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柳条溝事件以降の関東軍の進撃を止めようと、陸軍参謀総長は作戦停止命令を何度か発令していますが、関東軍はこの命令に従わず、満州全域を制圧してしまいました。

関東軍には司令部に独自の参謀がいるので、参謀本部からの命令には従わなくても良いのでしょうか。
関東軍司令長官と参謀総長は統帥上どのような配列なのでしょうか。天皇の下に並列の関係なのでしょうか。

A 回答 (3件)

関東軍司令官は駐満州特別全権大使を兼任するなど、事実上、満州における軍事、行政のトップでしたが、陸軍の統帥上ではあくまでも軍司令官のひとつでした(昭和17年からは総司令官)。

これに対し陸軍参謀総長はいわゆる「陸軍三長官」の一人で、大元帥である天皇の参謀長として軍司令官の上に立っていました。
関東軍といえども参謀本部の指示を無視する事はできません。事実、関東軍は参謀総長の指示命令を無視したわけではなく、その場では従い、作戦行動の停止、撤兵などを行っていました。
ただ、現地軍の司令官には、戦線、戦局、士気の維持のために適切な軍事行動を独自に行う権限が与えられており、ドイツの参謀制度を真似した参謀部も独自の権限が強く、上級指導部が完全にコントロールすることができませんでした。
このため、いったんは参謀本部の支持で停戦できても、その後、さまざまな理由づけで戦闘を再開し、既成事実を積み上げていったようです。
後から見ると関東軍はまるで好き勝手をしていたように見えますが、実際には、うっかり抗命罪などに問われないよう、抜け道作りに苦労していたようです。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2007/02/08 19:33

関東軍は、参謀本部からの命令には従わねばなりません。


しかし指示は意図的に無視されました。
これは軍組織上、最も悪い状態ですが、
日本軍では現場を重視する傾向が強く、
陸軍が人事的に分裂状態で両派の足の引っ張り合いと、
参謀本部が状況を把握できなかったこともあいまって
独走の無理が通ってしまった形です。
しかし大元帥たる昭和天皇はこれに激怒したので
関東軍の参謀は粛清をうけることになりますが
門閥の恩恵と事なかれ主義のおけげで、
中途半端な粛清に終わってしまいます。
ちなみに昭和天皇は張作霖爆殺事件(1929)でも
首相田中を激しく叱責していて、内閣を総辞職させています。
それで、関東軍の参謀たちも
正規のコマンドコントロールのルートでは
天皇を説得するのは不可能だと思って、
満州侵略の計画は事後承諾を迫るしかないという判断が
あったものと思われます。
だから最初から命令無視するつもりだったはずです。

日本軍の指揮系統は、
「大本営 - 総軍 - 方面軍 - 軍 - 各師団 - 以下」となります。
関東軍は総軍のなかの一つで、
他には支那派遣軍、南方軍、そして終戦の年に第一総軍、第二総軍が
編成されました。
大本営のトップは、もちろん昭和天皇で、大本営は
陸軍部と海軍部に分かれていますが、陸軍部のトップは
参謀総長で、次が参謀次長となります。
総軍の司令官、つまり関東軍司令官の梅津は、参謀総長に従属します。
参謀総長は、天皇の統帥権を代行する”輔弼”の責任があるため
理屈から言えば、参謀総長に逆らうことは天皇に逆らうのと同じなのですが、
さっき言ったように統制派と皇道派の軍内部抗争も関係して
命令系統どおりに動かなくなっていたのが、昭和日本の最大の機能不全と言えるでしょう。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2007/02/08 19:34

関東軍司令官と参謀総長は形の上では天皇の下に並列しています。


しかし、参謀本部の作戦命令は天皇陛下になりかわって出すもの(奉勅命令)ですので無視することは天皇陛下の意思に逆らうことになりますが、実際は違反したからといって罰せられることはない(一応処罰されても形だけで、すぐに要職に戻りました。)ので平気で無視することがありました。
陸軍の場合は司令官クラスは飾りで参謀クラスが実権をもっていたので司令官は処罰されて解任されたりしても、参謀は一応転勤させらられるくらいでしたので、勝手な行動をすることがよくありました。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2007/02/08 19:34

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