dポイントプレゼントキャンペーン実施中!

比叡山延暦寺は、788年最澄の開山による”天台宗”の寺院(Wikipediaより)、とありますが、
わたしの友人が、「”宗派”は開山のころとは変わったはずだ」とガンばります。(^_^;)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%94%E5%8F%A1% …

そういうことがあったのでしょうか?

仏教の歴史について詳しい方のご回答をお願いします。

A 回答 (5件)

ご友人が、比叡山延暦寺の“宗派”は開山のころと(歴史的過程および現在とでは)変わったはずだ、という主張をなさっているなら、それは誤りです。



もっとも“宗派”という言葉の定義にもよります。
開山当時の伝教大師最澄の“宗派”は『法華経』を中心とした“宗派”です。
しかし、国家的要請(鎮護国家の加持祈祷)から、仏教史的にいう「天台宗の密教化」が行われることとなり、この意味から比叡山の“宗派”は『法華経』中心から「密教」寄りに変化したといえます。
さらには平安末期の社会的要請(末法思想)から『阿弥陀経』や唱名念仏を主に修する「浄土教」へと“宗派”が移っていきます。
この観点からは、“宗派”が変わった、という主張も成り立ちます。

しかしながら、
(1)「密教」や「浄土教」を天台宗が採用することをよしとしたのは『法華経』を基礎にした天台教学そのものが、単一の経典や修行法のみに拘泥すべきではない、という立場をとっているからであり
(2)天台宗の密教化の流れの中でも『法華経』に基づいた修行は行われ続け、当然ながら「浄土教」が主流となってからも、『法華経』も「密教」も存在しており
(3)その結果、比叡山では顕・密・禅・戒の四宗をひととおり学ぶことが現代に到るまで求められてきている
ことからみて、比叡山が天台宗の修行道場として平安時代より現代まで継続しておりことは明らかであります。つまり昔も今も比叡山延暦寺の宗派は天台宗であり続けてきております。
少なくとも天台宗の僧侶(私も!)においては「宗派」の継続性について疑念を持つ者はいないといってよいでしょう。

なお、
四宗=四種類の修行法
顕=顕かな教え(経典や注釈書を読めば理解できる教え)
密=秘密の教え(実際に修法を行なわねば理解できない教え)
禅=座禅止観(いわゆる座禅をはじめとする瞑想修行)
戒=戒律(自律的かつ他律的に、生活そのものを修行とすること)
のことです。
    • good
    • 2
この回答へのお礼

お礼日時:2006/03/10 12:57

まず、この時代の「宗」というのは現代人の考えるような宗派ではなく、どちらかというと学派に近い感覚です。

ですから、一つの寺院で華厳を専門で学ぶ僧侶もいれば、法相と三論を兼学する僧侶もいるという姿です。つまり仏教をどのような観点で捉えるかの差異によって、律・倶舎・成実・法相・三論・華厳を学ぶのです。ちなみに奈良時代に「宗」と公称できたのは前述の六宗ですが、天台・真言・禅・浄土の教学は断片的に伝わっていました。

 最澄が延暦4年(785)に比叡山に草庵を結び、華厳教学を中心に、法華・般若・金光明経などを学んでいましたが、後に天台教学に転じました。そこで7年に草庵を比叡山寺と改め、薬師如来を安置して一乗止観院と称しました。後に最澄は21年に高雄山寺(現:神護寺)で天台を講じ、23年に還学僧(げんがくそう:短期留学の僧)として入唐。天台山などで修行し、天台・禅・密教などを学びます。
 それらの教学を統合して最澄は法華経を中心とした教学である「天台宗」を立宗し、25年に朝廷によって公認されます。そして最澄寂後の弘仁14年(788)に朝廷より「延暦寺」の寺号を賜ります。

 ですので、どの時点をもって比叡山開基とみるのかです。

 比叡山に草庵を結んだ当時の最澄は華厳を中心に学んでいたので、その意味で言えば天台宗の寺院ではなかったといえます。

 天台教学を中心に学びだし、草庵を比叡山寺と改めて一乗止観院と称する時期をもって開基とすれば、初めから天台宗の寺院です(宗を自称するのと、朝廷より公認されるのは別問題です)。

 繰り返しますが、「宗」という概念が現代とは異なりますから、現代的な感覚で「宗」をとらえるとこのあたりが混乱するのでしょうね。
    • good
    • 0

1.天台第三の座主円仁(慈覚大師)によって、それまでの天台の教義に真言を取り入れてしまった。



2.鎌倉時代の法然が、浄土宗を開いた。
これは、「南無阿弥陀仏」と念仏することにより、死後、「極楽浄土へ行ける。」と説いたもので、これが当時の新興宗教として大流行した。その後、天台もこれを取り入れ『南無阿弥陀仏』と唱えるようになった。

3.鎌倉の世の中にあっては、修行僧が武装し他宗との武力抗争があった。また、京都の街に下りてきては僧でありながら悪事を働くものがいた。

※天台宗の寺では、葬儀に「南無阿弥陀仏」を唱えて法華経を読み、「南無妙法蓮華経」と題目を唱える。
この宗派は、いったい何宗なのだろうか。
浄土宗の分派なのだろうか?真言宗なのだろうか?それとも、日蓮宗なのだろうか?
いいや違う。このゴチャ混ぜ教義全然OKなのが、日本の天台宗なのです。要は、どうでもいいんだな。
    • good
    • 0

最澄(伝教大師)は日本天台宗の開祖ですが、


中国・後漢 応神帝のころに帰化した人の子孫といわれ、比叡山山麓の古市郷(現滋賀県大津市坂本本町)に生まれる。幼名を広野という。

780年(宝亀11年)に近江国・国分寺の行表を師として出家し、783年(延暦2年)に東大寺で、前途有望な国家公認の官僧となったが、南都(古都・平城京)の仏教を避けて(この時政治の中心は北都・平安京に移っていたので)比叡山に一乗止観院(後の延暦寺の前身)を建立してそこにこもった。

多くの経論を読み、世の無常さと自己の未熟さを恥じて、仏道修行を実現するために5つの誓願(願文)をたて、それが成就するまで下山しないと誓った。最澄が開眼し下山するまで12年かかったことから「12年籠山」という後の僧の修行規則として制度化され現在に至っている。
 
804年、最澄は遣唐留学僧として大陸に渡り、円・密・禅・戒という四宗を学んで翌年帰国。806年、天台宗を開くことを勅許された。

しかし、さらに真言の教義を究めようと、812年(弘仁3年)にその弟子、円澄と泰範と共に、高雄山の空海に教えを受けた。しかし、最澄は南都六宗に批判的であったため、南都との対立を深め、やがて空海とも疎遠になってしまう。そんな中にあっても最澄は「山家学生式」を記すなどの活動をしていた。死後の866年(貞観8年)に伝教大師の称号が贈られた。

このように最澄が比叡山に一乗止観院を建立して篭ってから、天台宗を開くまでにかなり月日が経過しています。
    • good
    • 0

詳しくはないですがご提示のWikipediaに


788年開山
806年天台宗開宗
と有ります。このことでは。
    • good
    • 0

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!