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支那地域あるいは支那大陸を統治する國家に對する呼稱は戰後,支那共和國からの壓力により,「支那」ではなく「中國」といふのが一般的になりましたが,ウィキペディアによれば,中國といふ名はすでに1930年代から外交文書に登場してゐたといひます。そのあたりの事情を詳しく知りたうございます。

A 回答 (6件)

「中國」という呼称は、漢民族の支配する国の自称・美称として古代から使用されていますね。

いわゆる「東夷・西戎・南蛮・北狄」に対する「中國・中華・中夏」です。
日本でも、大陸の国が「中國・中華・中夏」を自称することは古くから知っていたし、同様の思想で日本においても「中國」と自称することが(律令制の「遠國・中國・近國」等ではなく)あったのも事実です。
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『日本国語大辞典』では以下の通りです。
ちゅう‐ごく【中国】
[一] (1)国の中央の部分。天皇の都のある地方。畿内。くになか。 (2)諸国の中央。自国を誇っていう語。中華。 (3)~(6) <略>
[二] (1)山陽道と山陰道とを合わせた称。<略>
(2)漢民族の居住地。アジア大陸の東部に出現した歴代王朝の通称。古来、漢民族は周辺の外民族を蛮夷と称し、自らは世界の中心にあることを誇りにしてこれを自称。この地に建国した王朝はほとんどこの名称を用いたが、領土の発展によってその範囲は時代とともに拡大した。殷・周・秦・漢時代には江南、唐代には広東、宋代に福建・江西、明代に雲貴・広西の各地にまで広がり、清代にはさらに満州・蒙古などの一部に及んだ。さらに第一次・第二次世界大戦を経て、一九四九年、中華人民共和国の成立以来、その領土はすべて中国と規定されている。
 *今昔(1120頃か)「蓋の下に一の鍮石の仏像在す。造り奉れる体(すがた)を見るに、中国には不似ず、面めう胡国に似たり」
 *書言字考節用集(1717)「中国 チウゴク 中華。中夏。並仝。俗云本唐。歴世殊国号今代称大清」

しな【支那】
 中国に対してかつて日本人が用いた呼称。王朝名の秦(しん)が音変化して西方に伝わり、それを音訳したものといわれる。わが国では江戸中期から次第に広まり、第二次大戦末まで用いられた。
 *性霊集(830頃)山中有何楽「摩竭鷲峰釈迦居、支那台獄曼殊廬」
 *文明本節用集(室町中)「唐土 タウト 支那(シナ)震旦」
 *書言字考節用集(1717)「支那 シナ 俗云本唐。〔西域記〕魔訶訶支那。此云大唐」
 *西洋記聞(1725頃)「按ずるに、其人の言に、チイナといふは即支那也」
   <その他の用例略>
[表記] 支那 脂那・指那・至那
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ここでも、「中國」は古代からの自称。「支那」「China」等は「秦」に由来する他称(多数の語源説あり)とされています。
また、明治初期の新聞に、支那消息として現地の報道などを引いて論評したこんな記事があります。
『東京日日新聞』(明治7年(1874)10月15日)
弱小日本豈中華に敵し得んや
   尊大の清人皆此の妄見に立つ
… 上海横文新報中西洋人日本の事を記するを引て云く、 … 日本は蕞<サイ>爾たる一小島のみ、富て且つ強きの中國と相抗衡せんと欲するは抑々何ぞ愚の甚だしきや …
… 夫れ日本は海中の一小島のみ、万々中國に敵せざる事は素より論を持たざるべし …
… 中國日本と兵衅<キン>を開かざるを以て、商賈業を樂しみ販運日々に暢ぶ云々 …
… 中國官憲現に忌連隹輪船を雇ひて又鎭江に赴き …
 是みな支那人の論ずる所にして其文意を見るに、妄りに自ら尊大にして、我が堂々たる大日本國を蔑視すること甚だし。其中國或は中朝と云ひ華及び中華と云ふも亦自大の語なり。以後之に傚へ。
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記事中に「中國」が何度も表れています。この記事だけでなく、「中國」と表記した記事は明治・大正・昭和前期を通して他にも多数あります。
また、「清國」が倒れて1912年に「中華民國政府」が成立したときの国民政府の声明文にも、「中國」という言葉が明記されています。これ以降の外交文書では「中華民國」が正式に使われていたことでしょう。公式の場で「中國」がどの程度使われていたかは知りません。

1949年に「中華人民共和国」が成立し、以降の日本では「中共」という略称が一般に使われていたと思います(中国共産党の略称という説もありますが)。
現在、日本では「中国」を中華人民共和国の公式な略称として使用しています。公文書では正式国名の「中華人民共和国」を使用しているはずです。ちなみに日本の正式国名は「日本国」です。
いずれにしても「支那共和國」という国は過去にも現在も存在せず、日本が公式に「支那共和国」と呼んだ事実も無いはずです。

在中国日本大使館
 中国語 http://www.cn.emb-japan.go.jp/index.htm
 日本語 http://www.cn.emb-japan.go.jp/index_j.htm
在日本中国大使館
 日文 http://www.fmprc.gov.cn/ce/cejp/jpn/
 中文 http://www.fmprc.gov.cn/ce/cejp/chn/
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補足です。



神戸大学の「新聞記事文庫」に、戦前までの日本国内の新聞記事データベース(画像情報+文字情報)があります。
ここで「中国」を検索すると、明治・大正・昭和前期にも「中国(中國)」という通称がかなり使われていたことが分かります。
(日本の「中国地方」を指す記事も相当ありますが、記事内容を読むか、記事分類で「中国」を選択すると絞り込むことができます)

→ http://www.lib.kobe-u.ac.jp/sinbun/search.html

ご参考まで。
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この回答へのお礼

昭和になつても中國といふ名が結構使はれてゐますね。面白いページを紹介していただき,ありがたうございます。

お礼日時:2006/10/16 16:13

まず支那の読み方ですが、ヨーロッパ語圏のベース言語であるラテン語ですとSinaと書きます。

Chinaは英語ではチャイナですがその他は普通チナと読みます。
支那の語源は古代インドのサンスクリット語で、秦をサンスクリット語でシナと呼び、それが逆輸入された結果その地域をシナと呼ぶようになりました。そして自ら『支那』という漢字に当てたのです。

日本では以前、地域名としては支那と呼んでいますが、公文書では国号で呼んでいます。

尚、当の中国人ですが、自分たちでは支那地域・支那人と言い、国号を中国にしています。sina.comはあまりにも有名ですね
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支那から中国に変わったというより正しい名称にしただけでしょう。


支那と呼んだのは我が国だけですから。諸外国は「チャイナ」と呼んでいるのはご存知と思いますが、スペルでかくと「CHINA」です。文面だけで初めて読めば「シナ」に読めないこともないでしょう。「支那」という字は当て字です。
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この件に関する戦前の政府の指示は以下の通りです。


1.大正2年
条約&国書等(=中華民国が相手の場合)は、中華民国と呼ぶ。
政府内部及び第三国との間の文書では、従来の清国に代えて支那とする。

2.昭和5年
条約&国書のみならず、それ以外の公文でも中華民国と呼ぶ。
(実際には必ずしも守られなかったが、外交文書以外でも、中華民国という呼称の使用例もある)

アジア歴史資料センター( http://www.jacar.go.jp/ )のレファレンスコードA01200613500の文書「公文上支那国号ノ呼称ニ関スル件ヲ定ム」でご確認下さい。

上記2のような指示が出た背景には、大正2年の指示にも関わらず、条約の日本語版でも、支那共和国といった呼び方が使われていた例があった事がありますが、本来、条約&国書などの外交文書の国名は、自称をそのまま使うのが原則です。実際、幕末の日米和親条約では、日本は英文では「The Empire of Japan」だし、日韓併合前の韓国は、日本の外交文書では大韓帝国で、現在、イギリスは正式には連合王国と呼ばれています。何故、外交文書で、支那共和国などという『造語』をわざわざ使ったのか、その理由は、私は知りません。

また、誤解の無い様、念の為申し上げておきますが、上に述べたように、大正2年の段階で、政府レベルでは「支那」という呼び方を「中華民国」という呼び方に代えろという指示が出たのではありません。あくまで、清国が支那になっただけです。
更に、民間レベルでは、今でいう中国の呼称が、支那で統一されていた訳でもありません。支那(支那人)も、清国(清国人)も、どちらも使われていました。
http://www.h3.dion.ne.jp/~maxim/asahimokuji.htm

また、中華民国成立後は、国名として中華民国という呼称が、民間では次第に使われるようになっていったのも、上記のアジア歴史資料センターの史料でわかります。民間では、「この名称を使え」という指示を出すところが無いので、ある程度定着する迄は、バラバラになります。

戦後、「支那」という呼称を、「中国」へと代えるように政府から民間へ指示が出たのは事実ですが、そもそも「支那」という呼称が固定化したのは、むしろ、日中戦争の影響による一時的なものです。
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この回答へのお礼

有り難うございます。大變參考になりました。

お礼日時:2006/10/13 20:05

 今時支那って無茶苦茶変です!変!



 で、回答ですが、1912年に孫文を臨時大統領にして、中華民国臨時政府ができますた。ただし、内乱が起こったり軍閥が各地で台頭したりして、とても統一国家といえる体(てい)でなかった訳です。
 孫文は第二、第三の革命を起こしたがとても奪権とは言えなかった。(というより敗北しまくり)そうこうしている内に孫文は1925年に死亡。
 ところが孫文は中華民国臨時政府を作ったときに黄埔軍官学校(こうほぐんかんがっこう)と言う日本で言えば、陸軍士官学校みたいなのを設立したわけ。その校長だったのが蒋介石。当時の中国の近代戦争のエキスパートだったんす。
 孫文死後、中華民国を引き継いだ蒋介石は中国南部(南京、上海)を制圧し、北伐(北の軍賊を制圧する行動)を開始。1928年北京を制圧して中国統一をやってのけた。
 で、それからは中華民国が1949年に追い出されるまでは中国の主だったわけ。ですから1930年代と言うより1920年代後半から中国という言葉が、外交文書に登場しても不思議ではないでつ。
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