実際に今みたいに舗装もされていない真冬の北アルプスを、当時の防寒具でしかも歩きで長距離横断したという話はとても信じられないのですが、これってやはり本当の話なのでしょうか?そのルートにもいくつかの説があるみたいですが、これらについてもう少し詳しく知りたいのですが、どなたかご存知の方やサイトを知っていたら是非教えて下さい。お願いします。

成政の埋蔵金伝説もあるみたいですが、こちらも知っている情報があったら教えて下さい。

A 回答 (2件)

これは歴史的に証明されている事実です。



佐々成政一行は予想以上の危険と苦難の連続で、激しい疲労のため幻覚幻影にも襲われた。四百年前の平家残党の豪傑・悪七兵衛景清らが現れたという。激烈な雪崩が山谷を震動させて一行を脅かした。犠牲者も出たが、とにかく立山越え、いわゆる"ザラザラ越え"を断行して家康の浜松城に到着した(単なる伝説でなく、家康側の史料「家忠日記」の天正十二年十二月二十五日の項に明記された史実だ)。近年発見された「武功夜話」には、成政一行熊の毛皮で身を包み、四尺の野太刀を帯び、らんらんと目を光らせていたと、一行の荒々しい息遣いが迫るように記述されています。

さて、そのルートであるが、
1584年戦国の武将佐々成政は、芦峅寺の中語(ちゅうご:山岳ガイド)を先導に家臣18人と厳冬の北アルプスを横断した(*1)。現代においてさえ容易に人を寄せ付けない厳冬の北アルプス、この時代のことを考えれば日本山岳史上に残る出来事と言えるだろう。この「さらさら越え」のルートであるが、資料も少なく正確な道筋は不明であるが、一般には

常願寺川--->立山温泉--->ザラ峠--->中ノ谷--->刈安峠--->黒部川の平
--->針ノ木谷--->針ノ木峠--->籠川谷

と言われている(もう1つのルートは*2)。
ザラ峠は、五色ヶ原から北へ30分ほど行ったところ、この地に立ち戦国の武将の生涯に思い馳せては如何でしょうか。

(*1)織田信長没後、勢力を伸ばしてきた羽柴秀吉に対して、成政は信長の次男信雄を推して織田家再興をはかるべしと遠州浜松の家康に会って進言しようとする。しかし、西に前田家、東に上杉家、南は秀吉の勢力範囲とすべて敵の領地。そこで考えたのが厳冬の立山連峰を越えて信州に出るという無謀とも思える北アルプス横断であった。

(*2)その他の説として、針ノ木谷から北葛乗越を越え北葛沢へ出るルート、七倉乗越を越え七倉沢に出るルートがある。

佐々成政の「さらさら越え」ルートは戦国の昔から忍びの道として使われ、江戸時代にも信濃の人々は立山参りの裏参道としてひそかに利用していたという。
この信濃野口村(現在の大町市)と越中富山を結ぶ山道は、明治8年に道幅約3m、道程90キロ、小屋や牛小屋を建て荷牛が通れるスーパー山道「越信新道」に仕上げられ、越中から塩や魚、薬などの物資を運ぶ山岳産業道路となった。有料道路としてその収益で道の維持を図ったが(*3)、冬期の崩壊破損が激しく、越信新道は明治15年に廃道となった(*4)。

(*3)料金は立山温泉で徴収したという。また黒部側の平の小屋は昔「どうせん小屋」とよばれていたことから、銅銭、或いは道銭の意味で、ここでも料金を徴収していたものと思われる。

(*4)常願寺川から立山温泉、ザラ峠への登山道は古くからよく通られた道であったが、現在では廃道となっている。針ノ木谷から針ノ木峠への道も今では歩く人も少ない。針ノ木谷二股に「牛小屋跡」が地図に記載されているが、今はその跡形も無くなっていると記されています。

埋蔵金伝説に関して。

【「朝日さす夕日かがやく鍬崎に 七つむすび七むすび黄金一ぱい光かがやく」

この歌は、富山県に伝わる鍬崎山についての里歌だそうです。
 佐々成政はおびただしい軍用金を立山の山中に埋蔵した、と言われています。越中の伝説では、成政がさらさら越えをしたとき、途中、長く苦しい旅の妨げになるものを雪の中に埋めさせ、その中には、軍用金もあったとされています。そして、今の「内蔵介平」がそれらを埋めた場所であるとされています。
 しかし、この里歌にもあるように、鍬崎山に埋蔵金があるとも考えられています。他にも、針の木峠付近説や九州説もありますが、様々な文献から考えてやはり鍬崎山が有力ではないかと言われています。
 ところで話変わって、富山県大山町では、毎年、この埋蔵金伝説にちなんだお祭りを開催しています。遊園地の中の緩やかな山地を使って、埋蔵金探しをやるのです。もちろん、本当の埋蔵金を探すのではなく、あらかじめ紙で作られた小判を土半分くらい埋め、それを探すのです。小判を見つけると、それは地元の商店街で使用できる商品券やおかし、金一封などに変わります。ただ、探すのも楽ではないです。なんせ夏の暑い盛り、しかも丘陵ですから。だけど、とても楽しいお祭りです。地元の方に、佐々成政についての話を伺うこともできました。それに、こうすることによって、佐々成政という一人の人間が語り継がれていくことは、とても良いことだと思います。】と書かれています。

また、別の記述では、
【金色に輝く馬印・旗指物は、成政が莫大な黄金を所有していたことを裏付け、後世これが埋蔵金伝説を生み出した。隠し場所は鍬崎山とも内蔵助平とも早月谷とも針木峠ともいわれる。埋蔵金は多分事実ではないと思われるが、多くの人の夢をかき立てた。成政の支配した越中新川郡には松倉金山・亀谷銀山はじめ「七かね山」があって、これが成政の資金源だったのだろうという。】と記されています。
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この回答へのお礼

自分でも調べてみましたがやはり本当の話みたいですね。さすがに佐々成政ですね!!スゴイ!!参考になりました。ありがとうございました。

お礼日時:2006/07/21 19:11

こちらのサイトは参考になりませんか。



 ◎佐々成政関連リンク
  http://www.ccis-toyama.or.jp/toyama/kachi/narima …

参考URL:http://www.ccis-toyama.or.jp/toyama/kachi/narima …
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2006/07/21 19:08

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戦国大名佐々成政とはどのような武将だったのでしょうか。

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先賢の寄せられたサイトを読まれれば、佐々内蔵助(佐)成政はお分かりになるでしょう。   ここでは洩れている所を少し補足します。
1.墨俣(すのまた)築城  城とはいえ砦で秀吉の墨俣一夜城が有名だが、近年の発掘調査によるとこれはつくり話である。  困難な砦作りを最初に手がけたのは成政で、その後諸将が補強し、最後に美濃総攻撃のため立派にしたのが秀吉らしい。  多くの木材を集めた腕は評価されるが、功績を最後にさらったようである。
2.サイトにもある髑髏の杯で信長に苦言を呈した正義派であるが、越中攻めでもあった。
守護の信長の義弟神保長住の与力として、越中に赴き半分を平定した。  その後武田勝頼との長篠合戦で、鉄砲奉行として活躍したがその留守を狙い、越中国人衆が蜂起して富山城を占拠して長住を幽閉した。   これには信長の配下になるのを嫌った多くの長住の家臣もいた。 ところが待っていたように、柴田、前田、佐久間らの軍勢が出動して、城を奪い返し皆殺しにした。  無謀な一揆には理由があった。  その前に長篠で信長が大敗して逃げ帰り、勝頼が近く越中に応援に来るとの噂が流れた。  これは反信長衆の一掃に信長が流させたという。  まあ騙し討ちである。  信長は義弟の長住を見限り、成政を国主にした。   帰ってこれを知った成政は騙し討ちを怒り、勝家と激しい口論をし、利家がとりなしてやっと納まったという。
成政の律義と利家のうまさが判ります。   勝家は間かな。
3.有名な治水については、治世わずか5年、しかも戦の合間によくやったものと感心します。   領民を深く愛していたことがわかります。         

先賢の寄せられたサイトを読まれれば、佐々内蔵助(佐)成政はお分かりになるでしょう。   ここでは洩れている所を少し補足します。
1.墨俣(すのまた)築城  城とはいえ砦で秀吉の墨俣一夜城が有名だが、近年の発掘調査によるとこれはつくり話である。  困難な砦作りを最初に手がけたのは成政で、その後諸将が補強し、最後に美濃総攻撃のため立派にしたのが秀吉らしい。  多くの木材を集めた腕は評価されるが、功績を最後にさらったようである。
2.サイトにもある髑髏の杯で信長に苦言を呈した正...続きを読む

Qさらさら越えは?

佐々成政の「さらさら越え」の疑問です。

1・「さらさら越え」の「さらさら」の語源は何なのでしょうか?
2・そもそも史実なのでしょうか?11月の北アルプスに当時の装備で行軍することは可能なのでしょうか?しかも成政は49歳でした。登山家でも難しいのでは?
3・史実であるとすればルートなどは解明されているのでしょうか?

Aベストアンサー

1.立山では「左良左良(ざらざら)峠」と云っていました。  一般には「さらさら(更更または沙羅沙羅)峠」ですが「ざら峠」、「砂良砂良(さらさらともざらざらとも読む)峠」など云います。    語源は不明です。
2.信頼できる資料は極めて少なく、疑う人もいますが、天正12年冬成政が家康に会いに行ったのは事実で、何時前田利家に攻め込まれるか分からぬ時、邪魔されず速やかにしかも秘密に行けるコースとしては、北アルプス越えがもっとも妥当と考えられます。
成政はこのため十分な準備をしています。   前年にはルートの前進基地の立山権現に450俵の土地を寄進して、立山芦くら寺の雪山を闊歩する修験者、山人達を懐柔し、さらさら越えには道案内をしてもらいました。
彼らに倣いカモシカの毛皮をまとうなど厳冬期の服装をすれば、行軍は無理とは思えません。
また樹木の年輪の調査によると戦国時代は、日本は暖冬期であったそうです。
3.コースとしては有力な6案があるそうですが、その中でよく云われている
立山ーさらさら峠ー中の瀬平ー針の木谷ー針の木峠ー野口村  より
         中の瀬平ー針の木谷ー北葛岳ー鳩峰ー野口村  の方が実地踏査した人は支持しているようです。
「太閤記」の「山の峰に攀じ登り南を見れば、山下に里ありとおぼしくて、柴おりけぶる煙にたたえたり。」との記述にも合います。

1.立山では「左良左良(ざらざら)峠」と云っていました。  一般には「さらさら(更更または沙羅沙羅)峠」ですが「ざら峠」、「砂良砂良(さらさらともざらざらとも読む)峠」など云います。    語源は不明です。
2.信頼できる資料は極めて少なく、疑う人もいますが、天正12年冬成政が家康に会いに行ったのは事実で、何時前田利家に攻め込まれるか分からぬ時、邪魔されず速やかにしかも秘密に行けるコースとしては、北アルプス越えがもっとも妥当と考えられます。
成政はこのため十分な準備をして...続きを読む

Q佐々成政 「さらさら越え」について

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成政の埋蔵金伝説もあるみたいですが、こちらも知っている情報があったら教えて下さい。

Aベストアンサー

これは歴史的に証明されている事実です。

佐々成政一行は予想以上の危険と苦難の連続で、激しい疲労のため幻覚幻影にも襲われた。四百年前の平家残党の豪傑・悪七兵衛景清らが現れたという。激烈な雪崩が山谷を震動させて一行を脅かした。犠牲者も出たが、とにかく立山越え、いわゆる"ザラザラ越え"を断行して家康の浜松城に到着した(単なる伝説でなく、家康側の史料「家忠日記」の天正十二年十二月二十五日の項に明記された史実だ)。近年発見された「武功夜話」には、成政一行熊の毛皮で身を包み、四尺の野太刀を帯び、らんらんと目を光らせていたと、一行の荒々しい息遣いが迫るように記述されています。

さて、そのルートであるが、
1584年戦国の武将佐々成政は、芦峅寺の中語(ちゅうご:山岳ガイド)を先導に家臣18人と厳冬の北アルプスを横断した(*1)。現代においてさえ容易に人を寄せ付けない厳冬の北アルプス、この時代のことを考えれば日本山岳史上に残る出来事と言えるだろう。この「さらさら越え」のルートであるが、資料も少なく正確な道筋は不明であるが、一般には

常願寺川--->立山温泉--->ザラ峠--->中ノ谷--->刈安峠--->黒部川の平
--->針ノ木谷--->針ノ木峠--->籠川谷

と言われている(もう1つのルートは*2)。
ザラ峠は、五色ヶ原から北へ30分ほど行ったところ、この地に立ち戦国の武将の生涯に思い馳せては如何でしょうか。

(*1)織田信長没後、勢力を伸ばしてきた羽柴秀吉に対して、成政は信長の次男信雄を推して織田家再興をはかるべしと遠州浜松の家康に会って進言しようとする。しかし、西に前田家、東に上杉家、南は秀吉の勢力範囲とすべて敵の領地。そこで考えたのが厳冬の立山連峰を越えて信州に出るという無謀とも思える北アルプス横断であった。

(*2)その他の説として、針ノ木谷から北葛乗越を越え北葛沢へ出るルート、七倉乗越を越え七倉沢に出るルートがある。

佐々成政の「さらさら越え」ルートは戦国の昔から忍びの道として使われ、江戸時代にも信濃の人々は立山参りの裏参道としてひそかに利用していたという。
この信濃野口村(現在の大町市)と越中富山を結ぶ山道は、明治8年に道幅約3m、道程90キロ、小屋や牛小屋を建て荷牛が通れるスーパー山道「越信新道」に仕上げられ、越中から塩や魚、薬などの物資を運ぶ山岳産業道路となった。有料道路としてその収益で道の維持を図ったが(*3)、冬期の崩壊破損が激しく、越信新道は明治15年に廃道となった(*4)。

(*3)料金は立山温泉で徴収したという。また黒部側の平の小屋は昔「どうせん小屋」とよばれていたことから、銅銭、或いは道銭の意味で、ここでも料金を徴収していたものと思われる。

(*4)常願寺川から立山温泉、ザラ峠への登山道は古くからよく通られた道であったが、現在では廃道となっている。針ノ木谷から針ノ木峠への道も今では歩く人も少ない。針ノ木谷二股に「牛小屋跡」が地図に記載されているが、今はその跡形も無くなっていると記されています。

埋蔵金伝説に関して。

【「朝日さす夕日かがやく鍬崎に 七つむすび七むすび黄金一ぱい光かがやく」

この歌は、富山県に伝わる鍬崎山についての里歌だそうです。
 佐々成政はおびただしい軍用金を立山の山中に埋蔵した、と言われています。越中の伝説では、成政がさらさら越えをしたとき、途中、長く苦しい旅の妨げになるものを雪の中に埋めさせ、その中には、軍用金もあったとされています。そして、今の「内蔵介平」がそれらを埋めた場所であるとされています。
 しかし、この里歌にもあるように、鍬崎山に埋蔵金があるとも考えられています。他にも、針の木峠付近説や九州説もありますが、様々な文献から考えてやはり鍬崎山が有力ではないかと言われています。
 ところで話変わって、富山県大山町では、毎年、この埋蔵金伝説にちなんだお祭りを開催しています。遊園地の中の緩やかな山地を使って、埋蔵金探しをやるのです。もちろん、本当の埋蔵金を探すのではなく、あらかじめ紙で作られた小判を土半分くらい埋め、それを探すのです。小判を見つけると、それは地元の商店街で使用できる商品券やおかし、金一封などに変わります。ただ、探すのも楽ではないです。なんせ夏の暑い盛り、しかも丘陵ですから。だけど、とても楽しいお祭りです。地元の方に、佐々成政についての話を伺うこともできました。それに、こうすることによって、佐々成政という一人の人間が語り継がれていくことは、とても良いことだと思います。】と書かれています。

また、別の記述では、
【金色に輝く馬印・旗指物は、成政が莫大な黄金を所有していたことを裏付け、後世これが埋蔵金伝説を生み出した。隠し場所は鍬崎山とも内蔵助平とも早月谷とも針木峠ともいわれる。埋蔵金は多分事実ではないと思われるが、多くの人の夢をかき立てた。成政の支配した越中新川郡には松倉金山・亀谷銀山はじめ「七かね山」があって、これが成政の資金源だったのだろうという。】と記されています。

これは歴史的に証明されている事実です。

佐々成政一行は予想以上の危険と苦難の連続で、激しい疲労のため幻覚幻影にも襲われた。四百年前の平家残党の豪傑・悪七兵衛景清らが現れたという。激烈な雪崩が山谷を震動させて一行を脅かした。犠牲者も出たが、とにかく立山越え、いわゆる"ザラザラ越え"を断行して家康の浜松城に到着した(単なる伝説でなく、家康側の史料「家忠日記」の天正十二年十二月二十五日の項に明記された史実だ)。近年発見された「武功夜話」には、成政一行熊の毛皮で身を包み、四尺の野...続きを読む

Q当時の戦闘機 戦艦をみれるところ。 当時を知るなら靖国神社ですか?

第二次世界大戦の時代の、戦闘機を当時のままみれる場所はありますか?レプリカなどがあるのはインターネットでみかけました。でもピカピカでどでかいおもちゃのようで、なんだか求めてるものとは違いました。とうじのまま、というか、本当に戦闘してきたというのが残っている戦闘機を保存している博物館みたいなところはないのでしょうか?戦艦なども。。。

あと、特攻隊や当時の歴史に関するものをみたいです。どこかいいところはありませんか?やはり靖国神社でしょうか?教えてください

Aベストアンサー

国内に限りモノの大小問わず、であるならば
http://homepage3.nifty.com/ki43/index.html
が網羅的です。

 なお、飛行機については結構残っています。
 これは大体埋まってたり沈んでいた奴を発掘して足りない部品を補う形で当時の姿に近付けています(レストアといいます)。
 逆に様々な趣旨からそれをしていない展示もありますし、部品だけ、なんてところも多い。
 どちらにせよ「当時のまま」というのは難しい状態です。前者は展示用にピカピカですし、後者は”使用後”の姿ですからね。

 船に関しては戦艦はおろか、小艦艇の類ですら現在は残っていません。
#ついこの前まで1隻残っていましたが、貧乏な行政が解体してしまいました
 国内の船でWW2に絡んだのは横浜に繋留されている「氷川丸」(病院船)、船の科学館に展示されている「宗谷」(特務艦として輸送・観測などに従事)ぐらいでしょうか。

 もっとも、海外に目を向ければ、戦艦・潜水艦などは記念に保存されているモノもありますし、当時から保存されていた機体やレストアした機体を(趣味で)飛ばしている団体もあります。

国内に限りモノの大小問わず、であるならば
http://homepage3.nifty.com/ki43/index.html
が網羅的です。

 なお、飛行機については結構残っています。
 これは大体埋まってたり沈んでいた奴を発掘して足りない部品を補う形で当時の姿に近付けています(レストアといいます)。
 逆に様々な趣旨からそれをしていない展示もありますし、部品だけ、なんてところも多い。
 どちらにせよ「当時のまま」というのは難しい状態です。前者は展示用にピカピカですし、後者は”使用後”の姿ですからね。

 船に...続きを読む

Q旧華族の子孫と使用人の子孫、旧大名の子孫と家来の子孫の様に、今も主従関

旧華族の子孫と使用人の子孫、旧大名の子孫と家来の子孫の様に、今も主従関係が続いているケースはありますか?(例=会社社長と社員、主人と使用人など)ご回答よろしくお願い致します。

Aベストアンサー

>今も主従関係が続いているケースはありますか

ありますよ。
旧華族については、不明ですが・・・。

愛知県犬山市にある「犬山城」は、旧名古屋藩付け家老である成瀬家が2004年まで個人所有していました。
現在は、財団法人犬山城白帝文庫(理事長は、成瀬家子孫)に所有権を移転しています。
昔、ここの職員に旧家臣の子孫がいると聞いた事がありますね。

他にも、旧藩主が持っていた古文書・美術品などを保存管理している「○○家公益会」「○○家美術館」などに、旧主従関係が続いている事があるようです。

幕府旗本家臣団の子孫の集まりである「柳営会」は、今でも徳川宗家と交流を続けています。

Qオーストリアとイタリアにまたがるアルプス東部地方って?

オーストリアとイタリアにまたがるアルプス東部地方を、なんと呼ぶのでしょうか。いろんな方法で調べてみましたが分かりません。どうぞよろしくお願いします。

Aベストアンサー

チロル地方?

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%AD%E3%83%AB

Qよく〇〇の子孫という有名人がいますが

身近なところでは スケートの織田某は織田信長の子孫といいますがそうでしょうか?
信長の子孫ということは直系ということですよね?しかし信長の直系の子孫は孫の三法師(長男信忠の子 のちの秀信)で途絶えたはずです あくまで男系の子孫でですが…

確かに信包や有楽斎の子孫はちゃんと今も存在していますし…
ということは 織田某 君の先祖は信長でも 兄弟の誰かでもなくなりますよね

さらに プロ野球 現巨人の真田祐貴投手は あの真田幸村の子孫といいますがこれも違いますよね?
幸村の子孫は息子の大助(幸昌)で途絶えたはずです  多分兄信幸の子孫です ならなぜ真田信幸の子孫 といわないのか?信幸がマイナーだから?

教えて下さい

Aベストアンサー

とりあえず、織田の方から
織田信長 - 初代:信高(七男) - 2代:高重 - 3代:一之 - 4代:信門 = 5代:信倉(養子) = 6代:信直(養子) - 7代:長孺 - 8代:長裕 - 9代:信真 - (10代から13代は不明)- 14代:重治 - 15代:信義 - 信成(次男)
織田信長の七男・信高の系統は、徳川幕府の旗本となり、後に高家旗本になった。近江国内で2,000石余りを領有し、9代・信真で維新を迎えている。フィギュアスケート選手の織田信成は、現15代当主・信義の次男である。
Wiki...で調べるとこうなっていました。間に養子があるということですが、血の繋がった女の子に婿をとったのなら、織田信長の血がつながっていますが、他家から養子を迎え、それに嫁をとったのなら、血はつながっていないということですね。

Q【歴史・日本史】なぜアメリカのペリー提督は日本の静岡県下田市に初上陸したのでしょうか? 当時の静岡

【歴史・日本史】なぜアメリカのペリー提督は日本の静岡県下田市に初上陸したのでしょうか?

当時の静岡県下田は何があったのでしょうか?

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Aベストアンサー

歴史を勝手に変えてはいけません。 ペリーは浦賀沖に来航し、初所陸したのは久里浜です。 下田は日米和親条約によって箱館とともに開港された港です。 ペリーが浦賀沖に来航したのは、浦賀が江戸に近い東京湾の入口だったこと、幕府にフィルモア大統領の親書を手渡すために久里浜に上陸したのは、久里浜が浦賀の隣で上陸しやすい入り江だったからです。

Q有名人の娘の子孫の方は「我は誰々という有名人の子孫なり」といわないのでしょうか

あるとき、公家の子孫が会話の話題になったとき、私は近衛文麿を母方の祖父に持つ細川護煕の名を上げた時に、その会話に入っていた人間の一人が、「ああ、ガラシャの子孫ね。」と言ったので、私は「そうか、明智光秀の子孫でもあるんだな。」と言って会話に花を咲かせていたのですが、考えてみると、「我は織田信長の子孫、織田信成なり。」と言うように、よく耳にするのは有名人の息子の子孫が誰々の子孫と言うものばかりです。

通常、有名人の娘の子孫は誰々の子孫とは言わないのでしょうか。

例を挙げると、宇喜多秀家と豪姫の子孫の方が「我は備前宰相宇喜多秀家の子孫なり。」とは言っても、「我は加賀宰相前田利家の子孫なり。」とは言わないのでしょうか。

Aベストアンサー

日本に限らず、たいていの社会は「父系社会」です。

即ち、歴史のある家系であれば、父、祖父、曽祖父、高祖父…と家系を「父系」で辿っていけるわけですが、母系は「父の妻はAの娘」「祖父の妻はBの娘」程度しか分からず、それ以上に母系を辿れないのが普通です。即ち、母系では一代しか先祖を辿れないのが普通、ということです。

大名家のように、相互の家系がはっきり分かっている場合は別ですが。この場合、「父の妻はA伯爵の娘。A伯爵の家系は・・・」と、
「母系を、妻の父の父系で辿る」ことになります。
やっぱり「先祖は父系で辿る」ことになるわけです。

質問文の

「近衛文麿を母方の祖父に持つ細川護煕の名を上げた時に、その会話に入っていた人間の一人が、「ああ、ガラシャの子孫ね。」と言ったので、私は「そうか、明智光秀の子孫でもあるんだな。」と言って会話に花を咲かせていた」

という話も、結局は
「細川護煕は、熊本藩54万石の細川家の現当主である」
「細川護煕の先祖を辿ると、細川忠興・明智玉(通称;細川ガラシヤ)夫妻に行き着く」
と、「細川護煕氏の『父系の先祖』の話」をしているに過ぎないわけです。
(※ 大名家は江戸時代の途中で養子が入って血が途絶えていることが多いのですが、細川家は忠興・玉の血筋が分家を経由しながらも絶えずに明治を迎えているようです)
http://www.asahi-net.or.jp/~ME4K-SKRI/han/kyushu/kumamoto.html
を参照して下さい。

明智玉は、明智光秀とその正室の間に生まれたのは間違いないようですが、光秀の正室の出自が良く分からないので、母系をそれ以上辿ることは出来ません。

私の家は某藩の上士の家系でして、江戸時代初期まで先祖を辿ることが出来ます。ただし、母方の先祖は、大正以降に嫁いで来た人の実家のことが分かる程度で、それ以前は系図に「妻は**氏」と書いてあるだけです。

私の祖母は1899年生まれで2000年に亡くなったのですが、祖母の生家との付き合いは、祖母の死をもって終わっています。世の中はだいたいそんなものではないでしょうか?

日本に限らず、たいていの社会は「父系社会」です。

即ち、歴史のある家系であれば、父、祖父、曽祖父、高祖父…と家系を「父系」で辿っていけるわけですが、母系は「父の妻はAの娘」「祖父の妻はBの娘」程度しか分からず、それ以上に母系を辿れないのが普通です。即ち、母系では一代しか先祖を辿れないのが普通、ということです。

大名家のように、相互の家系がはっきり分かっている場合は別ですが。この場合、「父の妻はA伯爵の娘。A伯爵の家系は・・・」と、
「母系を、妻の父の父系で辿る」ことにな...続きを読む

Q当時の朝鮮

私は今、朝鮮について調べているのですが、特に日清戦争当時の(1893年~1894年ごろ)様子を調べています。そのころは甲午農民戦争(東学の乱)というものがあってたらしいんですが、調べても甲午農民戦争のことしか出てきません。甲午農民戦争以外に何か出来事はなかったのでしょうか?よろしければ、知ってることを教えてください。

Aベストアンサー

高宗、興宣大院君、閔妃の時代ですね。
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