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子供の頃からの疑問ですが、時代劇のストーリーでは何故か「伊賀忍者=正義の味方」「甲賀忍者=悪者」という図式が出来上がっています。
何か歴史的背景があるのでしょうか?

A 回答 (6件)

本能寺の変の時に徳川家康が浜松へ帰るのを伊賀の服部半蔵らが助けたからではないでしょうか?


猿飛佐助は甲賀ですね。
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この回答へのお礼

そういう事実があったのですね。勉強になりました。
そういえば猿飛佐助は甲賀だったですね。有難うございました。

お礼日時:2006/12/13 20:37

不思議ですね。

私は50才を過ぎましたが、私の子どもの頃は、よく忍者ごっこをしたものです。「正義=甲賀」「悪者=伊賀」とまったく逆でした。
みんなでじゃんけんをして、勝った方が甲賀で、負けた方が伊賀でした。

大人になって歴史小説が大好きになったとき、そのことを私なりに考えてみました。徳川家康の伊賀越えを期に、伊賀忍者は家康に仕えるようになるわけですが、明治になって徳川時代を全否定するため、伊賀忍者は悪者にされてしまったのではと、思ったわけです。

私は子どもの頃は東北地方に育ったのですが、その違いは地域の違いですかね。それとも年代かな…? 不思議ですね。
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この回答へのお礼

そうですか。私は「仮面の忍者赤影」を見て育った世代なのですが、赤影のストーリーの中でも甲賀忍者は悪者でした。
一方、伊賀忍者は赤影たちの見方だったように記憶しています。
また、「伊賀の影丸」や「忍者ハットリくん」などといった漫画でも、甲賀忍者は悪者に描かれています。
作者の主観とか色々あるのでしょうね。有難うございました。

お礼日時:2006/12/13 20:55

こんにちは、umigame2さん。

「忍びの者」ビデオで見たことがあります。先日、ラストサムライでも、忍者が、暗殺部隊で登場しました。時代小説がお好きでしたら、隆慶一郎さんの、「一夢庵風流記」(ジャンプコミック「花の慶次」原作)、「花と火の帝」、「吉原御免状」など、忍者がよくでてきます。服部半蔵、柳生宗矩。前田慶次郎は、甲賀流体術を身に着けていた?風魔は、忍者のなかでも特殊な集団だったようです。猿飛佐助は有名ですね。
大河ドラマ「功名が辻」の六平太も忍者でしたね。答えを探す楽しみがありますね。

参考URL:http://www.iganinja.jp/japanese/menu.html,http:/ …
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この回答へのお礼

詳しくご紹介いただき、有難うございました。
先日、香取慎吾主演の「忍者ハットリくん」を観たのですが、ストーリーの中の甲賀忍者は、何か得体の知れない不気味な雰囲気をかもし出していました。
子供の頃から甲賀忍者って怖いなーって思っていましたが、そのときの記憶がよみがえってきて懐かしく感じました。

お礼日時:2006/12/13 21:08

伊賀忍者は服部半蔵が徳川家康に仕えた事から、徳川家と密接に関わり合いを持つようになった忍者群です(服部氏・百地氏・藤林氏の内、服部氏は一族あげて足利将軍家→徳川家へと仕え、難を逃れましたが、百地氏、藤林氏は織田信長による伊賀征伐で大きな打撃を被りました)。


甲賀忍者は、甲賀が修験道の修行場として栄え、全国から情報を収集する事が出来た事から、大きな組織として機能するようになりました。
結局、「徳川家(例えば水戸黄門)=正義の味方」なら「伊賀忍者=正義の味方」、「徳川家(例えば家康)=悪の首魁」なら「伊賀忍者=悪者」となるようですね。「真田十勇士」などでは、伊賀忍者は悪ですから。
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この回答へのお礼

伊賀忍者は徳川家と密接な関係にあったのですね。
甲賀が情報収集力を活かして大きな組織になったというのは全く知りませんでした。とても勉強になりました。
甲賀と伊賀は山をはさんで隣同士だったように記憶していますが、方向性が全く違っていたのですね。有難うございました。

お礼日時:2006/12/13 21:28

伊賀忍者は幕府御用達で、甲賀忍者はそれから外れたからの便宜上の問題で共に術上の優劣はないと思います。



まあ固定給のある組織と、フリーターの関係とでもいいましょうか。
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この回答へのお礼

そういう見方もあるのですね。
それを考えれば甲賀忍者も可愛そうな感じがしますね。
私が持っている甲賀のおどろおどろしいイメージが無くなりつつあります。有難うございました。

お礼日時:2006/12/13 21:37

よく「伊賀忍者」、「甲賀忍者」と一括りの集団が存在しているように思いますが、実際は伊賀者は伊賀国(三重県)に、甲賀者は甲賀群(近江国南部)にそれぞれ住む地侍です。

伊賀者の住む上野や名張、甲賀者の住む甲賀は隣接するので、協力することはあっても、「流派が違から」ということでが争うことはありません。

 伊賀は山に囲まれた閉鎖的土地柄からか統一権力が生まれにくく、土豪・地侍がそれぞれ小党を組んで互いが争っていました。その時に生まれた夜襲・放火・諜報術が、後の伊賀者・甲賀者の誕生となります。なお、甲賀者も隣接する伊賀者の流れを汲む、甲賀群在住の地侍といった方が的確かもしれません。


 甲賀者は六角氏に仕えていましたが、織田信長の観音寺城攻めで統制が乱れ、その後織田・豊臣氏に帰服。また徳川家康の伊賀越えや長久手の戦いを助ける者もいました。そのことが秀吉の反感を買い知行取り上げ・追放となり、そのことで甲賀者は徳川に近づきます。
 関ヶ原以降では山岡景友配下の鉄砲同心として召し抱えられますが、大半はこれを嫌い、また家康・秀忠・家光の関東移住の勧めすら、古風を重んじてそれを断り、生国の郷士として没落しました。尾張・高槻・岸和田などの藩では、それを惜しんで甲賀在住のままで忍者・鉄砲同心に召し抱えられました。

 伊賀者は北畠信雄・織田信長の伊賀征伐への反抗で勇名を響かせましたが、同時に大打撃により各地に離散。彼らを家康が厚遇し、特に伊賀越えでの功績により直参・同心へと取り立てられ、服部半蔵に付属します。その後は幕府の雑役を務め、大奥の警護・普請場の巡視・西の丸非常口の山里門警備・甲州口の警護を務めました。


ちなみに、講談などでお馴染みの真田幸村に仕えた十勇士のうち、猿飛佐助は甲賀、霧隠才蔵は伊賀ですね。

参照『国史大辞典』「伊賀者」・「甲賀者」各項(吉川弘文館)
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この回答へのお礼

忍者と戦国武将の関係を詳しくご説明いただき、有難うございました。
とても興味深くて、何度も読ませていただきました。忍者にスポットを当てて歴史を考えるのも面白いですね。大変勉強になりました。

お礼日時:2006/12/14 20:30

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