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かつては「帝国陸軍の歴史的大敗」と教えられたノモンハン事件ですが最近ではソ連側損害のほうが多かったことが定説なようで国境線を譲歩したのはむしろ外交的問題との意見もあります。
日本軍のほうが兵力、装備とも劣っていたことは確かなようです。
そこで疑問なのですがなぜ日本軍は敵に大損害を与えられたのでしょうか?航空部隊の圧倒的優位は開戦初頭だけ(キル・レシオは最後まで優勢だったが飛行機の数が圧倒的に足りなかった)、大砲も旧式の38式野砲が虎の子。不意打ちの先制攻撃や市街戦、ジャングルでの戦いならまだしも、ノモンハンのような原野では兵器、兵力の優越がかなりのウエイトを占めるはず。日本軍のとった戦法について詳しい方お願いします(イデオロギーではなく軍事技術の回答をお願いします)。

A 回答 (8件)

第一次第二次ノモンハン事件とも日ソ両軍の戦力差はあらゆる面において大きく、唯一緒戦では優勢だった航空部隊も、後にはソ連軍による日本戦闘機部隊の戦術の研究と自軍の戦闘機の改良によってその優位も崩れていったことは周知の事実です。

このことから見ても確かにあなたのおっしゃるように、この戦いで日本軍が自軍の損害を上回る損害をソ連に強いたことは驚きであり、単純に軍事学的見地から言っても大いに評価できるものともいえます。

 ただ詳細を見れば日本軍側の戦術の稚拙さや迷走ぶりはお粗末の一言なのですが、今回は日本軍の戦法という質問ですので、ノモンハンでの日本軍の戦術に絞ってお答えしたいと思います。少し本題から外れるかもしれませんが、その際は温かい心で眼をつぶってください(^_^;)。

 さて、そうは言ってみたものの正直に言えば、ここが優秀だったからとか、この作戦が功を奏したからだとか言える大きなポイントがなかなかないのです。敢えて言えば各個の部隊、兵士各人の総合的な奮戦によって手にした戦果かもしれません。などと書いてしまえばあまりにもはしょりすぎですので、ちょっと長くなりいますが私見を交えての回答を試みたいと思います。

 ノモンハンの戦略的な側面は今回は省きますが、日ソ両軍の戦術とはかたや包囲殲滅戦、そしてソ連は縦深陣地においての防御戦がその主なものでした。もちろん各戦闘では敵味方入り混じっての混戦となり、その作戦も逆転した場合も多々見られましたが、基本的には前述のような基本作戦であったと理解しています。

 特徴的なのは両軍とも現代戦では常識となっている、諸兵連合部隊(当時はこのような概念は希薄でしたが)同士の戦いであったということです。ところがここで大きな疑問が出てきます。諸兵連合部隊同士の戦いであるならば、戦車や火砲の性能、数量、歩兵の数、補給態勢の充実度などなどから見れば、到底ソ連が圧倒的に有利であったはずです。ではなぜそうならなかったかといえば、日本軍にとって幸いだったのは、ソ連軍にとってそれらの戦力を現代のように有機的に運用するという観念があまり見られなかったということです。これは騎兵同士の戦いが起こったことを見ても、近代戦の移行する過渡期的な戦いであったといえます。

 戦車は戦車を相手に、砲兵隊は砲兵隊を相手に、そして歩兵は歩兵だけを目標に戦闘を繰り広げた場面が随所に見られました。もちろん多少極論的ではありますが、このような理由から彼我の損害が拮抗したともいえます。混戦においてもソ連軍戦車や装甲車はガソリンエンジンを使用していたため、主力のBT(ビストロテョディイ・タンク、快速戦車の意)も多数破壊されています。これは戦闘によってフル回転させて加熱していたエンジンのラジエター部分に、サイダー(日本軍歩兵の飲料にあてていた)瓶にガソリンを詰めて当てるだけで発火し、空冷式のため炎は戦車内部に導かれあっというまに炎上したということです。もっとも後半になってラジエターの改修や、ディーゼルエンジンへの積み替えなどで対処し、その手は余り使えなくなりましたが…。

 さらに言えば戦闘が行われたノモンハンの地理的な特徴です。砂漠と草原だけしか眼に入らない大波状地と呼ばれたノモンハンは遮蔽物に乏しく、突進してくるソ連戦車はよく目立ち、これを迎え撃つ速射砲、連隊砲部隊にとっては射的場のように撃破したということです。これらを突破した戦車を今度は歩兵が火炎瓶で迎え撃ったということです。また主力のBT戦車の意外な弱点にその装甲がありました。というと、え?思われるかもしれませんね。BT戦車の装甲は野砲はなんとか撃破できても、日本戦車の主砲の57ミリ短身砲では撃破できなかったことが通説ですからね。たしかに装甲は日本戦車より厚く、容易に撃破できませんでしたが、それなのに動きを止めてしまったBT戦車が多くあったのです。

 理由は装甲の仕様でした。BTはリベットで装甲板を装着していました。このリベットが装甲は貫通しなくとも、その着弾ショックでリベットを車内に飛散させ、乗員を殺傷させていたということです。ソ連軍はこのことを教訓にして、その後の戦車は全て溶接構造にしています。

 また主戦力である歩兵にしても、その地形がおおいに日本軍に味方をしてくれました。つまり平坦な地形が戦闘時における日本軍歩兵の行動や作戦をやりやすくしてくれたのです。後の太平洋戦争での市街地戦やジャングル戦とは違って、平坦な平原での戦闘は歩兵の唯一の武器ともいえる小銃の照準をやりやすくしてくれたのです。なおかつ、38式小銃は良く当たりました。太平洋戦争後半以降、日本の兵器は粗製濫造になって、38式99式の両制式小銃もほとんど精度が望めないガラクタになってしまいましたが、当時の38式は一丁一丁まるで手作りのような精度で製造されていましたので、本当に良く当たりました。これが人的損害をかなり強いたものと考えられます。(もっとも日本軍もソ連軍のお家芸である狙撃兵に指揮官クラスを倒され、かなり苦しめられましたが(-_-;))

 最後に夜襲と白兵戦です。これは日本軍のお家芸ですが、日露戦争時の203高地における惨憺たる戦闘とはちがって、平地での夜襲は兵に負担をかけさせず、十分な余力を持って敵に強襲をかけることが出来、相当な損害を与えています。またこれは意外なことですが、ノモンハンでの日ソの機関銃の保有数は日本軍が上回っていたということですので、これらの火力も無視できない効果を生んだものと思われます。

 ノモンハン事件は日本軍部の確固たる信念の上で行われた戦闘(本当は立派な戦争ですが)ではなく関東軍の増長による場当たり的な戦闘といってもよいものであったため、明確な戦闘計画のないままうやむやに終わってしまいましたが、この戦闘を象徴する言葉が敵であるソ連軍の将官の言葉が残っています。
「日本軍の下士官兵は頑強で勇敢であり、青年将校は狂信的な頑強さで戦うが、高級将校は無能である」

 少しでも参考になればよいのですが、あまりにも長くなってしまいました。お許しください。

 
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。意外に歩兵が重要な役割を果たしたのですね。

お礼日時:2008/01/23 22:16

日本軍の兵器の質、兵站の貧弱を別にして、戦術面でみると日本軍の伝統的欠点の、情報収集能力の低さで、敵の過少評価に基づく兵力小出し戦法の失敗があります。


参加した陸上兵力4個師団+独立守備隊計約6万余のうち、2個師団2万余りは殆ど働いていません。
形勢不利で関東軍があわてて駐屯地より動員し、戦場についてすぐ停戦です。
第一次衝突は2個師団+アルファーで4万弱の日本軍に対し、ソ連蒙古軍はよくわかりませんが、同数以上でしょう。   ただ火砲は射程距離が優れ、砲弾数もはるかに多く、戦車装甲車数は日本軍の約120両にたいし800両くらいあったようです。   この差で圧倒され初期の優位から防戦一方の態勢になりました。   ただこの時点ではソ連側の言う領土内を確保していました。
ここで一段落ですがソ連のジューコフ将軍は主張する国境線の確保を至上命令として、攻撃準備に努め駐蒙ソ連軍5万5千、外蒙古軍5千、軍需品の充実をはかったのち、第2次衝突の大攻勢をかけたわけです。
情報不足でそのまま3万余の兵力で、軍需品の補給も不十分の日本軍は必死の防戦に努めても、勝敗の行方は明らかでソ連がわの主張する国境線まで押し戻され停戦になったわけです。   2個師団の増強は間に合いませんでした。
両軍の損害はというと、日本軍は公称は戦死行方不明約9千、戦傷約9千、計約1万9千ですが、もっと多いというのが定説です。
ソ蒙軍の損害は公称はありませんが、種々の資料から推定されています。
戦死約3千、戦傷約1万、計約1万3千というのもありましたが、明らかに間違いです。
戦車隊の司令官の書類に第一次の衝突で、戦死者2千百との記載があります。
双方2万数千というところでしょうか。
以外にソ蒙軍の損害が大きいのは日本軍の健闘とともに、占領していたのが、ノロ高地、フィ高地など高地が多く、攻めのぼる方はやや苦しく死傷者が多く出たとも考えられます。
また前記のように戦車隊の損害が多く、BT-5、7型戦車は引火しやすかったのが原因といわれます。
戦術面でも戦車、歩兵の協調が不十分だったようです。
制空権もソ側が優位とはいえ、取ったり、取られたりで決定的ではなかったといいます。
ソ連軍の死傷者の多さはソ連内で大きく批判されたと伝わります。
日本軍の小出し戦法の失敗はガダルカナル、レイテでも顕著です。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

お礼日時:2008/01/23 22:18

#3です。

少し補足を。

損害61000というのは日本側投入兵力のほとんどになってしまい、過大な数字かと考えます。ただし、補給の拠点であるハイラルから200キロ離れており、日本側の補給体制が(いつものように)お粗末であった点を考慮すると、餓死寸前になって投降した捕虜が大量に出た可能性は、あるかもしれません。(陸軍の記録には決して残らないのでしょうけれど)
なお、失敗の責任を取ろうとしない体質の日本軍において、ノモンハン後に、主導した関東軍参謀が左遷されたり、上級指揮官の自殺が起こったりした以上、日本側は大敗と認めていたのでしょうし、一方のソ連側では、粛清されたトハチェフスキー元帥の弟子だから冷遇されてきたジューコフが、一躍出世コースに乗るきっかけとなりましたので、大勝利と捉えていたでしょう。
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No3の方が示されている数字をみても戦死者はほぼ同数で優劣はありません。


ソ連軍に多大の損害を与えたという事実はありません。

戦争の勝敗は戦闘後、戦場に留まった方が勝ちという原則に従えばソ連軍の勝利と認めざるを得ません。

関東軍は訓練の行き届いた精鋭部隊で当時の歩兵銃は手作りのような職人芸で調整されていて命中率は狙撃兵並みでした。
さらに得意の夜襲戦法と白兵戦で局地的には優勢でした。

結局兵士の勇気と戦意とでの戦いには優勢を保持したものの近代戦と補給に破れたのです。
No5の回答者の方が引用されたソ連軍司令官の批評は日本軍の実体を余す事なく表現しています。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

お礼日時:2008/01/23 22:14

日本軍の取った戦法は歩兵操典を見れば良いかと思います。


基本的に歩兵操典に則って行動していますし、勝つことができた戦いはその教科書通り行動「できた」からであり、負けた戦いはその教科書通りに行動「できなかった」「させてもらえなかった」(しなかったに非ず)からと思っていいでしょうね。

また空戦とは違い、陸戦においては兵器の差は絶対的でなく、旧式装備でもある程度なんとかなってしまいます。
ソ連戦車を多数撃破できたのは、ソ連側が歩兵と戦車が別行動とってしまった結果であり、戦車単体だけなら歩兵で処理できる存在です。
ようは、空戦優位は陸戦優位に繋がりますから、空戦で勝てた時に陸戦でも勝っていたということでしょう。

つまり質問者さんの言うとおり、ウエイトが一番大きいのは兵数の差であり、もう日本に力は残されていない(戦車・砲兵は壊滅、陸軍航空隊も壊滅寸前)からノモンハン事件は日本の敗北で終わりにしたんです。

念の為言いますが、独ソ戦初期のドイツ軍の主力装備は37mm対戦車砲ですし、三号戦車(37mm砲装備のF以前の型も結構います)や短砲身の四号戦車(F型以降はまだありません)や二号戦車(多分一号も出てます)です。
また意外かもしれませんがドイツ軍は火炎瓶も使用ソ連戦車に立ち向かって撃破してたりします。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

お礼日時:2008/01/23 22:13

「詳解独ソ戦全史」(学研M文庫)によると


張鼓峰事件の損害は
日本:戦死526 負傷900
ソ連:戦死・行方不明792 負傷2752
で日本が優勢でしたが
ノモンハンでは
日本:戦死・負傷・捕虜の合計61000
ソ連:戦死7974 負傷15251
となっておりボロ負けです。
署名を忘れましたが、ソ連のBT戦車に対しては速射砲が有効だったが砲弾の補給が足りなかった。歩兵による火炎瓶攻撃で、かなりを撃破した、という参加者の言葉を読んだことがあります。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます、WIKIによれば

「日本軍の損失は戦死7720人(うち軍属24人)、戦傷8664人(うち軍属17人)、戦(平)病2363人(うち軍属13人)、計1万8979人であった(中略)戦車・航空機の損害は・・約30両と180機であった。ただし、この陸軍の公式発表については、実際の損害はもっと多かったのではないか、という異論もある。
これに対して、ソ連側の損害については(中略)1990年代からはソ連側資料が公開され、ソ連軍が戦死・行方不明約8000人、負傷・病気約1万6000名、合計約2万4000名、飛行機の損失約350機、装甲車両約300両という意外に多くの損害を出していたことが明らかになった。」
とあります(他の資料でソ連軍はそれ以上の損害を出していたとの説もあります)。
劣勢の兵器、兵員。ソ連軍の優位性を発揮できる平野での戦いで日本軍が戦禍をあげた理由を知りたいと思います。

お礼日時:2008/01/20 22:38

T-34は1940年に製造開始ですのでソ連製T-34戦車に驚いたと言うのは通説に過ぎません。



日本軍の対戦車攻撃法の内、
97式自動砲(20ミリ対戦車ライフル)と94式37ミリ砲は、装甲車には有効だったと思います。

最も有効な手段は火炎瓶であったと記憶しています。
理論的には、
マフラーが加熱するとエンジンは停止してしまいます。
ノモンハンでも使用された事になっています。

但し、

敵の拳銃穴から中の敵兵を狙撃しようと小銃を構えると胸を撃ち抜かれた。
それに激怒した将校が仇を討とうと刀を突き刺すと、他の穴から胸を撃ち抜かれた。

中の様子を見ようとしたら目を撃ち抜かれた。

など、まともな兵器ではありませんでした。

ソ連ではガソリンエンジンが多く容易に火がついたらしいですが、
これで対戦車兵器の開発が遅れたのは事実であったようです。

当時はBT-5程度であったのではないでしょうか?

この回答への補足

訂正
誤)89式戦車と性能にですね
誤)89式戦車と性能に大差なかったようですね

補足日時:2008/01/20 22:23
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます、ご指摘のようにソ連のBT戦車は89式戦車と性能にですね。物量で圧倒されていたことは事実のようですので火炎瓶程度で強者であるはずの敵軍に自軍を上回る損害を与えたとは疑問です(それが本当なら太平洋戦線でももっと損害を与えているはず)。

お礼日時:2008/01/20 22:23

「萌えよ!戦車学校」って本を立ち読みしたところでは、



日本も虎の子の戦車を最初は大量投入したようです。それでソ連側に多くの損害を与えたらしいです。ただし、相手に被害を与えたけれど、当然ながら日本側でも虎の子である「戦車」の損害も多く、「これ以上、戦車の損害は出したくない」って、戦車を後ろに引いたようです。

そこで、日本軍が全部引くならいいのですが、日本軍の戦車部隊は逃げたが、歩兵は残ったようです。当然ながら、戦車対歩兵が戦えば、歩兵は戦車に文字どうり踏み潰され、蹴散らされる運命になります。(携帯用の対戦車兵器って無かったはずですからね)

戦闘の緒戦は兵力は互角だったように記載があったと思います。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
様々の資料から
1)第一次ノモンハン事件(戦闘の前半) - 夜襲と火炎瓶攻撃、航空部隊の優勢もあり日本軍が優勢
2)第二次ノモンハン事件(停戦まで) - 火炎瓶対策を施したソ連戦車の登場、また日本軍の重火器の性能がそれほどでもないことを知ったソ連軍は遠距離よりの砲撃重視に切り替え逐次日本軍を圧倒した

ようです。そこで今回の兵器、兵力で劣る日本軍よりソ連のほうが損害が大きかったか、との疑問を持ちました。

お礼日時:2008/01/20 22:18

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