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色川武大著「私の旧約聖書」の一節です(中公文庫、p111)。

 そのうえ、イスラエル軍は、奴隷経験や雌伏の経験のある人たちは皆死んでしまって、次代の息子たちになっていますから、勝利しか知りません。まず、有頂天だったのでしょう。別の目から見れば、どうにもならん庭の柿の木、というやつです。
 まもなくカナンのほぼ全土を占めてイスラエルの十二部族がそれぞれ土地を分割して定住します。(中略)それでめでたしめでたしとは、むろんなりません。(中略)イスラエルの人々と神のイェホバ氏との関係がぐっとうすらいでしまうのです。

ここに出てくる「どうにもならん庭の柿の木」という表現がよくわかりません。前後の文脈から判断して、「大きいばかりで実をつけない柿の木だからどうにも仕方がない」ということかとも思ったのですが確信がもてません。

そこで質問です。「どうにもならん庭の柿の木」の解釈、または典拠などについて、お考えをお聞かせください。よろしくお願いいたします。

A 回答 (1件)

「どうにもならぬは背戸の柿の木」という言葉があり、背戸とは家の裏口、裏手、裏庭のことで、どうにもならないことを日当たりが悪く実がならない柿の木にかけて言った言葉らしいです。

つまり、「庭の柿の木」の部分には特に意味はなく、「とにかくどうにもならない」ことを言いたいということではないでしょうか。
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この回答へのお礼

「どうにもならぬは背戸の柿の木」ということわざがあることを他のサイトで確認しました。貴重な情報をいただきましてありがとうございました。「どうにもならん庭の柿の木」の解釈についても納得いたしました。なお質問文中の「大きいばかりで実をつけない柿の木だからどうにも仕方がない」は、「大きいばかりで実をつけない柿の木のように、どうにも仕方がない」と言ったほうがより適切だったと後悔しております。

お礼日時:2007/05/10 11:47

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