プロが教える店舗&オフィスのセキュリティ対策術

親になって感じたことなのですが、
自分が子育をする、あるいは社会生活をするにあたり、
親はこうしていたなと思い出し手本にしたり、
または、意識せずとも自然に同じ事を繰り返していたりします。
私は約30年前子供でしたが、30年前と現在とでは違っていて、
生き方の手本が無いように思います。
例えば、お父さんの時代は、一つのところで勤めあげるのが自然でした。
一つの企業の中で自分の人生を決めていくと思います。
しかし近年は、逆になったと思います。
つまり自分の人生の中で仕事を位置づけていく感じになったと思います。
(それを表現する用語があるのですが、思い出せません)
私の子供時代は近所づきあいがあり、毎日子どもたちは親が付き添わなくても
外で近所の子供たちにもまれ、育って行きました。
しかし今は、隣近所干渉しあわなく気楽な面もありますが、その反面、
親が付き添わなければ大変危険で、子供たちは親同士が約束を取り付けなければ遊ぶことが出来ません。
毎日よその子供と切磋琢磨して育っていく時間が昔に比べて圧倒的に少ないと思います。
学校にしても私の時代は陰湿ないじめは無かったです。
ジャイアンのような子はどこにでもいましたが、そんなジャイアンにも人情やヒトの誇りあったと思います。
他人の手を借りなくても出来る事が多くなって、便利で「我慢する機会」も減ったように思います。

文明のリキが発達して昔に比べたらはるかに便利になりました。
心や時間にゆとりが持ててない気がします。
そして親の時代と違って今の社会を生きるひな型が無くて、
人々は戸惑っているのではないでしょうか。

A 回答 (3件)

新しい社会へ向けて



§1 《スサノヲ(S)-アマテラス(A)》連関

人間は 《スサノヲーアマテラス》連関主体であると思います。
《スサノヲ(S)》とは 《市民》を言い 《わたくし》の領域です。
《アマテラス(A)》は 《公民》《おほやけ》の領域です。

強いて分ければ S者(S領域)は 《精神》なるA者(A領域)に対して 《身体》です。S者なるわたくしの身体の運動は 一般に社会的な生活の中で 自己のA者なる精神によって 記憶され知解(了解・意識)されまた 記憶にもとづき 知解されたものごとを 人はこの身体の運動とともに 意志する。

《S-A》連関は 《身体‐精神》および《市民‐公民》のそれぞれ連関構造となります。

わたしたち一人ひとりが 市民であることにおいて 公民の領域を兼ね 公民としての役割を普通に果たすのですが 社会のなかで 外形的に・職務として 公民の役割を担う者も 制度として 存在します。いわゆる公務員として《もっぱらのA者》でありこれは 《アマテラス社会科学主体》のことです。

これに対する概念は 《スサノヲ社会主体》です。一般の市民としてのスサノヲ社会主体は むろんそのままでA者・公民の役割を自己のもとに留保します。ここで 差し支えない限り 一般の市民を 単にスサノヲと言ったり 従って もっぱらの公民のことを アマテラスと簡略に呼ぶこともあろうかと思います。 

次に初めに帰って S者が 身体の運動をその基礎とし A者が特には S者に対するかたちで 精神を表わすとすると このA者は S者〔のさまざまな運動過程つまり一般に社会生活〕の中から抽象されて ある種の普遍的な概念をかたちづくるものと見られます。これを わたしたちは アマテラス概念 A概念・A語・A語客観などと呼ぶことができ これに対する意味では S者は 主観であり 人間語です。

§2 主観としての《S‐A連関》から出発する

主観というとき わたくしなる存在が 身体(S)を基体とし 一般にその身体と連動する精神(A)を伴っていると思われます。十全な意味での主観ないし主体とは やはり《S者ーA者連関》なる一個の存在です。

すでにここで 客観は 主観に対立すべきものではなく 主観の中にあって主観により把握されたものであり 主観から表現(=外化=疎外)されたときにも それを主観・主体が 用いるべき概念だということに注目しておくことができます。

このA語客観が 自己からまさに疎外されたかたちの概念は ことに《観念》であると見ます。もしくは それが初めに一応 客観であったことより 《共同の観念》であると見ます。

主体的な生きたA語客観は 主観として殊に 《共同主観(common sense=常識)》と考えます。より正確には この常識=共同主観は 生活ないし行為そのものを言うほうがふさわしく これをA語客観でとらえたものは その何らかの思想的な形態または理論というほどの意味です。

主観が 社会的に共同化されて 共同主観となるばあいには このように S者がA者(A語・A概念)をとおして 生活の共同性を見ている・築いているということであり この共同性が 協働性を含むことは 言うまでもありません。

§3 共同主観と共同観念

さらに このA者(A語・A概念・A語客観)は それだけが取り出されるときには 精神をちょうど言葉によってのみ捉えたというように 単なる観念ないし観念的な現実というまでのものになりえます。

たとえば 《和(やわらか)》とは まず肉眼でとらえられうる・そして感性で理解されうるモノ(質料)や身体(質料より成る)のそのような一つの属性である。しかるに 《和を以って貴しと為す》というときの《和》は すでに 観念であり共同観念であります。それは S者・身体の運動から切り離しても 語られたり論じられたりするからです。つまり 抽象的でもあります。

したがって 初めに 素朴にあたかもムラ(村)イスムなる共同の生活において この《和》が 主体的に・つまり《S者ーA者連関存在》おのおのの行為をとおして 過程的・現実的に見られるとき それは すでに言った共同主観であります。

これが ある種の仕方でこれらの現実から切り離されて 掟・道徳・律法などとして 論じられ規範的にも訴えられるとき それは 共同の観念 観念の共同性 つまり 共同観念をつくりあげることが 可能です。

この別種の《常識》は あたかも第二次的な・仮象的な共同主観であり たとえば《ムライスム》と名づけられる以前に存在する常識が 感性的で・かつ主体的な共同主観であったとするなら このムライスムと名づけられた語・概念・客観じたいが 共同観念ということになるでしょう。

共同主観は より一層 S者市民的であり これに対して共同観念は A語客観的であることによって ムライスム(《和》)あるいは ナシオナリスム(《大和=やまと》)といった次元で 社会的です。

しかも 必ずしも感性的でないことによって 観念的であり 時に幻想的となりえます。観念的・幻想的な共同性が 感性的でないと言っても あたかも慣性の法則によってのように 情緒的・情念的となりえないとは言えません。もともとは S者・スサノヲ語に発しているのですから。

もっとも 第一次的な・生活日常的なスサノヲ者の寄り集まるムラ〔イスム〕の次元での 感性的なつながりと そして 第二次的でより多く非日常性の機会に接するナシオン(ナシオナリスム)の次元でのそれとは 基本的に異なる。

つまり 後者での感性的なつながり(たとえば愛国心)は むしろ スサノヲ者の感性とは 一旦 基本的に切れているから そのナシオナリスムといった共同の観念が すでに外から・または上から 一人ひとりのスサノヲ者に おおいかぶさっているというようなしろものです。

また 第一次の共同主観を その第二次的なものである共同の観念の中で 理念的に――つまり A語客観精神においてということですが――保ち これを表現したものが 憲法をはじめとする法律であるかとも思います。これは 共同観念である限り やはりおおいかぶさって来るものにちがいないのですが 理性的に――経験合理的に――スサノヲ者の内面において ほぼそのまま 見出されるそれであるということになるでしょうか。

§4  記憶・知解・意志(愛)

身体の運動なるS者に対する A者=精神のうちの《記憶〔行為〕》は 言わばわれわれの精神の秩序であり 存在の内なる組織であります。

同じく《知解行為》は 記憶に基づいてのように ものごとを知解する すなわちそれはそのまま 労働・生産行為へとつながってゆくものと思います。社会的な生活のなかで これらが働くとまず初めに見たのですから。

何を・どのように生産するかそして生活するかは 同じく第三の行為能力である《意志》に基づくでしょう。

精神の秩序たる記憶行為に基づいて 意志はまず 自己の愛ないし他者の愛(愛とは 自治・共同自治)であり 労働・協働の場においては それぞれの《自己の愛》の意志共同というほどに 経営行為につながるでしょう。また《記憶》の共同性は この生産・経営の態勢(会社)における組織行為にかかわります。

記憶し知解し意志する《S-A連関主体》は――もし経済活動が 現実の生活の土台であるという限りでは―― このように《組織-生産-経営》の共同(協働)性の場で 先の共同主観を形成しつつ生きることになります。

また 第二次的に〔あたかも この初発の共同主観の古くなったものの残像であるとか それらの社会なる鏡に映ったA語概念としての古い掟であるとかといったように つまりはいわゆる前例・先例としてのように〕観念の共同を ある種 不可避的に持ちつつ やはり生活を送ります。

従って言いかえると 一般に 新しい共同主観と旧い共同観念との葛藤のなかで 人は 生きることになります。

新しい共同主観は 一般に S者・市民の中から生起します。共同観念を保守しようとするのは 一般に公民たるA者です。それぞれそのように生活しています。

そこで この区別のかぎりでは 社会形態(国家のことです)は S者の共同体である市民社会と A者の共存圏である狭義の社会形態とから成り立つと考えられます。それぞれを S圏(スサノヲシャフト)とA圏(アマテラストゥーム)というふうに呼ぶことにしたいと思います。

いま《スサノヲ-アマテラス連関主体》たる人間について考えてきて 社会としては S者共同体である市民社会が 基礎であり あたかも身体(S)の上に精神(A)が 乗っているように S圏の上にもA圏が乗って 全体としてちょうど二階建ての家を形成しています。

次に これらの分析用語を整理しておきます。

§5 概念・用語の整理(1)

《スサノヲ--------アマテラス》 連関主体
Susanowo・・・・・・・・・・・・・・Amaterasu
S者・S語(人間語)・・・・・・・・A者・A語・A語概念
身体・感性・・・・・・・・・・・・・精神(記憶-知解-意志)
《わたくし》・・・・・・・・・・・・・・《おほやけ》
市民(homme/bourgeois)・・・・・公民(citoyen)
社会主体・・・・・・・・・・・・・・・・社会科学主体
政治経済主体・・・・・・・・・・・・政治経済学主体
   * 象徴としての国王・元首はアマテラシテAmaterasite; Amaterasity; Amaterasitaet

§6 概念整理(2)

《 スサノヲ--------アマテラス 》連関形態
スサノヲシャフト------アマテラストゥーム
Susanowoschaft--------Amaterasutum
S圏------------A圏
市民社会---------〔狭義の〕社会形態
《まつり》---------《まつりごと》
ヤシロ Yasiro-------スーパーヤシロ Superyasiro
自治態勢および生産態勢---行政府・立法府・司法府
ムラ mura----------国家:イエ・ナシオナルihe national
エクレシアecclesia(eglise)---- 社会形態;キュリアコンkuriakon(church) 

§7 概念整理(3)

スサノヲ( S )・・・アマテラス( A )
身体〔の運動〕・・・・・精神・概念(記憶・・・・・知解・・・・・意志)
・・・・・・・・・・・・・・・・・↓・・・・・・・(↓・・・・・・・↓・・・・・・・↓)
[S者/S圏]
個体・・・・・・・・・・・・家  族 ( 秩序・・・・・労働・・・・・・愛)
社会主体・・・・・・・・自治態勢(自治組織・・〔生産〕・・共同自治)
経済主体・・・・・・・・生産態勢(組織・・・・・・生産・・・・・・・経営 )
政治主体・・・・・・・・・↓ ・・・・・・・↓・・・・・・・・↓・・・・・・・・↓ 
[A者/A圏] ・・・・・・・↓・・・・・・ ・↓・・・・・・・・↓・・・・・・・・↓
社会科学主体・・・・・社会形態(社会組織・・経済活動・・・政治 )
 〃・・・・・・・・・・・・・(国 家 : 司法・・・・・立法・・・・・・・行政 )

§8  スサノヲイスム(インタスサノヲイスム)およびインタムライスムへ向けて

スサノヲイスム:自治(個体の自己経営・愛)を基礎とする社会
インタスサノヲイスム:愛 ;S圏主導(民主主義)による《S圏-A圏》連関の社会
インタムライスム:国境を超えたスサノヲイスト市民社会連合

* ピントがずれたかも知れませんが たとえば 舛添要一は まだ スサノヲ人間語を語っているといった現実のことです。この頃 少し 歯切れがわるくなってきましたが。そのあたりなど つまり 客観A語に裏づけされた人間S語を語っているか このことを 公共の場にある一般アマテラス公民の言語表現について 分析するのも よろしいかと思います。社会としてのひな型をめぐる表現形式についてのひな型のようなものを作っていけるのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。とても勉強になりました。
この回答文で得られた知識を内面に体得したいと思いました。
***
わかりやすく「おじぎ」を例にとってみますと
私はこの社会で生きているうちに自然に「おじぎ」という行為をわかっていて、またそれは私達の共通の動作だと暗黙の了解のうちにわかっている。これが(共同主観)。
ところが、初めて外国に行った時におじぎをしたら通じなかった。「なぜ頭の天辺を見せるのか?」と不思議がられた。
その時初めて「おじぎという共同主観は日本人のものなのだ」と分かる。
ムラ人1「ねえ知ってる?日本人の《おじぎ》は外国ではしないんだよ」
ムラ人2「知ってる知ってる!」
このムラ人1と2の共通認識が、(共同観念)。
※《 》の中のおじぎは他の言葉にも置き換えられる。死刑制度など。
※「北海道では」とか「あの学校では」と狭い範囲でも活用される。
昨日のテレビ番組で
江戸時代の銭湯は男女混浴が普通であったと聴いて、現代の私達にはありえないと驚きました。ということは、共同観念は変化していくものと考えられる。
主観とは、わたくしが外を見たり感じたり行為したりすること。
客観とは、そのわたくしが、わたくしを観察すること。
私達は、外(社会生活)で人間語・身体・感性を使うにあたり、いい具合に調整していく(調整するのは意思・愛があるから)。
その調整したS感性でまた外を見て感じて行為する……このように共同主観を形成しつつ生きている。
けれども、この共同主観からから切り離されたA語概念(共同観念)は意思や愛を持たないの調整されずに残っていることがしばしばあり、それに出くわすと人々は戸惑い葛藤しながら生活することになる。
***
ということでしょうか。

まだ理解したという自信がないのですが、このようなことかなと思いましたので書いてみました。
時々社会での生き方に戸惑ってしまう理由もぼんやりとわかってきたように思います。
>社会としてのひな型をめぐる表現形式についてのひな型のようなものを作っていけるのではないでしょうか。
面白そうな作業ですね。brageloneさんはもう作られているかもしくは作業中なのですね。
ありがとうございました。

※私は海外に行ったことがないので、おじぎの話はあてずっぽうかもしれません。

お礼日時:2007/12/20 11:17

あなたの不安はまさにフロムが主張していることです。


それは危険な考え方です。求めるのではなく自分が責任
をもってやるということが大切なのです。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。
今の社会で子育てをする時に、自分が子供だった頃と同じようにはいきませんが、今のやりかたには慣れっこになっています。転職することも、隣近所知らんぷりな事も、街の中で見知らぬ人にピリピリすることも、、我が子が毎日よその子と遊ばないことも、評判の悪い学校を避けて転居する事も、ふつうのことです。実によく慣れっこになっています。時々、ふとこれでいいのか?と戸惑ってしまうことがあります。どうしたらよいのか皆さんの回答を参考にしながら自分で考えたいと思います。「フロム」を教えていただきありがとうございました。

こういう質問をしたときに、アメリカインディアンがスッと出てきたり、No.2の方のものの考え方や、「フロム」がサッと出てきたり、みなさん頭の中に沢山引き出しを持っていらしてよく勉強されていてとても頭が下がります。ありがとうございました。

お礼日時:2007/12/21 14:54

文明の代償は不幸である。

Byフロイト
http://www.kato-lab.net/education/edu17.html
↑個人的に好きなサイトです。

最後に頼れる存在が親しかいないから、
親がどう子供に接したらいいかとか、
地域社会がどういうふうに教育に携わるかとか、
オトコの子育て休暇制度だとか、
いろいろと考えられているんでしょうね。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。
いいサイトですね。考えさせられてとても勉強になります。
コロンブスがアメリカ大陸を発見するまで、お互い知らなかったわけですが、同じ地球で同じ時間を生きていたのにずいぶん違いますね。
どうしてインディアンたちの社会はコロンブス側の社会より幸せだったのか考えたり探るのは面白そうですね。

お礼日時:2007/12/20 11:29

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