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幕末のアヘン戦争のころ、なぜ日本は植民地化されなかったのでしょうか。何か特別なわけがあったのでしょうか。あったとすれば教えてください。

A 回答 (6件)

アヘン戦争は1840年の出来事です。

日本だと天保11年にあたり、まだ鎖国の真っ只中ですね。あの「蛮社の獄」が天保10年の出来事です。しかもアヘン戦争そのものがイギリス国内でも支持されておらず、議会では野党から「こんな恥さらしな戦争はない」と強い反対を受けています。また、麻薬を売りつけてさらに戦争に持ち込むというイギリスのやり方はさすがに当時といえども欧米諸国から強く非難されました。
とはいえ、南京条約を受け、欧米列強は次々に中国に手を出してゆきます。
一方、アヘン戦争は日本の知識人に大きな影響を与えます。中国人より日本人のほうが危機感を募らせたといってもいいでしょう。たどり着いた結論は「軍を近代化するしかない」という至極ごもっともなもので、これに基づいてなんとアヘン戦争の翌年の天保12年に江戸から外れたところにある田舎の広い場所で、高島秋帆が幕府に進言して日本初となる西洋砲術の大規模な模擬演習を行います。この演習があまりに江戸っ子の評判になったため、その場所は「高島様の平ら」転じて「高島平」と呼ばれるようになりました。

その後、悪名高き鳥居耀蔵の弾圧とか色々ありますが、実質的に幕末が始まったといえるのは1853年のいわゆる「黒船来航」でしょう。アヘン戦争から13年も過ぎていることに注目してください。
そしてこの1853年にヨーロッパで「クリミア戦争」が起きています。日本でクリミア戦争がほとんど知られていないのは日本では「黒船来航」という大事件が起きたためで、実はクリミア戦争は近代ヨーロッパ史に大変大きな影響を与える戦争でした。ナイチンゲールが活躍したことは有名ですね。
そう、はっきりいやあヨーロッパ諸国はこのクリミア戦争とその後始末に忙しくて遠く離れた極東の小国のことなんざかまっとるヒマはなかったのです。
桜田門外の変の翌年の1861年にアメリカで南北戦争が始まります。これ以降、アメリカも極東の小国にかまっとるヒマがなくなります。この翌年の1862年に生麦事件が起きて、幕末の歯車が本格的に動き始めます。
1863年に薩英戦争、1864年に下関戦争が起きて、近代化を進めてはいましたが頑張ったところで欧州列強に鎧袖一触されてしまうことを日本人は痛感します。この辺りから攘夷ばっかり唱えて日本刀振り回してもかなわねえよということに気付く人が増えてきます。
この頃ヨーロッパではドイツ統一戦争や普墺戦争などが起きていて、欧州諸国の関心はそちらのほうが高かったと思われます。
また、日本国内でもめ始めて最新兵器に対する需要が増えてきたので、遠い国にわざわざ軍隊を派遣するよりも、ちょっと型落ち品を高値で売りつけて儲けた方がいいという思惑もあったようです。
戊辰戦争の頃になると、もう軍隊を送って植民地にするにはちょいと面倒な相手になっていたといえましょう。それなりの大軍を用いないと征服は難しい状態だったと思います。そして、わざわざそこまでして欲しいものは全くなかったと思います。資源がないことが幸いだったかもしれません。
また、香港やシンガポール、ベトナムや上海はアジア諸国とりわけ中国への足がかりにちょうどよい場所にありましたが、日本は中国進出の足場にゃちょっと場所が悪いですし、また日本の先には太平洋があるだけで、その先に欲しくなるような土地もありません。
ロシアとアメリカにとっては必要だったかもしれませんが、前述のようにロシアはクリミア戦争で国内の大改革の必要に迫られ極東にかまっとる場合ではないですし、アメリカも南北戦争でまず国内を整える必要がありました。

幕末とひとくくりにしてもアヘン戦争から明治元年まで29年もあるわけです。イメージしてるより長いんですよ、幕末って。
当時、日本を植民地にできる能力を持った国はイギリス、フランス、ロシア、アメリカぐらいではなかったかと思います。イギリスは既にシンガポールや香港などを手に入れ極東に根拠地は「あれば便利」程度の認識だったと思います。フランスは、幕府に肩入れしていましたが戊辰戦争で幕府が敗れて介入の口実を失いました(幕府はフランスに派兵は求めなかったため)。親英の薩長とコトを構えるとイギリスとの戦争になりかねず、既にアジアに大海軍を展開していたイギリスと戦争になるとベトナムなどを失いかねないと判断したのではないでしょうか。
ロシアとアメリカは前述の通りです。ま、そういう意味では非常にラッキーだったのかもしれませんね。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。すごく詳しく解答していただきとてもうれしいです。ありがとうございました。

お礼日時:2007/05/24 21:10

司馬遼太郎の小説に書いてあったのですが、


当時のイギリス議会で日本には侵略しないと決議されたと書いてありました。侵略せずに安定した市場として商品を販売して儲けようと考えたのですね。
肝心のネタ元ですが、ごめんなさい、司馬遼太郎のなんと言う小説に書いてあったのか思い出せませんでした。幕末・明治初期の小説なのは間違いないのですが・・・。
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この回答へのお礼

お礼が遅くなってしまい、申し訳ありません。小説を用いて教えていただいて、すごく分かりやすいです。ありがとうございました。

お礼日時:2007/06/26 22:15

他の方が、概ね説明されているので、


部分的なところだけ話すと、
やはり「人」のレベルが高かったからではないでしょうか。

例えば、
幕府側の勝海舟は戊辰戦争の際に、
幕府の中にあった、フランスの援助で、西軍(官軍)と戦おうという案を一蹴しています。
ここで、フランスに援助させていたら、日本の一部は、租借地ぐらいにはなったでしょう。
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この回答へのお礼

お礼が遅くなってしまい申し訳ありません。当時の日本にも優秀な人物はいたのですね。確かにそれも一因のような気がします。ありがとうございました。

お礼日時:2007/06/26 22:12

外的要因ではなく植民地とならなかった内的要因をあげます。



中国やインドなどが支配・植民地化されていった経緯を武士階級の間において理解していたことがまずあげられます。
欧米列国の取っていた手法は、甘い顔をして近づき、無償支援などにより、時の政権ないしは反政権を取り込み、更には武力支援を行い、その効を理由に軍を常駐させ政治に介入していきました。
このため、幕末・戊辰・明治に渡り、日本(東軍・西軍いずれも)は無償支援を断っています。
(武力支援ではなく、武器の無償提供の打診を東軍・西軍のいずれも受けていますが、いずれも断り高い金額を払ってでも購入しているのです)
西欧列国からの介入を未然に防いでいたことが1番の要素だと思います。

2番目の要素は、アジア諸国と事なり、藩という名の内国を国内に多数抱え、かつ巧妙な軍事バランスを利用維持することにより、230年間の平和な時代に関わらず、完全な軍事国家を維持できていたと言う点です。
現代に例えれば、中央政府から、県庁、市庁はもちろんの事全ての出先機関(税務署や保健所も)で働く人も含め全員が軍人であった形となります。
平和な時代においては、国政や地政を運営していくことを日常業務としていたものの、幼少の時より有事の際には命を賭して戦うことを当然とし、いつでも戦える準備と気構えをした集団であったことが、欧米列国が例え強力であったとしても歯向かう事が出来た要因となります。
また中央から地方まで完全な軍事国家であったため、予算を即座に軍事に転化させる政策が当然の如く採用することが出来ました。

3番目の要素として水戸学を中心とした江戸時代におこったそれ以前の時代よりも強烈な尊皇思想にあります。
日本と言う国は諸藩に分かれていても、それは天子様(天皇陛下)が一人で日本の全てを統治することは出来ないから、諸藩主に各国の統治を委任し、各藩主もまた自らが全てを1人で行うことは出来ないから階層的な役人構成をなしていると考えるようになってきていました。
(将軍(幕府)は、天子様に変わって諸藩をまとめる役目)
この考え方が幕末では諸藩に広まっていたため、1番目と2番目の要素が強く生きることになったのです。
これにより、他のアジア諸国に比べ、自分の国と言う意識を強く持つ国家になっていたと言えます。
(この考え方が王政復古につながっていきます。つまりは諸藩のバランスよりも欧米列国に対抗するためには強力な中央政府を作る必要があり、そのためには天皇親政による王政復古しかないと。)

4番目の要素として、日本の識字率を始めとする基礎学力が、世界の中でも特に秀でていたことがあります。
特に武士階級においては、識字率が全国レベルで90%を越えており、同時期の西欧列国の貴族階級並の識字率となっていました。
(日本の農村部を含めた各階層の平均でも、フランスのパリ中心部の市民の識字率を若干上回っていたそうです。)
この識字率以外にも、江戸中期頃より各藩による藩校設置や、市民の間では寺子屋の整備なども行われ国民レベルでの基礎学力を底上げしていました。
特に藩校においては現在の大学レベルの水準を維持しており、優秀な人材は江戸にあった昌平坂学問所に国内留学をさせたり、後期には海外留学をさせるなど教育の強化に国全体が向かっていました。
これらの結果が、幕末初期であれば鍋島藩による蒸気船について海外の原書を参考にするだけで、同じ蒸気船を一から作り上げ海外諸国を驚かすようなことが出来たり、学んできた技術を幕府や各藩において自らつくり出せるレベルまで習得できるようになっていったのです。
これにより、列国の戦争における戦術や、武器などの知識も含め、日本にはかなりの水準で理解していたことあげられます。
(日本人に今では薄れつつある勤勉さは、戦後からのことではなく、江戸時代からのものなのです)

最後の要素は精神的な部分です。
他国の軍人にあたる日本の武士の死への考え方と滅私奉公にあります。
切腹の仕方は武士の作法として、幼少時に武士は皆ならったように常に死と向き合い、恥をかくか名誉ある死であれば受け入れることを当然としていました。
(幕末の最大軍事力を誇った薩摩藩では、武士の子供同士の喧嘩であっても、場合によっては切腹ですし、論じて負ければ恥じて切腹。介錯には親族があたっています)
列国が日本への陸戦を避けつづけたのには、これが大きな要因となっています。
自国を貶められる恥をかくくらいであれば、死ぬことを平然と受入れ挑んでくる武士を列国の軍人は見てきており、簡単には占領できないことを理解していました。
死ぬことを恐れない兵と言うのは相手方から見た場合、一番恐ろしいものです。
また滅私奉公の考え方も藩主へから天皇陛下に向くようになっていき、それが日本国家への奉公という形になっていきました。
己の欲得よりも国家への忠誠を第一として生きる生き方であり、死の考え方とあいまってより他国から見れば恐い存在になっていたのです。
イギリスなどが艦砲射撃を長州藩などに行っていますが、陸戦を行わず避けたのも、例えイギリス軍が勝ったとしても大規模な被害を受けることを恐れてのことでした。
(当時のイギリス本国から日本に居た艦隊への指令もこれを理由に陸戦を禁止しています)

これらの事により、植民地化されることなく、明治の富国強兵を実現できていったのです。
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この回答へのお礼

お礼が遅くなってしまい本当に申し訳ありません。詳しい説明ありがとうございます。いろいろ内的に要因があったこと、良く分かりました。ありがとうございました。

お礼日時:2007/06/26 22:09

 薩長と幕府が、それぞれ支援を受けていた英仏を、「日本国内の争い」にひきずりこまなかったせいだと思っています。



 たしか、「我が国も参戦してやろうか」という意味の提案を受けましたが、それぞれに断ってたと記憶しています。英仏などがつけいる隙がなかったということでしょう。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。国内の争いに外国を介入させなかったからなんですね。ありがとうございました。

お礼日時:2007/05/24 21:21

一つには諸外国の国内外の事情によります。

アメリカは南北戦争、ロシアは農奴解放、イギリスはセポイの反乱、フランスはイタリア統一戦争へ介入。

もう一つは諸外国が武士との白兵戦を恐れたため、というのがあるようです。海戦ならば、諸外国が圧倒的有利ですが、陸戦となると武士相手に手を焼くだろうと判断したらしいです。

最後に、欧米と日本や中国は文化圏こそ違うので、不平等条約を結ばされたりしましたが、準文明国といった扱いになっていたためです。

上記のような理由から、諸外国が手を出させなかった間に近代化したため、植民地化されずにすんだということです。
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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございます。外国が忙しかったこと、以外に武士というものが恐れられていたこと、準文明国と見られていたこと、初めて知りました。ありがとうございました。

お礼日時:2007/05/24 20:40

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