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インターネット上で調べると初陣、ということしか書いてありません。
もし詳しくどういう活躍をしたなどわかる方がいらしたら教えてください。

A 回答 (3件)

No.1です。


海津(かいず 現在は萱津かやず)の戦いは、よくは判らないのが実情です。
安宅夏夫氏によると、織田信長の敵は清須の酒井、河尻氏で、前田利家の戦功はなかったとの事。
酒井美意子氏によると、信長の敵は織田彦五郎で、利家は槍を振るい、士の首級を一つ取り、信長に褒められたとあります。
後の話のほうが面白いが、どうですか。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
後の内容のほうが断然面白いですね!!
クイズに利用したいと思っていますので
利用させていただきたいと思います。

お礼日時:2007/11/22 09:52

信長公記では海津村となっている萱津村の合戦では、敵は「坂井大膳・坂井甚介・河尻与一・織田三位申しかたらい」とありますので、いずれの研究者も間違ってはいません。

(誤解を生じやすい記述でありますが)
前田利家の働きは信長公記にのっていませんが、まだ元服前ですから、たいした働きはしてないでしょう。(戦功に重要なのは従者たちの働きですが、元服前では一人もいませんね)
他の近習より先に敵陣へ駈け入り、信長からほめられた、との記録もあるようですが、真偽は不明です。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。

お礼日時:2007/11/22 09:50

尾張海津の合戦の初陣は14~5才で、たいした活躍はなかったと思います。

   活躍は19才の第二の参陣からです。
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Q前田利家の名前

前田利家は、犬千代とか又佐衛門(←漢字違うかも)とか呼ばれてますが、
どういうときにこの名前で呼ぶとか決まってるんでしょうか?

あと、利家は前田(又佐衛門)利家で、前田利家ですよね?
なぜ前田慶次は、前田(慶次郎)利ます?(なんですよね?)なのに、
一般的に前田慶次って呼ばれてるんでしょうか・・・。

どなたかご存知の方がいらっしゃいましたら、教えてください。

Aベストアンサー

今では名前というと「姓=苗字」+「名」と2つの組み合わせだけなのですが
昔は「姓」も「苗字」も別のもので「名」も幼名・字・諱等多くの種類がありました。
それらを全部繋げて述べるのではなく一定の決まりによって呼び名やつなげ方が変るのです。
事細かに述べると長くなりますが前田利家の例であげれば
姓は菅原朝臣・苗字は前田・幼名が犬千代・字が又佐衛門・諱が利家となります。
幼名は字の如く幼い時の名です。
大人になると大人としての名が付くのですがそれまではこの幼名で呼ばれます。
一般的に名を呼んだり書いたりする場合は又佐衛門と呼びます。
正式な文書として名を署名する時は利家が用いられます。

信長は前田利家を随分可愛がっていたようで長じても幼名の犬千代から犬と呼ぶ
こともあった様に話が残されておりますが、信長は家臣をあだ名で呼ぶことも
多く残されておりますので、そんなつもりで呼んでいたのでしょう。
同輩で長じても犬と呼ぶものがいたら余程仲の良い者達であったかもしれません。

今日、前田又佐衛門ではなく前田利家が一般的なのは教科書によるものだと思います。
諱の方が正式な場で用いられますので教科書もそのようにしているのでしょう。

前田利益(利大)よりも前田慶次郎で通っているのはやはり「花の慶次」の影響が強かったのだと思います。
このコミック連載前にもいくつかの書籍等で登場することもありましたが
利大であったり利益であったり、慶次郎だったり慶次だったり、まちまちです。

一般的には「苗字+諱」で書くことが多いのですが。学校で習うような大名・武将
以外の場合は、「何で知名度があがったか」に左右されるかと思います。
人気の出た小説やコミックで用いられていた呼び方がそのまま定着するのでしょう。
水戸光圀がTVの影響で水戸黄門と呼ばれるほうが一般的になってしまった様なものだと思います。

今では名前というと「姓=苗字」+「名」と2つの組み合わせだけなのですが
昔は「姓」も「苗字」も別のもので「名」も幼名・字・諱等多くの種類がありました。
それらを全部繋げて述べるのではなく一定の決まりによって呼び名やつなげ方が変るのです。
事細かに述べると長くなりますが前田利家の例であげれば
姓は菅原朝臣・苗字は前田・幼名が犬千代・字が又佐衛門・諱が利家となります。
幼名は字の如く幼い時の名です。
大人になると大人としての名が付くのですがそれまではこの幼名で呼ばれます。
一...続きを読む

Q前田利家と前田慶次郎

どちらも槍の名手ですが どちらが槍使いに長けていたのでしょうか?

義理の叔父と甥の関係で血縁関係は無かったので両者の槍の上手さはたまたま偶然だったと思いますが
利家は 槍の又佐とか 堤の上の槍 と呼ばれたほどの名手だし
慶次郎もそのかぶき者ぶりと槍裁きに秀吉が惚れて100万石で家臣にしようとした程です

甲乙つけがたいとは思いますが どちらがすぐれていたのか教えてください

Aベストアンサー

前田利家は赤母衣衆として働き実際に槍により武功をあげたわけですが、慶次郎利益の武功は関ヶ原時であり60前後ですよね?それ以前も前田家の一員として当然戦場に出たわけですが、ほとんど個人としての記録はないわけで、戦場で実際に槍を振るって強かったと我々が判断するのは無理があります。
おそらく歌舞伎者として、演武のごとく人前で槍を振り回すのは強かったが戦場でとなると人並みだったのではないでしょうか?

ただし武将としては没落後の上杉家でも厚遇で召し抱えられたのですから、かなりのものだったのでしょう。

Q前田利家が後15年生きていたら?

NHKドラマで利家が諸大名より大きな人望があるように描かれていますが、秀吉末期の家康との位置づけはどうだったのでしょうか?又、仮に後15年前田利家が生きていたら、関が原、夏の陣など世の中が  どう変わっていたと思いますか?ご意見をお聞かせください。

Aベストアンサー

 私も皆さんの意見に賛同しますが、ひとつ提案させていただきたいと思います。
 回答ではありませんが、この論議の中には、前田利家=豊臣擁護派、徳川家康=反豊臣派とすることが前提条件となっているような気がします。
 そもそもその前提条件を疑って係ることもお勧めします。
 前田利家が自分の行動の中でことさらに「律儀」を強調しはじめたのは、「余呉湖の敵前逃亡=裏切り」以後であること。徳川家康は、秀吉存命時までは、「律儀」をその「売り」としていたことを考えてみてはどうでしょう。
 前田利家が擁護派とならざるを得なかったのは、領地力差が大きく開いていたからと考えることもできます。
 もしも、家康と利家の領地をひっくり返していたら、利家は豊臣を擁護したのか、などなど。
 当時としては、力を失った主家に取って代わるのはあたりまえの考え方があり、私としては、もしも、家康より長生きしたとしても、徳川との実力差から保身に走ったと思います。また、擁護派を貫き、徳川を滅亡に追いやったとしたら、最大の実力者として豊臣の滅亡か無力化に奔走するということとなったと考えます。

 私も皆さんの意見に賛同しますが、ひとつ提案させていただきたいと思います。
 回答ではありませんが、この論議の中には、前田利家=豊臣擁護派、徳川家康=反豊臣派とすることが前提条件となっているような気がします。
 そもそもその前提条件を疑って係ることもお勧めします。
 前田利家が自分の行動の中でことさらに「律儀」を強調しはじめたのは、「余呉湖の敵前逃亡=裏切り」以後であること。徳川家康は、秀吉存命時までは、「律儀」をその「売り」としていたことを考えてみてはどうでしょう。
 ...続きを読む

Q前田利家の弟、佐脇良行の事

現在、大河ドラマ「利家~」に、利家の弟として登場する「佐脇良行」の事についてご存知の方、教えて下さい。実在した人物なのでしょうか?よろしくお願いします。

Aベストアンサー

以下の参考URLサイトは参考になりますでしょうか?
「佐脇良之」

ご参考まで。

参考URL:http://www2s.biglobe.ne.jp/~gokuh/ghp/busho/oda_009.htm

Q柳川市民は、立花宗茂と蒲池鑑盛を慕ってますか?

柳川市民は、立花宗茂と蒲池鑑盛を慕ってますか?

Aベストアンサー

立花家には親しみを持っていると思いますよ。
御花がありますからね。

Q初めて質問します。前田利家という男

織田信長の多重人格説は 珍奇なお肴・比叡山延暦寺の焼き討ち・山中の猿 などのエピーソードから考えられてるものならば

若いころ6m以上もある槍をふりまわして歩いてた(非戦闘時)。
十阿弥殺し。
信長に追放されたにもかかわらず 信長軍VS○○軍の戦に勝手に自分の旗付けてに参加して暴れまくる。
頭だか顔だかに弓がぶち刺さっててもおかまいなしに暴れる。
春日井堤の上の槍。・・負けそうなのに一人で大軍に突っ込んだ勝ったりした。
利休さんからすごくいい茶碗をもらうが訳わかんねーみたいなノリで花さした・・怒られた。
↑某N○K大河参考がほとんどなのですが・・こういったエピソードを踏まえて
 ・・・・・前田利家天然説・・・・をあみだしたのですが・・・・・皆様はどう思われますでしょうか。
 又 利家のエピソードなどご存知でしたら教えていただきたいです。
 

Aベストアンサー

前田利家は漫画「花の慶次」では、傾奇者である甥の前田慶次を「鼻つまみ者」等と言って嫌っていますが、史実は違います。史実では、彼も傾奇者であったそうで、派手な服装を好んで着て、途方もない長さの槍を持ちながら町中を闊歩してます。晩年には「若いうちは傾いてるくらいが調度よいものだ」と小姓衆に語っているそうです(三壺記)(利家公御夜話)。

●元服前の小姓・前田犬千代として初陣した萱津の戦いでは、合戦の際に目立つ様、自ら朱色に塗った6m30cmの槍を持って首級ひとつを挙げる功を立て、信長は「肝に毛が生えておるわ」と犬千代を賞賛した。

●元服直後に参戦した稲生の戦いでは、合戦中に敵方の宮井勘兵衛により右目の下に矢を受け、味方が引くことを促すも、「まだ一つも首級を挙げてない」と顔に矢が刺さったまま敵陣に飛び込み、弓を射た宮井本人を討ち取る功を立て、信長が大いに喜び、「犬千代はまだかような小倅ながらもこのような功を立てたぞ」と、合戦中に味方を鼓舞した。

●坂本城の天守に夜な夜な幽霊が出るという噂が立ったとき、自ら肝試しを志願して一晩過ごし、何ごともなかったように天守から戻ってきたため、秀吉から豪胆ぶりを讃えられた。

●危篤の際には自ら経帷子を縫い、利家に着せようとする芳春院が「あなたは若い頃より度々の戦に出、多くの人を殺めてきました。後生が恐ろしいものです。どうぞこの経帷子をお召しになってください」と言うと利家は、「わしはこれまで幾多の戦に出て、敵を殺してきたが、理由なく人を殺したり、苦しめたことは無い。だから地獄に落ちるはずが無い。もし地獄へ参ったら先に行った者どもと、閻魔・牛頭馬頭どもを相手にひと戦してくれよう。その経帷子はお前が後から被って来い」と言って着るのを拒んだという(古心堂叢書利家公夜話首書)。

利家は傾奇者であったにも関わらず、非常に計算高く、世渡り上手で、また、前田家の決済は全て利家が自分でやっていました。算盤は当時に日本に伝わったばかりで、それを使えるというだけで稀有なことでしたが、利家は算盤を難なくこなし、その算盤は家宝として今でも残っています。

また、石川県金沢市へ行くと、お年寄りの方々や商売に携わる人々は、今でも「前田様」「利家公」と呼んでいます。金沢では、今でも加賀の国を繁栄させた大功労者なのです。

従って、俺は前田利家を「天然」とは思いません。むしろ、傾奇者を装い、バカ長い槍を振り回したりして相手を威嚇し、数々の武勲を計算づくで戦ってきて、領主自らが自分の領や家の決済を自分で行っていたのですから、まさに「文武両道」の武将であったと思います。

前田利家は漫画「花の慶次」では、傾奇者である甥の前田慶次を「鼻つまみ者」等と言って嫌っていますが、史実は違います。史実では、彼も傾奇者であったそうで、派手な服装を好んで着て、途方もない長さの槍を持ちながら町中を闊歩してます。晩年には「若いうちは傾いてるくらいが調度よいものだ」と小姓衆に語っているそうです(三壺記)(利家公御夜話)。

●元服前の小姓・前田犬千代として初陣した萱津の戦いでは、合戦の際に目立つ様、自ら朱色に塗った6m30cmの槍を持って首級ひとつを挙げる功を立て、信長は...続きを読む

Q戦国武将 加賀00万石 前田利家のすごさを教えてください。

戦国武将 加賀00万石 前田利家のすごさを教えてください。

Aベストアンサー

前田利家が参戦した戦は37です。
その中でも、近江箕作城の戦い及び越前金ヶ崎城の戦いでは槍をふるって敵の首を取っている。また、摂津・春日井堤の戦いは「堤の上の槍で」と信長に讃えられている。武勇に優れていた事は間違いありません。

慶長4年(1599年)2月、病躯をおして、利家は和解の実を示す為に伏見に家康を訪ねている。
また、同年3月、家康は病気見舞いと答礼をかねて、大阪城に利家を訪ねている。その際、利家は病状が悪化し、やっと床を這い出て中の間で家康と対面している。この二つの状況からも利家の「律儀さ」が窺えると同時に、家康が一目置いてた大大名利家の存在感を現しています。

石田三成は病中の利家を訪ね、看病と称して前田邸に詰めた。加藤清正、黒田長政、浅野幸長、池田輝政、福島正則、細川忠興、加藤嘉昭の七大名から逃れるためであった。七大名も利家の顔を立てて、三成に手だしをしなかった。ここでも、利家のすごさが窺えます。

意見の分かれるところですが、もし利家があと10数年生きていたならば、徳川幕府は生まれていなかったかもしれません。

Q前田利家は一向一揆衆を釜煎りしたか

織田信長の残酷な処刑は有名ですが、人徳の大名として名を馳せた前田利家は
一向一揆衆を釜煎りしたのでしょうか。
また、釜煎りの方法とは、釜茹でののことでしょうか、それとも釜で本当に人間を煎るのでしょうか?
諸兄の知恵を貸して頂きたい。

Aベストアンサー

武生市小丸山城跡より昭和初期に発見された文字瓦に、「五月廿日一揆起こり、前田又佐衛門殿一揆千人ばかり生け捕りにし、ご成敗は磔、釜いりにした。 この旨一筆書きとめておく。」との内容を当時の文章で彫ってありました。   少なくとも頭分は釜いり(釜茹でのこと)にされた事は確実です。

Q立花宗茂はなぜに長男なのに養子に?

立花宗茂は高橋家の長男なのに、なぜに立花家に養子に出されたのでしょうか?
母親が正室ではなかったのでしょうか?

Aベストアンサー

立花家の当主が既に老齢の域に達するが跡継ぎの男子が居ない。

一方の高橋家の当主はまだ若くあっちの方も万全、男児が生まれた実績もあれば二人目三人目の可能性は充分にある。
共に大友家の一門としての家柄でもあり、赤の他人を養子に迎えるよりも一門同士での縁組みの方が互いの結束も強まり、主家の為にも好都合。

そう考えれば、嫡子であっても養子に出さざるを得なかったのかも知れず
ヒョッとしたら、大友家からの指示があったのかもしれず
色んな事情があったんだろう。

Q前田利家の兜について

大河ドラマ「利家とまつ」をいつも楽しく観ています。

そこでずっと疑問だったのですが、唐沢さん演じる利家が合戦の時にかぶっている兜には、「とんぼ」が逆さまについています。なんで「とんぼ」なのでしょうか?また、的場さん演じる又兵衛の兜には、「むかで」がついているように思うのですが、気のせいでしょうか?

利家は兜だけでなく、とんぼの柄の着物を着ていたりします。

詳しい方、教えてください。

Aベストアンサー

蜻蛉は勝虫とも言われます。この名の由来は、幼虫のときは甲冑のような姿をし、
成虫になると獲物を捕らえたまま空を飛ぶ姿の勇ましさから名づけられ、この為
戦国の世の人々が縁起をかついだものらしいです。

百足は?何だろ?
やはり甲冑ぽいからですかね?
かぶと虫(そのものやん)、くわがた、こがね虫なんかも

ちなみに伊達家の前立ては毛虫で、これには、後ろへひかない、葉(刃)を食う、という意味が込められていると言うことです。百足も後退しないのかな。

参考URL:http://www.hokkoku.co.jp/kagakikou/dorama/drama28.html


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