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島原・天草一揆について教えていただきたいことがあります。
島原・天草一揆が起こった理由について、「過酷な年貢のとりたて」、「キリシタンの弾圧」、「飢餓」と書いてあるのですが、なぜ幕府は「過酷な年貢のとりたて」をしたのでしょうか。財政難になった事情を教えていただきたいです。

よろしくおねがいします

A 回答 (10件)

江戸時代諸藩の財政には固定支出といものがあり、家臣団の給与は知行制か玄米で支給されていました。


原則的にはこれらは固定給ですから毎年の収入にかかわらず支出されるものです。

しかし石高制のもとでは天候などの影響を受けて米の収穫が変動することは考慮されていません。

従って飢饉などで米の収穫が減少しても藩の固定支出を維持するには納税額この場合年貢高は変わないのです。
従って農民にとっては相対的に重税感がつのります。
さらに藩の都合で支出を増加するような事があると年貢の徴収率を高く修正しないと賄えないのでこのような増税が屡々おこなわれました。

藩の支出の増加は参勤交代制の実施や幕府の行うべき土木工事を諸藩に命ずる等で屡々起こりました。
勿論これは諸藩の財政を窮迫させ幕府に対し反抗出来ないようにするためでした。
譜代大名にはこのようなことを命じる事はなく優遇されていました。

江戸時代の百姓一揆は飢饉で米作が減少した土地で屡々おこったのはこのような事情からです。

島原天草の乱はこのような農民の窮迫と浪人武士の結集、さらにキリシタン宗の普及による天国へのあこがれなど複雑な原因が複合して起こったものです。
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余談で申し訳ありません。


最近ではこの一揆は、過酷な年貢の取立てや飢饉によるものではなく、宗教戦争であった、とする見方も出ていますね。
その場合「一揆」にはあたらない、とも書いてありました。
騒動の原因についてはいまだ見当の余地があるようです。
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天候不順による凶作続きは、寛永14年(1637年)が特にひどかった。

領民はどん底の飢餓状態であったにもかかわらず、島原領主松倉勝家は租税を納めきれない者を、すべてキリシタンとみなしてなぶり殺した。領民の望みは絶え、どうせ死ぬのなら……と一揆に立ち上がるほかはなかった。そのきっかけが待たれただけであった。
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さらに訂正


松倉重政ではなく勝家でした。
ボケていてごめんなさい。
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訂正します。


島原領主だった有馬家は、取り潰しではなく日向への国替えです。
当主直純が幕府の威光に屈してキリスト教を捨てたため、信仰を続けようとした多くの家臣が有馬家を離れ、浪人や百姓として島原に残りました。
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寛永十三(一六三六)年の江戸城改修において、島原四万石の松倉重政は、みずから進んで十万石格の公議普請を引き受けることで、幕府における松倉家の家格を引き上げ、島原の石高は六万石に変更されました。

農地が増えたわけでないのに、取り立ててもよい年貢の量だけが増えたわけです。また、天草四万二千石というのも、元々過大な数字でした。財政難になったわけではなく、農地が少ないので年貢の取立てが厳しかったと理解した方がよいでしょう。
なお、取り潰された小西・有馬・加藤家の浪人が、乱に多数参加しましたが、「天草四郎は豊臣秀頼の落胤」という噂が流されたことも、影響しているかもしれません。
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過酷な年貢のとりたてをしたのは、幕府ではなく


島原藩と天草藩ですね。

島原・天草一揆が起きる2年前に、幕府は参勤交代
の制度を完成させ、1年毎に地元と江戸を住むように
させました。また、大名が独自に貿易する事も禁じた
ので島原藩と天草藩は財政的に苦しくなったのです。

またこの頃の幕府は、大名に余計な力を持たせないよう
公共工事を割り当てたりして財政力を削いだり、
大名の監視して内紛を起こす所は徹底的に取り潰す
と厳しかったので、
「お金が無くて、参勤交代とかとてもできません」とか
言えませんでしたので、農民から徹底的に取り絞ったり
キリシタンを迫害せざるを得なかったのです。
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大名には所領には石高がありますが


実際の取れ高よりも公称の石高が
高い土地と低い土地があるのです。
近くの相良藩なんかは公称2万五千石ながら
実質は5万3千石と言われ、隠し田で有名な
豊かな藩ながら、
島原や天草なんかは平地がなく水も足らないので
ほどんど米が取れないところで
慢性的に藩の財政は赤字なのです。

また有馬晴信の所領であった島原は
「岡本大八事件」で改易になったこともあって
家臣団の大半が失業して、離散。
譜代の松倉家というよそ者の支配は馴染まなかっただけでなく
厳しいキリシタン弾圧を加えたので
百姓や旧家臣は蜂起せざるえなかったわけです。

ちなみに天領の時代のほうが税は安かったんですが
松倉家は大名の格を守り、家臣団を養うだけの
財源を確保するためには過酷な取立てをする以外に
方法はなかったのです。
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Wikipediaが詳しいです。



参考URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E5%8E%9F% …
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この回答へのお礼

詠んだのですが、具体的な年貢の取立ての理由が不十分だったので、質問させていただきました。

もう1度読み直したいと思います。

お礼日時:2006/07/30 19:40

天草四郎時貞が豊臣家の末裔(秀吉の子の秀頼の落胤)という説も


ありますね。豊臣と徳川の争いの一環だと。
試験勉強的には役に立ちませんけど(苦笑)

参考URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E8%8D%89% …
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この回答へのお礼

歴史は色々な説があっておもしろいですね!

関心はあるのですが、レポート作りの一環としての作業ですので、一番メジャーな説を紹介していただけるとありがたいです。

お礼日時:2006/07/30 19:42

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Q歴史 大塩の乱が起きた原因とその影響は?

中学で歴史を学んでします。
大塩の乱が起きた原因とその影響について、分かる方具体的に教えてくださいませんか?
お願いします。

Aベストアンサー

こんにちは。多分、中学の歴史は原因とその影響まではやらないんですよね?
高校のレベルになったら、日本史Bという科目でちゃんと勉強します。
なので、今日は僕が簡単な言葉で解説してみようと思います。
下の方、ここは誰かをけなす場所ではないですよ。そう思うなら、書き込みなんてしなければいいでしょ?

さて、下の方のいうことなんてほっておいて・・・

大塩平八郎の時代は、水野忠邦が行っていたいわゆる「天保の改革」の時代でした。この時代は前の時代の「寛政の改革」やそれよりもっと前の「享保の改革」を見習って、あの「三大改革」の中でも最も一番厳しい改革だったんです。

そんな中、当時「天保の飢饉」というのがあって、各地で深刻な「米不足」が起こりました。米不足の影響で、いろんなところで一揆などが多発していて、世間は大混乱な状態だったんです。
その飢饉の影響はもちろん、大塩平八郎が住む「大阪」にも及びました。彼は飢饉で苦しむ聴衆を救うべく、自らの著書(彼自身、有名な陽明学者だったので、彼の著書は結構なお金になりました。)を売って、貧しい民衆に分け与えるなどの活動をしていました。ところが、それは奉行所から「売名行為」だと判断され、処罰されることになったんです。

それだけなら、まだ良かった・・・さらに大きな問題があったのですが、何と、その大阪の奉行所が飢饉なのにもかかわらず大量にお米を買い上げて「独占」していることが分かったんです。というのは、当時江戸のような主要都市でも深刻な米不足に陥ってたので、大阪の奉行所がそのお米を買占め、江戸に搬送していたんです。でも・・・苦しいのはみんな一緒。それなのに、結局将軍様が江戸にいるからって、そのためにお米を買い占めて良いのか?良いわけありませんよね?大阪の人々に生活はさらに苦しくなるって言うのに、それを無視しても良いのか?

そこで大塩平八郎は、奉行所にこう訴えました。

「あなたたちが米を買い占めているせいで、民衆の生活がさらにひどくなっているんだ!彼らに少しでもいいから、お米を分け与えてやってくれ!」

ところが奉行所は「そんな余裕はない!生活が苦しいなら、苦しいなりに自分たちでどうにかしろ!」と言って、拒否したのです。というのは、やはりこういう世情だったんです。「天保の改革」は民衆などに「自分たちの生活が悪いのは、自分たちが無駄遣いなんかをするから悪いんだ。だから、自分でどうにかしろ!政治のせいにするな!」っていうようなスタンスだったんです。だから、奉行所もこう言って大塩平八郎の言うことなんかに耳を貸さなかったんですね。

利益を目先に米を買い占め、それを売る「豪商」、今の世情に大塩平八郎の怒りはついに頂点に達しました。そこで先ほど言ったとおり、彼はすべての著書を売り、民衆にお金を分け与え、そして家族や知人とも縁を断ち、すべてを覚悟して「決起」に望んだというわけです。これが、「大塩平八郎の乱」です。

しかしこの計画は奉行所のほうに未然に発覚していたために、わずか半日でつぶされるということになったのです・・・彼は諦めて探索方に囲まれた中で自害をしました。

でも、大塩平八郎の意思を継ぐものはたくさんいました。それを「大塩残党」とか言ったりするのですが、その中でも有名なのは「生田万」という人物です。彼もまた、大塩平八郎の意志を継ぎ、「生田万の乱」というのを起こします。

さて、ここからがおそらくどの教科書にも載っていない部分です。その後、幕府はこの混乱をどうにかしなければ!と思い、「豊作祈願」のために儀式を行うことにしました。ですが儀式にも大量のお金が必要で、今のご時世に幕府にそんな余裕はない。そこで幕府は「朝廷」に費用を求めました。これがいけなかったんです。今まで幕府と朝廷の間には、お互いのやることに口出しはしないというような暗黙の了解みたいなものがあったのですが・・・幕府が「朝廷」に費用を借りようとする、ということでそのルールが少し崩れ始めていくことになるのです。そして、その影響はあのペリー来航の際に、欧米諸国と条約を結ぶのに、朝廷の許可を得ようとまでするようになり、幕府と朝廷の間にそのような均衡がなくなることになります。そして、それが影響して公武合体論、尊王論、そして・・・倒幕へと歴史は足を進めることになるのです。

というようなことなのですが、分かったでしょうか?

まぁ、ここまで中学のレベルで知る必要はありませんし、おそらく高校にいってもここまで詳しくはやらないと思います。こんな感じなんだよーっていうのを「なるほどー」っておもって聞いてくれればいいです。

こんにちは。多分、中学の歴史は原因とその影響まではやらないんですよね?
高校のレベルになったら、日本史Bという科目でちゃんと勉強します。
なので、今日は僕が簡単な言葉で解説してみようと思います。
下の方、ここは誰かをけなす場所ではないですよ。そう思うなら、書き込みなんてしなければいいでしょ?

さて、下の方のいうことなんてほっておいて・・・

大塩平八郎の時代は、水野忠邦が行っていたいわゆる「天保の改革」の時代でした。この時代は前の時代の「寛政の改革」やそれよりもっと前の「享保の...続きを読む


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