痔になりやすい生活習慣とは?

徒目付・小人目付はどのような業務を担当していたのでしょうか?

A 回答 (1件)

徒目付、小人目付はいずれも目付の配下です。


徒目付は50人ほどおり、目付の命令によって文書の起案、先例の調査などをしたり、探偵、江戸城内の宿直、大名登城時の玄関の取締り、評定所、紅葉山、牢獄などへの出役などを担当し、4名の組頭が統括しました。
小人目付は100人ほどおり、徒目付に従属し、目付以下を観察・糾弾する約で、町奉行所、牢屋敷見回り、勘定所、養生所、講武所、異変の立会い、諸大名の城郭営繕の調査、諸大名・旗本などの素行調査、将軍お成り先の警備などを担当しました。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
小人目付が目付以下の監察をしていたのですね。

お礼日時:2006/02/12 20:40

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Q8石2人扶持の身分は足軽ですか?

江戸期に徳川親藩17万石の大名の家来で8石2人扶持の身分は足軽でしょうか?
飛地にある陣屋で勘定奉行を務めたらしいのですが仮に足軽でも勘定奉行に成れるのですか?
飛地の規模は約6万石、藩士は200人程で250石の支配役が2名で残りは全て10石前後です。

Aベストアンサー

17万石の藩で8石2人扶持なら,「士」か「卒」(足軽)かはよく分からない辺りです。6万石ですとおそらく,「士」だろうとは思うのですが。

例えば,黒田52万石で最下級の「士」の扶持では,6石2人扶持などという例がある一方で,「卒」身分でも陸士などは13石3人扶持をもらっています。また,逆に1万2千石の益田家では,「上士」でも12石程度の家があります。つまり,この辺りになってくると,扶持と身分の相関関係が曖昧になっているのです。現に旗本よりも家禄の多い,御家人だっていましたから。

江戸時代でも,算用方は,かなり能力人事の部分があったそうですから,仮に「卒」の身分でも取り立てられる事はあったはずです。ただ,勘定奉行というのは,「卒」のままでは難しいでしょう。その場合,「卒」から加増されて「士」として,勘定方の役職を歴任し,最終的に奉行になるというルートです。もともとが「士」の身分なら,そのまま出世をしていったという話です。

奉行をやっている間は,役料という形で扶持が増えているはずです。ただし,これは家禄ではありませんから,役を辞めればもらえません。ここで,認められれば加増という形で,家禄自体が増えるわけです。

17万石の藩で8石2人扶持なら,「士」か「卒」(足軽)かはよく分からない辺りです。6万石ですとおそらく,「士」だろうとは思うのですが。

例えば,黒田52万石で最下級の「士」の扶持では,6石2人扶持などという例がある一方で,「卒」身分でも陸士などは13石3人扶持をもらっています。また,逆に1万2千石の益田家では,「上士」でも12石程度の家があります。つまり,この辺りになってくると,扶持と身分の相関関係が曖昧になっているのです。現に旗本よりも家禄の多い,御家人だっていましたから。

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Q旗本

一千石・三千石・五千石の旗本の場合、家臣の人数・構成、屋敷の数・坪数はそれぞれどの程度の陣容だったのでしょうか?

Aベストアンサー

 ●家臣の数・構成(慶安2年(1649)の軍役規定)
1000石 21人(侍5、槍持等16)
3000石 56人(騎士2、侍8、槍持等46)
5000石 103人(騎士5、侍9、槍持等89)

 ●旗本の人数(元和9年(1623年))
1000石 24人
3000石 45人
5000石 75人

 ●拝領屋敷地(元和6年(1620年))
1000石~1900石 700坪
3000石~4000石 1500坪
5000石~7000石 1800坪

Q旗本の暮らし

一千石の旗本は、だいたい何坪程度の拝領屋敷に暮らしていたのでしょうか?

武家奉公人(侍・中間・女中)は軍役ではなく実際にはそれぞれ何人くらいいたでしょうか?

五千石くらいの大旗本の家老だと、百石前後はあった様ですが、千石の家の用人はどれくらいの家禄を貰っていたのでしょうか?

千石の屋敷の門は長屋門だったのでしょうか?

質問が多くてすみませんが、お考えを伺えると幸いです。

Aベストアンサー

千石以上の旗本は、全部で800家ほどしかありませんでした。
千石の旗本であれば長屋門でした。
屋敷の規模は人や場所によっても違いますので一概には言えませんが、二百坪くらいはありました。
家臣の数もその家の考え方や裕福さにもより、また役についているか無役か、どういう役職かなどによっても異なりますが、役についていれば千石クラスだと登城時にも4~5人の供は必要でしたから、男が用人、若党、中間、小者をあわせて6~7人くらい、女が2~4人くらいではないでしょうか。
このクラスだと用人でもせいぜい10石くらい、他は何両何人扶持といった程度で、譜代の家臣はいても用人くらい、あとは口入屋からの年季奉公人といったところでしょうか。

Q書院番士の出世

書院番の番士は、通常はどの程度出世したのでしょうか?
諸太夫まで進む人は少なかったと思いますが、目付・御使番・番方の組頭小十人頭・御徒頭・勘定吟味役など布衣の職に就く人はそんなに稀でもなかったのでしょうか?
それともほとんどの番士は番士のまま終わったのでしょうか。

Aベストアンサー

書院番士といえば両番筋ですから、旗本・御家人のなかではいちばん毛並みのよい家柄のひとたちでした。
ですから、出世コースに乗れば諸大夫になるのはまれではありませんでした。
いちばんの出世コースは目付を経て遠国奉行から勘定奉行・町奉行というコースでしたが、そのほかにもいろいろな出世コースはありました。
ただ、勘定吟味役については実務がわからないと役に立ちませんし、カネ勘定はひとかどの武士のするものではないということで両番筋からなることはほとんどありませんでした。
また、両番だからといって全員が出世コースに乗れたわけではなく、隠居するまで番士のままか、せいぜい進物番になれるといった例もたくさんありました。
こういうように親が番士のままだと、子供は役に出られませんでしたが、親が布衣以上になっていれば親が現役でも子が番士に出ることが出来ました。

Q「たそがれ清兵衛」の50石取りとは

映画「たそがれ清兵衛」を観ました。(時代は幕末です)
この中で何度もでてくる50石取りの身分(給与)とはいかほどのものなのでしょうか?
貧しいということはわかりますが、具体的にどれくらいの経済状況なのでしょうか?

1石とは米の単位だと思いますが、そもそもお米で給与をもらっていたのでしょうか?
それとも現金ですか?
映画の中で病気の妻の医療費が毎月1両4分かかったとありました。
この金額を石高にするとどれくらいになりますか?

よろしくお願いします。

Aベストアンサー

なかなか感動的な映画でしたね。
一石は下記のようです。
10斗=2.5俵(=100升=1000合)約150キロ
50石ですと、125俵、約7.5トンです。
安房守伝記を見ますと、
幕末のころは一石は25万円相当と書かれていますので、125万円ですね。
幕末のころは、一両が5000円程度ですから
清兵衛は年収125万円(月給10万5000円程度)
妻の医療費(毎月1両4分)は7000円かかる計算です。
使用人もいますから、かなり厳しい生活ですね。

参考URL:http://bakumatu.727.net/iroha/mame-kome.htm,http://www.asyura2.com/0306/tyu2/msg/314.html

Q大身旗本の出世

五千石とか三千石クラスの大身旗本が、役高千石の遠国奉行など家格より遥かに役高の低い役職に就く事はよくあったのでしょうか?
例えば御小姓として初出仕した後はどの様な役職を経て番頭などの家格に相応しい役職に就いたのでしょうか?

Aベストアンサー

三千石以上であれば寄合関ですが、このクラスだとなかなか石高に応じた職がありませんからほとんどが持高つとめとでした。
三千石クラスで遠国奉行などの職に就いている例はめずらしくありませんし、はなはだしいのは家禄五千石の旗本が5百石高の小納戸についている例さえもあります。
このクラスは初出仕は御側の役が多く、中奥小姓という例は多くあり、また御側衆という例もあります。
このあとは小姓頭取や小普請支配、寄合肝煎を経て大番頭や両番の番頭、あるいは先手頭などという番方の役が多かったようです。
役方のコースに乗れば遠国奉行から勘定奉行、町奉行などになることもありました。

Q同心と足軽

江戸時代の同心はそもそも足軽のことと聞いてますが、藩によっては同心と足軽がいることありますが
その場合格上はどっちになるのですか?

Aベストアンサー

江戸幕府は将軍直属支配下の足軽を同心と名を代え、足軽の呼称をやめました。  これから足軽、同心はひとくくりに見られるようです。   しかし江戸には大名屋敷、旗本屋敷がありこの中には足軽もいます。
各藩では足軽の呼称を無くした所はないようです。  江戸にならい町奉行の下が与力で、その下が同心という藩は多いようです。  しかし武官では物頭の下は足軽のままです。  文官では足軽格だが、物書きのように足軽と呼ばない職種も多いので、不明確な点もありますが、足軽は同心より格下の傾向はあります。   藩によっては足軽の一部に苗字を許さなかったといいます。

Q百石取の武士

十万石未満の大名に家臣でし、百石取の武士の地位はどの程度のものだったのでしょう。
微禄ではないでしょうが、藩の政事(まつりごと)には、直接、携わることはなかったように思うのですが如何でしょうか?

Aベストアンサー

数万石の藩では役職につくと、百石以上になるようです。    ただし百石以上がすべて役つきではなく、数百石の家でも家督を相続した時は平士扱いもあったといいます。     これらの藩では百石くらいでは政事にかかわる事はにでしょう。

Q江戸時代の足軽身分のものは半農半士だったのでしょうか?それとも武士とし

江戸時代の足軽身分のものは半農半士だったのでしょうか?それとも武士としての待遇だったのでしょうか?

Aベストアンサー

こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。

>>江戸時代の足軽身分のものは半農半士だったのでしょうか?それとも武士としての待遇だったのでしょうか?

回答から先に述べますと「武士階級」でした。

(1)戦国時代の足軽は「卒」(そつ)と呼ばれ、馬には乗れない徒歩で戦場を駆け巡りました。

(2)しかし、秀吉の時代に「刀狩り令」が出されてからは、それまで、半農半卒であったものが、農業をとるか、卒となるかの選択を迫られました。当然、二手に分かれたことは言うまでもありません。そして、卒は武士階級としては、最下位に位置づけられました。

(3)江戸時代になってからも、足軽は武士階級の一番下位に位置しました。しかし、実際には、足軽の下には、中間、小者という最下位の身分も作られました。

(4)足軽は、下級ではあっても、士分でしたので、帯刀を許されていました。ちなみに、中間が腰に差していたのは「木刀」でした。小者は何も身に付けることはできませんでした。そして、小者が主人のお供をする時は「裸足」(はだし)でした。

(5)また、足軽以下は下駄を履くことは禁止されており、常に草履でした。

(6)家禄というものはなく、給金制度で、大方の大名などに仕える足軽は、年間5両2人扶持の安い給料だったため、内職などに精を出し家計を助けました。そして、足軽長屋に住んでいました。
<扶持の計算方法>
男扶持では1日5合の計算。
女扶持では1日3合の計算。
ですが、足軽は男扶持で計算されました。
5合×360日=1,800合。
1升=10合。
1,800合=180升。
1斗=10升。
180升=18斗。
米俵1俵=4斗。
18斗=4.5俵
従って、年間5両と米俵4.5俵を与えられたことになります。

(7)中には、内職が本業のようになり、職人肌になる者もいました。

(8)米沢藩の上杉鷹山などの時代には、下級武士が藩の財政危機を打開するため、新田開発などに従事しましたが、鷹山は、この者たちの藩を思う心に打たれて、士分を捨てることは許可しませんでした。

(9)米沢藩のように、農業をした者もいますが、江戸や大阪府内では土地を持つことは許されず、江戸や大阪府内の足軽はもっぱら内職で食いつないでいました。

(10)地方の大名の足軽では、農業をしていた者もいました。しかし、一応は立派な「武士」でした。

こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。

>>江戸時代の足軽身分のものは半農半士だったのでしょうか?それとも武士としての待遇だったのでしょうか?

回答から先に述べますと「武士階級」でした。

(1)戦国時代の足軽は「卒」(そつ)と呼ばれ、馬には乗れない徒歩で戦場を駆け巡りました。

(2)しかし、秀吉の時代に「刀狩り令」が出されてからは、それまで、半農半卒であったものが、農業をとるか、卒となるかの選択を迫られました。当然、二手に分かれたことは言うまでもありません。そして、卒は...続きを読む

Q江戸時代後期、200石の馬上の旗本は

江戸時代後期、200石の馬上の旗本は、外出の際に、四つ供+くつわ取りで計5人の家来をつれていましたが、350石の馬上の旗本では、外出の際に、何人の家来をつれていたのでしょうか?

Aベストアンサー

軍役と同じ正式外出では50石につき1人の供が必要です。
200石では供4人と(馬の)口取り1人、
350石では供7人と口取り1人。
どちらも供の1人は槍持ちです。
槍一筋、馬一匹の武士です。

石高が多いと供の役割が多くなり複雑になります。


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