰かであるのは、まさにその誰かであるからで、自己とどうしても「相容れない人間要素」は他者のなかにあるのです。そういうものがあるという事実の認識で、十分自覚的に有益でしょう。
 
  受影と云いましたが、「人格の原理的に」、貴方が受け入れることのできない人格要素をまさに、相手に見ている場合、それは、貴方のなかにもあるのですが、やはり、受け入れることはできないし、理解も了解もできない可能性があるのです。けれども、日本人は、そこまで「自我分化」しているかどうか、疑問にも思えます。
 
  相手の人格のなかの了解できる要素、合理的に納得できる部分は、それでよいのであり、納得の行かない要素は、この後の課題として、未来に持ち越せばよいでしょう。「仏陀の心」ではありませんが、不愉快なものでも、自分の心の隅に、置いておくことができるぐらい心に広がりや余裕ができるか、それは今後の課題でしょう。(また、受け入れがたいものは、受け入れがたいのであり、そういうものとして、心の隅に置いておくと云うことです。また忘れてしまってもいいのです)。
 
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この回答へのお礼

 回答ありがとうございました。

お礼日時:2002/01/10 20:51

「投影している」ことを認識しても、自分の中にある嫌な部分を克服しない限りは、一時的に相手を許したり、結構いい人だなと思っても、結局は再び些細なことで嫌悪感がよみがえると思います。

「投影」についてはよくわからないのですが、冷静に考えると、その人の嫌な部分が、確かに自分の中にもあり、普段はそれが長所であり個性であると思っていても、意識の深い所では、それがストレスやプレッシャーになっていることに気がつきました。
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この回答へのお礼

 アドバイスありがとうございました。

お礼日時:2002/01/10 20:52

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