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こんにちは。
先日(といっても年始)、「千年の恋 ひかる源氏物語」を見に行った話を友人にしたら、彼は「源氏物語ってエロ小説だろ、あれのどこが素晴らしいのか、女の子が面白がる理由が理解できない。」と言われました。確かにそういわれると身も蓋もないのですが...
私は「女性が書いたはじめてのかな文学の長編小説である」という歴史的意味があると解釈している(この認識自体が間違ってたらどうしよう...)のですが、あの物語の凄さについて、友人を納得させられるよい回答がありましたら教えて下さい。

A 回答 (6件)

私も源氏物語大好きです。



世の中がどういう風に、あの物語を認めているのかは知りませんが
私は「王侯貴族の豪華な雅やかな恋愛物語」だと思っています。

あれの価値は当時の風俗を今に伝えているというところもあるんじゃないかなーとも思いますよ。
彼氏の「エロ小説」って評価はどこから出てきたんでしょうね。
(何か変なエロ小説でも読んだのでせうか(^^;問い詰めといてください)
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源氏物語というのは,当時のトレンディー小説といったものでしょうネ。


では,それに価値があるのか?という点については‥
歌舞伎は当時の時事劇ですよネ。
徒然草なんかも当時の噂話集といったものですし‥
それと同じで,古典というのは当時の生活や風習を窺い知ることができるという点で大きく評価できるのではないでしょうか?
源氏物語については,当時の風習からすれば,別に「エロ小説」というわけではありませんネ。
古事記なんかにしても,生々しいことが沢山書かれています。
万葉集などの古典和歌集にも,性生活などを詠ったものが多数のこされています。
こういったものも全て「エロ」物になってしまうのでしょうか?
源氏物語は,その登場人物の複雑さにもかかわらず,きちんと矛盾無くストーリーが展開していますネ。その一点だけを捉えても素晴らしいものであると思いますヨ。
以上kawakawaでした
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エロといっちゃぁナンですが、実際それって立派な文学の


テーマだったりするわけです。

そもそも、(見方によっては)
人間って、生まれてエロって死ぬものなんです。
(まぁ、一般的には、ね)

言葉悪いから変な感じですが、
どれだけ壮大で素晴らしいエロができるか、というのは、
人間の一大テーマとして(しかも切実なテーマとして)
認めてもいいんじゃないでしょうか?

まことにもって、
エロについての認識を新たにして欲しいと切に願います(?)

っていうか、エロって言うからいけないんですけど。

ところで、源氏物語は単なるエロではありません。
江戸の黄表紙とかと比べてもらえば、スケールの違いってものが
すぐに分かると思います。
これだけ立派な大法螺が吹けるというのは、やはりそれだけでも
文学的に凄いことだと思います。
それから、もちろん、根本的な品(ヒン)の違いというのもあります。

ある人たちは、源氏物語を日本の最高の文学だといいます。
これを超えたものはない、と。
本当にそうかどうかは、もちろん私の知るところではありませんが。

どうでしょうか?
けっこう凄いんじゃないかなって気になったでしょう?
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たしかに、平安時代には、格調高い文学作品としてというより「長大な恋愛もの」、今でいえばハーレクインロマンスのような読まれ方をしていた面があると思います。

古典なので勉強して読まねば!という人はいなくて、「源氏と朧月夜はどうなるの!?どきどき」とか「薫大好き!」みたいな読み方が多かったのでは、と私は想像しております。

そんな長大な物語が、現代まで(つまり千年も)読み継がれていることに価値があるし、それだけの魅力ある作品であることは間違いないでしょう。
もちろん、女性が書いた初めての長編小説であることも歴史的意義があります。

純粋に物語としての魅力をあげると、
・膨大な登場人物一人ひとりの書き分けが出来ていて、魅力ある様々な
 人物を創造している。
 なんせ、源氏占い(クイズに答えると、「登場人物の誰か」という
 診断ができる)というのがあるほどですから。
 (最近となえられ始めた説ですが、それぞれの人物に合わせて
  和歌のうまい、へたのレベルも書き分けられてるらしいです)

・光源氏という人物(ヒーロー)の創造。
 (在原業平につぐアイドル?を女性の手でつくった)
 どんなに評判が悪くっても、日本人みんな「光の君」というと
 知ってる、というのはすごいこと。好き嫌いは別として。

・長い年代にわたる一大ロマン小説の構成
 桐壺から宇治十帖まで、親子3代にわたる長編ロマンというのが
 千年前に描かれていたことはすごい!
 付録の家系図なんか読むとくらくらしますね。人物多くて。

古典としての価値は
・当時の風俗・習慣・考え方(仏教の思想など)を垣間見る
 ことができる。
・膨大な数の和歌(登場人物が作ったとされている)が載っている。
・古文の味わい。
・当時の都(京都)の様子をしのぶことができる。
 (今でも嵯峨野・宇治に行き、源氏ツアーが楽しめます)

結局、ひとつの小説作品として考えると、好き・嫌いは分かれるでしょうし、
光源氏を良いと思うか否か、でも評価は分かれるでしょうね。

でも、女の子の面白がる理由の一つはやはり、光が好きか、または、やはり時代は違っても人の恋愛話は面白い、ということではないでしょうか・・・。
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  藤式部の『源氏物語』が、今日伝わるようなまとまった形の作品として、ほぼ欠落なく残っているのは、12世紀から13世紀にかけての歌人で、『新古今和歌集』の選者でもある藤原定家が、世に流布する『源氏物語』の手稿本の乱れを嘆いて、自分がここで「正しい版」をまとめておかなければ、この傑作大作が、素人や無知な者や教養のない人々の手で、本来の素晴らしさが歪められて、やがて価値が下落し、湮滅する惧れもあると考え、多数の写本を収集して、編集したので、現在、かなり綺麗な形で残っているのだとも云えます。
  
  (その代わり、定家解釈の『源氏物語』が成立し、原作は大分違う可能性があるという指摘があります。定家は、原作の「再現」ではなく、自己の美意識に従って、「編集」を行ったので、写本系統が、ここで「定家本=青表紙ヴァージョン」に決められてしまったのです。定家が編集のため集めた古写本が、全部そっくり残ってくれれば、よかったのですが、一個人の蒐集ですから、彼の死後、散逸し、定家本以前の古写本は、定家ヴァージョンによって、駆逐される結果になったということもあります)。
 
  定家が何故そこまで高く評価したのか、そもそもこのような歴史的経緯も知らないで、エロ小説も何もないでしょう。原作を少しでも読んでみたら、「エロ小説」どころか、現代人の文章感覚だと、何が何か分からないということになるでしょう。光源氏が紫上と最初に契ったときのエピソードは、原文では、どこにも具体的に書かれていません。話の場面が切り替わると、突然、「ある朝、《女君》は」という風に、これまで、紫上を呼んでいたのと違う呼び方で、紫上を呼び、源氏自身は「男君は」という風に出てきます。その後、何かすねてているとか、餅がどうしたとか、そういうことが書いてあるだけで、どこにも、源氏が紫上と最初に交わったとは書いてありません(二人が読んだ歌を読めば、何があったかは、明白この上ありませんが。しかし、歌も多義的で、婉曲に述べています)。ただ、「女君」と紫上が呼ばれた時点で、それまでの源氏との関係が変化して、具体的な「男女の関係」になったということが分かるのです。
 
  こういう感じなので、当時の「文体」や「表現法」を知らないと、エロも何も、そもそも何が起こって何がどうなっているのかもさっぱり分からないはずです。現代語訳でも、よほど意訳した場合は、分かりますが、原文に忠実に訳している、円地文子の訳では、すでに知っていないと、何が起こったかよく分からないようになっています。また、原作中では、男の主要登場人物は、その官位で呼び、女の場合は、通り名で呼ぶので、話の進行を敏感に把握していないと、誰と誰が何をどうしているのか、原作では、さっぱり分かりません。確か、明治時代に、明治政府が、さる教養ある有名な閨秀文学者に、『源氏物語』の現代語訳を依頼した所、「あのようなけがらわしい話は見るもいやです」とはねつけられたという話がありますが、これは、平安最高級貴族階級の生活習慣の常識が、その後の儒教的な「貞節」とか、そういう時代や社会背景を異にする文化慣習のなかで、誤解されたのだということでしょう。
 
  と前置きが長いですが、『源氏物語』は、「小説」ではなく、あくまで「物語」なのですが、世界的な文学史上の金字塔でしょう。ホメーロスの『イーリアス』などにも比肩できるでしょうし、ローマ古典詩人たちの作品にも負けないでしょう。
 
  >「女性が書いたはじめてのかな文学の長編小説である」という歴史的意味
 
  というのは、最低限の評価で、日本文学史上の傑作というだけでなく、世界的スケールの文化遺産なのです。
 
  あの作品は膨大な長さがある訳で、全体構成から言うと、三つぐらいに分かれ、調和していない面が幾らかあるのですが、敢えて調和させていない可能性があり(最終ヴァージョンつまり、第三ヴァージョンは、藤式部は十分推敲する余裕があったはずだからです)、また、大長編として、入れ子構造で、色々な物語が入っていて、バランスを考えていると、それが幾らか気になりますが、そういう構成もまた、大長編の結構というか、作り方の技法とも言え、これは、藤式部に先行する物語文学などで、すでに類例があるのですが、『源氏物語』ほどに完成した形で提示されたものは皆無なのです。世界的に見ても、あの時代において、あそこまで完成度の高い、近代小説にも近い構想と展望を持つ大長編物語文学が成立したというのは、たいへんなことだとも云えます。ダンテ・アリギエリの『神曲』に匹敵するでしょうし、それを越えている可能性があります。
 
  物語文学、歴史物語、縁起譚などの様式を持ちつつ、しかし、登場人物の心理洞察において、近代小説の心理描写を先取りしているのですし、何よりも、「人間の生き方」という「実存の課題」を中心主題に据えて描かれているというか、構成されているのが、時代的にみると、想像を絶して、素晴らしいことなのです。
 
  光源氏という大金持ちで尊い身分の大プレイボーイが、一生涯プレイボーイで、大ハーレムを造って、遊びまくり、その息子の世代も、また色事に狂って遊び回った話などではないのです。
 
  まだ、「教養小説(Bildungroman)」などという概念のなかった時代です。西欧にも中国にも、世界中のどこにもそういうスタイルの文学はなかった中で、ああいう壮大な規模で、ビルドゥングロマンを構成したというのは、素晴らしいとしか云えないということです。「物語」は、普通、登場人物の経験による「成長」というものを主題にしていません。結果的に「成長」が描かれている場合でも、それは付随的に現れているものだと云えるでしょう。しかし、『源氏物語』の場合、長い期間に渡り、作者の人生の歩みと共に描かれたことも理由の一つでしょうが、登場人物がそれぞれ近代的な心理的成長を行い、「教養小説」になっているのです。
 
  主人公光源氏は、年齢と経験により成長して行き、人生の課題や困難に直面して行きますし、紫上の生涯などは、その心理の深みからいうと、千年以上、時代を先取りしているのではないかとも云えるのです。紫上は、絶望して死んで行ったのか、または何かに救済を見いだして死んでいったのか、ということが、今日でも問題になるのは、藤(紫)式部が造形した紫上という人物が、作品のなかから抜け出てるというか、それ独自の存在を感じさせるからです。また、「実存」の問題を正面から扱っているとも云えるのです。
 
  それは、「宇治編」でも、もっと洗練された形で出てくる訳で、絢爛豪華な王朝物語・伝奇小説という感もある本編に比し、光源氏没後二十年ほどの宇治を軸とした物語では、紫上の実存的苦悩というものが、もっと先鋭に、鮮明に、大君、中君、あるいは浮舟などによって描かれているとも云えるのです。
 
  登場人物の多彩さであるとか、物語の複雑さとか、総合性とか完成度とか、当時の王朝文化を伝えているとか、そういうことは、当然のことで、このような物語構成者としての壮大な力量を持つ藤式部が、自己の文学的能力を結集して、実存的主題を、現実の政治や、社会のありようを背景に構築したからこそ、世界文学史上の傑作ともなったのです。
 
  それぞれの登場人物の心理の綾の深さ、それについての作者の洞察の深さと描写の見事さは、もう何とも言いようがないでしょう。代表的な女性登場人物を考えても、それぞれに経験を通じて成長して行き、それぞれの人生の苦悩や喜びを、生き生きと作品のなかで表出していると云えるのです。あるいは男性の登場人物には、かなりな類型性があるとはいえ、それでも男性主要登場人物は、生き生きした実在の人間であるようにも思えるリアリティがあるのです。何より、彼らの心理の綾の錯綜や、経験による成長の物語が素晴らしいのです。
 
  (また、藤式部は、宮廷政治や、権力と地位、勢力と経済的力量、政治力をめぐる、「男達の闘争世界」の実態を知っていたので、それが作品に反映されており、単なる架空の恋愛小説とか、そういう次元を越えているのです。「安和の変」で、政治的実権を藤原氏に奪われた源氏一族が、藤原一族を凌駕して繁栄するという話を、安和の変の陰の策謀者の直系の子孫に当たる、藤原の氏の長者・藤原道長に仕える藤式部が書いたというのも、「昔物語」と道長や、他の多くの人は受け取ったのかも知れませんが、どうも違う可能性があるように思います)。
 
  なお、当時の人が、この長編物語をどう受け取ったかということは、この作品の価値とはまた別にあります。歴史物語・意外なことが次々に起こる伝奇物語、高級貴族の豪華絢爛な生活や恋愛を描いた王朝物語、あるいは、胸ときめかせるスリルとサスペンスに満ちた恋愛物語というか、……読者は色々な受け止め方をしたのですし、色々に評価したのでしょうが、そのことと、作品の価値は別問題です。
 
  >あの物語の凄さについて、友人を納得させられるよい回答がありましたら教えて下さい。
 
  実際に翻訳であっても読んでみていない人に、どうも納得させようがないと思います。映画では、(見ていませんが)、おそらく原作の持つ主題の10%も表現できないでしょう。現代語訳で読んでみて、原作も一応眺めてみて(というのは、文体の流麗さは、現代語訳できないのです。イメージを忠実に現代語訳すると、極彩色のような晦渋な文体、イメージになるのですが、原文は、流れるように軽快に美しく進んで行くからです)、また、『源氏物語』について色々な人が書いていること、指摘していること、あの長編をどれだけ多数の視点から眺め評価することができるのか、また、何が卓越しているのか、こう言った経験をしなければ、分からないことだと思います。
 
  >「女性が書いたはじめてのかな文学の長編小説である」
 
  こういう評価そのものが、申し訳ありませんが、紋切り型だと思います。
 
  芸術作品が素晴らしいというのは、そういう「体験」であって、体験していない人に、訴える言葉が、この場合ないと思います。(とはいえ、以上に色々書きましたが)。
 
  「宇治編」の最後のシーンは、浮舟が、手紙を持ってきた弟を、そのまま帰らす情景ですが、何か唐突に終わっているような気が昔しました。まだ話は続いているはずだが、と思ったのですが、どうも、あそこでやはり終わりらしいのです。これについて、二十年近く前、国文学の研究をしていた人と話したことがありますが、その人は、あれで終わっているのだ、と断言しました。全体の構成がどうなっていて、とか色々話した記憶がありますが、しかし、どうも、終わっているように思えなかったのです。しかし、時間が経過して行き、訳などを読み返すと、段々、確かに、あそこで終わっているのだという実感が湧いてきました。
 
  「物語」だとすれば、いささか不自然な終わり方なのですが、壮大な「教養小説物語」だと考えると、あそこで藤式部が、筆を擱いたのも自然であると思えてきたということです。
 
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源氏物語には、まず何といっても千年を超えて読み継がれてきた点だけを見ても、そこに極めて人間にとって洋の東西や文化の違い、時代をも凌駕する「普遍性」を宿しているという点だけでも素晴らしい価値があります。

ホメロスの叙事詩やギリシャ神話は、基本的には男女間のもつれが戦争に発展したものですし、ゼウスなんて人間といわず女神といわず手をだしまくっています。エロス・タナトスというギリシャ由来の哲学原理がありますが、性=生命の基本的で最も重要な活動であり、それを抜きにして人間の生涯や文化を語ることがそもそもナンセンスです。恋愛や性愛の描写は、それが匂わせる程度のものから露骨なものまで「無いものを探す方が困難」ですし、「エロ小説」と、少なくとも訳文すら読みもしないで、決め付けている態度の方に問題があるのではないでしょうか。
 もう一つは源氏物語に関して膨大な研究と視点が提示され、それだけ様々な観点から掘り下げられているという点に於いても、この女性の手になる物語が、光源氏という現実にはありえない一見完璧な存在を主人公としながら、非常に人間と人間同士がふれあい、共に生きていくうえでの苦悩や感情など、「生」そのものを奥深く、ある種非常に冷静に掘り下げ描いていて、それがかえって浮き彫りのリアリティで「人」とその奥深い精神世界・生命の姿を読者に伝えているからにでしょう。ユング・フロイト的観点からの分析も可能ですし、当時の最高レベルの知識・教養階層であった平安貴族たち、そして当時の日本人が持っていた仏教と神道をないまぜにした、宗教観や人生観の理解も重要です。人生50年以下の時代の話なのですから。
 加えて、この物語は当時の平安貴族の知的レベルで読むためには、まず当時までの中国文化・歴史・漢詩・漢文の知識が必要です。次に記紀・万葉等の上代からの文化教養と日本の歴史。歴史的事件や神話的故事。それから当時の仏教・神道・陰陽道といったものから派生する、時間・地理・色などあらゆる事物に対する現代との視点の違いや慣習の違い。全編に詠まれる和歌には、こうした教養の土台がないとその真の意味や深い裏の意味を理解し得ないものばかりです。和歌一つも単に現代の詩人のように、自分の感情を吐露しているだけではないのです。源氏の君が須磨に半ば流刑のような形で流れていくのも、それは須磨・西国でなければならないのです。当時の人々にとって、神戸以西というのは、出雲文化圏であり、出雲を支配する大国主大神は冥界の支配者であり、西国というのは一種の死後世界的なイメージがあったのです。また仏教の西方浄土にも通じます。罪穢れを犯した人間は、西国に赴くことで「死に」罪科を冥界に洗い流してきて、さらに成長・パワーアップして「蘇える(黄泉かえる)」のです。源氏の君も須磨以降、栄華を極めていきます。また源氏の君の六条院という住まいの作りや庭木の配置など細部に渡って、陰陽道的な知識やそこから派生するエピソードが描かれています。源氏物語は別名を「紫の物語」「ゆかりの物語」とも呼ばれますが、紫という色が、非常に高貴で神聖な色であると同時に、淫らさや性愛・官能といった意味合いを当時から持つ色であること、赤と蒼の混合色であり、非常に染色技術上も不安定な色であることから、「ゆらぎの色・狭間の色」とも呼ばれていて、常に仏教的な厭世観と恋愛や母への思慕と言った聖俗の感情の間でゆらぐ源氏や紫の上と言った人物達、ひいては「人間」そのものの象徴色でもあるのです。「ゆかり」は紫の字をあてることもあり、高貴な血縁・血筋をも意味しています。こうした、非常に高度な知的レベルと教養が基礎知識にないと、理解できない内容が作品の土台ともなっているのが源氏物語なのです。当時の平安人・日本人がいかに、高度な知的レベルを「一般常識」として備えていたかを考えると、現在の文化・芸術とは比較にならない程の価値を備えた作品であると言えます。
 こうした幾重にも重層的な内容と価値を持ち、また新たな読み方・観点をいまだに与え続ける作品は世界的に見ても極めて希少です。単純な善悪二元論的内容ではないからというのも大きな要因でしょう。
 価値などというものは、結局は後世の人間が勝手につけているものに過ぎませんが、少なくともきちんと代表的な訳文だけでも読んでから、エロ小説か否かを判断してもらう方が早いと思います。現代の歌謡曲の方が、文章内容だけならよっぽど「エロ」だと思いますよ。
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この回答へのお礼

たくさんご回答いただいておりましてありがとうございます。
この場をお借りしてご回答くださった皆さんにお礼申し上げます。大変参考になりました。m(__)m

お礼日時:2002/03/25 15:45

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