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辞世の句や最後の言葉は本当に最後の言葉だったんでしょうか?
例えば光秀の、
「順逆二門に無し 大道心源に徹す 五十五年の夢 覚め来れば 一元に帰す」
は、竹やぶで土民に刺されたときにそんなこといえるはずもないし、
信長の、
「是非もなし」
なんて、あの戦乱の最中に誰が聞いていたのでしょうか?
謙信の、
「極楽も 地獄も先は 有明の 月の心に 懸かる雲なし」
「四十九年 一睡夢 一期栄華 一盃酒」
もトイレで意識を失ったのに言えたのか・・・。

みな、言葉を考えて急死したとは考えられません。

逆に、布団の中や徐々に死んでいった場合(家康・秀吉・信玄等)や、打ち首のため最後の言葉を言えたチャンスのあった人(三成・吉田松陰・江藤新平等)の言葉は信用できますが・・・。


突然死んだ人の辞世の句は、後世、誰かが「そういえばあの人はこんなこと言っていたなあ・・・」と思い出して勝手に創作したと考えていいのでしょうか?

A 回答 (5件)

おおむねNo.2さんの回答に賛同です。


ただ、決死の覚悟で戦に挑む前にまるで自分の死(負け戦)を
予知するような・・・個人的に信じがたいですねこれら辞世は。
天命を知って床でゆるりと書いたものなら信じれるんですが。

特に質問者様の例としてあげておられる光秀と信長の辞世
(信長のは辞世じゃないが)については、この両者の死
自体が明白になっていないので、後世創作だと思っています。
光秀の辞世でもうひとつ・・・詳しくは忘れましたが
「・・・~、身をも惜しまじ、名をも惜しまじ」という句も
聞いたことがあります。この句だと、いかにも本能寺の変は
黒幕がいて、光秀はただの実行犯って感じがしますね。
天下を取った者が正しいわけで、弱者敗者はときに事実を
曲げられたりしているものです。
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「是非もなし」は、今際のきわに言ったのではないと推測できます。


「殿、明智が攻めて参りました」「是非もなし」だったら、明智軍の誰かが聞いていたかもしれません。
いかにも、信長らしい言葉なので、個人的には、信じていたいというところです。
他の人物もいかにも当人が言いそうです。
後世の人間が信じ込むくらいの出来ですから、相当な信奉者が作ったのでしょうね。
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光秀のは、元禄時代の軍記物に初めて出てくるもので、創作でしょうかね。


本能寺にいた女房たちは、多くが逃げ延びたので、信長のは事実な可能性はあります。(高くはないでしょうが)
辞世というのは、あらかじめ用意しておくもので、秀吉のは死ぬ十年前に詠んだ歌を、半年前に預けたようで。

個別に判断するしかないのでは。
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「辞世の句」というのは、近い将来に死ぬことが予想される人は事前に作っておくのが「心得」だったようです。

例えば、戦いに臨む武将は、出陣前に用意していたとしてもおかしくありません。和歌の心得がない人の場合は、専門家に謝礼を払って代作してもらったでしょう。光秀の辞世は、山崎の合戦の前に、劣勢な軍勢で秀吉軍を迎え撃つ以上、討ち死にを覚悟して作っておいたものと考えれば平仄が合います。幸いにも勝利したら、祝勝の宴で破り捨てればよいのですから。

質問者様が想像しておられるように、「後世の人が、本人の心中を想定して創作」した例も多くあると思われます。辞世の句ではないですが、家康の遺訓とされる「人生は重き荷を背負って長い坂を登って行くがごとし」云々は、明治時代に元尾張藩士が創作したものと歴史家によって証明されていますが、家康の身になり切って上手く作ったものですので、今でもあちこちで目にします。

秀吉の有名な辞世は、死ぬだいぶ前に秀吉本人が書いたとされる短冊が残っているはずです。
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辞世の句は先人が死を覚悟した時に残したものと思われます。

信長の場合は、生き延びた側近が秀吉などに伝えたとも考えられますが、
かなり疑問ですね。
下記サイトを参照して下さい。

http://www2u.biglobe.ne.jp/~kazu310/jiseitop.htm
死にそうな時に句なんて読んでる場合では無いが、実際は死を迎える数日前、数ヶ月前等に用意しておくパターンが多いようだ。
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この回答へのお礼

素早い回答ありがとうございました。

お礼日時:2007/04/05 20:21

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