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 旅先で何度か、その土地の天守閣に登りました。眺めは勿論いいのですが、住まいには不適な気がします。天守閣は戦さ用のものであり、城主の住まいは二の丸とかである、と読んだ記憶があります。天守閣には普段に誰が住んでいたのでしょうか?

A 回答 (7件)

◆篭城となると、確かに天守閣は寄せ手の動向を監視する


物見塔や、最後の防衛拠点になりますが
それは本来の使い方ではありません
権威の象徴的要素が強いです
従って、関が原の戦い以前は大阪城天守を越えるものは
造られませんでした
ところが関が原の戦い以降建てられた姫路城天守は
大阪城天守を超えました
それは豊臣家の権威をおとしめるための徳川家康の戦略でした
徳川の世が確定の後は、大名たちは武家諸法度によって
城の普請や修復を厳しく制限されました
忠臣蔵で有名な播州赤穂城は、天守台は許可されましたが
本体の建築はついに許可されませんでした

◆居住について
天守は落雷に合いやすく、火災も多く発生しました
日常の生活上の施設は殆どなく
塩倉併設も珍しいし、厨房もありません
普段は本丸御殿で暮らしていました
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この回答へのお礼

 わかりました、ありがとうございます。家臣による巡回はあったはずです。まったくの無人ではなく、宿直?がいたのかも・・・

お礼日時:2006/10/03 15:54

泉鏡花の「天守物語」という作品を読んでみると、天守閣の中がどうなっているか少しイメージできるかもしれません。


http://kairos.web.infoseek.co.jp/kabuki43.htm

登場人物のセリフに「百年以来、二重三重までは格別、当お天守五重までは、生(しょう)あるものの参った例(ためし)はありませぬ。」というものがあります。
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この回答へのお礼

 前に読んだことがあります、映画にもなったのでは。鏡花と無骨な天守閣の取り合せも、そこが無人の楼閣なら理解できますね、ありがとうございました。

お礼日時:2006/10/09 15:30

家康が天下を納めたのちは、天守閣は城主の威厳を示すもので、立派な外観に比べ、内装は簡素で天主以外は鉄砲、弓、槍などの武器庫に使われていました。

  天主に畳敷き、襖を立てたところは極一部で、しかもたまに城主が昇るだけでした。
戦国時代には城主が居住する主殿の上に物見櫓を建て、これが天守閣の元といわれます。  天守閣になっても、二、三階には書院つくりがあったそうですが、常時居住したことはなく、本丸御殿住まいのようです。
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この回答へのお礼

 ありがとうございました。

お礼日時:2006/10/09 15:32

余談の範疇ですが、



 姫路城の天守には「おさかべ姫」ちう物の怪が棲んでいるとされていました。老婆とも、美姫とも言われています(社が今も城内にあるそうです)。

 逆に言うと、そう言うモノが住みついていると信じられる程度には、人がめったに踏みこまない場所であった、という事だと思います。

参考URL:http://www.city.himeji.hyogo.jp/fc/mmag/2004-06/
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この回答へのお礼

 ありがとうございました。「天守物語」にも通じていく面白い話ですね。

お礼日時:2006/10/09 15:23

学研の歴史群像名城シリーズ「名古屋城」に興味ある記述ありました。


「実際は藩主といえども一生の間に数えるほどしか登閣していなかった。藩主が登閣するとならば掃除や畳替、室内の設え、城代などの随員の召集などで大騒ぎになるので・・・・通常は鍵をかけて締め切っていたのである。」
以下、要約して紹介すると
天守に入るためには
小天守穴蔵(地階)の口御門
小天守穴蔵の奥御門
小天守1階に上がる階段に封印紙のついた錠付扉
大天守穴蔵の口御門
大天守穴蔵の奥御門
がある。
大天守の2つの門の鍵には紫色の紐が結び付けられておりその結び方は極秘、つまり担当の役人以外が鍵を扱えば結び方が異なりただちに露見する。

鍵は古くは藩主の側にあったがのちは城代が預かる。天守の門が開けられるのは、毎月6と21の天守掃除日、臨時の用のための役人の登閣、藩主の御成のとき。

天守の鍵を扱えるのは天守御鍵奉行で、門を開けるには
・城代のところへ随行員と共に鍵と新しい封印紙を取りに行く
・古い封印紙と鍵を添えて城代へ返す。封印紙も城代印のものと
鍵奉行のものとの2重封印。しかも1日3回本丸番が封印を見回りしている。

つまり、城代は鍵を管理していても、自分では開けることはできない、
天守御鍵奉行は鍵を開けることはできるが鍵は毎回、城代から借りなければならない、誰かが単独で鍵を開けて入ることはなかったわけです。
核ミサイルの発射ボタンのある部屋みたいに厳重です。部屋の鍵がいくつもあって、さらに発射ボタンにもいくつか鍵があって・・

もっとも名古屋城は徳川家康の築城で「尾張藩の持ち城ではなくが将軍から預かっている」という意識があったので、本丸は将軍が来たときに使用するもので、藩主は二の丸に居住していました。だから天守はもちろん、本丸も番がいて自由に出入りできなかったようです。

しかし、天守御鍵奉行って実働月に2回ってわけであとはヒマだったんでしょうか。私はこっちの方が気になる。。。

あと姫路城とか彦根城など現存の天守閣に登りましたか。
階段は急だし、板の間で窓は小さく暗いし、名古屋城のように小天守を経由していくつもの門をくぐって、居住性悪いです。
籠城するにも多くの天守は井戸も厠も厨房もないので無理です。
(名古屋城天守には井戸はあったようです)
だいたい回答になってますか。

参考URL:http://page8.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/h41 …
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この回答へのお礼

詳しい説明ありがとうございました。結局のところ、天守閣は当時の権力者の威光を誇示するお飾り的なものだったのでしょう、ピラミッド、古墳などにも通ずるような。

お礼日時:2006/10/09 15:18

大河ドラマ「功名が辻」では、信長が天主閣に居住して家臣を慌てさせる場面がありました。


あれ、事実なんですかね・・・?

本来は、天守閣は、城下や遠方を確認する為の場所であり、最後の砦であり、また権力の象徴でもあったと言われているようです。
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天守閣は最後の最後にこもるためのものだから, 普段は誰も住んでいないと思う.


城主は普通本丸だと思うけど....
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