実際に今みたいに舗装もされていない真冬の北アルプスを、当時の防寒具でしかも歩きで長距離横断したという話はとても信じられないのですが、これってやはり本当の話なのでしょうか?そのルートにもいくつかの説があるみたいですが、これらについてもう少し詳しく知りたいのですが、どなたかご存知の方やサイトを知っていたら是非教えて下さい。お願いします。

成政の埋蔵金伝説もあるみたいですが、こちらも知っている情報があったら教えて下さい。

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A 回答 (2件)

これは歴史的に証明されている事実です。



佐々成政一行は予想以上の危険と苦難の連続で、激しい疲労のため幻覚幻影にも襲われた。四百年前の平家残党の豪傑・悪七兵衛景清らが現れたという。激烈な雪崩が山谷を震動させて一行を脅かした。犠牲者も出たが、とにかく立山越え、いわゆる"ザラザラ越え"を断行して家康の浜松城に到着した(単なる伝説でなく、家康側の史料「家忠日記」の天正十二年十二月二十五日の項に明記された史実だ)。近年発見された「武功夜話」には、成政一行熊の毛皮で身を包み、四尺の野太刀を帯び、らんらんと目を光らせていたと、一行の荒々しい息遣いが迫るように記述されています。

さて、そのルートであるが、
1584年戦国の武将佐々成政は、芦峅寺の中語(ちゅうご:山岳ガイド)を先導に家臣18人と厳冬の北アルプスを横断した(*1)。現代においてさえ容易に人を寄せ付けない厳冬の北アルプス、この時代のことを考えれば日本山岳史上に残る出来事と言えるだろう。この「さらさら越え」のルートであるが、資料も少なく正確な道筋は不明であるが、一般には

常願寺川--->立山温泉--->ザラ峠--->中ノ谷--->刈安峠--->黒部川の平
--->針ノ木谷--->針ノ木峠--->籠川谷

と言われている(もう1つのルートは*2)。
ザラ峠は、五色ヶ原から北へ30分ほど行ったところ、この地に立ち戦国の武将の生涯に思い馳せては如何でしょうか。

(*1)織田信長没後、勢力を伸ばしてきた羽柴秀吉に対して、成政は信長の次男信雄を推して織田家再興をはかるべしと遠州浜松の家康に会って進言しようとする。しかし、西に前田家、東に上杉家、南は秀吉の勢力範囲とすべて敵の領地。そこで考えたのが厳冬の立山連峰を越えて信州に出るという無謀とも思える北アルプス横断であった。

(*2)その他の説として、針ノ木谷から北葛乗越を越え北葛沢へ出るルート、七倉乗越を越え七倉沢に出るルートがある。

佐々成政の「さらさら越え」ルートは戦国の昔から忍びの道として使われ、江戸時代にも信濃の人々は立山参りの裏参道としてひそかに利用していたという。
この信濃野口村(現在の大町市)と越中富山を結ぶ山道は、明治8年に道幅約3m、道程90キロ、小屋や牛小屋を建て荷牛が通れるスーパー山道「越信新道」に仕上げられ、越中から塩や魚、薬などの物資を運ぶ山岳産業道路となった。有料道路としてその収益で道の維持を図ったが(*3)、冬期の崩壊破損が激しく、越信新道は明治15年に廃道となった(*4)。

(*3)料金は立山温泉で徴収したという。また黒部側の平の小屋は昔「どうせん小屋」とよばれていたことから、銅銭、或いは道銭の意味で、ここでも料金を徴収していたものと思われる。

(*4)常願寺川から立山温泉、ザラ峠への登山道は古くからよく通られた道であったが、現在では廃道となっている。針ノ木谷から針ノ木峠への道も今では歩く人も少ない。針ノ木谷二股に「牛小屋跡」が地図に記載されているが、今はその跡形も無くなっていると記されています。

埋蔵金伝説に関して。

【「朝日さす夕日かがやく鍬崎に 七つむすび七むすび黄金一ぱい光かがやく」

この歌は、富山県に伝わる鍬崎山についての里歌だそうです。
 佐々成政はおびただしい軍用金を立山の山中に埋蔵した、と言われています。越中の伝説では、成政がさらさら越えをしたとき、途中、長く苦しい旅の妨げになるものを雪の中に埋めさせ、その中には、軍用金もあったとされています。そして、今の「内蔵介平」がそれらを埋めた場所であるとされています。
 しかし、この里歌にもあるように、鍬崎山に埋蔵金があるとも考えられています。他にも、針の木峠付近説や九州説もありますが、様々な文献から考えてやはり鍬崎山が有力ではないかと言われています。
 ところで話変わって、富山県大山町では、毎年、この埋蔵金伝説にちなんだお祭りを開催しています。遊園地の中の緩やかな山地を使って、埋蔵金探しをやるのです。もちろん、本当の埋蔵金を探すのではなく、あらかじめ紙で作られた小判を土半分くらい埋め、それを探すのです。小判を見つけると、それは地元の商店街で使用できる商品券やおかし、金一封などに変わります。ただ、探すのも楽ではないです。なんせ夏の暑い盛り、しかも丘陵ですから。だけど、とても楽しいお祭りです。地元の方に、佐々成政についての話を伺うこともできました。それに、こうすることによって、佐々成政という一人の人間が語り継がれていくことは、とても良いことだと思います。】と書かれています。

また、別の記述では、
【金色に輝く馬印・旗指物は、成政が莫大な黄金を所有していたことを裏付け、後世これが埋蔵金伝説を生み出した。隠し場所は鍬崎山とも内蔵助平とも早月谷とも針木峠ともいわれる。埋蔵金は多分事実ではないと思われるが、多くの人の夢をかき立てた。成政の支配した越中新川郡には松倉金山・亀谷銀山はじめ「七かね山」があって、これが成政の資金源だったのだろうという。】と記されています。
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この回答へのお礼

自分でも調べてみましたがやはり本当の話みたいですね。さすがに佐々成政ですね!!スゴイ!!参考になりました。ありがとうございました。

お礼日時:2006/07/21 19:11

こちらのサイトは参考になりませんか。



 ◎佐々成政関連リンク
  http://www.ccis-toyama.or.jp/toyama/kachi/narima …

参考URL:http://www.ccis-toyama.or.jp/toyama/kachi/narima …
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2006/07/21 19:08

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Q剣岳登山は本当に難しいものなのでしょうか?

剣岳登山は本当に難しいものなのでしょうか?

剣岳点の記を昨日、テレビ映画で見ました。
私は約10年前に厳冬期(12月下旬)に仲間と剣岳登山をしたことがあります。丁度本格的登山を夏から始め、初めての雪山でした。
映画に出てくる長治郎谷ルートで全く難なく成功しました。お天気に恵まれ、雪崩もなく、雪庇も踏み外すこともありませんでした。

ルートは扇沢 黒部ダム 内蔵助平 真砂沢 長治郎谷 剣岳頂上 早月小屋 早月尾根 馬場島
でテントは真砂沢、早月小屋の横の2泊3日でした。
映画の当時の剣岳登山はあんなに困難を極めていたのでしょうか?行者も登っていたと映画で出てましたし。ただ単に天候に恵まれなかっただけなんじゃないでしょうか?

また、このルートは見た目は迫力あるのですが登りの長治郎と頂上までの最後の岩場も難なく上れました。不安を感じたのは頂上直下の岩場だけ位でした。

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私だけが初心者でした。夏は登山をしたことがありません。

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映画に出てくる長治郎谷ルートで全く難なく成功しました。お天気に恵まれ、雪崩もなく、雪庇も踏み外すこともありませんでした。

ルートは扇沢 黒部ダム 内蔵助平 真砂沢 長治郎谷 剣岳頂上 早月小屋 早月尾根 馬場島
でテントは真砂沢、早月小屋の横の2泊3日でした。
映画の当...続きを読む

Aベストアンサー

>長治郎谷ルートで全く難なく成功しました。
ルートがなかったんです。
そのルートは、先人が「登りやすい路はどこにあるのか」を経験を重ねて見つけ出し、整備しているものです(整備というと木道や階段などを想像しがちですが、北アルプスにおいてはそれと限りません。)
もちろん、扇沢までも路などはありませんから、そこまで行くのさえ苦労したはずです。
(というか、当時は黒部ダムはありませんから富山側から立山経由で行くしかなかったはずです)

装備も、非常に簡素であったでしょうし、食料も重かったのではないかと思います。
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現代の登山は、用具もノウハウも当時とは比較にならないほど進化しています。
結果、体力にしても根性にしても、今と比較できないほど登山は危険に満ちていたはずです。

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>そのときのメンバーは大学登山の経験豊富な方々ばかりで私だけが初心者でした。
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その、経験豊富なメンバーも「経験を積み重ねて」「ノウハウを得ている」から登れたわけで、地図を作るための人は目的が違いますし、登山の専門家でもないです。当然、当時はアルピニズムのノウハウなんかも日本では殆ど無いに等しかったのです。

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>長治郎谷ルートで全く難なく成功しました。
ルートがなかったんです。
そのルートは、先人が「登りやすい路はどこにあるのか」を経験を重ねて見つけ出し、整備しているものです(整備というと木道や階段などを想像しがちですが、北アルプスにおいてはそれと限りません。)
もちろん、扇沢までも路などはありませんから、そこまで行くのさえ苦労したはずです。
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1・「さらさら越え」の「さらさら」の語源は何なのでしょうか?
2・そもそも史実なのでしょうか?11月の北アルプスに当時の装備で行軍することは可能なのでしょうか?しかも成政は49歳でした。登山家でも難しいのでは?
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1.立山では「左良左良(ざらざら)峠」と云っていました。  一般には「さらさら(更更または沙羅沙羅)峠」ですが「ざら峠」、「砂良砂良(さらさらともざらざらとも読む)峠」など云います。    語源は不明です。
2.信頼できる資料は極めて少なく、疑う人もいますが、天正12年冬成政が家康に会いに行ったのは事実で、何時前田利家に攻め込まれるか分からぬ時、邪魔されず速やかにしかも秘密に行けるコースとしては、北アルプス越えがもっとも妥当と考えられます。
成政はこのため十分な準備をしています。   前年にはルートの前進基地の立山権現に450俵の土地を寄進して、立山芦くら寺の雪山を闊歩する修験者、山人達を懐柔し、さらさら越えには道案内をしてもらいました。
彼らに倣いカモシカの毛皮をまとうなど厳冬期の服装をすれば、行軍は無理とは思えません。
また樹木の年輪の調査によると戦国時代は、日本は暖冬期であったそうです。
3.コースとしては有力な6案があるそうですが、その中でよく云われている
立山ーさらさら峠ー中の瀬平ー針の木谷ー針の木峠ー野口村  より
         中の瀬平ー針の木谷ー北葛岳ー鳩峰ー野口村  の方が実地踏査した人は支持しているようです。
「太閤記」の「山の峰に攀じ登り南を見れば、山下に里ありとおぼしくて、柴おりけぶる煙にたたえたり。」との記述にも合います。

1.立山では「左良左良(ざらざら)峠」と云っていました。  一般には「さらさら(更更または沙羅沙羅)峠」ですが「ざら峠」、「砂良砂良(さらさらともざらざらとも読む)峠」など云います。    語源は不明です。
2.信頼できる資料は極めて少なく、疑う人もいますが、天正12年冬成政が家康に会いに行ったのは事実で、何時前田利家に攻め込まれるか分からぬ時、邪魔されず速やかにしかも秘密に行けるコースとしては、北アルプス越えがもっとも妥当と考えられます。
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Q純正カーナビで走行中もTVを見られるようにするには?

新車を購入し、はじめて純正のカーナビもオプションでつけました。ところが、走行中は「安全のためと…」とTVが見られません。後付したときには見られたのに残念です。
もし、純正カーナビでも走行中も見られるようにできるなら、その方法を教えてください。
ちなみに、車はエスティマです。

Aベストアンサー

助手席の人がナビを操作したり、TVを見るのはぜんぜんOKですよ。

今回も、助手席の人の為ですよね!
その場合は、下を参考にしてください。

-----------------------
前回、助手席の人が見たいということで回答しましたのでリンクを参照してください。

全ての車で出来るかどうかはわかりません。
また、全て自己責任でやってください。

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たとえば、
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そのような地図がおいてあるサイトをご存知の方はいらっしゃいますか?

Aベストアンサー

江戸時代初期は大名の取り潰しが多かったので、いつの時代が必要なのか難しいですが、一応300藩と言うことで参考URLをご覧ください。
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Q日本のミサイル防衛にTHAADが無いのは何故?

【ワシントン共同】米陸軍当局者は26日、米領グアムに配備した高性能の地上発射型迎撃システム「高高度防衛ミサイル」(THAAD)が完全な稼働状態に入ったことを明らかにした。との報道です。
http://sankei.jp.msn.com/world/news/130427/amr13042709290001-n1.htm
一方日本の場合イージス艦から発射するミサイルとPAC3でTHAADはありません。
日本の場合THAADは無くても良いのですか?


 

Aベストアンサー

>日本の場合THAADは無くても良いのですか?

はい、必要ありません。

THAAD (Terminal High Altitude Area Defense) Missile は射程 200km、射高 40km~150km の地上発射型迎撃 Missile で、High Altitude Area Defense (高高度域防御) の部分だけを見て ICBM (Inter-Continental Ballistic Missile:大陸間弾道弾) をその頂点付近の宇宙空間で迎撃するかのように誤解されがちですが、Terminal (末端の/終末の) のいう言葉が示すように、目標に向かって高度を下げて大気圏 (成層圏よりも上の 40km~150km にある化学圏) に突入してきた最終段階での弾道弾を撃墜する Missile です。

一方、日本が Aegis 艦に搭載している SM3 (Standard Missile 3) 161B Block IA は射程 400km、射高 250km で、先端部が Kinetic 弾頭と呼ばれる高機動弾頭になっているように、空気のない大気圏外での超高速運動能力を持たせたものとなっていて、THAAD よりも高性能な Missile になっています。

http://www.youtube.com/watch?v=Clny6teU5ik&feature=youtu.be

最初に海上自衛隊に配備された「こんごう」の SM3 161B Block IA は高度 160km を飛行する模擬弾道弾の直撃撃墜に成功していますし、現在は日米共同開発になる Block IIA の地上試験を終えて来年に飛行試験、2018 年には現在の Block IA を Block IIA に置き換える予定になっています。

http://www.youtube.com/watch?v=A6CIu9fRk3k

地上発射型で射程が 200km しかない THAAD では幅数百km 長さ 2000km 余りの日本列島に数十基の発射機を配置しなければならず、何時 Terrorism だの過激な反対運動の前に壊されるか判ったものではないのに比べ、SM3 は部外者など近付けない Aegis 艦の中にありますし、相手国の Missle 発射機から 400km 以内の海域に派遣すれば 1 隻で事足ります。

相手国が日本に向けて発射する Missile の Course は決まっていますので、日本列島近海に配置する Aegis 艦の数も数隻あればよく、既に海上自衛隊は上記「こんごう」型 Aegis DDG (Missile 護衛艦) を 4 隻、次級の「あたご」型 Aegis DDG を 3 隻運用していますので、2~3 隻が定期整備中であっても常時 4~5 隻は緊急配備に就くことができるようになっています。

>日本の場合THAADは無くても良いのですか?

はい、必要ありません。

THAAD (Terminal High Altitude Area Defense) Missile は射程 200km、射高 40km~150km の地上発射型迎撃 Missile で、High Altitude Area Defense (高高度域防御) の部分だけを見て ICBM (Inter-Continental Ballistic Missile:大陸間弾道弾) をその頂点付近の宇宙空間で迎撃するかのように誤解されがちですが、Terminal (末端の/終末の) のいう言葉が示すように、目標に向かって高度を下げて大気圏 (成層圏よりも上の 40km~150km ...続きを読む

Q「いずれか」と「いづれか」どっちが正しい!?

教えて下さいっ!
”どちらか”と言う意味の「いずれか」のかな表記として
「いずれか」と「いづれか」のどちらが正しいのでしょう???

私は「いずれか」だと思うんですが、辞書に「いずれか・いづ--。」と書いてあり、???になってしまいました。
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Aベストアンサー

「いずれか」が正しいです.
「いづれ」は「いずれ」の歴史的かな遣いですので,昔は「いづれ」が使われていましたが,現代では「いずれ」で統一することになっていますので,「いずれ」が正しいです.

Q目処(めど)と目途(もくと)

目処と目途の使い分けについて教えてください。
送り仮名に違いがありますか。
PC辞書で「めど」の変換を探すと目途が入っているのもありますね。
これは明らかに誤用ですよね。

Aベストアンサー

めどはやまと言葉ではないでしょうか。もしそうなら漢字は当て字であり、どちらが正しいというものでもなく、世間で一般的にどう使い分けされているかということに過ぎないと思います。

広辞苑ではめど(目処)もくと(目途)と分けて記載されているだけで説明がなく
不親切です。朝日新聞社の漢字用語辞典では、めど(目処、目途)とあり、私のPCでも、めどで両方が転換できます。

解決のめどがつくとか、目標達成のめどが立ったなどと使われるので、
ものごとがその完成、実現にちかずいたということを意味し、目標とは若干ニュアンスが異なると思います。目標は高くとは言いますが、目途(目処)は高くとはいいませんね(この部分は蛇足です)

Q戦国武将 加賀00万石 前田利家のすごさを教えてください。

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前田利家が参戦した戦は37です。
その中でも、近江箕作城の戦い及び越前金ヶ崎城の戦いでは槍をふるって敵の首を取っている。また、摂津・春日井堤の戦いは「堤の上の槍で」と信長に讃えられている。武勇に優れていた事は間違いありません。

慶長4年(1599年)2月、病躯をおして、利家は和解の実を示す為に伏見に家康を訪ねている。
また、同年3月、家康は病気見舞いと答礼をかねて、大阪城に利家を訪ねている。その際、利家は病状が悪化し、やっと床を這い出て中の間で家康と対面している。この二つの状況からも利家の「律儀さ」が窺えると同時に、家康が一目置いてた大大名利家の存在感を現しています。

石田三成は病中の利家を訪ね、看病と称して前田邸に詰めた。加藤清正、黒田長政、浅野幸長、池田輝政、福島正則、細川忠興、加藤嘉昭の七大名から逃れるためであった。七大名も利家の顔を立てて、三成に手だしをしなかった。ここでも、利家のすごさが窺えます。

意見の分かれるところですが、もし利家があと10数年生きていたならば、徳川幕府は生まれていなかったかもしれません。

Q戦国大名佐々成政とはどのような武将だったのでしょうか。

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先賢の寄せられたサイトを読まれれば、佐々内蔵助(佐)成政はお分かりになるでしょう。   ここでは洩れている所を少し補足します。
1.墨俣(すのまた)築城  城とはいえ砦で秀吉の墨俣一夜城が有名だが、近年の発掘調査によるとこれはつくり話である。  困難な砦作りを最初に手がけたのは成政で、その後諸将が補強し、最後に美濃総攻撃のため立派にしたのが秀吉らしい。  多くの木材を集めた腕は評価されるが、功績を最後にさらったようである。
2.サイトにもある髑髏の杯で信長に苦言を呈した正義派であるが、越中攻めでもあった。
守護の信長の義弟神保長住の与力として、越中に赴き半分を平定した。  その後武田勝頼との長篠合戦で、鉄砲奉行として活躍したがその留守を狙い、越中国人衆が蜂起して富山城を占拠して長住を幽閉した。   これには信長の配下になるのを嫌った多くの長住の家臣もいた。 ところが待っていたように、柴田、前田、佐久間らの軍勢が出動して、城を奪い返し皆殺しにした。  無謀な一揆には理由があった。  その前に長篠で信長が大敗して逃げ帰り、勝頼が近く越中に応援に来るとの噂が流れた。  これは反信長衆の一掃に信長が流させたという。  まあ騙し討ちである。  信長は義弟の長住を見限り、成政を国主にした。   帰ってこれを知った成政は騙し討ちを怒り、勝家と激しい口論をし、利家がとりなしてやっと納まったという。
成政の律義と利家のうまさが判ります。   勝家は間かな。
3.有名な治水については、治世わずか5年、しかも戦の合間によくやったものと感心します。   領民を深く愛していたことがわかります。         

先賢の寄せられたサイトを読まれれば、佐々内蔵助(佐)成政はお分かりになるでしょう。   ここでは洩れている所を少し補足します。
1.墨俣(すのまた)築城  城とはいえ砦で秀吉の墨俣一夜城が有名だが、近年の発掘調査によるとこれはつくり話である。  困難な砦作りを最初に手がけたのは成政で、その後諸将が補強し、最後に美濃総攻撃のため立派にしたのが秀吉らしい。  多くの木材を集めた腕は評価されるが、功績を最後にさらったようである。
2.サイトにもある髑髏の杯で信長に苦言を呈した正...続きを読む

Q書類送検と逮捕の違い?

書類送検と逮捕とはどう違うのでしょうか?
書類送検の方が、拘束されないだけ罪が軽いような気がします。
書類送検でも前科となるのですか。
どういう場合に書類送検となるのでしょうか?
どうも分かりません。

Aベストアンサー

既に適切な回答があるので蛇足かもしれませんが、刑事手続きがどうなっているのかを知ればその違いが自ずと分かるので刑事手続きの概要を必要最小限(のつもり)説明しておきます。長いですので覚悟してください。

刑事手続きの大雑把な流れは、
捜査->起訴(公訴提起)->公判->判決->刑の執行
というところ。全部話をするわけにもいきませんしその必要もないので質問に関するところ(主に捜査)だけ説明します。

犯罪が犯罪として処罰の対象になるためには、まず裁判に先立って、その犯罪の存在を捜査機関が知り、必要な証拠を集め、被疑者(=容疑者)の身柄の確保をしないとなりません。これを捜査と言います。
被疑者の身柄の確保というのは、「後で裁判になった時に被疑者の出廷が必要」なので逃げられては裁判ができなくて困るというのが第一点。それと「自由にさせておくと証拠を隠滅するかもしれない」というのが第二点。
ですから逆に言えば、「逃げも隠れもしない、証拠隠滅のおそれも無い」のであれば身柄を確保する必要はありません(一定の軽微な犯罪につき、更に例外あり)。入院しているような人間なら逮捕しないことはよくあります。この身柄の確保のための手続きが、「逮捕」であり「勾留(起訴前勾留)」です(起訴前と言っているのは起訴後というのがあるからですがここでは関係ないので説明しません)。
「逮捕」というのは、被疑者の身柄を確保する手続きの内、「短時間のもの」。具体的には、身柄を拘束し最大48時間拘束し続けることです。この制限時間が過ぎると釈放しなければなりません。
しかし、それでは困る場合には、引き続いて身柄を拘束することができます。これが「勾留」です。勾留は最大10日間身柄を拘束できます。なお、勾留は1回に限り最大10日間延長することができますから、都合20日間まで勾留できることになります(例外として25日可能な場合もあります)。

ところで勾留の申請ができるのは検察官だけです。ですから警察官が逮捕した場合には、検察官に勾留申請をしてもらうかどうか決めてもらう必要があります。そこで48時間の逮捕の制限時間内に検察官に証拠物、捜査書類と一緒に身柄を送致しなければなりません(刑事訴訟法203条1項)。これを「検察官送致、略して送検」と言います。無論、警察限りで釈放する場合は必要ありません。
検察官送致を受けると検察官は24時間以内に釈放するか勾留請求をするかしなければなりません。ですから、警察官が逮捕した場合の身柄拘束は48時間+24時間の最大72時間に及ぶ可能性があることになります。このような身体を拘束した被疑者を送検することを「身柄付送検」と言う場合があります。これはなぜかと言えば、質問にある「書類送検」と明確に区別するためです。ただ、一般には単に「送検」と言えば「身柄付送検」を意味します。

さて、では「書類送検」とはなんぞや?ということになりますが、まず前提として犯罪捜査は常に被疑者の身柄を拘束するわけではないということを知っておかなければなりません。全犯罪件数から見れば、身柄を拘束しない事件の方が多いです。身柄を拘束していない場合には、先に述べたように「(203条1項による)検察官送致」をする必要がありません。と言うか、身柄を拘束していないのでできません。たとえ逮捕した場合でも、警察限りで釈放すればやはり検察官送致の必要はありません。
しかし、それとは別に、警察は犯罪の捜査をしたら原則として必ず検察官にその捜査についての資料、証拠などを送らなければなりません(刑事訴訟法246条本文)。これを「書類送検」と呼んでいます。書類(証拠物、捜査資料、捜査報告書などなど)を検察官に送致するということです。正確には送致しているのは「事件」なのですが、実際に何を送るのかと言えば「書類」であるということです。
つまり、「(身柄付)送検」と「書類送検」は同じ送検でも別の条文に基づく別の手続きです。と言っても、(身柄付)送検をすればそのとき書類も一緒に送っているので、重ねて書類送検を行う必要はないので、(身柄付)送検は書類送検を実際には兼ねていますが(と言っても、身柄付送検をすれば書類送検をしなくていいのはあくまでも246条本文に「この法律に特別の定のある場合を除いては」と書いてあり、身柄付送検が「特別の定」だから)。

というわけで、「逮捕」と「送検」というのは次元の違う話であることがわかると思います。
まとめれば、
1.「逮捕」とは、捜査において被疑者の身柄を確保すること。
2.警察が「逮捕」した場合は、刑事訴訟法203条1項により、釈放しない限り48時間以内に被疑者の身柄を検察官に送致しなければならず、これを「(身柄付)送検」と呼ぶ。
3.「書類送検」とは、警察が捜査した事件について刑事訴訟法246条本文に基づきその証拠、捜査資料を検察官に送致すること。
4.「(身柄付)送検」は「書類送検」を兼ねている。
5.警察が「逮捕」した場合でも、釈放すれば「(身柄付)送検」はできないので、その場合は「書類送検」を行わねばならない。
ということです。

そして、「書類送検」するということは「身柄付送検」をしていないということですからつまりは「身柄を拘束していない」ということになります。身柄を拘束していない場合というのは大概は相対的に軽微な犯罪であることが多いのでその意味では、逮捕した事件(これを身柄事件と言う場合があります)に比べれば罪が軽いことが多いのは確かです。しかし、それはあくまで結果論であって、書類送検だから、逮捕したから、と言うわけではありません。既に述べたように逮捕しても身柄付送検せずに釈放すれば書類送検ということになりますし。

なお、先に述べたとおり、「捜査した事件はすべて検察官に送致する」のが原則(全件送致の原則)ですが、例外として検察官送致にしないものが幾つかあります。例えば、検察官が指定した事件について、月報でまとめて報告するだけの微罪処分ですとか、あるいは報告すらしない始末書処分などがあります。ちなみに、交通反則通告制度については、微罪処分の一種とする文献もあるにはありますが、多少なり疑問のあるところではあります。
そういうわけで、どういう場合に書類送検となるかと言えば、「刑事訴訟法246条前段に当たる場合」ということになります。もう少し具体的に言えば、「微罪処分等で済ませることのできない事件で、かつ、身柄付送検等もしなかった事件」ということになります。

ところで、前科というのが何かと言えば、これは法律用語ではないということになっているのですが、法律的に見れば「有罪の判決を受けたこと」を言うと思ってください。ですから、前科が付くためには、「裁判を経て有罪判決が出なければならない」ことになります。しかし、最初に述べたとおり「検察官送致」というのは単なる捜査手続きの一部でしかなく、この後で検察官が起訴するかどうかを決め、起訴して初めて裁判になるのですから、検察官送致だけではまだ前科は付きません。その後どうなるかはその後の話です。無論、逮捕だけでも前科は付きません。逮捕=有罪ではありません(そう勘違いしているとしか思えない報道が多いのは事実ですが、有罪判決が出ない限りは被疑者、被告人はあくまでも「無罪」です)。
ちなみに、捜査したが起訴しなかった犯罪事実について「前歴」と呼ぶことがあります。

既に適切な回答があるので蛇足かもしれませんが、刑事手続きがどうなっているのかを知ればその違いが自ずと分かるので刑事手続きの概要を必要最小限(のつもり)説明しておきます。長いですので覚悟してください。

刑事手続きの大雑把な流れは、
捜査->起訴(公訴提起)->公判->判決->刑の執行
というところ。全部話をするわけにもいきませんしその必要もないので質問に関するところ(主に捜査)だけ説明します。

犯罪が犯罪として処罰の対象になるためには、まず裁判に先立って、その犯罪の存在を捜査機...続きを読む


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