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通貨制度が整備されてきた近世で、銀貨は重さで、金貨は額面で取引するというシステムを作ったのは、どういう理由なのでしょうか?金のほうは、悪貨発行の余地を残すということでしょうか?

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A 回答 (3件)

銀本位制度では、外国への支払いは、銀貨で行うのが普通だったからです。

実際には、おっしゃる通り、金銀複本位制です。

また、通貨は重さで交換されるのが慣例でしたので、
1ドル銀貨=一分銀程度の長崎貿易は、
1ドル銀貨の重さ=一分銀3枚へと変わります。

>金貨は額面で取引
日本では、金貨を本位貨幣と決定します。
金1.5gを1円と定めます。
金本位制度(兌換制度)であったらしいです。

一分銀は実質の価値の1/3程度の重さであったらしいです。

1両小判とは、小判の中に1両分の金がある。
こう言う意味なのですが、
金貨は慶長小判の金の含有率は84%です。
幕末の小判では重さは慶長小判の1/5。含有率50%程度になります。
実質は、経済崩壊寸前であったようです。
明治政府が大きな銀貨を作成したのは対外貿易の為です。
銀(金)本位制度→管理通貨制度へと移行します。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
銀本位制から、金本位制には外国勢力がかかわっていました。

お礼日時:2007/08/14 10:13

●荻原重秀・田沼意次・幕末の金貨流出●


日本で、金銀銅の三貨制度が確立したのは江戸時代です。江戸時代には初期から、幕末まで多くの出来事がありました。ポイントは、(1)荻原重秀の貨幣改鋳、(2)田沼意次の明和南鐐二朱判の発行、(3)幕末の金貨流出、だと考えます。これらに関して短くまとめるのはとても時間がかかりそうなので、参考になるリンク先を書きます。
日本銀行金融研究所 貨幣博物館 わが国の貨幣史 http://www.imes.boj.or.jp/cm/htmls/history.htm
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この回答へのお礼

どうもありがとうございます。
金融博物館は勉強になりますよ。

お礼日時:2007/08/14 10:14

なかなか鋭い問題提起ですね。



私見ですが、幕府は確かに「金貨は額面で取引するというシステム」を官主導で作りました。なお、江戸時代後期には「南瞭ニ朱銀」など、「額面金貨に擬装した銀貨」が発行され、ごく普通に流通していました。幕府の通貨通用力の意外な強さが分かります。

一方、大坂を中心とする銀遣いのシステムは市場によって江戸時代以前の経済システムからの連続性の中で作り出されたのではないでしょうか。銀を受け渡しする際はいちいち重さを測り、純度も様々な方法で調べて遺漏なきを期したようです。ただ、さすがに煩わしいので、品位の確かな銀貨を公的機関(銀座)や両替商が検査して紙で包んで封印し、封印の信用力で包んだものが流通する「包銀」のしくみが成立したようです。

金遣いの経済圏では幕府の権威が強いため官製システムが機能し、それ以外の銀遣いの経済圏ではそうは行かなかった、日本全体としては銀図解の経済圏の方が優位だった、ということになるように思います。
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この回答へのお礼

江戸時代に、通過システム的には、まだ全国統一がなされたとはいえないということが、なんとも意外なことです。両替商の繁盛です。幕府権力は限界性がありましたね。

お礼日時:2007/08/14 10:16

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Q豊臣秀吉が貫高制を廃して石高制に統一した理由

 信長は両者を併用していましたが、それは何故でしょうか?
 秀吉が石高制を採用したのは、貫高制より優位性があったからでしょうが、つまりそれは何なのか、端的具体的に教えていただきたいのです。

Aベストアンサー

貫高制は土地から得られる収益を銭に換算し金納させる制度ですが銭そのものの普及率が低く、絶対量が不足しており実際には米納と併用でした。

領主が家臣に課す軍役や負担は貫高によって決められていました。
貨幣の品質、数量もまちまちなので基準も同一に成りにくかったのです。

秀吉は太閤検地を全国規模で同一の基準で行いましたから全国の収益を把握出来たのです。  貨幣の供給量の不足は改善されなかったので米納に切り替え軍役の負担も石高によると定めたのが石高制です。

Q『金貨』『銀貨』ってどのくらいの価値?

よくゲームや漫画などで「金貨」や「銀貨」が出てきますが、どのくらいの価値があるものだかわかりません。
もちろん世界観、現実世界でも時代や地域によって価値は違うのでしょうが、「金貨一枚あればこのくらいのことができる」というのを教えてもらえないでしょうか?

剣一本でこのくらい、とか。
平均的な市民の○○日分の賃金に相当する、とか。

想像力の乏しい自分には、金色のコイン→500円玉という安直なイメージしか生まれません(笑)
「ホレ、報酬の金貨10枚だ」なんてセリフがあったとしても「たった5000円?」みたいにしか思えないのです。

Aベストアンサー

ファンタジー系は中世の西洋を参考にしていると思いますので…。
16世紀あたりのイギリス通貨だと、
銅貨4枚=銀貨1枚
銀貨12枚=金貨1枚
くらいだったと思います。
銀貨や金貨は実際には○○銀貨や○○金貨とあり、それによってレートも変わったりするので絶対これが正しいとは言えませんが・・・。

労働者の賃金は銀貨15~18枚(1日)くらい、パンの価格は銀貨8枚(3日分)くらいだったと思います。
日給が金貨1枚ちょっとということで1万円くらいだと考えると、金貨10枚で10万円。大金ですね。
こんな感じのイメージでいいのではないでしょうか。

Q秀吉と家康の政治への基盤体制の違い

こんにちは。

(下記は、断定した文章や説明が断片的な書き方をしておりますが
 説明しやすさを優先しておりますので
 異論反論あるかと思いますが、ある程度ご容赦ください)

秀吉は天下統一後、残念ながら豊臣家を磐石な体制にする事ができずに
家康にその覇権をゆずり、
その後300年という磐石な体制を築きました。

この二人の執り行った体制の違いはどういう点にあるのでしょうか。
家康は征夷大将軍になり幕府を開きましたが、秀吉は行わなかった。
その差なのでしょうか(もちろんその差だけではないでしょうが、大きな要素として)

なぜ秀吉は幕府を開かなかったのか。

また、秀吉は五大老・五奉行という体制をとりましたが、
結果(色々異論はあるでしょうが)対立構造を生んでしまいました。
これがまずかったのでしょうか。
それとも、正当な後継者が(適正なタイミングで)存在しなかったことが原因の一要素としても
あるのでしょうか。
(秀次や早死した子供の事もあるでしょうが、子供に恵まれなかったというイレギュラーな
事だけだったのか。徳川家は、幕府という体制をしいておきながら
そのような子供に恵まれなかった場合も、綻びが生じる可能性があったのか)

…色々疑問文ばかりで恐縮ですが
自分は個人的に秀吉が好きなのですが、天下統一まで圧倒的だった秀吉が
何故磐石の態勢を築けなかったのか。
(おそらく秀吉は、「このような体制で問題ないだろう」とは思っていたとは思いますが、
 死の間際「誓書」を書かせたことなど、死後を心配していた事、何かしら
 懸念はしていたと想像してます。
 その点、家康は自分の死後、秀吉ほどまで懸念しながら死の床についてはいなかったのでは
 ないでしょうか。体制が磐石だったと思いますので。…単なる憶測ですが)
家康との差はなんだったのか、家康はあそこまで磐石な徳川体制を敷けた理由は
どういうところにあるのか。

みなさまの考える論拠をお聞かせください。
よろしくお願いいたします。

願わくばその考えに行き着いた思考のプロセスを詳細に
教えていただけると助かります。

こんにちは。

(下記は、断定した文章や説明が断片的な書き方をしておりますが
 説明しやすさを優先しておりますので
 異論反論あるかと思いますが、ある程度ご容赦ください)

秀吉は天下統一後、残念ながら豊臣家を磐石な体制にする事ができずに
家康にその覇権をゆずり、
その後300年という磐石な体制を築きました。

この二人の執り行った体制の違いはどういう点にあるのでしょうか。
家康は征夷大将軍になり幕府を開きましたが、秀吉は行わなかった。
その差なのでしょうか(もちろんその...続きを読む

Aベストアンサー

興味深い議題ですね。
自分の見解としては、生まれ育った環境も大きな一因かと
思っています。

生まれながらにして大名(といっても傀儡ですが)だった家康と
一平卒から成り上がった秀吉。生まれ持った価値観と、天下を
手に入れた後の処置の仕方、大きく違うと思います。

まず、秀吉からですが、彼は非常に優秀な武将だったことは
周知の事実です。また、一平卒から天下人になるという、今まで
の日本史至上の出世をした奇跡の人でもあります。
成り上がることにかけては、何もいうことないのですが、現状を
維持する能力に欠けていたと思います。
常に自分が何かを求めていたので、全てを手に入れてしまった
後は、どう平定すれば良いのかが分からなかったのでしょう。
一番の失策は朝鮮への出兵で、明確なビジョンもなく、ただ部下に
土地を上げたいがために起こした、一方的な戦です。
これにより、西国の大名は軍事力を大きく削がれ、関が原の敗因
の一因にもあげられています。


それを反面教師にしたのが、まさに家康ですね。
子供の頃から、大名の子でありながら不遇な体験をし続け、様々な
裏切りに会い、親も子供も親族も亡くしています。
ここで養われたのが、猜疑心かと思います。人を信じることができ
ないからこそ、磐石な体制が敷けたと考えられます。
秀吉が死去してから、禁止されていた大名同士の婚礼を次々に
行い、有力大名との絆を深めていきます。まだ、自身も70になっても
子作りに専念し、分家(御三家)という体制を作ります。
彼の目的は、日本中を徳川家にしたかったのかと思うぐらい、自分の
血筋の入った者を他家に入れ込みます。


さて、天下を略奪した暁には、秀吉とは異なり非常な仕打ちをします。
自分の親族には大きな土地を、昔から味方だった優秀な家臣には
そこそこの土地を、降伏した大名には、どうでもいい土地を分け与えます。
しかし、感謝の念よりも、これからは徳川に尽くす政策を強行します。
まずは、金山などの独占権を横行し、経済を牛耳ります。
天皇家よりも、徳川家が偉いと決め、大名との付き合いを一切もたせなく
します(毛利家など例外はありましたが)。
更に、一国に対して城は一つ。高さ制限、広さ制限もします。改修するには
幕府にいちいち許可が必要です。国力を一気に削いでいきます。
もちろん、大名同士の勝手な婚礼も禁止です。
あれだけ尽くしてきたのに、こんな仕打ちかい!と西国を中心とした大名は
大いに反発。ほんのちょーーーーーっとだけ反発(勝手に城を修繕したとか)
しだだけで、お家取り潰しされ、徳川の領土になった。
当初に、どうでもいい国を与えたのも後々没収する名目であったことも
伺える。没収した後は、小さな国でもいいので、他家へのにらみになる。
極め付けが参勤交代という人質制度。このように大名は次々に牙を抜かれ、
外国の圧力がかかるまでは、徳川の天下が謳歌できたと思います。


人とのつながりを大事にし、絆を深め大きく恩賞を取らせ、人身掌握で
天下を取った秀吉。天下人になった後も、いかに部下が自分を信奉する
かに力を尽くした結果、裏切られることに。。。

不遇な幼少期、青年期を過ごし、自分の上に立つものに対して猜疑心の
塊だった家康。天下人になった暁には、今まで温厚だった家康とうって
代わり、恐怖・恐喝・恫喝政治をして、徳川三代かけて根底をしっかりと
作った結果、260年という太平な日本を築けた。
〈四代目以降からは、考えられないぐらいガタガタになるが、すでに
徳川家が神格化されていたので、天下転覆を考える輩はいなかった)

興味深い議題ですね。
自分の見解としては、生まれ育った環境も大きな一因かと
思っています。

生まれながらにして大名(といっても傀儡ですが)だった家康と
一平卒から成り上がった秀吉。生まれ持った価値観と、天下を
手に入れた後の処置の仕方、大きく違うと思います。

まず、秀吉からですが、彼は非常に優秀な武将だったことは
周知の事実です。また、一平卒から天下人になるという、今まで
の日本史至上の出世をした奇跡の人でもあります。
成り上がることにかけては、何もいうことないのです...続きを読む


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