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小説などを読んでいると、「目を上げる」という表現がよく出てきます。
広辞苑の「目」の項の用例にはこの表現は出てきません。
「視線を上げる」、が正しいように思うのですが、どうなのでしょうか。
もともとなかった表現であったのが、今では一般化しているということなのでしょうか。

A 回答 (4件)

> 広辞苑の「目」の項の用例にはこの表現は出てきません。



「あげる」 の項 (第五版) にあります。「上向きにする」 の意味です。「視線をあげる」 は、そのややかたい表現ということになるでしょう。「目をあげる」 が正しくない、ということはありません。むしろ、 「目をあげる」 のほうが一般的であるような気がします。

「目」 の項目に 「目をあげる」 がないのは、ひとつには、それが慣用句としての用法ではないからです。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
「あげる」の項に出ていたのは、気がつきませんでした。
慣用句ではない、としても、「目を下げる」とは言えないので、
慣用的な言い回しと言っていいのでしょうか。
「顔を上げる」は「顔を下げる」にもできるからです。「視線」についても強いて言えばですが、可能なような気がします。
ともかく、長年の疑問が解けました。御礼申し上げます。

お礼日時:2007/01/24 09:11

 


 目をあぐ
 
 「目を上げる」という表記では見あたりませんが、文語表現としての
「目をあぐ」ならば、つぎの用例があります。
 たんに見上げるのではなく、厳かなものを仰ぎみる動作のようです。
 
♪ 山辺に向ひて われ目をあぐ わがたすけは いずこよりきたるや
  わがたすけは あめつちを造りたまへる エホバよりきたる
── 大中 寅二・曲《山辺に向かひてわれ ~ 詩篇121より》
 
 大中 寅二 18960629 東京 19820419 85 /~《耶子の実》阪田 寛夫の叔父
 
 おそらく文語訳《旧約聖書・詩篇》をもとに作曲され、わたし自身も
コーラス・メンバーとして歌ったガリ版の楽譜(19550512)があります。
(題名と歌詞の送りがなが異なるのは、筆耕者の誤記とみられます)
 
 ただし、当時の《新・讃美歌集 1954》には掲載されていないようです。
 ネットでは、下記のキーワード(歌碑?)が検索されます。
── 《山辺に向いて我目をあぐ:関西学院千刈キャンプ30周年記念誌》
 
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
聖書の訳については、ヘブライ語に「目を上げる」という言い回しがあるので、それを直訳しているようです。そもそも、日本語の「目を上げる」の言い回しが一般化したのは聖書訳から来ているのかも、などと思ってしまいます。(根拠はありません。しかし聖書にはこの言い回しが非常に多く出てきます。)最も古い文献でこの言い回しが出てくるのは、どこなのか、と新たな疑問を持ちましたが、人任せではいけませんよね。

お礼日時:2007/01/24 09:18

私はずっと日本聖書教会の口語訳聖書を読んできましたが、その訳の


不味さにうんざりしていたものです。特に「しえたげる」には違和感
を覚えています。他にもいろいろあって、訳した人はどこか地方の人
なのではないかと思っていました(もちろん共同作業ですから一人で
はないでしょう)。新共同訳になって改められた部分もありますが、
聖書の訳は必ずしも正しい日本語ではありません。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
永井荷風も文語訳聖書の日本語のまずさに辟易してフランス語で読んだという話があったようにも思います。聖書の翻訳は膨大な量であるゆえに、何ヶ国語もの知識と聖書学と日本語の駆使能力を備えた翻訳者が大勢いなければならないので、なかなか難しいのでしょう。
それでもポピュラーな書物ゆえに、日本語そのものへの影響力もあるように思います。
わたしが疑問に思った表現が聖書の翻訳から来ているのかどうかはわかりませんが、その可能性について考えることができてよかったと思います。
例えば「生き様」のように、以前はなかった表現が一般化していることからも(以前は「死に様」としか言わなかったが、今では広辞苑にも載っている)、「これが正しい表現なのに」と独り頑なになっているのも我ながら恥ずかしい気もします。

お礼日時:2007/01/26 18:41

 


 目をふす
 
 ヘブライ語の言い回しだったとは、とても意外ですね。
 バイブルより古い文献は、存在しないに等しいのではありませんか。
 つぎのような類例を抽出しましたが、とくに法則はなさそうですね。
 
「顔を上げる」⇔「顔を下げる(×)」→「顔を伏せる」
「面を上げる」⇔「面を下げる(×)」→「面を伏せる」(おもて)
「目を上げる」⇔「目を下げる(×)」→「目を伏せる」
 
「眉を上げる」⇔「眉を下げる(×)」→「眉をひそめる」
「頭を上げる」⇔「頭を下げる(○)」→「頭をかしげる」
「拳を上げる」⇔「拳を下げる(△)」→「拳を下ろす」
 
「手を上げる」⇔「手を下げる(×)」→「手を下ろす」
「足を上げる」⇔「足を下げる(×)」→「足を垂らす(△)」
「腕を上げる」⇔「腕を下げる(△)」→「腕を下ろす(×)」
 
「腰を上げる」⇔「腰を下げる(×)」→「腰を降ろす(○)」
「荷を上げる」⇔「荷を下げる(×)」→「荷を下ろす(○)」
「男を上げる」⇔「男を下げる(○)」→「男を………(?)」
 
 本題から逸れついでに、もうひとこと追記します。
 ANASTASIAK さんの口語訳(1954-1955)ウンザリ説には同感します。
 ただし永井 荷風の文語訳・辟易説は、いささか疑問です。
 
 いまなお引用される美文調も多いので、ぜひ再検証してください。
http://holysong.org/rtpdf/
 文語訳《新約聖書(大正改訳)1950年版》PDF版
 
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この回答へのお礼

再び回答いただきまして、本当にありがとうございます。
たしかに、「上げる」を用いた言い回しの反対語が「下げる」を必ずしも用いているわけではないですね。
広辞苑の「目」の項に出てこないのは、「上げる」を「上向きにする」という意味で用いる点で、「顔」「面」と共通の言い回しだからと言うことなのでしょう。「下げる」には「下向きにする」という意味は厳密にはないようですね。納得がいきました。ありがとうございます。
それほど古くからではないが、「顔」「面」の用法に倣っていつの間にか使われるようになったのかもしれませんね。

聖書の日本語訳は明治になって初めて新約が出たと記憶しています。(部分訳はあったのでしょうが。)永井荷風については、「断腸亭日乗」にそうありました。当時はまだ旧約の日本語訳はなかったのもフランス語で読んだ理由ではあると思いますが。ともかく荷風のような人を満足させる訳ではなかったということでしょう。そもそも言語そのものの成立期に聖書が深く影響した言語の聖書と比べるのは酷でしょうが。

ご丁寧な回答で、やっと納得がいきました。重ねて御礼申し上げます。

お礼日時:2007/01/29 15:22

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