
No.4ベストアンサー
- 回答日時:
「日本三大夜戦」というのは初耳ですね。
ウィキペディア筆者の筆が滑った、と考えたほうが良いでしょう。http://ckk12850.exblog.jp/581743
によると
「頼山陽 著の『日本外史』において、厳島合戦、桶狭間と共に『戦国前期の三大戦闘』と称した」
だそうですが。これなら理解できます。
質問者様が挙げておられる3つの合戦は、いずれも
「普通に戦ったら問題にならないほどの兵力差を、劣勢側が見事にひっくり返し、敵の総大将を討ち取って圧勝した戦い」
です。要するに「戦理を超えた奇跡の勝利」です。いずれの戦いも「戦いの前日まで、討ち取られた総大将は自軍が敗北するなど夢にも思っていなかった」のが共通しています。
なお、龍造寺隆信が敗死した沖田畷の戦も、上記の3つの戦いと同列視して良いと思われます。
沖田畷の戦
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%96%E7%94%B0% …
蛇足ですが、仮に「日本三大野戦」を選ぶなら、
* 川中島合戦
* 設楽原合戦
* 関ヶ原合戦
になるでしょうか。
近代著作によるものではなく、頼山陽の日本外史においてであれば三大戦闘であるということも納得できます。逆に誰が何時頃から三大夜襲などと的外れと思われることを言い出したのか気になるところです。
歴史を少しかじった者であれば桶狭間は無いとすぐわかるとは思いますが・・・
最初のURLを拝見し、河越(川越)城は「太田道灌の怨念?」などと勝手に思ってしまいました。
沖田畷の合戦では島津得意の釣り野伏せが出ました。隆信が生きていれば、その後の鍋島藩はどうなったのでしょうね(私も蛇足ですみません)。
ちなみに私は宇喜多直家の三村勢に対する明善寺合戦がやはり半数の兵力で倍する敵を倒した点が凄いと評価しています(大戦ではありませんが)。
回答および参考URLありがとうございました。
No.6
- 回答日時:
頼山陽は、歴史家ですが、広島生まれということで
厳島合戦が入っているのでしょうが、
三大の”大”というのは問題で、
動員兵力、兵力差という点でも、もっと大きいのがあるわけで
何でこの三つなのかというのは
かなり主観的なものを感じます。
沖田畷の戦よりも、もっと兵力差があって
大逆転だったのが、
竜造寺隆信と大友親貞が戦った今山合戦というのがあって
これは5千対6万(一説には8万)という12倍もの恐ろしいものでした。
沖田畷は大軍がみうごきのできぬ沼沢地でしたが、
今山は佐賀県の平原部で夜間に移動し、敵本陣を早朝に急襲するというもの。
やっぱりこっちをさしおくわけにはいかんでしょう。
この戦いは日本で全く無名ですが、
ある宣教師によって竜造寺隆信が日本のカエサルと紹介された理由になってます。
鍋島直茂の母、慶誾は元はと言えば隆信の母でした。再稼先が鍋島家であったので、言わば隆信と直茂は義兄弟でした。その直茂が提案した今山奇襲は家臣団が反対するなか慶誾が支持したために実行され、成功しました。言わば陰の功労者はこの母ではないかと思います。
今山合戦は夜襲だったとの説もありますが、実際には早暁の戦いだったようです。前回答に出た沖田畷の合戦が竜造寺側からみた没落の戦いならこちらは竜造寺最盛期を迎えるきっかけになった戦いですね。
本題ですが日本三大夜襲は皆様考えるようにやはり無理があると思います。(ウィキの訂正は専門家に任せておいて)
頼山陽の思い入れは分かります。毛利贔屓があるのかも知れませんね。
再度の回答ありがとうございました。
No.5
- 回答日時:
夜戦夜戦ではなく、戦国3大奇襲戦じゃないでしょうかね。
共通点は、少数の兵力で大多数を打ち破る奇術で、
相手の大将を討ち取っている。
島津と竜造寺ですが、既に島津は耳川で大友氏を撃破しているほどの強兵であったこと。
指揮が総大将島津義久ではなく、島津家久だったこと。
上記の合戦には総大将自ら戦場へ赴いています。
それ故に島津氏の評価が微妙なのかもしれません。
脱線、余談は大歓迎であります。
夜討ち、朝駆けに該当するのはやはり河越と厳島であり、奇襲としては厳島と桶狭間。ただし桶狭間は夜討ちでもなんでもありません(行軍は朝駆けであったかもしれませんが、戦闘は昼です)。
このちぐはぐな取り合わせを総称するならやはり「三大奇襲」もしくは「戦国前期三大合戦」ぐらいでしょうか。
いつごろから三大夜襲とよばれるようになったのかが今、疑問になっています。
島津氏は総大将が合戦によって、義弘であったり家久であったりしますが、これは戦闘能力と得意技を相手を見て義久が決めていたのではないでしょうか?(勝手な推測です)
回答ありがとうございました。
No.3
- 回答日時:
信長公記の今川義元討死の事にて
俄に急雨、石氷を投げ打つ様に、敵の輔に打ち付くる。
身方は後の方に降りかゝる。
沓掛の到下の松の本に・二かい三がゐの楠の木、雨に東へ降り倒るゝ。余の事に、
熱田大明神の神軍がと申し侯なり
私訳「にわかに天が曇り、強風が吹き付け、大地を揺るがす豪雨となった。この突然の嵐によって、沓掛の峠に立つふた抱えほどもある楠が東へ向け音をたてて倒れた。人々はこれぞ熱田明神の御力であろうとささやき合った」
この後天候が晴れ始めて直に攻め入ったのですが、この嵐を夜の闇に例えて夜戦と称したのではないでしょうか。
天候の隙を突くのは作戦の常套ですね。その意味で厳島も嵐の渡海、桶狭間も豪雨の隙を突いています。
しかし桶狭間に関しては史実では昼食中であり、炎天下に雨がふったことに嬉しくて鎧兜を脱いでいます。この桶狭間の解釈はどうにも解せません。奇襲ならぴったりなのですが、NO2様の回答のURLを見て驚きました。ウィキだけではなく書籍にも三大夜襲で出版されているものがあるではないですか。
ただ単なる間違いでこんな明白なことが三大夜戦で通り続けるのか、不思議でなりません。
回答ありがとうございました。
No.2
- 回答日時:
三大夜戦に関する書籍一覧があります。
このHPの作者も、書籍調査の上で、? を発していらっしゃいますね。
回答ありがとうございます。NO1様もおっしゃっていましたが、三大夜戦より三大奇襲もしくは三大合戦の方がしっくりきます。それならば納得できる、と言えますね。
No.1
- 回答日時:
ウィキのこの項目記載者は
野戦と夜戦を間違えてはいないようですが
そもそも三大夜戦なるものが
誰の選?という話ですし
項目の内容みても薄いですよね。
素人が編集するウィキ独特のヘタレ記事に過ぎないと
言っていいでしょう。
河越は夜戦として確かに有名ですが、
厳島の戦いは非常に特異な戦いですし
合戦が夜をまたぐとはいえ、夜戦という感じではありませんね。
桶狭間は、夜戦というより、朝駆け。
照明器具も通信設備もない時代ですから
同士討ちや、無用な混乱を避けるために
昔から夜は戦闘をしないのが基本で、
夜討ち朝駆けといって、夜襲とかいっても実際には
日の入りと日の出の時間に戦うのが常道でした。
これはまた別の話ですが、
日暮れは気が緩む時間帯で、
早朝は人々の活動がなくこれから明るくなるため
戦闘をしかけるのにもってこいの時間とされていたわけです。
さて、どちらかというと
河越、厳島、桶狭間は、”日本三大奇襲戦”と言われることが多いような気がしますから
ま、これも広く認知されているわけじゃありませんが、
間違いの種類はそっちじゃないでしょうか?
夜討ち朝駆けに該当するのは厳島合戦がぴったりですね。夜戦に限らずそもそも誰が日本三大何々と命名するのかは確かに疑問です。
深夜に攻撃するのは確かにこちらも多少は灯りが必要なわけで、作戦としてはハイリスクでありハイリターンでもあると思います。
三大奇襲。こちらのほうがぴったりきますね。
回答、考察ありがとうございました。
お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!
おすすめ情報
デイリーランキングこのカテゴリの人気デイリーQ&Aランキング
マンスリーランキングこのカテゴリの人気マンスリーQ&Aランキング
-
「かもしれない」と「やもしれ...
-
古語の読み方を教えてください
-
戦時中の焼け野原の中、どこで...
-
「鶏頭牛尾」?「鶏口牛後」?
-
槍使いの英雄
-
お公家さんの末裔は今、どの様...
-
現代人が江戸時代以前の人と会...
-
切腹人が腹に巻いている白い布...
-
お土産のことを「おみや」とい...
-
豊臣側の家臣の血筋がいて 復讐...
-
戦前っていつから?
-
浄土真宗が多い地域は何処ですか?
-
「前九年・後三年の役」の呼び...
-
ビニール袋などを頭に
-
押忍の精神 押忍の精神とは 耐...
-
名前が一文字の武将はいたのか?
-
「~丸」とつく幼名を教えてく...
-
米兵が子供にチョコレートをあ...
-
紀州徳川家家臣団
-
徳育論争(1879年)について教...
おすすめ情報