こんにちは。
先日(といっても年始)、「千年の恋 ひかる源氏物語」を見に行った話を友人にしたら、彼は「源氏物語ってエロ小説だろ、あれのどこが素晴らしいのか、女の子が面白がる理由が理解できない。」と言われました。確かにそういわれると身も蓋もないのですが...
私は「女性が書いたはじめてのかな文学の長編小説である」という歴史的意味があると解釈している(この認識自体が間違ってたらどうしよう...)のですが、あの物語の凄さについて、友人を納得させられるよい回答がありましたら教えて下さい。

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A 回答 (6件)

たしかに、平安時代には、格調高い文学作品としてというより「長大な恋愛もの」、今でいえばハーレクインロマンスのような読まれ方をしていた面があると思います。

古典なので勉強して読まねば!という人はいなくて、「源氏と朧月夜はどうなるの!?どきどき」とか「薫大好き!」みたいな読み方が多かったのでは、と私は想像しております。

そんな長大な物語が、現代まで(つまり千年も)読み継がれていることに価値があるし、それだけの魅力ある作品であることは間違いないでしょう。
もちろん、女性が書いた初めての長編小説であることも歴史的意義があります。

純粋に物語としての魅力をあげると、
・膨大な登場人物一人ひとりの書き分けが出来ていて、魅力ある様々な
 人物を創造している。
 なんせ、源氏占い(クイズに答えると、「登場人物の誰か」という
 診断ができる)というのがあるほどですから。
 (最近となえられ始めた説ですが、それぞれの人物に合わせて
  和歌のうまい、へたのレベルも書き分けられてるらしいです)

・光源氏という人物(ヒーロー)の創造。
 (在原業平につぐアイドル?を女性の手でつくった)
 どんなに評判が悪くっても、日本人みんな「光の君」というと
 知ってる、というのはすごいこと。好き嫌いは別として。

・長い年代にわたる一大ロマン小説の構成
 桐壺から宇治十帖まで、親子3代にわたる長編ロマンというのが
 千年前に描かれていたことはすごい!
 付録の家系図なんか読むとくらくらしますね。人物多くて。

古典としての価値は
・当時の風俗・習慣・考え方(仏教の思想など)を垣間見る
 ことができる。
・膨大な数の和歌(登場人物が作ったとされている)が載っている。
・古文の味わい。
・当時の都(京都)の様子をしのぶことができる。
 (今でも嵯峨野・宇治に行き、源氏ツアーが楽しめます)

結局、ひとつの小説作品として考えると、好き・嫌いは分かれるでしょうし、
光源氏を良いと思うか否か、でも評価は分かれるでしょうね。

でも、女の子の面白がる理由の一つはやはり、光が好きか、または、やはり時代は違っても人の恋愛話は面白い、ということではないでしょうか・・・。
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源氏物語には、まず何といっても千年を超えて読み継がれてきた点だけを見ても、そこに極めて人間にとって洋の東西や文化の違い、時代をも凌駕する「普遍性」を宿しているという点だけでも素晴らしい価値があります。

ホメロスの叙事詩やギリシャ神話は、基本的には男女間のもつれが戦争に発展したものですし、ゼウスなんて人間といわず女神といわず手をだしまくっています。エロス・タナトスというギリシャ由来の哲学原理がありますが、性=生命の基本的で最も重要な活動であり、それを抜きにして人間の生涯や文化を語ることがそもそもナンセンスです。恋愛や性愛の描写は、それが匂わせる程度のものから露骨なものまで「無いものを探す方が困難」ですし、「エロ小説」と、少なくとも訳文すら読みもしないで、決め付けている態度の方に問題があるのではないでしょうか。
 もう一つは源氏物語に関して膨大な研究と視点が提示され、それだけ様々な観点から掘り下げられているという点に於いても、この女性の手になる物語が、光源氏という現実にはありえない一見完璧な存在を主人公としながら、非常に人間と人間同士がふれあい、共に生きていくうえでの苦悩や感情など、「生」そのものを奥深く、ある種非常に冷静に掘り下げ描いていて、それがかえって浮き彫りのリアリティで「人」とその奥深い精神世界・生命の姿を読者に伝えているからにでしょう。ユング・フロイト的観点からの分析も可能ですし、当時の最高レベルの知識・教養階層であった平安貴族たち、そして当時の日本人が持っていた仏教と神道をないまぜにした、宗教観や人生観の理解も重要です。人生50年以下の時代の話なのですから。
 加えて、この物語は当時の平安貴族の知的レベルで読むためには、まず当時までの中国文化・歴史・漢詩・漢文の知識が必要です。次に記紀・万葉等の上代からの文化教養と日本の歴史。歴史的事件や神話的故事。それから当時の仏教・神道・陰陽道といったものから派生する、時間・地理・色などあらゆる事物に対する現代との視点の違いや慣習の違い。全編に詠まれる和歌には、こうした教養の土台がないとその真の意味や深い裏の意味を理解し得ないものばかりです。和歌一つも単に現代の詩人のように、自分の感情を吐露しているだけではないのです。源氏の君が須磨に半ば流刑のような形で流れていくのも、それは須磨・西国でなければならないのです。当時の人々にとって、神戸以西というのは、出雲文化圏であり、出雲を支配する大国主大神は冥界の支配者であり、西国というのは一種の死後世界的なイメージがあったのです。また仏教の西方浄土にも通じます。罪穢れを犯した人間は、西国に赴くことで「死に」罪科を冥界に洗い流してきて、さらに成長・パワーアップして「蘇える(黄泉かえる)」のです。源氏の君も須磨以降、栄華を極めていきます。また源氏の君の六条院という住まいの作りや庭木の配置など細部に渡って、陰陽道的な知識やそこから派生するエピソードが描かれています。源氏物語は別名を「紫の物語」「ゆかりの物語」とも呼ばれますが、紫という色が、非常に高貴で神聖な色であると同時に、淫らさや性愛・官能といった意味合いを当時から持つ色であること、赤と蒼の混合色であり、非常に染色技術上も不安定な色であることから、「ゆらぎの色・狭間の色」とも呼ばれていて、常に仏教的な厭世観と恋愛や母への思慕と言った聖俗の感情の間でゆらぐ源氏や紫の上と言った人物達、ひいては「人間」そのものの象徴色でもあるのです。「ゆかり」は紫の字をあてることもあり、高貴な血縁・血筋をも意味しています。こうした、非常に高度な知的レベルと教養が基礎知識にないと、理解できない内容が作品の土台ともなっているのが源氏物語なのです。当時の平安人・日本人がいかに、高度な知的レベルを「一般常識」として備えていたかを考えると、現在の文化・芸術とは比較にならない程の価値を備えた作品であると言えます。
 こうした幾重にも重層的な内容と価値を持ち、また新たな読み方・観点をいまだに与え続ける作品は世界的に見ても極めて希少です。単純な善悪二元論的内容ではないからというのも大きな要因でしょう。
 価値などというものは、結局は後世の人間が勝手につけているものに過ぎませんが、少なくともきちんと代表的な訳文だけでも読んでから、エロ小説か否かを判断してもらう方が早いと思います。現代の歌謡曲の方が、文章内容だけならよっぽど「エロ」だと思いますよ。
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この回答へのお礼

たくさんご回答いただいておりましてありがとうございます。
この場をお借りしてご回答くださった皆さんにお礼申し上げます。大変参考になりました。m(__)m

お礼日時:2002/03/25 15:45

 


  藤式部の『源氏物語』が、今日伝わるようなまとまった形の作品として、ほぼ欠落なく残っているのは、12世紀から13世紀にかけての歌人で、『新古今和歌集』の選者でもある藤原定家が、世に流布する『源氏物語』の手稿本の乱れを嘆いて、自分がここで「正しい版」をまとめておかなければ、この傑作大作が、素人や無知な者や教養のない人々の手で、本来の素晴らしさが歪められて、やがて価値が下落し、湮滅する惧れもあると考え、多数の写本を収集して、編集したので、現在、かなり綺麗な形で残っているのだとも云えます。
  
  (その代わり、定家解釈の『源氏物語』が成立し、原作は大分違う可能性があるという指摘があります。定家は、原作の「再現」ではなく、自己の美意識に従って、「編集」を行ったので、写本系統が、ここで「定家本=青表紙ヴァージョン」に決められてしまったのです。定家が編集のため集めた古写本が、全部そっくり残ってくれれば、よかったのですが、一個人の蒐集ですから、彼の死後、散逸し、定家本以前の古写本は、定家ヴァージョンによって、駆逐される結果になったということもあります)。
 
  定家が何故そこまで高く評価したのか、そもそもこのような歴史的経緯も知らないで、エロ小説も何もないでしょう。原作を少しでも読んでみたら、「エロ小説」どころか、現代人の文章感覚だと、何が何か分からないということになるでしょう。光源氏が紫上と最初に契ったときのエピソードは、原文では、どこにも具体的に書かれていません。話の場面が切り替わると、突然、「ある朝、《女君》は」という風に、これまで、紫上を呼んでいたのと違う呼び方で、紫上を呼び、源氏自身は「男君は」という風に出てきます。その後、何かすねてているとか、餅がどうしたとか、そういうことが書いてあるだけで、どこにも、源氏が紫上と最初に交わったとは書いてありません(二人が読んだ歌を読めば、何があったかは、明白この上ありませんが。しかし、歌も多義的で、婉曲に述べています)。ただ、「女君」と紫上が呼ばれた時点で、それまでの源氏との関係が変化して、具体的な「男女の関係」になったということが分かるのです。
 
  こういう感じなので、当時の「文体」や「表現法」を知らないと、エロも何も、そもそも何が起こって何がどうなっているのかもさっぱり分からないはずです。現代語訳でも、よほど意訳した場合は、分かりますが、原文に忠実に訳している、円地文子の訳では、すでに知っていないと、何が起こったかよく分からないようになっています。また、原作中では、男の主要登場人物は、その官位で呼び、女の場合は、通り名で呼ぶので、話の進行を敏感に把握していないと、誰と誰が何をどうしているのか、原作では、さっぱり分かりません。確か、明治時代に、明治政府が、さる教養ある有名な閨秀文学者に、『源氏物語』の現代語訳を依頼した所、「あのようなけがらわしい話は見るもいやです」とはねつけられたという話がありますが、これは、平安最高級貴族階級の生活習慣の常識が、その後の儒教的な「貞節」とか、そういう時代や社会背景を異にする文化慣習のなかで、誤解されたのだということでしょう。
 
  と前置きが長いですが、『源氏物語』は、「小説」ではなく、あくまで「物語」なのですが、世界的な文学史上の金字塔でしょう。ホメーロスの『イーリアス』などにも比肩できるでしょうし、ローマ古典詩人たちの作品にも負けないでしょう。
 
  >「女性が書いたはじめてのかな文学の長編小説である」という歴史的意味
 
  というのは、最低限の評価で、日本文学史上の傑作というだけでなく、世界的スケールの文化遺産なのです。
 
  あの作品は膨大な長さがある訳で、全体構成から言うと、三つぐらいに分かれ、調和していない面が幾らかあるのですが、敢えて調和させていない可能性があり(最終ヴァージョンつまり、第三ヴァージョンは、藤式部は十分推敲する余裕があったはずだからです)、また、大長編として、入れ子構造で、色々な物語が入っていて、バランスを考えていると、それが幾らか気になりますが、そういう構成もまた、大長編の結構というか、作り方の技法とも言え、これは、藤式部に先行する物語文学などで、すでに類例があるのですが、『源氏物語』ほどに完成した形で提示されたものは皆無なのです。世界的に見ても、あの時代において、あそこまで完成度の高い、近代小説にも近い構想と展望を持つ大長編物語文学が成立したというのは、たいへんなことだとも云えます。ダンテ・アリギエリの『神曲』に匹敵するでしょうし、それを越えている可能性があります。
 
  物語文学、歴史物語、縁起譚などの様式を持ちつつ、しかし、登場人物の心理洞察において、近代小説の心理描写を先取りしているのですし、何よりも、「人間の生き方」という「実存の課題」を中心主題に据えて描かれているというか、構成されているのが、時代的にみると、想像を絶して、素晴らしいことなのです。
 
  光源氏という大金持ちで尊い身分の大プレイボーイが、一生涯プレイボーイで、大ハーレムを造って、遊びまくり、その息子の世代も、また色事に狂って遊び回った話などではないのです。
 
  まだ、「教養小説(Bildungroman)」などという概念のなかった時代です。西欧にも中国にも、世界中のどこにもそういうスタイルの文学はなかった中で、ああいう壮大な規模で、ビルドゥングロマンを構成したというのは、素晴らしいとしか云えないということです。「物語」は、普通、登場人物の経験による「成長」というものを主題にしていません。結果的に「成長」が描かれている場合でも、それは付随的に現れているものだと云えるでしょう。しかし、『源氏物語』の場合、長い期間に渡り、作者の人生の歩みと共に描かれたことも理由の一つでしょうが、登場人物がそれぞれ近代的な心理的成長を行い、「教養小説」になっているのです。
 
  主人公光源氏は、年齢と経験により成長して行き、人生の課題や困難に直面して行きますし、紫上の生涯などは、その心理の深みからいうと、千年以上、時代を先取りしているのではないかとも云えるのです。紫上は、絶望して死んで行ったのか、または何かに救済を見いだして死んでいったのか、ということが、今日でも問題になるのは、藤(紫)式部が造形した紫上という人物が、作品のなかから抜け出てるというか、それ独自の存在を感じさせるからです。また、「実存」の問題を正面から扱っているとも云えるのです。
 
  それは、「宇治編」でも、もっと洗練された形で出てくる訳で、絢爛豪華な王朝物語・伝奇小説という感もある本編に比し、光源氏没後二十年ほどの宇治を軸とした物語では、紫上の実存的苦悩というものが、もっと先鋭に、鮮明に、大君、中君、あるいは浮舟などによって描かれているとも云えるのです。
 
  登場人物の多彩さであるとか、物語の複雑さとか、総合性とか完成度とか、当時の王朝文化を伝えているとか、そういうことは、当然のことで、このような物語構成者としての壮大な力量を持つ藤式部が、自己の文学的能力を結集して、実存的主題を、現実の政治や、社会のありようを背景に構築したからこそ、世界文学史上の傑作ともなったのです。
 
  それぞれの登場人物の心理の綾の深さ、それについての作者の洞察の深さと描写の見事さは、もう何とも言いようがないでしょう。代表的な女性登場人物を考えても、それぞれに経験を通じて成長して行き、それぞれの人生の苦悩や喜びを、生き生きと作品のなかで表出していると云えるのです。あるいは男性の登場人物には、かなりな類型性があるとはいえ、それでも男性主要登場人物は、生き生きした実在の人間であるようにも思えるリアリティがあるのです。何より、彼らの心理の綾の錯綜や、経験による成長の物語が素晴らしいのです。
 
  (また、藤式部は、宮廷政治や、権力と地位、勢力と経済的力量、政治力をめぐる、「男達の闘争世界」の実態を知っていたので、それが作品に反映されており、単なる架空の恋愛小説とか、そういう次元を越えているのです。「安和の変」で、政治的実権を藤原氏に奪われた源氏一族が、藤原一族を凌駕して繁栄するという話を、安和の変の陰の策謀者の直系の子孫に当たる、藤原の氏の長者・藤原道長に仕える藤式部が書いたというのも、「昔物語」と道長や、他の多くの人は受け取ったのかも知れませんが、どうも違う可能性があるように思います)。
 
  なお、当時の人が、この長編物語をどう受け取ったかということは、この作品の価値とはまた別にあります。歴史物語・意外なことが次々に起こる伝奇物語、高級貴族の豪華絢爛な生活や恋愛を描いた王朝物語、あるいは、胸ときめかせるスリルとサスペンスに満ちた恋愛物語というか、……読者は色々な受け止め方をしたのですし、色々に評価したのでしょうが、そのことと、作品の価値は別問題です。
 
  >あの物語の凄さについて、友人を納得させられるよい回答がありましたら教えて下さい。
 
  実際に翻訳であっても読んでみていない人に、どうも納得させようがないと思います。映画では、(見ていませんが)、おそらく原作の持つ主題の10%も表現できないでしょう。現代語訳で読んでみて、原作も一応眺めてみて(というのは、文体の流麗さは、現代語訳できないのです。イメージを忠実に現代語訳すると、極彩色のような晦渋な文体、イメージになるのですが、原文は、流れるように軽快に美しく進んで行くからです)、また、『源氏物語』について色々な人が書いていること、指摘していること、あの長編をどれだけ多数の視点から眺め評価することができるのか、また、何が卓越しているのか、こう言った経験をしなければ、分からないことだと思います。
 
  >「女性が書いたはじめてのかな文学の長編小説である」
 
  こういう評価そのものが、申し訳ありませんが、紋切り型だと思います。
 
  芸術作品が素晴らしいというのは、そういう「体験」であって、体験していない人に、訴える言葉が、この場合ないと思います。(とはいえ、以上に色々書きましたが)。
 
  「宇治編」の最後のシーンは、浮舟が、手紙を持ってきた弟を、そのまま帰らす情景ですが、何か唐突に終わっているような気が昔しました。まだ話は続いているはずだが、と思ったのですが、どうも、あそこでやはり終わりらしいのです。これについて、二十年近く前、国文学の研究をしていた人と話したことがありますが、その人は、あれで終わっているのだ、と断言しました。全体の構成がどうなっていて、とか色々話した記憶がありますが、しかし、どうも、終わっているように思えなかったのです。しかし、時間が経過して行き、訳などを読み返すと、段々、確かに、あそこで終わっているのだという実感が湧いてきました。
 
  「物語」だとすれば、いささか不自然な終わり方なのですが、壮大な「教養小説物語」だと考えると、あそこで藤式部が、筆を擱いたのも自然であると思えてきたということです。
 
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エロといっちゃぁナンですが、実際それって立派な文学の


テーマだったりするわけです。

そもそも、(見方によっては)
人間って、生まれてエロって死ぬものなんです。
(まぁ、一般的には、ね)

言葉悪いから変な感じですが、
どれだけ壮大で素晴らしいエロができるか、というのは、
人間の一大テーマとして(しかも切実なテーマとして)
認めてもいいんじゃないでしょうか?

まことにもって、
エロについての認識を新たにして欲しいと切に願います(?)

っていうか、エロって言うからいけないんですけど。

ところで、源氏物語は単なるエロではありません。
江戸の黄表紙とかと比べてもらえば、スケールの違いってものが
すぐに分かると思います。
これだけ立派な大法螺が吹けるというのは、やはりそれだけでも
文学的に凄いことだと思います。
それから、もちろん、根本的な品(ヒン)の違いというのもあります。

ある人たちは、源氏物語を日本の最高の文学だといいます。
これを超えたものはない、と。
本当にそうかどうかは、もちろん私の知るところではありませんが。

どうでしょうか?
けっこう凄いんじゃないかなって気になったでしょう?
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源氏物語というのは,当時のトレンディー小説といったものでしょうネ。


では,それに価値があるのか?という点については‥
歌舞伎は当時の時事劇ですよネ。
徒然草なんかも当時の噂話集といったものですし‥
それと同じで,古典というのは当時の生活や風習を窺い知ることができるという点で大きく評価できるのではないでしょうか?
源氏物語については,当時の風習からすれば,別に「エロ小説」というわけではありませんネ。
古事記なんかにしても,生々しいことが沢山書かれています。
万葉集などの古典和歌集にも,性生活などを詠ったものが多数のこされています。
こういったものも全て「エロ」物になってしまうのでしょうか?
源氏物語は,その登場人物の複雑さにもかかわらず,きちんと矛盾無くストーリーが展開していますネ。その一点だけを捉えても素晴らしいものであると思いますヨ。
以上kawakawaでした
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私も源氏物語大好きです。



世の中がどういう風に、あの物語を認めているのかは知りませんが
私は「王侯貴族の豪華な雅やかな恋愛物語」だと思っています。

あれの価値は当時の風俗を今に伝えているというところもあるんじゃないかなーとも思いますよ。
彼氏の「エロ小説」って評価はどこから出てきたんでしょうね。
(何か変なエロ小説でも読んだのでせうか(^^;問い詰めといてください)
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Aベストアンサー

この国際交流基金図書館は、外国語で書かれた日本研究関係の図書・雑誌・マイクロフィッシュ等の資料を所蔵しているところです。


◆国際交流基金図書館
http://lib-opac.jpf.go.jp/limedio/index-sj.html
http://www.jpf.go.jp/j/index.html

◎国際交流基金図書館蔵書検索(OPAC)
http://lib-opac.jpf.go.jp/cgi-bin/limedio/limewwwopac/

↑こちらの検索画面でタイトルに「genji」といれて検索すると、76件ヒットします。
これらのほとんどは、源氏物語の翻訳書・研究書です。

また、件名に「murasaki shikibu」といれると図書が56件ヒットします。
これは、紫式部(源氏物語)に関する(研究している)、翻訳も含む外国書籍が56冊はあるということです。
ざっと見ただけで、英語はもちろん、ドイツ語・フランス語・ロシア語の書籍もあります。

ちなみに、ノーベル文学賞受賞の「kawabata yasunari」を件名検索した結果は12件、「mishima yukio」は21件です。
数字だけの客観的情報ですが、いかがでしょう。


#ちなみに、わたしは高校時代、「源氏物語」が大嫌いでした。
光源氏がキライで、六条御息所がおかわいそうで。
できればパスしたかった授業だったのですが、必須科目なので必死に我慢しました。
後年。諸外国から来日される日本文化研究者の方々と接する経験を持ち、源氏物語の捉え方が多少変化しました。
どうやら日本文学を研究する方々の多くは、源氏物語を読破している・・・という感じなのです。
そして、改めて高校時代の自分を思い、1000年もの時間的隔たりを持ちながら、読む者の心に作用してしまう紫式部の筆力は凄いのかもしれない、とも思うようになりました。

この国際交流基金図書館は、外国語で書かれた日本研究関係の図書・雑誌・マイクロフィッシュ等の資料を所蔵しているところです。


◆国際交流基金図書館
http://lib-opac.jpf.go.jp/limedio/index-sj.html
http://www.jpf.go.jp/j/index.html

◎国際交流基金図書館蔵書検索(OPAC)
http://lib-opac.jpf.go.jp/cgi-bin/limedio/limewwwopac/

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これらのほとんどは、源氏物語の翻訳書・研究書です。

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文学も国語も大好きで、友人からは「暇さえあれば本を読んでいたね」と言われるくらいなのですが、いまだに源氏物語だけは、その描かれている世界が嫌で、なじめないでいます。
テストのためにしか近づく気になれないままにきてしまい、源氏ブームなどもあって「ちょっとまずいかも」と、ちらっと思うのですが、内容のすべてが受け入れられません。
大雑把なあらすじ程度しか知りませんから、このようなことを言うのもどうかとは思うのですが、同じように感じている人っていませんでしょうか。
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Aベストアンサー

 徳川時代は儒教道徳の観点から、「不倫の書」として卑しまれていたそうです。どの程度一般的な見方かは知りませんが、武士の道徳からは許せないでしょう。天皇崇拝者にも我慢ならない内容でしょうねぇ。

 内容は、金妻ですね。個人的にはイヤですね。道徳的にというより、色々めんどくさそうですし、悩みの種も増えて結局苦労してそうなので、あこがれはしません。でも、たくさん恋愛してることに、たくさんの愛を経験したとか言いつつ美を感じる人には、ドロドロした駆け引きもまた優雅に思えるかもしれません。私自身には、狂気の沙汰です・・。

 でも服装とか綺麗だし、お姫様や王子様、公卿たちが華麗に登場するし、とにかく美しいというのは引きつけられるんでしょう。同じ内容を、社員と団地妻がやっても綺麗でも華麗でもありませんね。衣擦れの音や香で人を偲ぶのは、王朝貴族の雅を思わせます。

 ブームに載っている多くの人は、話自体というより、そういう風景の美しさが引きつけるのだと思います。十二単の好きな女性は多いはず。言ってる内容は同じでも、女子高生が「できちゃった」とか言われると笑えない現実が突きつけられますが、平安時代の貴族なので、現実味もなくなんとなく美しく感じます。
衣擦れの音は、庶民には出せません・・・。

 所詮は作り物として楽しむということですね。それは平安時代も同じかもしれません。帝への不敬罪を適用せずに、楽しんでしまっていますね。源氏物語の世界を地でいった和泉式部などは、「不倫女(浮かれ女)」と藤原道長に嫌われております。現在の私たちがトレンディドラマを見るのと同じで、フィクションとして見ていると思います。それと、現代人が王朝の美を感じるように、あちこちに和歌なども書いてありますし、そういう和漢の教養や文学的才能を、物語を通して見せる場でもあったのでしょう。
半面、武家の時代とは違って、こういう物語を、作り物として楽しむ文化的な余裕もあったということは言えるかもしれませんね。

 服装や貴族趣味からではなくて、もちろん、源氏以前の歌物語程度の書き物を、いきなりあそこまでの長編小説に持っていたその能力や人物描写の力や、文化的な意味を評価している人もたくさんいるでしょうけどね。 

 徳川時代は儒教道徳の観点から、「不倫の書」として卑しまれていたそうです。どの程度一般的な見方かは知りませんが、武士の道徳からは許せないでしょう。天皇崇拝者にも我慢ならない内容でしょうねぇ。

 内容は、金妻ですね。個人的にはイヤですね。道徳的にというより、色々めんどくさそうですし、悩みの種も増えて結局苦労してそうなので、あこがれはしません。でも、たくさん恋愛してることに、たくさんの愛を経験したとか言いつつ美を感じる人には、ドロドロした駆け引きもまた優雅に思えるかもしれま...続きを読む

Q紫式部が源氏物語を書いた理由、と、清少納言が枕草子を書いた理由

こんにちわ、初めまして。
学校の課題で、紫式部が源氏物語を書いた理由、と、清少納言が枕草子を書いた理由を記録に残されている根拠を使って書く、という課題が出たのですが、図書館などで本を見てもあまり「創作動機」については記されていません。ちょっと詳しめに、もしよろしければ作文形式でお返事ください。
どうかお助けください。宜しくお願いいたします。

Aベストアンサー

枕草子については、跋文に書かれていることから類推するのが一番でしょう。
ただ、枕草子が枕草子として成立した理由は「つれづれなる里居のほどに」「目に見え心に思ふことを」「書き集めたる」が「心よりほかにこそ漏りいでにけれ」とあるんですが、書き始めた理由は「ない」んですよね。
単なるメモですから。大げさな「書き始めた理由」なんてないんです。
http://www.h3.dion.ne.jp/~urutora/maku2.htm#319

源氏物語については「書いた理由」は、現代では「分からない」が正解ですよ。
土佐日記のように「おとこもすなるにきといふものををんなもしてみむとてするなり」という動機は見当たりませんから。
「源氏物語」は、物語なので作者が書いた動機を入れるのは変ですしね。
また、「記録に残されている根拠」と言っても、当人の談でなければ「根拠」とは言えないでしょう。

#3さんがおっしゃっているように「文献に拠っていれば、作者自身の述べるところでなくともかまわない」というのであれば、源氏物語に関しては、『無名草子』もありますよ。
このあたりが参考になるのではないでしょうか。
http://www.asahi-net.or.jp/~mq9k-ymst/KYkobun/sakuhin/murasakisb/kaisetu.htm
http://www.f-izumi.com/~bk8s-sndu/mei37.html
http://www.f-izumi.com/~bk8s-sndu/genji.html

大斎院選子内親王から上東門院彰子に「退屈しているので、何か物語を貸してください。」という依頼があったので、彰子が「どれを差し上げたらいいかしら。」と紫式部に相談をした。
紫式部が「新しく作って差し上げては?」と申し上げたら、彰子が「じゃあ、あなたが作りなさい。」と言われた。
それで、源氏物語を作って差し上げた。

という話ですね。
尤も、源氏物語は、紫式部が上東門院彰子に仕える前から書いていた…とされていますから、説としてはどうでしょうか。

当時は、「紙」が高価なものでしたから、随筆や物語を書く、書き留めるだけの「紙」を手に入れることができたから書いた…という言い方もできるのではないでしょうか。

枕草子については、跋文に書かれていることから類推するのが一番でしょう。
ただ、枕草子が枕草子として成立した理由は「つれづれなる里居のほどに」「目に見え心に思ふことを」「書き集めたる」が「心よりほかにこそ漏りいでにけれ」とあるんですが、書き始めた理由は「ない」んですよね。
単なるメモですから。大げさな「書き始めた理由」なんてないんです。
http://www.h3.dion.ne.jp/~urutora/maku2.htm#319

源氏物語については「書いた理由」は、現代では「分からない」が正解ですよ。
土佐日記のよう...続きを読む

Q文学は何の為に存在するのか? 文学の存在意義・定義・役割

タイトルの通りです。

文学は何の為に存在するのでしょうか? 社会における文学の存在意義・定義・役割とは何でしょうか? 
無知で大変恐縮ではありますが、他に言い様が無いのであえてストレートに質問させて頂きます。

これにまつわる回答をお持ちの方、意見、ご事情などをご存知の方がいらっしゃいましたら、小さい事でも構いませんので教えて下さい。
同意、反論、ご指摘など何でも結構です。
あるいは私が後述で雑感を記載しておりますので、これに対するご意見があればお願い致します。

尚、私自身は極力本を読むようにしていますが、ここにいらっしゃる皆様方と比べて、読書量は全く少ないであろう事だけ先に申し上げておきます。

佐藤優は亀山郁夫との対談で「文学はインテリと話す為の方便」とバッサリ切っており、私も文学と呼ばれるものに対して、実用にはこの編(会話の種)くらいしか使えないのではないかと思うのです。つまりは実用には耐えないが、芸術的な部分で残っているのかな、と推測しているのですが、そうした場合、大学における文学部の位置が芸術的な位置に行くのかと思いきや、現在はパッと見、実学的な位置に置かれているように思えてなりません。
文学は一見何の役にも立たないように見えるけれども、実はこうした部分でかなり役に立っているんだよ、という部分があるのではないかと現在想像しているのですが、皆目どの部分で現実の社会に対して役に立っているのか分からないので質問させて頂きました。

以下、私が思う雑感です。

1.
「怒りの葡萄」は資本主義における社会的欠陥を問題提起しており、社会に対して注意喚起をするという媒体として役に立っておりますが、これは別に当時のニュースや歴史書でも良い。あるいはその事件を発端とした批判や感想などでも良く、最終的に伝えたいメッセージを搾り出す前に「怒りの葡萄」は不要な描写が多すぎるのです(情景の描写など)。

2.
国語力をつけるというのであれば新書などを読めば事足りるのではないかと思うのです。
無論、基本的な部分で国語力をつける為に必要最低限の本は読むべきなのでしょうが、それが今現在、文学を残す為の理由とするには弱いように思えます。

3.
文学から日本国体の体現の為の下地を作るという実用もあるかと思いますが、
枕草子なんかを読んで「ああ、そうそう」と共感を得たり、
芭蕉の俳句で”閑さや岩にしみ入る蝉の声”を読めば「こんなんあるわー」と思ったり、
そうした感覚というのは文学ありきではなく、日本人として自然に身に付く感覚なのだと思うのですね。
むしろ、日本人の教養としては、古典や名文の前に「学問のススメ」などの社会生活を送る際の気構え入門書のような実学的なものを読むべきだと思うのです。

また、上述で挙げた名文を読む際に感動はあるのですが、それでは近年の文学で良作とされるノーベル文学賞を受賞した川端康成の「伊豆の踊り子」を読んだ時に感動はあるかというと、私見ではありますが感動を受ける事ができませんでした(川端ファンの皆様、申し訳ございません)。

霊長類たる人類が作り得る文化遺産を残す為、あるいは何か人に思想やら感覚やらのテーマを与え、文化的な感動を与えたり、冷酷な事実を突きつける事が文学の役割かなと思っておりましたので、個人的な評価ではありますが、普遍的テーマとしての感動が無い作品郡を書いている方が賞で評価される、といった面を鑑みると、川端康成が世間的に評価されている手前、文学というものの意義というのは私が考えている文学の存在意義と乖離しているのではないのかな、と疑問に思ったのが発端でした。

4.
文章を後世の人の魂が震える綺麗な形で残すのも文学の役割なのかな、とも思っています。
「知もて露西亜は解し得ず。ひたぶるに信ずるのみ。」
「知識を持ってロシアという国は理解する事はできない。ひたすらに信じるしかない。」
という二つの文はどちらも最終的な意味として同じものですが、どちらかというと前者が人に感銘を与える、文学的である、そして上の文を残すべきだと私は思っているのですが、これは当たっているでしょうか? 

伊豆の踊り子、斜陽、シェイクスピア4大作品、カラマーゾフの兄弟(現在は上巻のみ読了)などを読み、時間を浪費した、という感じが拭えません。
この文学というジャンルはこれからも読む意義や意味があるのだろうかと、時間を割いて読む必要があるのかという疑問が沸いております。
そこで、文学の存在意義、意味を知れば、そうした観点から文学の実用的意義が見出せるのではないかな、と感じました。

乱文になってしまった部分もあるかと思いますが、どなたか思う所がある方がいらっしゃいましたら、ご教授頂きたく宜しくお願い致します。

タイトルの通りです。

文学は何の為に存在するのでしょうか? 社会における文学の存在意義・定義・役割とは何でしょうか? 
無知で大変恐縮ではありますが、他に言い様が無いのであえてストレートに質問させて頂きます。

これにまつわる回答をお持ちの方、意見、ご事情などをご存知の方がいらっしゃいましたら、小さい事でも構いませんので教えて下さい。
同意、反論、ご指摘など何でも結構です。
あるいは私が後述で雑感を記載しておりますので、これに対するご意見があればお願い致します。

尚、...続きを読む

Aベストアンサー

1.

フーバービルまで辿り着けなかった私が言うのもなんですが。
情景描写対象に何を選ぶかに関しては、作家のこだわりというものがあります。

これは私見なのですが、作家が何かをしつこいぐらい描写するとき、その描写対象を深く愛している場合が多い。きっと「俺の中のこれを文章で再現したいんだよ!」と必死で頑張っているので、温かく読み飛ばしてあげてください。ジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』なんか、なぜか無駄に猫描写がありますし。もちろん、単に小道具みたいな感じで、より物語を現実らしく見せるためだけに書かれる描写もありますが。

言いたいことを物語に仮託する作家の中には、自分のことを直接言うのが気恥ずかしいと思っている方々がいます。照れ屋さんなんです。そういう方々は、物語の中の「私」とか「彼」に自分の意見を言わせるんですよ。物語だと「神を信じる」「神を信じない」というような矛盾した考えが同じ人間に生じたときにも、別々のキャラクターに言わせることができます。そうすれば無神論者だとかつっこまれても言い訳が可能です。
言論弾圧されている場合もしかりです。太宰とかあれな作風なのでナルシストとかいろいろ言われますが、戦時中に戦争礼讃の文学なんて一行も書きませんでした。

何を言いたいか、ということよりも、物語を通して、読者にある世界を追体験させたいと思っている作家達がいます。
ミヒャエル・エンデは読者にこう問いかけます。

「小説でカフカが言わんとすることが、評論家がその小説を解釈して述べることであるとすれば、なぜカフカはそれをはじめから書かなかったのでしょうか?」

安部公房はインタビューでこう答えます。

「日本の国語教育というのは、文章があれば必ず「右の文章の大意を述べよ」とくる。文学作品というのは、大意が述べられるという前提、思いこみ。ぼくの作品も教科書に載っているんですが、「大意を述べよ」といわれたら、ぼくだって答えられない。 ひと言で大意が述べられるなら、小説書かないですよ。 小説というのは、まだ意味に到達していないある種の原型を、作者が提供し、読者はそれを体験する。際限なく読み尽くせるでしょう。無限の情報ですよ、現実は」

二人ともカフカに強い影響を受けているのは、興味深いですね。

2.

まあ、役に立たないと言えば、立たない。単なる趣味です。でも古典を読むようになって、ときどき身につまされることがあります。それは、今私達が何気なく日常的に使っている言葉でも、昔の作家が発明したり、頑張って翻訳した言葉だったりする、ということ。
例えば、「猟奇」は「curious hunting」を、佐藤春夫が訳したものです。

3.4.

実学のほうが、確かに万人に受けいれられる「価値あるもの」かもしれません。でも、どうでもいいようなものに慰められることってありません? 道端に咲いている雑草とか、つまらない冗談とか。
文学って、そんなどうでもいいものに似ていて、誰にでも届くものじゃないと思っています。メッセージボトルなんですよ。同じように思っている人間には届くけど、届かない人間もいる、みたいな感じ。要するに合わない人にはとことん合わない。川端がだめな人もいるし、太宰がだめな人もいる。

私が大好きな作家に開高健という方がいて、なぜ書くかと聞かれたときに、「助けてくれのひとこと」だと言っています。また、どんなに絶望的なことを書いていても、字でものを書いている限り、作家はヒューマニストなんだ、とも。
信じられないかもしれないけど、世の中に絶望しきっていて、書かないと死ぬってタイプの人間は確実に存在します。
愛する妻の死後に広島で被爆した原民喜、アウシュヴィッツから生還したプリーモ・レヴィ……
二人とも最期は自殺してしまったけれど、本当に物語を書いていてくれて良かった、と私は思います。

こんな風に必死に文章を書くことで、精神的危機を乗り越えている作家が特に多いのは、文学、今では純文学と呼ばれている分野なんですね。なぜって、絶望的なことだけを書いてもエンターテインメントにはなりにくいから。だからサブカルチャーを楽しむことが多い私は、純文学の偉そうな雰囲気を腹立たしく思いつつも、存続してほしいと思っています。

思うところを書いていたら、長文・乱文になってしまいました。読みにくかったらすみません。

1.

フーバービルまで辿り着けなかった私が言うのもなんですが。
情景描写対象に何を選ぶかに関しては、作家のこだわりというものがあります。

これは私見なのですが、作家が何かをしつこいぐらい描写するとき、その描写対象を深く愛している場合が多い。きっと「俺の中のこれを文章で再現したいんだよ!」と必死で頑張っているので、温かく読み飛ばしてあげてください。ジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』なんか、なぜか無駄に猫描写がありますし。もちろん、単に小道具みたいな感じで、より物語を現...続きを読む

Q舞姫について

高校の頃、教科書で学び、最近改めて読み直しましたが、大学になった今でも私が成長してないのか(^^;読後の感想は変わりませんでした。
文体が美しかったり、文学的要素はあるのだと思います。が、確か自分をモデルにした小説だったと思いますが、内容がどうも私には、筆者が「自分はエリートな男な上に、女にももてるんだ」と自慢しているようにしか感じられないのです。そもそも、女をあんな目に合わせて、それを小説化するとはどういうことだと私は思ってしまいます。
しかし、教科書にも載る程の文学ということは、何か内容的にもすばらしいところがある気がします。
そこで、私とは違い、この小説の内容はこんないいところがあると理解できる方、是非どんなところか教えて下さい。
この作品に対して違った見方をしてみたいです。

Aベストアンサー

明治文学の一愛好者として回答させていただきます。

まず、ほかの回答のなかにも誤解していらっしゃる方がいるようですが、『舞姫』に出てくる太田豊太郎は森鴎外の創作人物です。
にもかかわらず、『坊ちゃん』の主人公と夏目漱石をだれも同一視することはないのに、鴎外と豊太郎を平気で同一視して解釈しようとする人が多いことが不思議です。
まず、鴎外=豊太郎とする見方を捨ててください。

>女をあんな目に合わせて、それを小説化するとはどういうことだ

鴎外がElise Wiegertという女性と恋愛関係にあったことはいくつもの資料が指摘するところです。

けれども、鴎外が帰国した二ヶ月後の明治二十一年九月十二日、彼女は鴎外のあとを追って来日、築地の精養軒ホテルに一ヶ月滞在した後、帰国します(鴎外は、二十二年後、48歳という年齢になって、その経験をもとに『普請中』という短編を書いています)。

このElise Wiegertがどういった人物なのかはよくわかっていないのですが、とにかく鴎外を追って単身日本に来れるような彼女が、少なくとも作品中の「エリス」とはずいぶん境遇がちがったことは間違いない(当然狂気にも陥っていないし、妊娠の事実も疑わしい)。
むしろ、ごく普通の恋愛だった、と見るべきではないかと思います。

>筆者が「自分はエリートな男な上に、女にももてるんだ」と自慢しているようにしか感じられないのです

自慢がしたいなら、「エリス」を令嬢として描き、そんな極悪非道な仕打ちを書くかわりに、どれだけ彼女が別れをつらがったか、さらに「彼女ったらオレを追っかけて、日本にまできたんだゼ~、どうだ、オレってすごいだろー」と書けば、(文学として成立するかどうかはともかく)作者の自尊心は、はるかに充たされるはずです。

豊太郎はエリスに対してひどい仕打ちをする。
おそらく『舞姫』を読む人のだれもが、太田豊太郎を嫌いになるはずです。
豊太郎の行動を、批判するはずです。
憐憫を持つことはできても、好きにはなれない(たとえば「坊っちゃん」をキライになるのがむずかしいと同じくらい、豊太郎は好きになるのがむずかしい人物です)。

どうして鴎外は、あえて主人公をそのような人物として造型していったか。
また同時に、そんなひどい人間を描いた小説が「明治時代の青春を象徴する小説」(中村光夫『日本の近代小説』岩波新書)として、今日まで読み継がれてきたのか。
そこを読み解いていかなければならないと思います。

この場で読解をやっていく時間もスペースもありませんので、比較的手に入れやすい参考文献をひとつあげておきます。
山崎一穎『森鴎外 明治人の生き方』筑摩新書、とくに第四章「作家誕生 ――『舞姫』を読む」では、読解と作品が誕生した経緯が描かれています。

「鴎外が『舞姫』を発表した時、不特定多数の読者を対象にしてはいない。豊太郎の文脈に添えば、手記の読者として想定可能なものは、「心ある人」であり、豊太郎とエリスとの行実を「あやしみ、又た誹る人」であろう。これを鴎外の文脈で語るならば、エリス(エリーゼ)に代表される西欧の自由と美に象徴される市民精神を自らの手で扼殺した己れの生のあり様を「心ある人」に告白することであり、「この行ありしをあやしみ、又た誹る人」として陸軍軍医部の上官、特に石黒忠悳へ向けられた痛烈な刃であった。おそらく『舞姫』発表は対自家用(鴎外の母や妻登志子)を超えた標的に向けて放たれた小説であり、鴎外としても自己の進退を賭けた表現であったと言える」(引用同)

以下、簡単にわたしの解釈を書きます。
やはりこの小説を読むとき、何よりも忘れてはならないのは、明治という時代の特殊性です。

こんにちのわたしたちは、「日本」というものをそれほど意識せずに生活していますが、江戸末期に生まれた文学者、たとえば坪内逍遙も、二葉亭四迷も、そして鴎外も漱石も、「日本」をどうしていくか、が、自分の人生をどう生きていくか、と表裏の問題としてあった(エリートというのは、そのような社会的重責を課せられた存在でもあったのです)。

とくに鴎外は、ほかの文学者たちが、ともかくも文学を専業(二葉亭の場合はなかなかそういうのもむずかしい側面はありますが)としていたのに対して、陸軍の軍医として、作家とは別の顔を持っていた。

おそらくは鴎外の内面は、公的な生活の充実にもかかわらず、ひどく空虚な部分があったのではないか。
その空虚さとは、当時の日本の「外発的開化」の現状とも結びついていた。
鴎外の創作活動は、その精神的空白を見据え、なんとか埋めようとしたものではなかったか。
その空白は、早くも『舞姫』のなかに胚胎していたと思うのです。

冒頭、豊太郎は自己を恨みます。自分のしたこと、自分の卑しさを、だれよりもよく知っている。
おそらく豊太郎は、どれほど世間的に成功しても、みずからに対する尊敬の念を取り戻すことはできないでしょう。
だれよりも、鴎外がそれを許さないものとして『舞姫』を創作した、と考えることができると思います。

『舞姫』はこの文章で終わります。
「相沢謙吉が如き良友は世にまた得がたかるべし。されど我脳裡に一点の彼を憎むこゝろ今日までも残れりけり」

相沢謙吉とは誰か。
豊太郎を日本に連れ戻した友人は、同時にまた母であり、日本でもあったのではなかったか、と思います。

明治文学の一愛好者として回答させていただきます。

まず、ほかの回答のなかにも誤解していらっしゃる方がいるようですが、『舞姫』に出てくる太田豊太郎は森鴎外の創作人物です。
にもかかわらず、『坊ちゃん』の主人公と夏目漱石をだれも同一視することはないのに、鴎外と豊太郎を平気で同一視して解釈しようとする人が多いことが不思議です。
まず、鴎外=豊太郎とする見方を捨ててください。

>女をあんな目に合わせて、それを小説化するとはどういうことだ

鴎外がElise Wiegertという女性と恋愛関...続きを読む

Q日本文学における「近代的自我」って、わかりやすく言うとどういうこと?

いまいち、ピンときません。近現代の日本文学を理解する上では必須の概念のようですが。たとえば、封建時代には無かったこういう考え方が、明治以降の思潮として生まれた…というような具体例をふまえて、わかりやすく教えていただけませんか。素人にわかるようにお願いいたします。

Aベストアンサー

明治以降、戦前までの、あるいは現代にいたるまでの日本の文学を貫く大きな主題を「近代的自我の確立」として見ていく、というとらえ方があります。

大雑把に言うと、
西洋近代社会の根本には、近代的自我があった。
それに対して、封建時代を続けていた日本には、近代市民社会というものは存在しない。そして、その核となる近代的自我もない。明治に入って、外圧によって開国を余儀なくされ、西欧列強に植民地化されないために、社会は急激な近代化を遂げた。

けれども、それは、西洋のように、近代的自我が自然な発達段階を経て成熟し、それと軌を一にして市民社会も成熟した、その結果としての文明ではないわけです。
そのギャップを埋めようとして、なんとか個人の内側に「自我」というものを確立しようとして苦闘した、一連の作家がいる、という考え方です。

ではヨーロッパの近代をささえた「自我」とはなんなのか。

これをまた考え始めると、大変なのですが、ここでは簡単に、「わたしとはなんなのか(わたしはなぜわたしなのか、わたしと他者はどうちがうのか、といった一連の質問も含みます)」という問いを立て、それに答えていくこと、としておきます(もし自我とはどういうことか、に興味がおありでしたら、宮沢賢治の作品を自我という観点から読み解いていく見田 宗介『宮沢賢治―存在の祭りの中へ』 岩波現代文庫が大変おもしろく、参考になるのではないかと思います)。

ヨーロッパ社会では、キリスト教の強い支配と、封建的な身分関係のなかにあって、ひとは、社会からも、神からも自由で独立した「わたし」を想定してみようとも思わなかった時代から、近代に入って、自我が哲学の中心的な問題となっていきます(ヨーロッパ社会の中で「個人」という意識がどのように確立していったか、ということに興味がおありでしたら、作田啓一『個人主義の運命』岩波新書を。この本は手に入りにくい本ですが、非常によくまとまっています)。

近代社会を構成するのは、ひとりひとりの市民である。そしてその市民は「自我」を有している。これがヨーロッパの近代を支える思想であり、ヨーロッパの近代文明を裏打ちしているのは、その思想であったわけです。

さて、上でも言ったように、ヨーロッパでは百年~二百年の期間を経て成熟していったところへ、日本は一気に追いつかなくてはならなくなってしまった。

文学も、それまでの戯作文学のように、楽しみのためだけに読むようなものではダメだ、西洋の芸術観に基づいた新しい文学が生まれなければならない、と、そのように考えられるようになった。そうやって、明治二十年代に入って、新しい文学が起こってきます。

その代表的な作品が、二葉亭四迷の『浮雲』、あるいは森鴎外の『舞姫』です(『舞姫』に関してはhttp://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=993639で回答しているので、もし興味がおありでしたら、ご覧になってください)。

両者とも、知識階級の青年を主人公にしています。
主人公は、どういうふうに生きたらいいか考え、悩み、自分が良いと信じる生き方と、社会の現実が相容れないことに悩みます。
つまり、現代までつながってくる問題が、明治二十年代に、初めて登場したのです。

この二葉亭や鴎外がここで提出した問題は、そののち、鴎外自身や漱石によって深められ、あるいは明治四十年以降からは私小説という表現形式をとって現れたりもします。

その現れはさまざまだけれど、いずれも、社会のなかで生きる「わたし」は、社会から独立した存在である、それゆえに、社会とは相容れず、みずからの理想を、社会のなかで体現することもできない、その「わたし」は、いったいどう生きていったらいいのだろうか、ということを、日常生活のなかに描き出そうとするものだった。そういうものが、日本の近現代の文学であった、と概観することもできるわけです。

非常に大雑把に書きましたが、「日本文学における近代的自我の確立」と言ってしまうとずいぶんたいそうなことのようですが、その内容は、そうしたものである、と考えて良いのではないでしょうか。

明治以降、戦前までの、あるいは現代にいたるまでの日本の文学を貫く大きな主題を「近代的自我の確立」として見ていく、というとらえ方があります。

大雑把に言うと、
西洋近代社会の根本には、近代的自我があった。
それに対して、封建時代を続けていた日本には、近代市民社会というものは存在しない。そして、その核となる近代的自我もない。明治に入って、外圧によって開国を余儀なくされ、西欧列強に植民地化されないために、社会は急激な近代化を遂げた。

けれども、それは、西洋のように、近代的自...続きを読む

Q紫式部についてのレポート(現代文学への影響)

これは社会のレポートなのですが、紫式部について調べています。
レポートを書くのが初めてで、どのようなことを書けばいいかわかりません。(一応図書館で資料になりそうな本を何冊か借りてきました)
紫式部について書くときに、ポイントになるようなことがあれば教えてください。

また、その人物と現代の関わりを書かなければならないのですが、なにかありますでしょうか。

現代との関わりとして、「紫式部(源氏物語)が現代文学に与えた影響」を書こうと思うのですが、そこが具体的に分からないので教えてください。(ここが一番教えてき頂きたいところです)

いくつか質問がありますが、どれか一つでもかまいません;
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

No.1のkadowaki様がご指摘なさった『源氏物語』の現代語訳を試みた作家以外の
古典に精通したとされる近現代の作家、学者等にも着目してみてはいかがでしょう。

例えば、2000円札紙幣裏面のモチーフは言うまでもなく紫式部ならびに源氏物語絵巻(現存する我が国最古の絵巻物)第38帖「鈴虫」の絵図と詞書ですが、
同じく紙幣(5000円札)の肖像として選定された樋口一葉について。

わが国を代表する教養深い才女であればこその、『源氏物語』に寄せる格別な思いというものが恐らくあったに違いありません。
そしてそれが彼女の文学上にどのような影響を与え、形となって見受けられるのでしょうか。

また、江戸時代の国文学者である本居宣長と、彼が焦点をあてた源氏物語を貫く「もののあはれ」について。
この「もののあはれ」という日本人独特の美的感覚・精神性は、今までに「著名な批評家」や学者を通じて研究が行われてきています。

そしてそれらを参考にしつつ、質問者様ご自身が身近に共感を覚えるであろう具体的事象を一つずつ考察してみても面白いかもしれません。
1000年の時を経て感じるであろう現代人の「もののあはれ」とは一体どのようなものなのか。
そしてその言葉の意味合いに何らかの変質や広義の解釈の余地がどれほど認められるのか。
このあたりは個人のライフスタイルや感性によって随分と見解が異なるところでしょう。

更に、谷崎と同じく耽美的な作家とみなされがちな三島について。
『豊穣の海』等でみられる「ある種尋常ではない早逝への執着、憧憬、美意識」は、
儚く薄命な女人達を鑑みて『源氏物語』から少なからず影響を受けているに違いないと個人的に思いました。

ただ、三島の場合は「男性」が夭折しがちなのですが・・・(笑)

No.1のkadowaki様がご指摘なさった『源氏物語』の現代語訳を試みた作家以外の
古典に精通したとされる近現代の作家、学者等にも着目してみてはいかがでしょう。

例えば、2000円札紙幣裏面のモチーフは言うまでもなく紫式部ならびに源氏物語絵巻(現存する我が国最古の絵巻物)第38帖「鈴虫」の絵図と詞書ですが、
同じく紙幣(5000円札)の肖像として選定された樋口一葉について。

わが国を代表する教養深い才女であればこその、『源氏物語』に寄せる格別な思いというものが恐らくあったに違いあ...続きを読む

Q人間の3大欲とはなに?

この質問は このジャンルでふさわしいのかどうかちょっと迷ったのですが・・・。

人間の 3大欲といわれるものがありましたよね。
あれは 食欲と 後はなんでしたでしょう?

また その「人間の3大欲」という言葉は
誰が 言い出したのでしょうか?

Aベストアンサー

人間の三大欲望は
食欲 睡眠欲 性欲 です。
食欲は,物を食べ,エネルギーにする事。
睡眠欲は,睡眠をとり,脳を休ませること。
性欲は,トイレで用をたしたり,エッチをしたり,する事
この3つはある程度は我慢が出来ますが,人間が生きていくためには必ず必要なことです。欲望というより,必要不可欠なことです。
でも、このことを言った人はわかりません。昔からの言い伝えではないでしょうか?

似たような語で,「衣・食・住」これは、生活の上のことです。


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