藤原氏の氏寺は興福寺、藤原氏の氏神を奉るのが春日神社だったと思いますが、この3者の関係って良いんでしょうか?何か対立することもあったみたいなのですが、要領を得ません。この3者がどういう関係で、対立するならば、どういうネタで対立するのか教えてください。

A 回答 (2件)

江戸時代以前は神仏混交でしたから春日神社は興福寺の管理下にありました、というか一体のものでした。


藤原氏との関係では、藤原氏といってもいろいろな系統があり、それぞれの自分の家の寺もべつにあったりして、興福寺は氏全体の寺ですから、個々の家では荘園などをめぐって対立するようなこともありました。
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春日神社は元々興福寺から独立した存在で、日本三代実録に「仏神道を異にし、忌祟避くべし。

寺の此を作るは、実に物情に乖けり。」
とあるように当初は発言力を持っていましたが院政期以降、興福寺の発展により取り込まれ鎮守社となりました。
興福寺別当(一乗院門跡・大乗院門跡)は京から送られた藤原家の人間ですから、争いの原因は藤原一族内の対立の延長上にあったのではないでしょうか。
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Q藤原氏と奥州藤原氏の関

中臣鎌足の子孫である藤原家と、義経をかくまったので有名な奥州藤原氏(三代目の藤原秀衡など)は、どういった関係なんでしょうか?

Aベストアンサー

奥州藤原氏の前身は、東北の豪族であった清原氏で、
その地盤を引き継いで基礎を固めたのが、藤原(清原)清衡です。

その清衡ですが、もともとは藤原経清の息子で、
父親の死亡後に母親が再婚して清原氏に嫁いだため、
連れ後として清原氏に入った事情があります。

後三年の役で、清原氏の内紛を制した後で、
出自のために清原氏で冷遇されていたこともあり、
元々の姓である藤原を改めて名乗りました。
「藤原」と名前がつくのはこのためです。

そして藤原本家との関係ですね。
一番の祖先である藤原経清ですが、
これは鎌足以来の藤原氏の末裔である秀郷流藤原氏の流れを汲みます。
本家からは相当はなれているので、傍系もいいところですが…。
藤原氏には傍系がたくさんあって、
その中には武家となったものもあり、
秀郷流藤原氏はその中でも比較的名門の部類に入ります。
残念ながら、そこでの経清の位置まではわかりません。

というわけで、名前が示すと通り、
奥州藤原氏と藤原本家には一応の血縁関係があります。

Q織田信長は平氏?源氏?藤原氏?橘氏?忌部氏?

『尾張の織田家は元々は藤原氏、橘氏に連なるものであり、熱田神宮とも深いつながりがあったようです。
尾張の物流を司る津島神社の宮司家に連なる者であり、津島港を押さえていたため、尾張守護の斯波氏や尾張守護代の織田本家もうかつに手を出せない立場にあったようです。

尾張における海運の発祥は、日本武尊が東国遠征から帰ったあと婚姻すると約束した美夜受比売の兄、建稲種命。
この人が尾張水軍を率いてた人で、尾張氏。
藤原氏を中心とした物部連に連なる人です。
この美夜受比売がのちに日本武尊から預かった剣こそ、通称、「草薙の剣」と呼ばれる「天叢雲剣」です。
そして、その剣を収め、祀ったのが熱田神宮です。
今でも熱田神宮の奥には「天叢雲剣」が御神体としてあるらしい。
このように熱田神宮は常に、尾張の物流の根幹を握っていたようです。」

という内容を読み聞きしたのですが、本当に織田氏は藤原氏=熱田神宮に関係する家系なのでしょうか?
(信長が平氏を名乗ったのは知っています。)

Aベストアンサー

『織田系図』・『織田家譜』では平重盛の子資盛の遺児、親真を祖とし、初めは近江国津田荘に、そして越前国丹生郡織田荘の織田剣神社の神官へ養子となり織田氏を称したとあります。
 しかし、永正15年(1518)に守護代織田達勝が円福寺に出した禁制では「藤原達勝」とあり、信長も天文18年(1549)に出した禁札に「藤原信長」と署名しています。信長が平姓を名乗ったのはご承知の通り天下統一に向けて、源氏である足利家への抵抗からでしょう。そのため、平氏の落胤に結びつけた系図を作成したというのが妥当ですね。

 ですから織田氏は、藤原氏であり越前国丹生郡織田荘を本拠としていたというのが、通説となっています。ただ信長が途中から平と氏を変えたように、「織田は藤原氏だった」というよりも、「織田は藤原氏を名乗っていた」ぐらいに見るのが妥当ではないでしょうか。昔は地方ほど無姓の者は「藤原」を名乗って、ステータスとしていた時代もあったのですから。それが大量に藤原氏の流れを汲む一族が生まれる一因となります。

 また藤原だったから攻めなかったというのも、後世の後付の域を出ない内容でしょう。今目の前にいる肉親ですら平気に争っていた時代に、そんな大昔の氏族つながりがどれほど意味があったでしょう。

「氏神というものは複数存在するものなのでしょうか」
氏神が本来の“氏の祖神、祖先を祀った神社、あるいは神”という意味ではなく、郷土の産土神や有力神を氏族の守護神としたものという意味で使われているのであれば、複数存在してもおかしくはないでしょう。それ以前に藤原氏であれば氏神社は奈良の春日神社ですが、藤原といっても鎌足や不比等の流れを汲むものではなく、ステータスとして名乗っていた藤原であれば、そほど意識はしないでしょうね。

 尾張氏(おわりうじ)は天火明命を祖神とし、本宗家は天武天皇13年(684)に姓(かばね:氏とともに朝廷より賜る称号)を連(むらじ)からより高いの宿彌(すくね)に改められます。

 熱田神宮は当初、尾張氏が奉斎していましたが、12世紀初頭からは藤原南家の熱田大宮司流が大宮司を勤めます。

『国史大辞典』吉川弘文館
『日本史諸氏諸家系図大辞典』講談社

『織田系図』・『織田家譜』では平重盛の子資盛の遺児、親真を祖とし、初めは近江国津田荘に、そして越前国丹生郡織田荘の織田剣神社の神官へ養子となり織田氏を称したとあります。
 しかし、永正15年(1518)に守護代織田達勝が円福寺に出した禁制では「藤原達勝」とあり、信長も天文18年(1549)に出した禁札に「藤原信長」と署名しています。信長が平姓を名乗ったのはご承知の通り天下統一に向けて、源氏である足利家への抵抗からでしょう。そのため、平氏の落胤に結びつけた系図を作成したというのが妥当で...続きを読む

Q藤原道長と奥州藤原氏?

はじめまして。ちょっと疑問があります。
奥州藤原氏は、東北らへんに住んでいたんですよね。でも、藤原道長は京都で摂政をしていたってことは、藤原一族は京都から東北地方まで移り住んだってことですか??徒歩で?!@@
それとも藤原道長と奥州藤原氏は親戚ではないんでしょうか,,,
教えてください。

Aベストアンサー

まず最大に注意しないといけないことは、奥州藤原氏は藤原秀郷の子孫を「自称」していたことです。
つまり、実際に藤原摂関家と血がつながっている証拠はないのです。

これは多くの武家にいえることですが、自分の家を有名な人の後裔にすることで、格式に箔をつけるのです。

戦国に至るまで多くの家系が藤原氏の出であるとなのっています。そうですね・・・後北条家の家臣だけで見てみると・・・まず成田氏(藤原道長後裔)、内藤氏(同後裔)、清水氏(不明、しかし藤原姓を名乗っていた)といった具合に、結構な数が藤原氏後裔を名乗っています。

理由は二つです。
1つ目は後裔を名乗っている家の独自改竄。
当時家系図といっても、あちこちに散逸している一族の家系図をすべてまとめてはいません。そういうわけで「自分たちのさかのぼれる先祖を、ここにくっつけてしまおう」というのが横行しました。
なお、架空の人物が家系図に入っているわけではないため、どこがどう改竄されたのかがわからないのです(そもそも改竄した家、つまり勝手に名乗っている家は、それより前の記録がない)。
2つ目は、藤原氏が売り渡したもの。藤原摂関家は没落して財政難となったのですが、そのため自分たちの戸籍を売り渡して、ばら撒いていたようです。
こちらもどう改竄されたのかはわからないのです。

奥州藤原氏は前者ですね。実際に本当の家系と認識されるのは清衡までです。それ以前は怪しい、というのが現状です。
でも、ある程度家系図がしっかりしていると、そうであると認められるのが世の常。奥州藤原氏もそうです。

なお、実際に藤原氏は日本中に散布しています。理由は律令官制の国主などのせいです。また、嫡男以外は別系列を作るしかないですから、子孫が別家系を作り、またその子孫が別家系を・・・という具合に、どんどん増えたのです。で、もちろん嫡男以外は中央からは遠ざかりますから、端のほうはどんどん遠ざかります。
その中には守、介を拝領してその地に赴いて、そこに土着した人もいました、中には罪人となり僻地に流された人もいました。中には敗戦したのちに落ち延びた人もいました。次男がそのまま土着した例も数多いです。
で、そういった人の実際の子孫か、それを利用して家系をくっつけた家が全国には大量にいるのです。奥州藤原氏もその一つです。

参考URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/奥州藤原氏

まず最大に注意しないといけないことは、奥州藤原氏は藤原秀郷の子孫を「自称」していたことです。
つまり、実際に藤原摂関家と血がつながっている証拠はないのです。

これは多くの武家にいえることですが、自分の家を有名な人の後裔にすることで、格式に箔をつけるのです。

戦国に至るまで多くの家系が藤原氏の出であるとなのっています。そうですね・・・後北条家の家臣だけで見てみると・・・まず成田氏(藤原道長後裔)、内藤氏(同後裔)、清水氏(不明、しかし藤原姓を名乗っていた)といった具合に、...続きを読む

Q奥州藤原氏討伐のときに落ち延びた藤原一族はいますか?

奥州藤原氏のことを調べ始めたばかりなのですが、
鎌倉勢が攻めてきてた時や泰衡が討たれた後、
一族はどこかへ(酒田湊以外)落ち延びていったと言うことはあるのでしょうか。

Aベストアンサー

津軽藩の藩祖・津軽為信は
奥州藤原氏の末裔と称しているので、いたかも(^-^)/

・落ち延びたのではなく、鎌倉勢に臣従し、本領安堵された
藤原一族には、
藤原秀衡の四男・本吉四郎高(隆)衡
が、います。
現在の宮城県と岩手県の県境の「本吉郡」が、その領地です。

義経の首を鎌倉に運んだ人としても、有名です。
(梶原景時が、頼朝の時のように義侠心で
助命嘆願してくれたので、
景時死後、その一族を奥州に
招いたそうです。)

・藤原秀衡の従兄弟(2代、藤原基衡の子)で、
紫波の比爪に住んだ藤原俊衡の一族は、老齢のため不戦につき、
その後、源頼朝によって宇都宮の宮司に補され、現在も、栃木県に御子孫が在住である

Qなぜ,藤原氏は「藤原」「の」「道長」と,「の」がつくのでしょうか。

なぜ,藤原氏は「藤原」「の」「道長」と,「の」がつくのでしょうか。
徳川氏は「徳川」「家康」と「の」がつきません。
その違いは何でしょう。

Aベストアンサー

「藤原」が本姓だからです。源平藤橘と言う言葉を聞いたことありませんか?
源、平、藤原、橘、皆天皇からいただいた姓なのです。
それ以外に苗字があり、これが織田や羽柴、徳川なのです。
ですから、徳川家康も持っており源になります。(途中で改姓したので)本姓で言えば「源(の)家康」と言うことになります。
豊臣秀吉も豊臣は本姓ですから正式には「とよとみ の ひでよし」と読みます。
秀吉の苗字は羽柴ですから俗称は羽柴秀吉ですね。このときは間に「の」は入れません。
本姓は明治3年の平民苗字許可令と明治8年の平民苗字必称義務令により日本人全員が苗字を持つことになり廃止されました。
それ以前の江戸時代までは苗字を持っているは武士階級や名主などの一部平民だけで、一般平民は苗字を持っていませんでした。


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