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ナポレオンは欧州全体を巻き込んで多くの戦争をしましたが、その目的は何だったのでしょうか? 戦争双方の当事者の目的をそれぞれ教えてください。

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A 回答 (3件)

ナポレオン戦争と一口で言いっても


実際的にはそれぞれ別の戦争で
別の目的をもっています。

基本的な対立構図は、フランス対イギリス、
フランス対オーストリア(or ドイツ)、
フランス革命対旧社会、ナポレオン対その他
というもので、
その時々の時代背景に合わせて
これが複雑に込み合って戦争になっているわけです。
基本的には、英仏間の第二次百年戦争といわれるほど
英仏間の敵対関係は絶対的で、
ナポレオンが登場しなくてもこの両国は
戦争があるたびに敵味方に分かれて戦っていたという
事実があります。
また新興するドイツとフランスは潜在的な敵対関係にあり
オーストリアとフランスは縁戚を交えた宿怨関係にあります。
またフランス革命は当然のことながら
ヨーロッパ全体の君主国に対して警笛を鳴らし、
ヨーロッパはこれを鎮圧あるは封じ込めようと動きます。
そしてナポレオンの登場とその征服によって
支配と被支配の関係になったところで
支配を脱しようとする国とナポレオンとの戦いが加わります。

そういうわけで経過を知ってから
個別の戦争をみていくべきでしょう。

だいたいは第7次まである対仏大同盟の結成と瓦解を
戦争の切れ目と考えるのが普通です。

第一次対仏大同盟(1793-97)は
革命フランス側(ジロンド派主導の立法議会)からの
宣戦布告で始まっており、
相手はイギリス、プロシア、
オーストリア(+神聖ローマ帝国の加盟国の一部)、
スペイン、オランダ、ピエモンテ、およびイタリア小邦。(ロシアも加わったが戦闘には不参加)
その目的は
始めは国内の反革命勢力を外国勢力が支援しているという防衛的なものでしたが、
次いで自然国境の確保や革命の輸出という風に侵略的な性格に変わり、
オランダ、イタリア、ベルギー、ライン諸国を侵略して
最終的にはカンポ=フォルミオの和約で終結。
ただしイギリスとは和平は結びません。
もちろんこのときにイタリアを征服したのがボナパルト将軍で
リヴォリ会戦等の勝利の結果、イタリアを制して
ウィーンを脅かしたためにオーストリアが和平に応じたという展開。

第二次対仏大同盟(1799-1802)は
ボナパルトが東方遠征に出た隙にヨーロッパ諸国が
巻き返しを図ったことから始まった戦争で、
彼らの目的は端的に言えば失地回復。
参加国は、イギリス、オーストリア、ロシア、トルコ、ポルトガルなど。
中東ではトルコとも戦ったのですが、結局は
ボナパルトはエジプト・シリアをあきらめて帰国し
クーデタで政権をとった後で
マレンゴ会戦、モローのホーエンリンデン会戦の勝利で
大陸の戦争は決着したことから、リュネヴィル条約で終戦し
翌年にはイギリスともアミアンの和約を結んで
ヨーロッパには久しぶりに平和が訪れます。
ちなみにヨーロッパはナポレオン以前も
定期的かつ断続的に小さな戦争を繰り返していて
ナポレオンが登場して戦争が急に生まれたわけではありません。

さて、ここら辺、つまり1800年以後からが一般に
ナポレオン戦争と呼ばれるのですが
第三次対仏大同盟(1805)は、
フランスの覇権を嫌うイギリスの策動によって始まった戦争で
これにナポレオンの戴冠に反対する君主国
オーストリア、ロシア、スウェーデンなどが加わります。
トラファルガー海戦の敗戦でイギリス上陸をあきらめた
ナポレオンは、一転してドナウ渓谷を東進して
ウルム、アウステルリッツ等の戦勝によって完勝。
プレスブルク条約を締結して戦争は終結します。

第四次対仏大同盟(1806-1807)は、
前回の戦争にくわわりそこなったプロシアが中心となって
ハノーバーなどの領有をめぐってフランスとプロシアが外交的に対立。
特にライン同盟の結成とフランス軍の
ドイツ駐留が問題となり、最終的には感情的な対立となって
プロシア側から宣戦布告。
ナポレオンは迅速に各軍団を進撃させ、イエナ・アウウェルシュタットで勝利。
わずかな時間でプロシア領内を蹂躙して
ポーランドへと戦場は移り、冬季で苦しむものの
フリートラント等でロシア軍も破って
ティルジット条約で戦争は終結します。
この条約はプロシアにとって屈辱的な内容で
これが以後のプロシアの対フランス戦争参加の動機となります。

1808年はポルトガル遠征があるのですが、
これは1806年の大陸封鎖令をまもらない国に対する最初の懲罰でしたが
後のウェリントン卿であるウェズリー将軍に
ジュノーの軍団が敗れて阻まれます。
これに付随してフランスの同盟国だったスペインへの進駐が始まり
バイヨンヌ事件で王権を奪うと、スペインを併呑して
兄のジョセフを王位につけたので民衆が蜂起して
半島戦争(-1813)が始まります。

第五次対仏同盟(1809)は、ナポレオンがスペインに行った隙に
オーストリアがドイツで失った地位の回復を目指して
フランスの同盟国バイエルンへ侵攻。
ナポレオンが引き返してワグラム会戦等で勝利して終結。
オーストリアも屈辱的な内容を押し付けられ
ロシアのロマノフ家との結婚を諦めた
ナポレオンはハプスブルク家のマリールイーズを妻とすることにして
以後、敵対国同士が縁戚となることになります。

半島戦争は内乱という位置づけになるのですが
1812年にナポレオンのロシア遠征があります。
これは両方とも大陸封鎖令を貫徹させるための戦争で、
要するにイギリスとの経済戦争を目的としています。
しかしヨーロッパ大陸の端と端で戦争をするのは
無謀な試みで、マルモンがサマランカで大敗した数ヵ月後に
ナポレオンもモスクワを退き
両方とも失敗します。

その敗北を受けてヨーロッパの反ナポレオン陣営が再決起したのが
第六次対仏大同盟(1813-14)で、
プロシア、ロシア、イギリス、スウェーデン、
途中からはオーストリアも敵側につき、
最終的には中立だったデンマーク(とスイス)以外の
ほぼ全ての国が敵側に回ります。
ナポレオンは数度の勝利の後でライプチヒで包囲されて
ドイツからの撤退を決断して、戦争はフランス本土に移行。
この段階で同盟軍はナポレオン支配からの脱出という目的から
ナポレオン政権の打倒へと目的が変わり、
フランス側も祖国防衛という目的に変化します。
それで戦争は、結果的にはナポレオンが退位することで
フランスの領土は保全するという了解のもとで終了します。

最後の戦争は百日戦役と呼ばれるもので
第7次対仏大同盟(1815)は
エルバ島を脱出したナポレオンを打倒するための戦争でした。
これだけが唯一、ナポレオン個人を標的にした戦争です。
フランス側からすると、王政復古がありましたから、
革命と憲法を守るための戦争という意義があって、
革命対旧社会という構図がここで再びよみがえります。
結果は、ワーテルローでの敗北でナポレオンの二度目の退位となるのですが、
フランス国内の革命と旧社会との戦いはつづき
それが7月革命などにつながるわけです。


長く書きましたが、
要するに、その時々で目的は違い、
その都度の結果に影響されて次があるということです。
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この回答へのお礼

うわー、思ったより複雑なんですね。一から勉強します。詳しい解説、本当にありがとうございます。

お礼日時:2006/07/29 22:40

フランス産業のための市場を獲得するためです。


それでイギリスが邪魔だった…というわけです。
大陸封鎖令には、彼のその考えがよく表れていますよね。
イギリスの立場でいえば、自分たちの市場を確保しながら、ヨーロッパにおける勢力均衡絵を保つために、フランスを倒さねばならなかったということです。
他のヨーロッパ諸国にとっては、まさしく防衛戦争です。
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下記URLにあるように、ナポレオンはフランス革命下で頭角を現した軍人でした。


フランス革命がおきた時、周りの王国は、自分の国に民主革命が及ぶのを恐れてフランスに対して戦争を始めました。
最初は、諸外国が始めた戦争だったわけです。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%83%9D% …
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Qナポレオンのイタリア遠征と第一回対仏大同盟について

ナポレオンがイタリア遠征をしオーストリア軍を撃破した結果、第一回対仏大同盟は崩壊したそうですが、
オーストリア軍の撃退と大同盟の崩壊はどんな関係があるんでしょうか?
大同盟をの中心はイギリスなのでは?

あと、ナポレオンがイタリア遠征をした理由も教えてください。

よろしくお願いします。

Aベストアンサー

大同盟が崩壊というのは、
あくまでも大同盟が大同盟でなくなったというだけで、
特に第一次の場合、対仏同盟がなくなったわけではありません。
つまりはイギリスは講和してませんが、
ロシアを除く他の国が抜けたというだけです。
ただしロシアはこの時点で軍隊を派遣しておらず
イギリスも大陸から軍隊をほとんど引き上げていたので
戦争は小休止となり、ここに後世の歴史家が
第一次対仏同盟の終わりをここにおいているわけです。
この大同盟の時期の分け方は、いろいろな方法があって
必ずしも絶対的なものではありません。
便宜上わけただけでであるということは理解する必要があります。

第一次の場合、1792年から革命フランスが一方的に
各国に順次、宣戦布告をしていって
1793年の国王処刑を機に、イギリスのピットが提唱して
宣戦布告を受けた国々が集まって大同盟を結成するわけですが
1794年になるとフランス軍が窮地を脱して優勢となるので、
スペインが攻め込まれてまず単独講和、
オランダは占領されて共和国になり、イギリスは地上軍を引き上げます。
1795年にはポーランド分割に関連してプロシアが単独講和で離脱し、
オーストリアと神聖ローマ帝国諸邦が戦い、イギリスが金を出すという
状況に戦争はなるのですが、ウィーンにナポレオンが近づいたことで
1797年に停戦が成立して、カンポ=フォルミオとなるわけです。
「オーストリア軍を撃退した」というのは、1796年前後の状況を反映してませんね。
ハプスブルク家領内深くに侵攻していたのはフランス軍ですから。
基本的に革命戦争に防衛的性格があったのは本の短い期間で
おおむね侵略的性格のものです。

あと大同盟の中心がどこかというのは、あまり意味が無いです。
中心的国家はもちろんイギリスですが、主に金を出していることが多く、
戦争を実際に行ったのはオーストリアが主です。
イギリスとフランスというのも伝統的なライバル国ですが、
フランスとオーストリアというのも地理的な敵対関係にあり
何百年も戦い続けてきた中ですからね。
フランス、あるいはナポレオンの戦略として、
イギリスを直接攻撃できないので、オーストリアを集中攻撃して
大同盟を崩壊させるという手と何度か使っています。
これは逆に言えば、オーストリアが同盟の鍵だったということを
意味してます。

1796年の段階で、要するにオーストリアとその他の帝国諸邦との
戦いとなったわけですから、国境を接した部分から侵攻するのは
明らかでしょう。
そこがライン地方とイタリアだったというだけです。
基本的に、フランスとオーストリアの伝統的な戦い方では
ライン方面が主戦場で、イタリア方面は常にそのサブグランドだったのですが、
これは自然国境の確保というのがフランス側の戦略目標であり
イタリアは常に交渉材料(占領した土地を交換する)でしかなかったからです。

ナポレオンは1795年に地理局(フランスの参謀局にあたる)に勤務して
戦争計画の一部原案にも関与したのですが、彼の持論は
イタリアで攻勢をとって、まずピエモンテ(サルディニア)を脱落させ、
ロンバルディア(ハプスブルク家領)を占領し、北イタリアを支配して
そこからチロルを通ってライン地方で対峙する敵軍の背後を脅かし、
決戦を強いるか、講和にもちこむかで、戦争を終結させるというものでした。
ナポレオンは学生時代からイタリアの研究をしていて、
その地形、過去の戦争の戦略の歴史に精通しており、
アルプスに囲まれ、ポー川が流れる入り組んだ地形が、
中規模の軍隊の活動に適していることを知っていたわけです。
イタリアを”柔らかい下腹”と表現したのはチャーチルですが、
彼はマールバラ公爵の子孫でナポレオン戦争にも精通していたからでたセリフであって、
まさに大同盟の弱点だったわけです。

大同盟が崩壊というのは、
あくまでも大同盟が大同盟でなくなったというだけで、
特に第一次の場合、対仏同盟がなくなったわけではありません。
つまりはイギリスは講和してませんが、
ロシアを除く他の国が抜けたというだけです。
ただしロシアはこの時点で軍隊を派遣しておらず
イギリスも大陸から軍隊をほとんど引き上げていたので
戦争は小休止となり、ここに後世の歴史家が
第一次対仏同盟の終わりをここにおいているわけです。
この大同盟の時期の分け方は、いろいろな方法があって
必ずしも絶対...続きを読む

Qナポレオンが英雄と呼ばれるのは何故?

ナポレオンが英雄と呼ばれるのは何故?

世界史が好きですし、得意です。しかし、一つわからないことがあります。ナポレオンは英雄、英雄と呼ばれていますが、それは果たして何故ですか?ベートーヴェンも彼が皇帝になったことから失望したというし、ナポレオンがスペイン侵略したためにゴヤが「1808年5月3日」を描いて批判しているし、ウィーン会議だってナポレオンが侵略しまくったから、それを元に戻すために行われた会議だし、ナポレオンは英雄というよりはむしろ、悪者のように世界史的には登場するのに、どうして英雄なんでしょうか?フランス人から見て。ってことですか?でも、それを言ったらヒトラーだってドイツの英雄だったんだし、スターリンだってソ連の英雄だったじゃないですか。でも、ヒトラーやスターリンはただの独裁者としてしか論じられず、だけどナポレオンは英雄、英雄と称えられている。この理由がいまいちわかりません。誰か教えて下さい。

Aベストアンサー

英雄たるゆえんは、
(1)思想的に中立
(2)悲劇的な終わり方をしている
(3)人種差別的大量虐殺してない
(4)軍人として現場で実績を積んできた
だからでしょうね。

(1)は、基本的に領土拡大という観点のみで、たとえば民主主義だ共産主義だなどという今でも論争の的になるような主義主張で戦っていないということ。
(2)は、物語になれるということ。
(3)は、(1)に関連しますが、現代の常識での倫理的な批判をされないということ。
(4)は、ようは分かりやすく軍事的に優れていて英雄の階段を上れたということと。スターリンやヒトラーは、分かりやすい実績というようりも政治的な活動で上り詰めていますので、陰湿さがつきまといます。
軍人のように分かりやすく上り詰めると、英雄になれます。

Qナポレオンは、なぜモスクワ遠征に遠征したのでしょうか。

ナポレオンが、ロシアと戦った時に、モスクワに遠征し、敗北しましたが、なぜ、当時のロシアの首都であるペテルブルクではなく、モスクワに遠征したのでしょうか?

普通に考えますと、首都を目指して攻め込むものだと思います。

また、ペテルブルクの場合、海に面していますから、補給もモスクワより楽だったと思います。

さらに、モスクワへ進撃する場合、南北両方の側面を敵にさらすことになりますが、ペテルブルクへの進撃の場合、南方だけに配慮すれば、足りますので、絶対にモスクワより楽だったと思います。

そりを、あえて進撃先としてモスクワを選んだのは、なぜなのでしょうか。

Aベストアンサー

余りに話が長すぎて、内容が分かりにくかったでしょうかね?
全体を読んでくださいね。

いいですか、実際にはリガは攻略されてません。

ナポレオンの主攻撃の矛先はこちらには向きませんでした。
しかしもしあなたが言うように、最初からペテルブルグを攻撃するつもりで、
リガを攻略してペテルブルグに進んだとしても、
時間的に無理があって、モスクワに進んだ場合と同様に結果にしかならないということを
”仮定”を使って説明したわけです。
わかっていただけるでしょうか? 前の投稿も読み返してみてください。


実際にはロシア軍の増援の到着で攻略を諦め、封鎖を続けて挙句に、撤退です。

マクドナルの軍団の兵力は約3万1千名。
エッセンのリガ守備隊は初め1万2千名、10月にフィンランド軍団の来援があって2万7千まで増加します。
加えて海上にイギリスの戦列艦18隻、河には砲艦21隻以上があって完全包囲を困難にしていました。

4万というのはどこの数字でしょうか? 間違いでょう。
ロシア軍は規格よりも大きい第25師団(軍団規模)、フィンランド軍団の二個師団しかないので、4万になることは絶対ないです。
ロシア軍の編成だと概略で、師団が6千、軍団が1万2千ぐらいです。


ポメラニアはスウェーデン領とプロシア領の二つがあります。
スウェーデン領なのはリューゲン島のある方です。
1807年にもフランス軍に一回占領されましたが、翌年に関係改善されて返還されています。
そして1812年に再度占領されるのです。

ナポレオンは最初、第二次ポーランド戦役と号してこのロシア戦役を始めたので、
リガ攻略の意思はありましたし、リトアニアの解放という政治的意図は明らかでした。

ただし結果的にはナポレオンはスモレンスク街道を急進することを選び、ロシア軍も第一西軍と第二西軍を合流させたので、野戦軍撃滅という目の前の最優先課題にとりくむことになったわけです。
だからマクドナルの消極性もあって、結果的にリガは封鎖になったというだけです。

現実的に考えて、ペテルブルグ方向にはそれほどのチャンスはなかったでしょう。
敵の主力を無視して自由にさせるわけにはいかないですし、ペテルブルク方向にはヴィトゲンシュタインの1個軍団があるだけです。
逆にクツーゾフ統合西軍は歩兵と騎兵をあわせて11個軍団もあるわけで、どっちを狙うべきかは明らかでしょう。
サン=シールやウディノの軍団があったので、それでヴィトゲンシュタインを追いかけてもよかったわけですが、補給線の維持につかっただけになりました。

イギリス軍は地上部隊が数個大隊ありましたが、分断の必要があるほどではないですし、オランダ戦線と違って海から直接支援を受けていたわけではないので、海側に追い詰めてもあまり意味はないでしょう。
むしろ南方ウクライナ方面が穀倉地なわけですから、あっちを分断したほうが論理的です。

余りに話が長すぎて、内容が分かりにくかったでしょうかね?
全体を読んでくださいね。

いいですか、実際にはリガは攻略されてません。

ナポレオンの主攻撃の矛先はこちらには向きませんでした。
しかしもしあなたが言うように、最初からペテルブルグを攻撃するつもりで、
リガを攻略してペテルブルグに進んだとしても、
時間的に無理があって、モスクワに進んだ場合と同様に結果にしかならないということを
”仮定”を使って説明したわけです。
わかっていただけるでしょうか? 前の投稿も読み返して...続きを読む

Qフランス革命の意義はどう理解すべきか

フランス革命はブルボン王朝に対する反乱として始まり、共和制に移行しました。
しかしナポレオン戦争中にナポレオン王制が復活し、ナポレオン敗退後再びブルボン王朝が復活しました。この間のフランス国民の意識はどのような目でこの共和制と王制の推移をみたのでしょう?
国民の目から見たフランス革命の意義は単なる政変劇だったのでしょうか?

どうして度々の王制復活を支持したのでしょう?
共和制の恐怖政治の実態に失望した事は考えられますがフランス革命の意義、思想などは何の意味をもったのでしょうか?

Aベストアンサー

フランス革命は、近世から近代へのターニングポイントだったと思います。
フランス革命により、初めて領民から国民へと自意識が変化します。
それまでの戦争は、国王や領主間の戦争であり、一般人の関知しない事(巻き込まれないようにさえしていればよかった)から、愛国心にめざめ積極的に関与すべき事態に変わります。
そのため、軍の規模も、数千人から数十万人規模に膨れ上がります。
ただ、このような状態になった場合、指導者にカリスマ性が無いと、軍をうまく指揮できません。
そこで、ナポレオンの登場です。
ナポレオンが破れ、ブルボン王政が復古しても、既に国民が納得せず、共和制に、ドイツ統一による危機感から、ナポレオン3世による帝政、ナポレオン3世が敗れた事による共和制となってゆきます。

フランス革命を見るとき、この辺まで見ると、意義が見えてきます。
また、フランス革命により、国民・民族というものが強く意識され、抑圧された民族や南米の植民地の独立などにつながってゆきます。

フランス革命の意義は、大変大きな物だったと思います。

Qナポレオンがドイツにもたらした影響を、時代背景を交えて教えていただけい

ナポレオンがドイツにもたらした影響を、時代背景を交えて教えていただけいでしょうか。

教科書を見ても、インターネットで調べてもいまいちわかりません。

よろしくお願い致します。

Aベストアンサー

Wiki.を参考にしてください。
ドイツ法
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%84%E6%B3%95

フランス革命の後、革命の思想および近代法の先駆けとなったナポレオンのフランス民法典がドイツ法の伝統に大きな影響を与えた。1804年、フランス皇帝ナポレオン1世は、フランス帝国が成立させて、その領土の拡大を目指し、1806年、神聖ローマ帝国を解体、1807年には、プロイセン、オーストリアの領土を大幅に削ぎ自国に編入することに成功した。そのため現在のドイツにも近代法の理念を反映したナポレオン法典が導入されることになったのである。

ナポレオン戦争
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%83%9D%E3%83%AC%E3%82%AA%E3%83%B3%E6%88%A6%E4%BA%89#.E3.83.89.E3.82.A4.E3.83.84

ドイツ [編集]
ドイツではナポレオンの侵略に屈したことで民族主義運動が高まり、ドイツ連邦が結成されドイツ統一運動へと発展していった。その中でプロイセン王国がラインラントをはじめとする領域を獲得し大国として台頭し、ドイツ統一を主導した。オーストリア帝国も軍制改革を達成してナポレオンの攻撃に耐え抜き、戦後は北イタリアを獲得して大国としての地位を維持したが、次第にプロイセンとの対立が深まっていった。

Wiki.を参考にしてください。
ドイツ法
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%84%E6%B3%95

フランス革命の後、革命の思想および近代法の先駆けとなったナポレオンのフランス民法典がドイツ法の伝統に大きな影響を与えた。1804年、フランス皇帝ナポレオン1世は、フランス帝国が成立させて、その領土の拡大を目指し、1806年、神聖ローマ帝国を解体、1807年には、プロイセン、オーストリアの領土を大幅に削ぎ自国に編入することに成功した。そのため現在のドイツにも近代法の理念を反映したナポレ...続きを読む

Qイデオロギーって何ですか???

イデオロギーとはどんな意味なんですか。
広辞苑などで調べてみたのですが、意味が分かりません。
どなたか教えてください。

Aベストアンサー

イデオロギ-というのは確かに色んな解釈をされていますけど、
狭義ではそれぞれの社会階級に独特な政治思想・社会思想を指します。

つまり分かりやすく言えば、人間の行動を決定する根本的な物の考え方の
体系です。一定の考え方で矛盾のないように組織された全体的な理論や思想の事を
イデオロギ-と言うんです。

例えば、人間はみんな千差万別であり色んな考えを持っています。
だから賛成や反対といった意見が出てきますね。
しかし、イデオロギ-というのはみんなが認める事象の事です。
イデオロギ-には賛成・反対といった概念がないのです。

例えば、環境破壊は一般的に「やってはいけない事」という一定の考えに
組織されています。つまりみんなが根本的な共通の考え(やってはいけない事)として組織されているもの、これがイデオロギ-なんです。
しかし、社会的立場によってはその「やってはいけない事」を美化して
公共事業と称して環境破壊をする人達もいますけど。
ここでイデオロギ-という概念に対して色んな論説が出てくるわけです。
一応これは一つの例ですけど。

というかこれくらいしか説明の仕様がないですよ~~・・。
こういう抽象的な事はあまり難しく考えるとそれこそ分からなくなりますよ。
この説明で理解してくれると思いますけどね。

イデオロギ-というのは確かに色んな解釈をされていますけど、
狭義ではそれぞれの社会階級に独特な政治思想・社会思想を指します。

つまり分かりやすく言えば、人間の行動を決定する根本的な物の考え方の
体系です。一定の考え方で矛盾のないように組織された全体的な理論や思想の事を
イデオロギ-と言うんです。

例えば、人間はみんな千差万別であり色んな考えを持っています。
だから賛成や反対といった意見が出てきますね。
しかし、イデオロギ-というのはみんなが認める事象の事です。
イデオ...続きを読む

Q大陸封鎖令とその影響

ナポレオンが大陸封鎖令を出しましたが、この後にイギリスが逆封鎖(?)したり、さらにフランスが勅令を出したりと、フランスとイギリスの攻防がよく分かりません。
何故封鎖しあったのでしょうか?

また、何でイギリスとアメリカが1812年に戦争を起こすようになったのでしょうか?
大陸封鎖令と関係があるらしいのですが、どう影響したのかが分かりません。
長くてすみませんがお願いします。

Aベストアンサー

フランスの行った大陸封鎖令には、2つの目論見がありました。
1.大陸からイギリス商品を締め出し、またイギリスへの輸出を停止させる事で、イギリスに経済的打撃を与える事。
2.大陸市場における貿易の拡大。特にフランス工業製品の市場拡大と販路の確保。
つまるところフランスは、大陸からイギリスを締め出し、自国の産業と貿易を保護育成しようとしたのです。

イギリスの行ったのはフランスを海上封鎖し、その海外貿易を阻止して、経済的に打撃を与えようというものでした。これにより、フランスは植民地や外国との輸出入を妨害されます。

1812年の米英戦争は、イギリスとアメリカの利害の対立から起こりました。
当時、イギリスとフランスの戦争に参加していない国で、フランスの最大の海上貿易の相手国はアメリカでした。
イギリスの海上封鎖により、アメリカはフランスとの貿易を阻害され、経済的に打撃を被ります。
これに怒ったアメリカが、イギリスからカナダを奪いとろうしたのが、米英戦争の始まりです。
アメリカは、イギリスはフランスと戦争をしている最中で、カナダを守る余裕はないだろうと判断し戦争を仕掛けたのです。

フランスの行った大陸封鎖令には、2つの目論見がありました。
1.大陸からイギリス商品を締め出し、またイギリスへの輸出を停止させる事で、イギリスに経済的打撃を与える事。
2.大陸市場における貿易の拡大。特にフランス工業製品の市場拡大と販路の確保。
つまるところフランスは、大陸からイギリスを締め出し、自国の産業と貿易を保護育成しようとしたのです。

イギリスの行ったのはフランスを海上封鎖し、その海外貿易を阻止して、経済的に打撃を与えようというものでした。これにより、フランスは植民地...続きを読む

Q人間の3大欲とはなに?

この質問は このジャンルでふさわしいのかどうかちょっと迷ったのですが・・・。

人間の 3大欲といわれるものがありましたよね。
あれは 食欲と 後はなんでしたでしょう?

また その「人間の3大欲」という言葉は
誰が 言い出したのでしょうか?

Aベストアンサー

人間の三大欲望は
食欲 睡眠欲 性欲 です。
食欲は,物を食べ,エネルギーにする事。
睡眠欲は,睡眠をとり,脳を休ませること。
性欲は,トイレで用をたしたり,エッチをしたり,する事
この3つはある程度は我慢が出来ますが,人間が生きていくためには必ず必要なことです。欲望というより,必要不可欠なことです。
でも、このことを言った人はわかりません。昔からの言い伝えではないでしょうか?

似たような語で,「衣・食・住」これは、生活の上のことです。

Qイスラエルに3つの宗教の聖地が存在する理由は?

現在、パレスチナ人がイスラエルに対して自爆テロを行い、イスラエルはそれに報復をするといったニュースが連日のように報道されています。その原因についてはおいといて、そもそも、なぜ、イスラエルには3つの宗教の聖地が近い場所に存在するのですか?知っている方、教えてください。

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  聖都エルサレムやその周辺施設などは、ユダヤ教の聖なる地であり都市であったのですが、エルサレムをめぐって、キリスト教の誕生の中心的なできごとがあったので、エルサレム及び、イスラエルやパレスティナなどは、至るところ、キリスト教にとって聖なる地、記念の地となっています。例えば、エルサレムに限らず、ガリラヤ湖とか、ナザレとかは、キリスト教にとって聖地または記念の地になる訳で、キリスト教徒の観光客などは、このような聖地や記念の場所を訪ねます。
 
  キリスト教は、最初、自分たちの教えこそが、唯一神ヤハウェの「真の新しい教え」だと主張し、ユダヤ教の伝統を、『旧約聖書』の形で、継承し、一方、ユダヤ教とキリストの福音はどう違うかで、『新約聖書』の形で聖典をまとめたのです。ユダヤ教は、『旧約聖書』とは呼びません。それに相当する文書記録は、『ユダヤ聖典』となります。『新旧約聖書』の「旧約」を認めては、ユダヤ教の立場がなくなるのです。
 
  キリスト教は、元々ユダヤ教の分派で、独立した教義を立てて、「異教」となったのだと云えます。しかし、ユダヤ教の教えは、「古い啓示」に基づくものだという考えを持ちます。従って、分離までのユダヤ教の歴史は、そのままキリスト教の歴史に取り込まれ、ユダヤ教の聖地や記念の場所も、全部、キリスト教の聖地、記念の場所として継承しています。エルサレムはユダヤ教の聖地・聖都で、それ故、キリスト教の聖地でもあり、また、「ゴルゴタの丘」とか、「十字架の道」などは、エルサレムにある、キリスト教の聖なる記念場所となっています。
 
  イスラム教は、ユダヤ教の分派でも、キリスト教の分派でもなく、むしろ、アラブ族の民族宗教だとも云えるのですが、古い多神教のアラブ族の宗教の限界を超えるため、ムハンマドは、天使ジャブリール(キリスト教の天使ガブリエルに対応)から啓示を受けたと主張し、「神」は、ユダヤ人に啓示を与え、「聖典=ユダヤ聖典」を与え、自己の意志を表明したが、うまく人類に伝わらなかった。そこで、「預言者イーサー(イエズス)」を使わし、新しい啓示と新しい「聖典=新約聖書」を与えたが、なお、人類は、「神」を正しく認識しなかった。そこで、「最後の封緘」として、「最後の預言者ムハンマド」を使わし、ムハンマドを通じて、「最後の啓示=聖典クルアーン」を人類に与えた。これがイスラム教であるというのですが、これは、ユダヤ教・キリスト教の分派ではなく、勝手に、ユダヤ教やキリスト教の聖典や預言者や教えを、ムハンマドとその預言に先行する預言であるとして、教えに取り込んだもので、最初から分派でないのです。
  
  つまり、イスラム教の側では、ユダヤ教やキリスト教は、共通の神の啓示を受けた「兄弟」となるのですが、ユダヤ教側からは、勝手な理屈を付けて、ユダヤ教を汚す宗教にしかならないのです。だから、ユダヤ教とイスラム教は、歴史的に、決してよい関係ではなかったということがあります。キリスト教は、ユダヤ教から分派したということが歴史的に明らかなので、イスラム教は、キリスト教により寛大で、キリスト教も、イスラム教よりも、ユダヤ教の方に、より好意的だとも解釈できます。
 
  こういう経緯で、元々、サウディアラビア半島に起こった、ユダヤ教とは、一応別の宗教であるイスラム教が、エルサレルなどを聖地にするのは、根拠がないのですが、「教え」から言えば、エルサレムは、神アッラー=ヤハウェが、かつて、ユダヤ教で崇拝を受けた聖地であり、イスラム教固有の聖地であるメッカ、メディナに次ぎというか、同格ぐらいの重みで、教義上聖地となります。
 
  ただ、キリスト教にとっては、エルサレムもイスラエルもパレスティナも、キリストに関連する直接の聖なる場所などが至るところにあるに対し、イスラム教は、メッカが第一聖地で、パレスティナには、それほど聖地はありません。ただ、ヤハウェ=アッラーの神殿などがあったエルサレムは、特別な聖地となる訳で、預言者ムハンマドは、一夜にしてか、アラビアから天使の翼に乗って、エルサレムを訪れ、そこの「聖なる岩」から天に昇り、神との出会いの聖なる体験をしたなどという話があり、エルサレムの「岩の神殿」というのが、イスラム教にとって、固有の聖なる場所になっています。
 
  ユダヤ教にとって、イスラエル・パレスティナなど、あのあたり一帯は、「紫のカナーン」と呼び、神から与えられた「約束の土地」で、至る所聖地だらけなのです。キリスト教徒もその伝承を継承していて、かつ、キリストゆかりの多数の聖地や記念の場所があるので、エルサレム、イスラエル、パレスティナなどは、「聖地」になります。イスラム教にとっては、エルサレムは聖なる都ですが、「紫のカナーン」は、ヤハウェ=アッラーが、ユダヤ人に約束した土地であって、エルサレム以外の場所では、それほど拘りはないと云えます。
 
  パレスティナ問題は、元々ユダヤ人が、紫のカナーンへの侵略者であったこと。この地域は、必ずしもユダヤ人の独占地域ではなく、昔から、ユダヤ人と砂漠のベドウィンや海のペリシテや、その他多数の民族などが共有してきた土地で、第二次世界大戦後、イスラエルを建国し始めた時、そこにはすでに、「パレスティナ人」というイスラム教の人々と、ユダヤ教を信奉するユダヤ人が共存していたという事実があるのです。
 
  第二次世界大戦後の「イスラエル建国」において、ユダヤ人は、また侵略者として登場した訳で、原住民であるパレスティナ人が、迫害され、イスラエルに対し抵抗運動を行っているということです。このことは、エルサレムが、三つの宗教の「共通の聖地」という問題とは、また別の問題なのですが、イスラム教とユダヤ教は昔から仲が悪く、特に、イスラエルを建国した、西欧から来たユダヤ人は、イスラム教を認めない人々だったので、問題が複雑になったのです。
 
  話が少しずれましたが、イスラエルに三つの宗教の聖地があるというより、三宗教共通の聖地は、一応「エルサレム」です。ユダヤ人は、エルサレムにかつてあった、「神殿」の名残=嘆きの壁、神殿の壁を聖なる場所とし、キリスト教は、エルサレルムの神殿は無論、ゲッセマネ・ゴルゴタなど、キリストに関係する場所が記念の場所で、聖地になり、イスラム教にとっては、「岩の神殿」跡が聖地になるということになります。
 
  聖都エルサレムが、三つの宗教の共通の聖地になります。その理由と、どの程度の範囲かは、以上に述べた通りです。
  

  
  三つの宗教とは、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教ですが、これらは、「至高の神」として、「同じ神」を信仰していると主張しています。ただし、一番古いユダヤ教は、キリスト教の「神」と、ユダヤ教の「ヤハウェ」は同じ神だと認めていますが、イスラム教の「アッラー」を「ヤハウェ」と同じ神だと、必ずしも公式に認めていなかったはずです。「アッラー」が「ヤハウェ」であるというのは、イスラム教の主張です(キリスト教も、アッラーが、自分たちの信仰する神と同一とは、公式には認めていないは...続きを読む

Q「世界史A」と「世界史B」の違い

最近ニュースで騒がれていますがこの「世界史A」と「世界史B」
の違いが解りません。何が違うのですか??
宜しくお願いします。

Aベストアンサー

A・Bの違いで よく言われるのは
Aは 近代が詳しく、Bは 古代から詳しく記載されている
つまり、Bのほうが細やかな歴史までが取り上げられているということです

単に扱っている歴史事項の数が違うだけでなく、教育の目的などにもずれがあります。前近代ではBは各地域のタテの歴史を古代・中世と見ていくのに対して、Aは世界全体として、各地域が他の地域に及ぼした影響、交流の歴史などヨコの歴史に重点が置かれていて、近現代でもBにくらべてAは政治史がやや浅い分、社会・経済や後の時代にどのような影響があったかなどが詳しく書かれています。


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