dポイントプレゼントキャンペーン実施中!

最近、山口母子殺害事件で、ワイドショーなどでテレビ報道があったせいか、一部で、死刑に対する意見の投稿が目立ちます。

ここでは、別の観点から眺めていきたいです。
死刑廃止or死刑存続
の意見を求めたとしても、どうしても議論は収束に向かうようには思えないのです。
世界的に見ても、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%BB%E5%88%91% …
と意見は、まっぷたつに分かれます。

朝まで生テレビなどの討論番組を時々見ますが、一般庶民の私は、ある賛成意見を聞くと、自分もそういった考えになり、反対意見を聞いても、そういった考えになり、ふりこが左右に揺れている感じです。

どうして、集団の意見って、こうも真っ二つに意見が分かれることが多いのでしょう?

A 回答 (13件中1~10件)

質問者さんと似たものです。



私はこの問題を考えるときに、社会制度として考えることの他に、自分の問題としても考えてみました。

たとえば、次のように考えました。次に書くのは、全部仮定の話になりますし、それがこの問題の難しさですが、とりあえず現時点での考えとして考えたことがあります。

1,私は(何らかの事情で)人を殺す可能性が全くないとはいえない。その場合、被害者の遺族から殺されることを、私は受け入れるべきだと思う。
この意味では、私は死刑存続派。

2,私は何らかの事情で殺される可能性がある。その時、遺族に私のかたきをとることを考えて欲しくはない、と今の私は考えている。
この意味では、私は(個人的な、家庭的な意味では)死刑反対派。

3,なんらかの事情で、私の家族が殺されるかもしれない。その時に、私は犯人が極悪人として、犯人の死を望む「べき」だろうか? あるいは当然望み、そして死刑執行まで望み「続ける」のが自然な感情なのか? 

これについては、なってみないと、分からないとういのが今のところの考えです。死刑執行までに時間がかかりすぎていますので、いろいろな感情が起きてきて、激情だけで動くわけではないからです。死刑反対派の人が、身内が殺されたことで賛成派に転向した例もあります。これを揶揄的に言う人もありますが、心変わりを責めることはできないと思います。
反対に、そうかと言って、実際には遺族は必ずしも死刑賛成に回るわけでもないです。
これについては、死刑があっても良いとは思っているが、自分の問題としては答えが出ていない状態です。


4,次に社会制度としての面になります。この部分については、他の人とさほど変わりませんが、社会の秩序維持という側面と、何があっても命が大切という社会の理想(教育)の天秤になると思います。

後者は理想主義的ですが、これも社会としては放置できない社会道徳の一面を作っていると思います。信賞必罰も大事ですが、応報だけで社会の秩序は出来ているわけでもありません。
私自身はどちらかいとうと、そういう理想主義的な考えが自分の中では大きいので、秩序維持のための死刑存続よりも、社会意識としの命の重さを重視したいという気持ちがありますが、これは実際の社会状況とつきあわせてのさじ加減の問題があると思います。被害者の命と加害者の命ということが加わると、もっと話が難しくなりますね。

このようなことをいろいろ考えると、この面については、私は社会全体の意識に従うこと(もっと議論、それから自分ならどうするかという議論がたくさん興ってから)にしたいと思っていて、今のところ積極的に死刑を存続あるいは廃止すべきという考えは自分では立てることを放棄しています。



こういうわけで、私自身は社会制度としてそれに結論をつけることは放棄しています。現在の制度の中で自分だったらどうするか?ということに絞って考えています。そして、もし実際そうなったら、それがどうなるか確証を持てないものだけに、質問者さんと同じように揺れ動いているのです。また揺れ動くような問題だけに、判断が割れるのだと思います。

なお、死刑反対者の一部がやるような理想のおしつけは、私と考えの一部が似ていても違うものです。
    • good
    • 0

>どうして、集団の意見って、こうも真っ二つに意見が分かれることが多いのでしょう?



いやこれ程重要な事が意見が分かれないほうが異常です、その意味で健全だと思いますが。

私は死刑制度存続派です。理由ですが誰でも考える自分の大切な人が無残に殺されてそれでもなお犯人の命を守ってやるほど人間が出来ていないし本能としての応報感情を無視できないからです。

仮に廃止されたとしますと、あの宅間守でさえ生かしておく訳でそんな事が正義とはとても思えませんし有ってはならない事だと思います。

死刑制度があっても抑止力にはならない、と言う方がいますがならなくても良いと思いますよ。被害者の応報感情を、心の底から湧き出す憎しみをほんの僅かでも解消できれば充分意義が有ると思います。
「国がやらないなら俺がやる」こんな事を被害者にさせて良い筈は有りませんしそれを請け負う殺し屋も出現するでしょうし。


誤審による死刑は取り返しが付かない、これは当然です、ですから三審まで充分な審議を尽くす訳です。
しかし現行犯などは全く問題が有りません。
    • good
    • 0

人一人の命を奪うのだから、様々な意見があって当然だと思います。

でも、全体の一角だけを捉えて賛否を問うのは甚だ疑問です。

…って、これのどこがアンケートなのか判りませんが

賛成か反対かといえば、私は賛成です。
死刑の是非というとなぜか抑止力ばかりが論議になりますが、刑というのは責任の取り方ではないでしょうか。抑止力にならないから不要なら、どんな処罰でも犯罪はなくならない。「死刑にならないから」と公言している犯罪者も居るのだから、極論としてこの世に刑罰はいらないという事になってしまいます。
 また、抑止力というのは単純に犯罪発生率では表せません。何人が刑罰を考えて犯罪を回避するかですから、犯罪は行われていない以上、刑罰が無い場合の数字との比較は統計には出てこないのです。
 責任の取り方として、最高刑が死刑があってなぜいけないのでしょうか。死刑にするかどうかは裁判で十分に審理を行って決まる事です。論議すべきは死刑が必要か否かではなく、その犯罪が死刑に値するかどうかでしょう。
    • good
    • 0

私は皆が皆同じ意見になるほうが気持ち悪いですが・・・



条件を整えないと答えが変化してしまうでしょう
殺人に合われた被害者の遺族と
その事件のワイドショーを見ている人など人によってまったく変わる答えですよね


死刑賛成の方は
死刑は犯罪に対する抑止であるとか
私刑によって報復する手段を取り上げられているのだから代わりに殺せ
などが考えにあるようですが

その人って本当に犯人?絶対間違いが無いの?
1%ぐらいは間違えても仕方ないとか考えていませんか?

では貴方がその1%になったら、仕方が無いと諦められますか?
私は嫌だと言うのが反対派
それでも仕方が無いと答えるのが賛成派だとして

賛成派か反対派か聞いてみたらかなり答えは変わる気がします
    • good
    • 0

たとえば霊の実体の有無について議論する上では、議論する人の間で何か根本的な考えや前提について違えば、もうその時点でその議論は土俵が違うので解決できません。


http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=1500916
(上のURLのNo.9の回答者の意見を参考してください)

同じように、死刑というのは人の死というものが関わっていますから全員の前提が一致しにくいのだと思います。
死刑がどうこう言う前に、死に対する見方がとてもたくさんありますから、それをひとつにまとめずに死刑について議論できるはずがありません。やったとしてもそれぞれ発言者の「良い」の基準(つまり価値観)が違いますからいつまでたっても解決しません。
    • good
    • 0

効果がはっきりしない以上、この問題の意見は真っ二つでしょう。


なぜなら、死刑になると取り返しがつかないからです。

私は、取り返しがつかないという点で死刑には反対です。また死刑が有る国の犯罪抑制効果があるという実証もいまだに出来ていません。冤罪も減ってはいません。

つまり加害者を懲罰的に死刑にしても、この次の犯罪が起きることにあまり影響しないのです。

そうすると復讐とか社会正義とかの論調で正当化する人が出てきます。
社会正義ってなんですかね。これだけでも論調が分かれる原因になるでしょう。

むしろ収束しない問題だから、よりよい方向を目指して常に議論するのがいいのだと思います。

質問者さん考えなくなっちゃダメだと思いますよ。

この回答への補足

ありがとうございます。
僕がもし総理大臣とかみたいに公的な立場にある人間で、死刑についてどう思いますか、とインタビューで聞かれたら、

「うーん、国民みなさんが冷静に話し合って、議論をすすめていかなければなりませんね」

などと答えるでしょう。
自分自身が考えなくなっちゃダメなのは同意しますが、世の中に多数ある問題をそんなあれこれ深く考える余裕はありません。

今の僕が死刑の是非について、アンケートされたら、
「わかりません」
と答えるのが、最強(?)かなあと、山口母子殺人事件のテレビ報道が収束してきて、日常生活のあわただしさにうずもれている今の僕の感覚であります。

その「わかりません」という回答がもっと多くあってもいいと思うこともあります。

補足日時:2006/04/21 14:51
    • good
    • 0

どちらに共感できるか?だと思います。


または反省(再犯の可能性)があるか、とか、
人の死について倫理的などでどのように考えるかとか。

個人的には死刑は廃止しないほうがいいと思います。
だって被害者は2重の(事件とその後の世論)に苦しめられるのだから。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ありがとうございます。
庶民的考えでは、犯罪の加害者より被害者になる確率が高いので、死刑はあったほうがいいかもしれないですね。

お礼日時:2006/04/29 03:35

ANo.4さんの意見に同調です。


結局この論議を客観的ではなくてどちらか一方の視点からみるから議論が収束しないのだと思います。

刑を加害者側からみれば、更正・反省させるための刑である必要があるのに対して、被害者からの側から見ればその無念を晴らす、またそのような犯罪者が社会に戻らないように死刑にすべきとなってしまいます。

似たような議論には尊厳死や戦争賛否の議論があると思います。
結局個人の意見と集団全体の意見がぶつかり合ってしまう場合によく発生します。
個人の自由を優先させると回りが迷惑し、周りのことばかり考えると個性が無くなるような感じではないでしょうか。
どんな立場から見れば矛盾なく両者の意見をまとめられるか・・難しいですね。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ありがとうございます。
あと、振り子の作用があるかとも思っています。
たとえば、自民党と民主党。
去年の選挙では自民党が圧勝だったので、次回は、民主党へ投票しようとする人たちも多いと思います。
(今は、民主党の不祥事は考えない)

お礼日時:2006/04/29 03:32

確かに話し合っていると少なからずありますね


今までの経験から纏めると、

1.確固たる信念を持っている

2.相手の立場や心情を理解しようとしない

3.プライドが人一倍強い

4.余り深く物事を考えない

要は自分の信念を妄信しているが故に人の意見に耳を傾けないし
反論されると自分のプライドを傷つけられたと思い必要以上に頑なになる

私の経験からだとこんな感じですね
ある意味ちゃんと考えているからだとも言えますが決して深く考えていないのが偶に傷なんですよねぇ
(しかもそういう人に限って発言権が強かったりするんですよね)
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ありがとうございます。
あと、振り子の作用があるかとも思っています。
たとえば、自民党と民主党。
去年の選挙では自民党が圧勝だったので、次回は、民主党へ投票しようとする人たちも多いと思います。
(今は、民主党の不祥事は考えない)

お礼日時:2006/04/29 03:31

被害者側の立場に共感できるか、加害者側の立場に共感できるか、人によって違うからだと思います。


死刑にすることで加害者が反省するとも限らないし(死にたいから悪いことをする人もいますよね。そういう人には死刑は効果がありません)、何が正しいかはわからないものですね。法律には限界があるように感じます。人間が人の生き死にを決めていいのか、私も疑問に感じます。苦しみながら生きていくのが一番重い懲罰なのではないでしょうか。
質問とずれちゃいました。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ありがとうございます。
教えて!goo に参加している僕は、趣旨的にも、答えがズバリあるものが好きです。
意見の分かれる問題は、討論をおもしろいと思う反面、結論が出なくてむなしいとも思います。
ここ数日、僕は、山口母子殺人事件のテレビ報道で、死刑についての討論をおもしろいと思っていましたが、明日からは多分、死刑についてなど一切考えなくなると思います。

お礼日時:2006/04/19 23:26

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!