はじめまして。ちょっと疑問があります。
奥州藤原氏は、東北らへんに住んでいたんですよね。でも、藤原道長は京都で摂政をしていたってことは、藤原一族は京都から東北地方まで移り住んだってことですか??徒歩で?!@@
それとも藤原道長と奥州藤原氏は親戚ではないんでしょうか,,,
教えてください。

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A 回答 (6件)

まず最大に注意しないといけないことは、奥州藤原氏は藤原秀郷の子孫を「自称」していたことです。


つまり、実際に藤原摂関家と血がつながっている証拠はないのです。

これは多くの武家にいえることですが、自分の家を有名な人の後裔にすることで、格式に箔をつけるのです。

戦国に至るまで多くの家系が藤原氏の出であるとなのっています。そうですね・・・後北条家の家臣だけで見てみると・・・まず成田氏(藤原道長後裔)、内藤氏(同後裔)、清水氏(不明、しかし藤原姓を名乗っていた)といった具合に、結構な数が藤原氏後裔を名乗っています。

理由は二つです。
1つ目は後裔を名乗っている家の独自改竄。
当時家系図といっても、あちこちに散逸している一族の家系図をすべてまとめてはいません。そういうわけで「自分たちのさかのぼれる先祖を、ここにくっつけてしまおう」というのが横行しました。
なお、架空の人物が家系図に入っているわけではないため、どこがどう改竄されたのかがわからないのです(そもそも改竄した家、つまり勝手に名乗っている家は、それより前の記録がない)。
2つ目は、藤原氏が売り渡したもの。藤原摂関家は没落して財政難となったのですが、そのため自分たちの戸籍を売り渡して、ばら撒いていたようです。
こちらもどう改竄されたのかはわからないのです。

奥州藤原氏は前者ですね。実際に本当の家系と認識されるのは清衡までです。それ以前は怪しい、というのが現状です。
でも、ある程度家系図がしっかりしていると、そうであると認められるのが世の常。奥州藤原氏もそうです。

なお、実際に藤原氏は日本中に散布しています。理由は律令官制の国主などのせいです。また、嫡男以外は別系列を作るしかないですから、子孫が別家系を作り、またその子孫が別家系を・・・という具合に、どんどん増えたのです。で、もちろん嫡男以外は中央からは遠ざかりますから、端のほうはどんどん遠ざかります。
その中には守、介を拝領してその地に赴いて、そこに土着した人もいました、中には罪人となり僻地に流された人もいました。中には敗戦したのちに落ち延びた人もいました。次男がそのまま土着した例も数多いです。
で、そういった人の実際の子孫か、それを利用して家系をくっつけた家が全国には大量にいるのです。奥州藤原氏もその一つです。

参考URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/奥州藤原氏
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この回答へのお礼

詳しい説明をありがとうございました^^
素朴な疑問にこんなに答えていただいてうれしいです。
有名な人の名字を名乗りたがる、この時代の特徴を表しているなと思いました。

お礼日時:2006/06/06 09:24

 奥州藤原氏は、俵藤太こと藤原秀郷(平将門の乱を平定した人物の一人として知られる)の子孫であるとしていますが、この系譜は疑わしく、藤原姓を僭称したとされています。


 ところで、「藤原」は「姓」であり「苗字」(なお、「名字」と書くのが歴史的には正しい)ではありません。「歴史」カテゴリーに答える者に、この違いに無知な者が回答を書いているのは残念なことです。「姓」は天皇から与えられた公称であり、「名字」は地名などに由来する私称です。例えば、「豊臣」は姓、「羽柴」や「木下」は名字です。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。
いわれてみれば、歴史に出てくる人物は名前がかわっていますもんね。
姓と名字のちがいにそんな理由があったとは気付きませんでした^^
勉強になりました

お礼日時:2006/06/06 09:10

道長に対抗したのかどうか、道長が建てた平等院鳳凰堂そっくりで一回り大きい、無量光院を藤原秀衡が建てています。

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この回答へのお礼

へーそうなんですか~。真似かもしれませんね。
回答ありがとうございました^^

お礼日時:2006/06/06 09:11

すでに下の方がおっしゃている通りなのですが。


苗字自体は地名や官位などから取られる事が多いので苗字が同じだから同じ系図とはかぎりません。
また、自らの先祖を高位の人物の苗字を取る事により自らにはくをつける事をしていました。織田信長も最初『藤原氏』を私唱していました。のちに平氏に変えたようですが。また徳川家康ま三河の土豪出身であるにもかかわらず『源氏』と言っていました。
記憶はさだかではありませんが中国などの外国への公文書には『源家康』という文言がでてきたと思います。
さて奥州藤原氏ですが上記のように公称の血統はあまりあてにならないのでどこまで藤原氏と関係があったかは疑問です。ただリンクをみるがぎりギリギリ係累にはいってた可能性はあるようですね。
まあ実証は難しいと思いますが。

参考URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%A5%E5%B7%9E% …
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この回答へのお礼

けっこう昔も適当?なんですね~。
現代の日本人も、田中と田中で同じ名字だからといって、同じ系列とは限らないですもんね。
回答ありがとうございました^^

お礼日時:2006/06/06 09:14

わたしも昔々、同じ疑問を持っていたことがあります。



系図を根気良く追っていくと、道長と奥州藤原氏の関係はわかりますね。#1の方の系図が見やすいと思いますが、わたしも一応挙げておきます。
http://keizusoko.yukihotaru.com/taikei/fujiwaram …
細かくて、少し見にくいかもしれませんが……クリックすると細部も表示されますので、根気強くお試しください。

ただし、系図というのは基本的に何系統もあるもので、それぞれ名前が違っていたり、兄弟順が違っていたり、いる筈の人がいなかったりは珍しくありません。わたしが挙げたURLも、これが決定版というわけではありませんので、そこはご留意ください。(どちらかというと、ちょっと王道ではない系図のような気もします)

おそらく質問者さまは、時間の流れをイメージしないまま考えておいでなのだと思います。実はけっこう年月が経っているんですよ。
藤原鎌足から始まった藤原氏、時間が経つに従ってどんどん人数が増えていきました。
その中の、権力闘争に行き残った主力組は都で華やかな生活を送りますが、それ以外のほとんどの藤原氏はだんだんと小粒になっていきます。身分社会で、基本的には子は親と同等か少し低い地位、ということが普通だったようなので、身分が低い者が増えるのは当然ですね。

そうなるとだんだん、都では官職を得ることが出来ずに、地方へ出て行く者も現れます。どこかの国(昔の行政区分としての「国」ですね)の下級役人の仕事を得るとか。そういう人の中には、結局都へ帰って来ずに、その土地で土着する場合もあったらしいです。
徒歩で、とか馬で、というより、何世代もかけて、色々な場所を本拠地として移動していったわけですね。新しい土地が手に入ったから引っ越そうか、とか、隣の領主と争って負けたからその土地を離れなければならなくなったとか、様々な場合が考えられます。

奥州藤原氏の場合は、先祖の一人である藤原秀郷が平将門追討の功があったので、なおさら関東近辺に土着化しやすいということがあっただろうと思います。この辺りの史実は、今のところわかっておらず、今後も確定するのはなかなか難しいでしょう。


以下、少しご質問そのものからは外れますが、#2の方のご回答で少し気になったことがあるので書き添えます。

「造興福寺記」という記録があるそうです。それは火災にて大部分焼失してしまった興福寺の再建の記録で、その中に寄進者の名簿があり、「経清 六奥」と記されているそうです。これは恐らく奥州藤原氏としての初代である清衡の父、藤原経清のことで、名前の後の「六奥」は「むつ」と読み、陸奥国のこととされています。
ご存知のように、興福寺は藤原氏の氏寺であり、この「造営料割当者名簿」に載るということは、「五位以上の藤原氏」を示していたようですから、少なくとも経清は、中央の藤原氏からも一族であることを認められていたようです。
また、そこから時代は下って秀衡の時代に、西行が東大寺の塗金料勧進のため、奥州平泉に赴きますが、これも西行と秀衡が一族であるという理由も大きかったとされています。
わたしは西行の出自を疑問視する文章は見た記憶がなく、さらに出家後に高位の人々と交際しているのを考えると、高い身分ではなくともはっきりした出自の人を想像するので、奥州藤原氏が秀郷流である傍証になると思います。

おそらく現時点では自称というよりも、もっと確実視されているのではないでしょうか。

少し面倒な回答になってすみません。参考になれば幸いです。

参考URL:http://keizusoko.yukihotaru.com/taikei/fujiwaram …
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この回答へのお礼

同じ疑問をもっていたということでうれしいです^^
わかりやすい回答をありがとうございました。上であげていただいた
系図のほうが私は見やすかったですが、(無理やりつなげているのかもしれませんね)藤原氏はかなりいたんだなっていうことがわかりました。ちょっと勉強になってよかったです。

お礼日時:2006/06/06 09:21

藤原一族ってとんでもなくたくさんいたんですよ。


頂点は摂政・関白として華々しく活躍していましたけど、末端は貴族とも呼べないような暮らしをしていたことでしょう。

道長と奥州藤原氏は系図を見てもかなり離れています。
(参考URLを見てください、道長は右上の「忠平」から更に三代下です)
それに時代も離れています。奥州藤原氏が栄えたのは道長からおよそ100年ほど後のことです。京都から一族みんなで東北に行ったわけじゃないですよ、何百人もいる同じ姓のほんの一部が移住しただけです(移住した理由は諸説あります)

移動方法は一応貴族なので馬か駕籠でしょうね。お付の人は徒歩でしょうが。何も不思議なことじゃありませんよ、当時の中流貴族である地方官僚だって都から何年かおきに九州や東北まで移動していましたからね。土佐日記や更級日記を読んでみてください。

参考URL:http://www.harimaya.com/o_kamon1/seisi/bukehuzi. …
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この回答へのお礼

お早い回答をありがとうございます^^
藤原氏というと、都での華やかな生活をしている人というイメージがありましたが、系図をみるとかなりの数がいるんですね。。
それにしても、移動はすごい時間かかったんでしょうね~@@

お礼日時:2006/06/06 09:26

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中臣鎌足の子孫である藤原家と、義経をかくまったので有名な奥州藤原氏(三代目の藤原秀衡など)は、どういった関係なんでしょうか?

Aベストアンサー

奥州藤原氏の前身は、東北の豪族であった清原氏で、
その地盤を引き継いで基礎を固めたのが、藤原(清原)清衡です。

その清衡ですが、もともとは藤原経清の息子で、
父親の死亡後に母親が再婚して清原氏に嫁いだため、
連れ後として清原氏に入った事情があります。

後三年の役で、清原氏の内紛を制した後で、
出自のために清原氏で冷遇されていたこともあり、
元々の姓である藤原を改めて名乗りました。
「藤原」と名前がつくのはこのためです。

そして藤原本家との関係ですね。
一番の祖先である藤原経清ですが、
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本家からは相当はなれているので、傍系もいいところですが…。
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1・熊谷はそう自称しています。いくつか説がありますが、桓武平氏の傍流という説(一番一般的な説)、宣化天皇の傍流であり、後に平氏から養子を取り一門とした説があります。
ただし、全般にいえますがこれらは当人が捏造したりとかが多く、当てにはなりません。

2・一番弟子・・・という基準がはっきりしません。高僧ならば弟子というか門下というか支持者はたくさんいるのが常ですし、直実が仏門に入ったときはすでに結構活躍していましたから、それまで弟子がいないと言うのはほぼありえません。

さて・・・ここからが問題なのですが・・

>私はそれがホントでも(「熊谷(次郎)直実」と「桓武天皇」血筋が繋がっていても)「熊谷(次郎)直実」すごい有名人でないから、知人が末裔かどうか判る分けないと言うのですが? 

この一文を見ると、質問者さんはあまりこのあたりに関して深く詳しい知識をお持ちではないのかと思います。

戦国時代までの武家は、姓を名乗るのが一種当然です(なのっていないということは、土民上がりと認めるようなもの)。しかし、姓は天皇が与えるものですから、どうやって手に入れるかと言うと・・・
その一族である、と言うのです。
たとえば、信長は「平氏」の子孫であると自称しました。家康は、征夷大将軍の都合もあるため源氏であるとしました。しかしこれはほぼ100%捏造です。
こういった具合に、「自身は~の一族の末流である」とするのです。自身の家に箔をつける意味も強いです。
大きなものは僭称と戸籍売買ですね。そもそも、400年前に分かれた家の子孫かどうかなんて、間違いなく正当な藤原家である近衛家とかですら把握できないですから、自分たちが名乗れば本当になる世界でもあるのです。

http://oshiete1.goo.ne.jp/qa2192705.html

このあたり(私の回答も含めて)とか参考URLをごらんいただければ、お分かりいただけるかと思います。
なお、このあたりは現代の有名無名は関係ないです。当時武家であったかどうかですから(でも熊谷なんかは鎌倉御家人としては最も有名な部類だと思うんですけどね・・・彼より有名なのは北条氏と那須与一くらいで・・・)。

参考URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/熊谷氏,http://www2.harimaya.com/sengoku/html/kuma_k.html

1・熊谷はそう自称しています。いくつか説がありますが、桓武平氏の傍流という説(一番一般的な説)、宣化天皇の傍流であり、後に平氏から養子を取り一門とした説があります。
ただし、全般にいえますがこれらは当人が捏造したりとかが多く、当てにはなりません。

2・一番弟子・・・という基準がはっきりしません。高僧ならば弟子というか門下というか支持者はたくさんいるのが常ですし、直実が仏門に入ったときはすでに結構活躍していましたから、それまで弟子がいないと言うのはほぼありえません。

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この神様はモーゼさんの前にそのお姿を現したときに、「俺以外の神扱いされてるやつは全部ニセモノのまがいもののファック野郎だ!」とおっしゃいました。そこを起源にしてユダヤ教が始まりました。
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ユダヤ人の国は、あんなこんながイロイロとありまして分裂したりして、やがてローマ帝国の属州となりました。ローマ帝国ってところは実は非常に寛大な帝国で、帝国に従うなら信教の自由も認められていました。日本人レベルでいえば、「それならいいじゃん」というものですが、「この世で神様とお呼びしていいのはおひとりだけ」と信じる彼らにとって異教徒がウロウロしているのが非常に気に障って障ってしょうがないのです。イスラエルでは、ローマ帝国に対するテロ活動が盛んでした。
ユダヤ教徒の歴史では、そういう「ユダヤ人受難のとき」にはエリヤとか神様の言葉を預かる「預言者」が登場して人々を導きました。ユダヤ教徒たちは、そういう「救世主」が出てくることを待ち望んでいたのです。

そういったタイミングに登場したのが、ナザレ生まれのイエスでした。イエスはユダヤ教史上、というか宗教史上において革命的な言葉を発しました。「ベイベー、愛だぜ」と。彼は、あの神様のことを「父ちゃん(アバ)」と呼びました。後になんだかんだでイエスは神の子となりました。マリア様が処女のまま神の子を受胎したお話はご存知でしょ?
それがどれだけ革命的であったのはまた別の機会に譲るとして、「憎みあうより、愛し合おうぜ」と言い出したイエスは人々からローマ帝国を排除する指導者となることを熱望されましたが、「だから俺は憎みあうのは嫌なんだよ。愛し合おうぜ」といって人々を失望させ、エルサレムからすぐ外に出たところのゴルゴタの丘で十字架にかけられてしまいました。
その後、実は一度もイエスと会ったことがないパウロが「イエスは救世主(キリスト)だったー!」と言い出してキリスト教が誕生します。なお、旧約聖書では「救世主はベツレヘムに生まれるよ」と書いてあったので、イエスはベツレヘムで生まれたことになりました。
当然のことながら、キリスト教にとってエルサレムは「イエスが十字架にかけられた場所」ですので極めて重要な聖地であります。

そのイエスが十字架にかけられて50年くらい経ったとき、「もう我慢ならねえ、ローマ人は出ていけ!」とユダヤ人は反乱を起こしました。それ以上にブチ切れたのはローマ人です。「人が下手にでてりゃあ属州のくせにでけえ態度をしやがって。ローマ帝国の恐ろしさを骨の髄まで教えたるわ」と本気で怒り、反乱を鎮めただけではなく、何かとややこしい神殿を破壊し、「ややこしい神を信じてるお前らはこの辺りに住むんじゃねえ」とユダヤ人をパレスチナから追放しました。
これがディアスポラです。以来約2000年、ユダヤ人はイスラエルの地に再びユダヤ人の国を再興することを願いながら世界中でお金を稼ぐこととなります。

時代はずーっと下りまして、メッカの洞窟で、青年ムハンマド(マホメット)の前に大天使ガブリエルが現れて「君が預言者だよーん」と告げました。イスラム教の誕生です。ムハンマドの元にガブリエルを派遣したのはあの、例の、何かとややこしい「神様」でいらっしゃいます。そういや、マリア様の前に「あなたは神様の子を宿したよ。おめでとう」と告げに来たのもガブリエルでした。ガブリエルさんはどうもややこしいお仕事を何度もされているようです。
ムハンマドのあまりに偉大な足跡に関していちゃもんをつけると冗談抜きでアルカイダから死刑宣告されてしまいますので、それについては割愛します。
イスラム教にとって最も重要な聖地は、ムハンマドが神の啓示をうけたメッカです。しかしムハンマドは一神教教徒なわけですから、「死ぬまでに偉大な神殿があったエルサレムで死にたいなあ」と当然といえば当然で、ややっこしくなることを願います。
そして、そのエルサレムの地で天に旅立ってしまったのです。エルサレムはイスラム教にとっても「教祖様が入滅された場所」となってしまったのです。

かくして、エルサレムの地はユダヤ教徒、キリスト教徒、イスラム教徒が俺の場所だ、いいや俺の場所だと大変にややこしい場所となってしまいました。

まずですね、一神教ってのが興るんです。「世の中に神様と呼ばれるお方はおひとりだけ」という考え方です。
この一神教の神様は、ユダヤ教が呼ぶヤハウェ、キリスト教が呼ぶゴッド、イスラム教が呼ぶアッラー、全て日本語に訳せば同じ「神様」です。
この神様はモーゼさんの前にそのお姿を現したときに、「俺以外の神扱いされてるやつは全部ニセモノのまがいもののファック野郎だ!」とおっしゃいました。そこを起源にしてユダヤ教が始まりました。
ま、いろいろ経緯はありましたが、ユダヤ人一行は今のパレスチナ...続きを読む

Q「幕府」と「朝廷」の違いを教えて

中学校1年生の子供からの質問なのですが、

・「幕府」と「朝廷」の違いが分からない。
・そもそも「幕府」って何?「朝廷」って何?

と言われました。
お恥ずかしながら的確に説明できません。
教科書には説明が載ってないし、「先生に聞いてみたら?」と言うと
「先生は授業が終わるとすぐに職員室に戻ってしまうし、あまり質問しやすい先生じゃないもん!o(;△;)o 」
とのこと・・・(´_`;)

どなたか教えていただけますか?
私も勉強したいです。よろしくお願いします。<(_ _;)>

Aベストアンサー

朝廷というのは天皇を頂点とした政府のことですが、ここが日本全国を完全に支配していたのはせいぜい平安時代までで、その後紆余曲折はありますが、鎌倉時代、室町時代、戦国時代(この時代は全国を支配した政権はありません)、安土桃山時代から江戸時代まで、ほとんどは武士が支配することになります。
ただ、ややこしいのは武士が支配していた時代でも一貫して朝廷は存在していたことです。幕府の長は征夷大将軍ですが、これは形式的には天皇の部下なんですね。ただ、現実には天皇が将軍を自由に選べるということはほとんどなく、武士に言われるがままに任命していたわけですから、実権は武士の側にあったということになります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%81%E5%A4%B7%E5%A4%A7%E5%B0%86%E8%BB%8D
これを端的にお子さんに説明するのは難しいかもしれません。
ただ、今の天皇陛下も政治的な実権はまったくなくて象徴として存在しているわけなので、それとちょっと似ているというような説明は、できるかもしれませんね。(今でも首相を任命するのは天皇と決まっています。ただし天皇が首相を選ぶことはできず、国会が選んだ人を形式的に任命するだけです)

朝廷というのは天皇を頂点とした政府のことですが、ここが日本全国を完全に支配していたのはせいぜい平安時代までで、その後紆余曲折はありますが、鎌倉時代、室町時代、戦国時代(この時代は全国を支配した政権はありません)、安土桃山時代から江戸時代まで、ほとんどは武士が支配することになります。
ただ、ややこしいのは武士が支配していた時代でも一貫して朝廷は存在していたことです。幕府の長は征夷大将軍ですが、これは形式的には天皇の部下なんですね。ただ、現実には天皇が将軍を自由に選べるという...続きを読む

Q太政大臣と征夷大将軍の違い

初歩的なことですいません。太政大臣と征夷大将軍の違いがわかりません。どなたかお願いします。

Aベストアンサー

太政大臣は天皇を頂点とする朝廷(律令によった統治機構)の最高地位、
征夷大将軍は武士が朝廷より許されて開いた幕府(軍政の為の現地行政府)の長、
と考えれば分かりやすいと思います。

中国の唐では、節度使という各地へ派遣された将軍たちが軍の力を背景に、常設的な軍政府=幕府を開いていました。
日本とは異なり複数の幕府がありました。

日本へは、律令制度の導入や遣唐使などを通してこう言う軍事制度があることが伝わっていたようです。

日本では平安時代になると東北地方にしか軍事的な敵対勢力がなかったため、自然幕府は征夷大将軍府だけになっていきます(この段階では、戦争のたびに任命され解任されています)。

これが、後に「武士政権=常設的な幕府」となり、その長が征夷大将軍職を引き継ぐ流れへと続いていくわけです。

Qこの世おばわがよとぞ思う望月の 歌の解釈 

「この世おば我が世とぞ思う望月の欠けたることもなしとおもえば」

この歌はたしか学生時代(小学校か中学校で)に習いましたが、
教師に教わった解釈は 満月のようになにも欠けた所がない、栄華を極めたワタシであることよ』というような自慢っぽいものでした。

しかし、ふと思ったのですが

『月が欠けることが無ければ、この世は自分のものだと思えるのに・・・』
という意味、とれるように思うのです。
満月を見て詠んだのではなく、ほんの少し欠けはじめた月をみて詠んだのではないかと。

作者の藤原道長は源氏物語のモデルと言われている人物でしたよね。
たしか光源氏は晩年、さみいしいというか、落ちぶれていくという結末ではなかったでしょうか。

栄華のなかにあって、ふと自分で何かを予感するような、そんな歌のような気がしたんですが・・。

今の国語の解釈ではどうなっていますか?宜しく御願いします。

Aベストアンサー

わたしも数年前に授業でならった時の解釈は、
「栄華を極めてこの世はわたしの世である まさに満月にかけた所がないように」
でした。
おそらく、現在の学校でも同じ様な解釈を教えていると思います。

ただ、わたしが調べた範囲では、こんなことがわかりました。
1)藤原道長は、30代くらいから病気を繰り返している。
2)「望月の歌」も晩年の病気と病気ので詠まれている。
3)「望月の歌」は、娘の威子が天皇の夫人となった時に読まれていて、
  同年に太政大臣を辞し、その前年に摂政を辞している。
4)「望月の歌」を詠んだ翌年には、出家している。

No3のkogotokaubeweさんの情報と以上の事を踏まえて、
質問者usiodonさんの解釈を敢えて採用するようにしてみるとこんな感じになります。
○病気が多くてそれは道長の悩みだったようで、
 病気がちの道長は晩年「糖尿病」だったそうです。
 自分個人の自信は失いかけていたかも知れません。
 また、「望月の歌」の前後で、役職を辞したり、出家してますから、
 自分の人生の事後処理モードに入っていた=欠けはじめた月の状態にあったとも
 取れます。
 「望月の歌」はそんな中で読まれているので、
 そんな本心の裏返し=強がりとして、酒の酔いにまかせて
 「いままさに栄華の絶頂にある」と詠んだ可能性はあると思います。

 それでも、出家後8年ほど生きていますので、役職は辞していても外戚政治で
 まだ権勢を奮っていたかも知れません。

質問者usiodonさんの解釈には共感できる点もありましたので
ちょっと余計な事まで回答してしまいました。

参考URLは、
「藤原道長の悩み」 http://www2.ttcn.ne.jp/~kazumatsu/sub202.htm
です。

参考URL:http://www2.ttcn.ne.jp/~kazumatsu/sub202.htm

わたしも数年前に授業でならった時の解釈は、
「栄華を極めてこの世はわたしの世である まさに満月にかけた所がないように」
でした。
おそらく、現在の学校でも同じ様な解釈を教えていると思います。

ただ、わたしが調べた範囲では、こんなことがわかりました。
1)藤原道長は、30代くらいから病気を繰り返している。
2)「望月の歌」も晩年の病気と病気ので詠まれている。
3)「望月の歌」は、娘の威子が天皇の夫人となった時に読まれていて、
  同年に太政大臣を辞し、その前年に摂政を辞し...続きを読む

Q★「封建制度」を簡単に説明してください!

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封建制度とは「封」(封土=土地)を与えて家来を「建てる」と言って、つまりは
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Q旧陸奥国と旧出羽国は何故あんなに広いの?

 日本の地図を見て思ったことですが、廃藩置県前の行政区画で、現在の東北地方に当たる2国が異様なまでに広いことに気が付きました。これは何故なのでしょうか?分かる方、詳しく教えて下さい。

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時代考証を元に意見を述べます。

私はNo6の方と同じ背景にたちます、

(1)~平安時代
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公式に語られる史実は天皇を中心とした朝廷の史観で記載されていますが、
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朝廷と蝦夷(えぞ、えみし)の抗争は明らかに朝廷=侵略者、蝦夷=抵抗者
であり、西部開拓史の白人とインディアンの抗争といえば解りやすい。

平安時代までは、律令制の元で、地方管理は国郡制により朝廷が国司を
任命し管理していました。
支配権の確立していない奥州で国司を細分化して任命する必要性は無く、
段階的に支配下に置いた段階で出羽、陸奥、津軽と征服した土地を一括して
国司を任命すれば(=国の命名)事足りたと思います。

つまり、国の単位が大括りなのは、未開の地という意味ではなく。抵抗勢力
のすむ、敵地だったと言うことです。
史実の記録は、敵、従わない者は全て蔑視した言い方になりますし、征伐の
目的は奥州の豊かな、金を求めた侵略だったのかも知れません。

朝廷史観は坂上田村麻呂、源義家等の奥州征伐として史実は残ってますが、
蝦夷の側の記録は殆ど残されていません。
(研究が盛んに行われています調べるのも面白いかも)

(2)鎌倉時代~

源頼朝により奥州が政権下におかれてからは、国を細分化しそうですが、
政権の管理単位は、律令制の国郡制から守護地頭制→江戸時代の幕藩
体制→明治以降の都道府県制になり、国は管理単位ではなくなりました。
こうなれば、国を細分化する必要が無くなります。よって今に至るまで国の
は細分化は必要なくなりました。
事実、藩は弘前、津軽、南部と分かれても、だれも弘前国、津軽国、南部国
とは呼びません。国郡制ではなく藩制度だったからです。

新説の金山/馬ですが、、、、
(申し訳ない)否定するようですが、
・金は金山だけ中央政権が直轄し、地方行政官には決して委ねません
・石高を増やし国力を高めるため本当に必要だったのはむしろ牛です。
 馬は、歴史的に重要視されたのは軍事目的に尽きるのです。
   機動力なら馬、輸送力なら牛。
   馬-乗用車/新幹線、牛-トラック/貨物列車といったところ

もう遅いかな?
時代考証を元に意見を述べます。

私はNo6の方と同じ背景にたちます、

(1)~平安時代
東北地方(以下奥州)は朝廷の支配下ではなく、独立した地方政権だった。
公式に語られる史実は天皇を中心とした朝廷の史観で記載されていますが、
奥州が日本に組み入れられたのは、1189年の源頼朝による奥州征伐で、
平泉藤原氏の滅亡まで待たなくてはなりません。

朝廷と蝦夷(えぞ、えみし)の抗争は明らかに朝廷=侵略者、蝦夷=抵抗者
であり、西部開拓史の白人とインディアンの抗争と...続きを読む

Q桔梗紋について教えてください。

こんにちは。
僕の家の家紋は丸に桔梗紋ですけど、歴史書によれば桔梗紋は土岐氏の家紋とあったのですが、他の専門書を読んだら土岐氏の家紋だけど、土岐氏とは関係の無い人々まで桔梗紋を使用するようになったとありました。
僕の先祖は岐阜県の県境の地が発祥地だと解ったのですけど、祖父母が既に他界してるので先祖のルーツまでは解らないです。
それと、専門書によると坂本竜馬の先祖は土岐氏族明智流とあったのですが、インターネットで読んだら、そういう説で実際は解らないみたいな事が書いてありました。
坂本竜馬の家紋も桔梗紋みたいですが、僕の先祖は誰でしょうか?。
それと家紋に詳しい人、桔梗紋について教えてください。

Aベストアンサー

結局の所、家系図を追っていくしかないです。
問題は明治より前ですが、これは菩提寺の過去帳で調べることになるようです。
「過去帳 家系図」で検索してみると、その辺の調べ方についてヒットします。(参考URLはその中の一つ)

参考URL:http://www.kct.ne.jp/~kshimizu/searc.htm

Q奥州藤原氏の滅亡はなぜ?

なぜ奥州藤原氏は滅亡したのでしょうか?
藤原氏の武力は奥州17万騎といわれていましたが、これほどの軍勢がなぜ抵抗らしい抵抗をせずにあっさり敗れ去ったのしょうか?
後三年の役より約100年。
戦の仕方を忘れてしまった奥州藤原氏の軍は、保元・平治の乱を戦い抜いた源氏軍の敵ではなかったのでしょうか?
また、奥州藤原氏が滅び去った後の陸奥・出羽はどうなったのでしょうか?

Aベストアンサー

俗に奥州17万騎と言われる兵力は、あくまで農民の延長線上にある数で、いつでも戦える武力ではなかったと思われます。

頼朝の奥州攻めの中で、最もキーポイントとなるのは「阿津賀志の戦い」ですが、この戦いが行われのは8月8日~10日の3日間・・・この8月8日というのは、もちろん旧暦で、しかもこの年は4月に閏月があったため、この日を太陽暦に換算すると1189年9月28日となり、東北の刈り入れ時期とぴったり重なります。(もちろん頼朝の計算です)

結局、現実に動員された人数は1万~2万ほどではなかったかと言われています。
かたや、鎌倉側は24万4千騎と発表してますが、その前の源平での戦ぶりを見ると、実際には数万騎くらいではなかったか?と思います。

それでも奥州の2倍~3倍はありますが、もちろん、この米の収穫時期を狙ったのが頼朝の計算である事は藤原泰衡も承知しています。

倍以上の兵力を少ない人数で迎え撃つためには、山中のゲリラ戦か、一点集中の防御かになると思いますが泰衡は後者を選びます。

それが、阿津賀志に柵を設けての合戦です。
もし、ここでゲリラ戦に挑んでいたら勝てたかも知れませんが、それは、この後の結果を知っているから言える事で、少なくとも、この時点では、どちらをとっても一か八かの賭けのようなものだったと思います。

もちろん、泰衡も、「もし、ここが破られたら・・・」というその先の計画も考えていたでしょう。

それが、ここを破られたら、あっさりと北へ逃げる事です。
鎌倉幕府の正史である『吾妻鏡』では、この泰衡の行動を、敵に背を向ける臆病者呼ばわりしていますが、それはあくまで鎌倉側の言い分で、おそらくは、泰衡は、時間をかせいでいたのではないか?と思います。

東北の冬は、早いですから、もう少しだけでも時間を稼げば、農期は終わり、あたりに雪が降り始めますから、そうなると、例の奥州17万騎がフルに活用できる上、雪中での戦いにおいて、彼らは鎌倉武士よりはるかに有利です。

しかし、残念ながら、泰衡は、その冬が訪れる前に、信じていた家臣からの騙まし討ちで命を落します。
さすがに、これは計算できません。

いや、逆に頼朝側から見れば、この戦いを冬にまで持ち込まれてしまっては、負ける確立大ですから、それこそ、騙まし討ちであろうが何であろうが、泰衡を討ってしまう事を最優先にした可能性もアリですね。

よって、
>なぜ奥州藤原氏は滅亡したのでしょうか?
の回答としては、泰衡が家臣に殺されたから・・・と考えます。

雪の季節まで彼が生きていたら、巻き返しがあったかも知れないという期待を込めて・・・以上は、あくまで私見ですが・・・参考にしてみてください。

俗に奥州17万騎と言われる兵力は、あくまで農民の延長線上にある数で、いつでも戦える武力ではなかったと思われます。

頼朝の奥州攻めの中で、最もキーポイントとなるのは「阿津賀志の戦い」ですが、この戦いが行われのは8月8日~10日の3日間・・・この8月8日というのは、もちろん旧暦で、しかもこの年は4月に閏月があったため、この日を太陽暦に換算すると1189年9月28日となり、東北の刈り入れ時期とぴったり重なります。(もちろん頼朝の計算です)

結局、現実に動員された人数は1万~2万ほどではなかった...続きを読む


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