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盧溝橋事件は、日中戦争のきっかけですが、
なぜあの前に日本軍は中国に駐留していたのでしょうか。
日中戦争が侵略戦争だとするなら、
盧溝橋事件の前から侵略は始まっていたのでしょうか。

A 回答 (7件)

 1899年、清国(現在の中国)で義和団なる集団が生まれました。



 1900年、彼らは扶清滅洋(清を復興させ外国を滅亡させよう)というスローガンを掲げて外国人を攻撃したのです。攻撃の対象は宣教師や外交官でした。4月、大規模な義和団が北京と天津の公使館を襲撃します。各国の駐在武官などがありったけの武器をかき集めて公使館に立て篭もりました。この愛国運動に西太后が同調して清国は日米英仏伊独露墺に宣戦布告します。55日後、日本軍を中心として救援軍によって義和団を壊滅します。
 義和団に加担した清国政府は北京にて各国と条約を結びました。この条約で日米英仏伊独露墺白蘭は北京及び天津の公使館に軍隊を駐留させることになったのです。
 日本は第一支那駐留大隊を北京に、第二支那駐留大隊を天津に配備し北京及び天津の公使館警護に当たらせました。
 1936年、中国情勢の悪化に伴い両部隊を連隊編成に変更します。
 1937年7月7日、第一支那駐留大隊第二大隊が盧溝橋のたもとにある各国駐留軍共同演習場で軍事訓練を行っていました。その日は朝から対岸で中国軍の不自然な行動が見られたのです。20年代の内戦で使われたトーチカ(国際取り決めで使用及び発掘が禁止されている)を掘り起こしていたのです。そして発砲事件が起きたのです。

 この事件は1960年になって当時の主席・劉少奇が犯行を認める発表を行っています。その直後、文化大革命で彼は失脚し、粛清されました。
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この回答へのお礼

そうそう、そうでしたよねー。
すっかり授業の内容を忘れていました。
ありがとうございました。
しかし、それから何十年も中国に駐留していたんですね。
教科書だと一文ですが、年表を見ると、長いなあと。

お礼日時:2007/11/13 10:08

侵略が始まっていたといえば、始まっていたのです。


侵略の過程や現象には違いがありますが、本質的にはヨーロッパがアメリカ大陸へ進出(侵略)したのと同じです。
 現代の国際倫理や国際法で言えば、日本の行為は侵略=悪 となりますが、当時のそれでは 悪 と決め付けられない要素はあります。
特に、満州国の建国は「悪」と決め付けるべきではないと思われます。
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この回答へのお礼

確かにその通りですね。
後世のものは勝手に過去を評価しますが、
その基準はその時代のもの、ですよね。

ご教授下さったほかの皆様もありがとうございました。

お礼日時:2007/11/13 10:06

ペリー、江華島、東学党日清戦争、義和団。


この順番ではないでしょうか。
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塘沽協定により、万里の長城が軍事境界線になっていました。


満州国成立後、日本軍は満州国拡大を狙って熱河へ侵攻し、一部では長城線を越えましたが、停戦が成立しました。

なお「劉少奇が兵士へ配ったパンフレットの中で、盧溝橋事件への関与を認めた」とする情報の信憑性は、「見たと主張する人はいるが現物は確認されていない」というレベルなので、UFOやネッシーなみと考えるべきでしょう。
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第一次世界大戦後、日本は『21か条の要求』を中国につきつけ、侵略の意図をあらわにしました。

 それに対し中国人は反発し五四運動、前後して日貨排斥運動が起こりました。1928年、日本は第一次世界大戦の勝利で得た山東省の権益を北伐から守るべく山東出兵を行い、済南事件で日中双方は衝突しました。 そういう背景で、盧溝橋事件の時点で日本軍が中国に駐留していたものです。
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1900年の北清事変の結果、北京や天津に、日本人居留民保護のため日本軍を駐留させる権利を日本は得ました。



盧溝橋事件の時もその条約に基づいて日本軍が駐留していた、のだったと思います。
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その当時、匪賊や反日運動(その当時からです)が活発で日本人移民の


被害が大きかったから。それに対して当時の中国はろくな対応をとらなかったから。
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