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お世話になります。
先日、亡き祖父がサラリーマンだったころの封筒や便箋が出てきました。戦争を挟んで昭和40年代までサラリーマンでした。
万年筆と思われる書類もあるのですが、封筒の宛名書きや一部の書類は毛筆で書かれています。
私も以前書道をかじったことがあるのですが、硯に水滴を垂らして墨を摺る作業は意外と時間がかかり、ワイシャツなどの場合はうっかり汚れてしまうかもしれません。
大量の書類をさばき且つ時間勝負のビジネスシーンでは結構な手間だったのじゃないかと思います。

そこで質問ですが、戦前のサラリーマンは自分で墨を摺っていたのでしょうか?それとも今で言うOLさんが部署内の墨をすべて摺ってくれたり、あるいは彼女が宛名等を書いてくれてたのでしょうか(でも封筒や便箋はすべて祖父自身の筆跡なので、これはないかも)?
またはすでに戦前に液状の墨滴が売られていたのでしょうか?

よろしくお願いします。

A 回答 (5件)

No3ですが、補足させて頂きます。



(1) 私の祖父は明治の末生まれの医者で、質問者様のお祖父様と同年輩、同じような教育水準と思われます。祖父は、自分専用の硯箱を持っておりまして、それは現在も残っております。当時の「インテリ」であれば、硯箱を持っているのは普通だったのではないでしょうか。

(2) 私は切手収集を昔やっていたのですが、戦前の手紙の封筒やハガキを見ると「全て墨書き」であったようです。日本国内で差し出されたもので「ペン書き」というのは見た記憶がありません。
戦前はボールペンが存在しませんので、筆記用具は「墨と筆」「インクとつけペン又は万年筆」「鉛筆」の3種類となります。
手紙の表書きやハガキは「耐水性」が求められますが、インクは耐水性がありません。鉛筆は正式な筆記用具とは認められず、手紙の表書きなどには使えません。よって、自動的に「手紙の表書き、ハガキを書くのは墨と筆」になったわけです。
ですので、戦前の人、特に知識階層は、今の私たちより遥かに「墨と筆」を気軽に使っており(使わざるを得なかった)、墨と筆の使用に慣れていたと思われます。
なお、戦前は郵便を出す際に現在より遥かに簡易な住所表記で間に合ったようです。「東京都千代田区内神田 山田太郎様」とか「岩手県盛岡市大町 田中和男様」など。この程度なら、毛筆でも楽に書けそうです。
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 ANO2です。


 戦前にOLはいましたよ。職業婦人です。女工などは職業婦人とはいいません。
 もちろん今のOLほどは多くありません。
 女学校出の女性が金融機関や一般の会社で事務をしていました。戦後になっても、この人たちは引き続きその会社に雇用されていましたので、よく知っています(質問者さんのお祖父さんと同じ年代の人や、もっと若い大正2桁生まれの人もいました。)。
 補助的業務が多かったですね。
 書類は、ホッチキスがなかったので紙縒りで綴じていました。紙縒り造りの上手なお姉さんがいました。
 私の母親もそうでしたが、戦争の始まるはるか前に止めていました。
 葉書は字を小さく書くのでペンとインクで書いてました。文を墨で書くのはいくら上手な人でも、ホンの少ししか書けませんのでもったいないです。濡れることは起こり得ますが、全部消えてしまうことはありません。私は今でも葉書は万年筆で書いています。
 封書の宛名は墨が多かったです。
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(1) 「またはすでに戦前に液状の墨滴が売られていたのでしょうか?」


「墨汁」は、現在と完全に同じものか分りませんが、明治時代には既に販売されていたと墨汁メーカー「開明」のWebにあります。
http://www.kaimei1898.com/aboutus.html

1890年代(明治中期 :創業者 田口精爾(たぐちせいじ)、「開明墨」(練り墨)を発明
1898年(明治31年):「開明墨汁」と名づける。製墨原料にカーボンブラックを使用したのは、当社が始めてである。

(2)「戦前のサラリーマンは自分で墨を摺っていたのでしょうか?」
これは、そういうことを書いた文章を読んだことがないので何とも言えません。
ただし「給仕に墨を摺らせた」という話も読んだ記憶はありません。戦前であっても、墨と筆で書くのは「改まった手紙、書類」であったと思われます。その場合、机から硯箱を出して墨を摺る間に構想を練る、という程度の余裕は、「仕事上の手紙や書類を毛筆で書く人」にはあったのではないでしょうか。

後述しますが、自身が少年時代に兜町の証券会社の「給仕」であった池波正太郎氏の回想では「社員が使う"鉛筆"を始業前に綺麗に削っておくこと」は給仕の重要な仕事であったそうです。墨や筆については、池波氏の回想には何も書いていなかったと記憶します。

戦前には、会社や官庁で、女性が今で言うOLとして補助的な業務を行うことは原則として存在せず、「給仕」と言われる少年が、OLの役割を果たしていたようです。女性が企業で働く場合は、「女工」として工場で働くか、電話交換手・タイピストなどの「専門技術を持った人」に限られていたようです。

戦前の証券会社で「給仕」をやっていた作家の池波正太郎氏の文章
「散歩のとき何か食べたくなって」
で「給仕」の勤務内容が分ります。
※ 食べ物についての本ですが、随所に「給仕であった少年時代の思い出」が出て来ます。
http://www.amazon.co.jp/%E6%95%A3%E6%AD%A9%E3%81 …
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 戦前の昭和時代でしょうから、細かい字の書類はインキの「つけペン」で書いたのが多かったと思います(万年筆はみんな自前ですから、会社用には使わなかったと思います、ペン先が減ってしまうので)。


 大きな陶器のインク壜やガラス瓶からインク壷に移して、インク壷のインクを「つけペン」の先につけて使っていました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%A4%E3%81%91% …
 契約書など大事な書類は、墨と筆だったと思います。昔の人は筆でもかなり小さく書けました。
 初めから液体になっている墨汁は、昔からありましたが、看板なんかの特大の文字を書くときに、使うことが多かったと思います。
 OL(こんな名称は2,30年前から)はいましたので、彼女達に墨を摺って貰う人もいたでしょう。

 戦前のサラリーマンの経験はありませんので、以上は推測です。
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こんばんは。



その時代に私が生きていたかという問題はおいておきます。はてさて・・・現在とは違って・・・当時は、そんなに時間勝負があったと思いますか?

一つ一つを丁寧に、お客様に礼状を書いたり、注文書を書いたり・・・文書の作成は、気を使っていたのだと思います。当時は、多分秘書に相当するOLさんや事務補助の方は居なかったと思います。ちなみに、分野によっては居たようですが・・現在より劣悪な非常勤らしいですが・・・。

そんな訳で、多分液状の墨滴があったのだと思います。
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