アプリ版:「スタンプのみでお礼する」機能のリリースについて

一般に宗教を必要とするのは
恐怖がその源泉だといわれてると思うのですが

1、それが神となる理由はなぜか?(神がいない宗教もあるのに)
2、恐怖以外に何か原因として考えられるものはあるか?
3、世界中の信仰者は病人か?

回答いただけると嬉しいです。

A 回答 (28件中11~20件)

怖れがあるからこそ、信じることによって救われたい、あるいは何らかの納得を得たいという欲求につながるわけしょう。


なぜそれを神に求めるのか、ということになると、それは単に絶対的存在の象徴としてあるだけでしょう。
(ある人にとっては、お金が神であり、芸術が神のこともあるかもしれません。)
ただ、恐怖というよりは「無意識的な怖れ」です。
真理を追求したいという欲求も含まれているでしょうが、神という創造されたものを信じることによってそれを行なおうとするのは、やはり怖れと言ってもいいように思います。
おぎゃあと生まれたばかりの赤ん坊は本能の塊であるはずですが、その内面にはすでに本能のみによっては満足できない「超自我性による自己実現」の芽が属性として存在していると言っていいでしょう。
なにゆえにこの超自我性なるものが備わってしまったのか、ということに関して述べるだけの知識は持ち合わせていませんが、いずれにしても私たちは、本能的な満足や自我的な自己保全だけでは納得でき得ない要素を持たされているようです。
であればこそ、それらのみを追求する人々が心からの幸せを手にすることができないのだろうと思います。

しかし、快・不快を基準とする本能、損・得を基準とする自我、及び、善・悪を基準とする超自我。
これら三者のバランスを取るのは至難の業です。
超自我性のみを追求すればよいということにはならないというのが、その要因でしょう。
「>信仰者」と言っても様々でしょうが、この超自我性のみに基づいている信仰が病的ということは言えると思います。
つまり、自分を犠牲にして顧みないという点で、救おうとする相手の自我性が無視されているからです。
自らも含めたお互いが生かせる道を探ることがお互いにとっての最善でしょう。

しかし、病的であるにはそれなりの理由も必ず存在します。
人間は無駄なことは決してしないようにできているからです。
自らを犠牲にすることによって自己実現を図らなければならないような理由がその信仰者には存在する、ということです。
ただし、どんな場合であっても、本能・自我・超自我のバランスがとれていないと、それは病的と捉えることが可能だろうと思います。
そういう意味では「世界中の信仰者」ではなく、「世界中の人間というもの」は病人である(現段階では)ということにもなりそうです。

あくまで一般論ですが、信仰者の方は本能や自我に比して超自我性のバランスが肥大化しているパターンが多いように思われます。
余談ですが、超自我の本質は抑圧(あるいは禁制)でしょう。
先ほども触れましたが、超自我性とは、善的なもの、あるいは崇高さを希求する精神性のことです。
そこには当然のこととして、本能や自我との葛藤が存在します。
超自我性の高い方ほど、その葛藤は激しさを増すことでしょう。
同様に、生命力としての本能や、自己を守るための自我が脆弱な場合にも、超自我性の比率は結果として高くなりますから、やはり葛藤に悩むようになる確率は高くなるものと思われます。

これらの葛藤が怖れとなるまでに成長することは容易に推測されます。
なぜならば、超自我は、本能や自我のように自己を守るためだけのものではあり得ないからです。
つまり、自分の生と他者の生の同時希求という矛盾を常にはらんでいます。
この矛盾に耐え切れなくなったとき、人は信仰を、そして神を求めるのだと思います。
自我による精神性の拮抗作業を諦め、創造された「絶対的なもの」に査定を委ねることによって、その矛盾を断ち切りたいという欲求。
なぜ、そのような欲求が出てくるのかということになると、繰り返しになりますが、自己の存在ということに関する怖れに端を発している、と捉えるのが適切であるような気がするわけです。
 
    • good
    • 0
この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
神はいわゆる神である必要はなくて、人の欲求を満たすことができれば、
べつになんでもいいのでしょうか。単にそれを神と呼べいいのであって。

お礼日時:2008/02/17 17:27

 宗教の必要は恐怖が源泉・・というより、必要だから(あるいは「必要だった」から)その人に信仰がある、のではないでしょうか。

必要でなければ、神を持たない・存在を信じない、無宗教の人になっちゃう。周囲を見てるとそう思います。

そして信仰の種類(それが神となる)は、出会いでしょう。

強いて言うなら、宗教の必要原因は、苦しみからの脱却、かと。

そして信仰者は病人か・・。ええと、周囲を見ていると、信仰者もそれぞれで、全財産をささげるような、あまりに熱狂的な人に出会うと、「それは『信仰』というより『趣味』の域に達しているような・・」と思うことも。趣味に凝る人は、それこそ全財産・全時間を平気でつぎ込みますからね・・。その姿に似てるな、と思うことがあります。病気・といえばそれも病気といえるでしょうね・・。(笑)何を持って病気と呼ぶか、によりますが・・。

ただ、何といいますか、信仰には趣味にない、『謙虚さ』のようなものが決定的に違うと思います。趣味への貪欲さ、信仰への謙虚さ、その違いが大きく差があると感じています。信仰を持つ方で、本当に尊敬できる素敵な方は多いです。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
そうですよね。見た感じこれはどうだろう…という人もいますからね。
宗教と言っても色々といえば、それまでかもしれませんが…。

お礼日時:2008/02/17 17:24

>>恐怖がその源泉


聖書か仏典あたりを熟読されましたか?
聖書は、”恐怖”と言うよりも、(自然に対する)”畏怖”だとか、
(人間に対する)”業”を強調しているように思います。

>>神となる理由
キリスト神を、零と∞を定義する存在とするなら、聖書の話は成り立ちます。

神って、個人の規範でしかないでしょう。
聖書では、”人の領分”を定めて、そこから超えないように教えている。
釈迦は、”人の目的地”を定めて、そこに向かうように教えている。
わかりやすく言えば、あなたがある人物を好きになって、
その口癖や髪型などを真似るのと変わりがな無いと思います。
あなたにとって、その人物が神なのです。

>>世界中の信仰者は病人か?
最近では、ヨン様信仰(笑)が病的でしたね。
人間はみんな、信仰者でなくても、大なり小なり”病人”ですよ、
絶対にどこかが欠けていますから。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
どうやら神の捉え方のようですね。

お礼日時:2008/02/17 17:21

永遠と自我の対立の解消が、いつか私にも訪れることを望みます。



貴方に、その対立の解消のメカニズムを説明します。但し是は単なる理屈です。その道に至るには貴方が自分で直接体験する以外ありません。教えると言っても、本当は、教えられないものを、お話します。貴方がその事に気ずく日が来る事を願って。

「悩みと悟り」
悩みと悟りはその両極端の処に在ります。悩みは自我と仏性の対立です、矛盾です。悟りとは自我と仏性の出会いです。

人生最大の悩みとは、死んでゆく自分が存在して、今生きていることです。その時にそれを悩みと感じるのは、「仏性」のせいなのです。それは、不死性を持っているからです。言い方を替えれば「永遠の命」を持っていて、自我に「永遠の命」に対して憧れを抱かせているからです。人間が「普遍の真理、変わらないもの」に憧れるのは、全て「仏性」のせいなのです。それは「二元論」として顕れます。悩みとは「死んでゆく事」対「永遠の命」の対立です。

死にたくないのに死んでゆかかなければならない事、この矛盾です。この矛盾を自我が悩み、として受け取っています。その悩みこそ仏性が起こさせています。それは仏性が「永遠」そのものだからです。それが分かっているから、苦しんでいる「自我」に助けを申し込んでいるのです。ところが、自我が我が強くてそれを、信じられないのです。その一連のやりとりが人間苦、悩みなのです。

悩みの解消は禅の中に有ります。「禅問答」が解ければ、悩みの解消になります。はっきりと解ければ「見性」又は「悟りを開いた事」になります。その時の心は苦しんでいる、自我が仏性の永遠性に触れる事によって、もたらせられます。その事で自分そのものが永遠のものであったと気が付くからです。「肉体というもの」の死は本当のものではないと知るからです。自分の肉体が死んでも自分は死なない、と云う事が分かるからです。その事で矛盾が解消されます。その矛盾を悩みとして感じていたのですから、悩みの解消になります。完全解消です。その事によって、「絶対の安心」が手に入ります。その事を「涅槃」と言います。

どうして「禅問答」が難しいのか?この事を説明するには、人間の脳を知る必要があります。それは左脳と右脳の機能が違う事と左脳に一人の人格が在って、又右脳にも別の人格があってその人格は全く別なものである。従って、一人の人には二つの人格が在る。と言う事があるからです。左脳の機能は言葉を持っていること、論理的に考える事、順序だてて緻密に計算してゆく事等。それに対して、右脳の機能は言葉が無い事、直観的、喜怒哀楽、無意識の中に在る事等。

それでは「禅問答」ですが、これを解く鍵は命掛けの努力を必要とします。自分の全存在を賭けて解こうとすることです。その時に、自我が自分には出来ないと分かる時が有ります。その時は我が降参した時です。我が死んだ時です。「大死一番」した時です。その時に自我の代わりに仏性が出てきて、その問題を解決してくれます。その時が「悟りを開く」時です。お釈迦様の教えは、宗教ではありません。宗教を退けた訳は、ここに在ります。これは精神療法なのです。あまり理解している人がいませんので、認知されてはいませんが。これは心の究極の癒しの心理学なのです。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
個人的に禅はあまり知る機会がなかったので
良い参考となりました。大死一番ですか。
どうやら私も命がけで解く必要があるようです。

お礼日時:2008/02/08 18:04

 ヨガとは体のエクササイズを主体とするハタヨガをイメージされる方が多いのですが、あくまでも自分の基幹に遡ることを主体としております。

私達のラージャ・ヨガの中にも幾つかあるようですが、その中で私はhttp://www.yogananda-srf.org/で勉強しております。
 確かに日本ではこの支部はなく、HPもありません。みなさん立派で真面目ですが、今は本部の紹介の方だけの集まりになっています。多くの日本人もここの修道僧や尼僧になられていて、日本語のメールも可能かと存じます。
 一定のお知識を有される方がご紹介されて訪れておられます。
 あくまでも本部のスクリーンがある方が主です。
 ヨガには、カルマ(行)のヨガとして、仏教。その他に先ほどのハタ。叡智のジャイナ、そして信仰を主体とするバクティなどもあります。西欧を経ているキリストは、まことに変改というか疑問があるのですが、私達のラージャヨガの中のものですと、教えられています。

参考URL:http://www.yogananda-srf.org/
    • good
    • 0
この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
仏教やジャイナ教でさえもが、一つの道に通じるという
ガンジス川の流れの中にあるような考えは魅力的ですね。
参考にさせていただきます。

お礼日時:2008/02/08 17:53

 ご質問が出てくる「神を信ずる」心理、そして不安や恐怖、更には病人という言葉で括られている信仰。

必要とされている宗教とというのもあることは否めませんね。
 該博なご薀蓄と、確実なご分析による様々なご回答が画いておられるような宗教や信仰もありましょうね。
 今日このごろ、ほんの50年足らず、信仰者の端くれだと自分を認識してきております私は、その中のどれにも、どうも自分のことではないような気がしているのです。
 確かにあるご回答の一部のご分析はかすっているところもあるのですが。
 信仰とか自分の心理について多少とも、外部的に見定めたく存じて、ずうっと訪問申しあげてきたのですが、もちろん信仰者の言葉や心からのものでなくていいのですが、信仰や宗教って、これに尽きないのではないでしょうか。
 ではお前の信仰や宗教について、心理分析して申し述べよ、といわれると、信仰や宗教の全部を語る事になり、とても数冊程度では収まらないのです。
 そういうわけで、質問者さんも多分、わざとかどうか存じませんが、反発を怖れずに、激越なご表現をされている箇所もあるかのように見受けられます。
 それはそれで、宇宙のどこかの星の大洋の小波にもならないことですので、いいのですが、こういう視点で寧ろ信仰者に、事項を掲げての問いかけであると、少しはご参考にしていただける、事情や反省などもお話できるのにな、と余計なことを考えました。
 相変わらす、勉強のために訪問をさせていただきますが、忍者のように、障子の穴からの盗み見とならないように、一応挨拶として、書き込みを致しました。
 ちょいと付言ですが、私達の場合も所謂る、信仰とかいうものだとすれば、私達の場合は恐怖や不安も出発ではないし、このみなさんと同じ生活に拠点や場がないわけでもないのです。
 私達とは教えやその他も少し異なる、禅のご修行の方も、神道を尊崇する方も、恐怖や恐れ、心配や無念さ、などなとや、曇りなどがあったら修行も、神の尊崇もできないと存じますが。それは私達の場合も同じなのです。少し範囲を広げて、私達も入るような信仰や宗教のことも、そしてその心理の分析なども教えていただくと、たいへんありがたく存じます。こんな位置関係にいるのさ、とお教えいただけるととてもありがたいと存じました。
 なお、私はラージャの道に身をおいていることになっております。
 そして宗教を必要ともしていないのです。
 人間としてもありようを、自分として思ったことから、のことなのです。私は宗教を必要としておりません。人間たる自分としての任務があるだけです。それが偶々、そのような宗教とか、信仰とかの呼称で括られながら、指示されておるようです。
 いわずもがなですが、啓明していただきながら、ご挨拶しないのはよくないと思い、御礼の意味も含めて、書き込みました。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
傍からどのように見られているか気にする余裕なく激情に流れ
あちらこちらに意見してきましたが、反省する次第です。
ラージャ、王というとヒンドゥー教でしょうか?
日本ではまず知るということすら難しくありませんでしたか?
もしよかったら、教えていただければ何かしらの糧になると思います。

お礼日時:2008/02/07 13:53

1、に付いて


宗教を必要とするのは、恐怖、不安がその源泉だと思います。その恐怖、不安を起こさせているものが、その「神」だからです。人間は「二元論」と云って二つのものの考えが争っている事を、又は矛盾を心の中で悩み、苦しみとして感じます。それは、その「神」が自分に気が付いて欲しいと訴えているからです。

その事を端的に表明した人がお釈迦様です。「一切皆苦」と云って、悩みに、苦しんで、出家までしました。それは、お釈迦様の自我が苦しんだと言う事です。そしてとうとう、「仏性」との出会いが在りました。その事で、二つの矛盾していた考え方が解消されるのです。「現実の無常の全てが滅びてゆく世界」と「魂の叫びである、永遠性、不死性」との対立の解消。絶対に相容れないものの矛盾の解消。矛盾の自己同一。

「自我」の苦しみを起こしているのは「仏性」です。それは、自我が間違った考えをしていることを正そうという、意思表示なのです。その救いの手を、振り払おうとすることが、又悩みなのです。「仏性」はその性質上の永遠性から、自我に助け船を出そうとします。ですが、自我は受け取る事が出来ません。それで、「我」を捨てろ、と言います。「我」と仏性」の対立、矛盾が「人生苦」です。その救済が自分自信を知るという事です。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
どうも迷ううちに間違った考えをもつばかりで
さらに迷ってるような状況ですが、
お見苦しい点を多々お見せしたとしたら、申し訳ありません。
どうもうまくかないものです…。

対立は苦しみを生むのですね。
永遠と自我の対立の解消が、いつか私にも訪れることを
望みます。

お礼日時:2008/02/05 22:47

言葉足らずであったと反省しています。



きっかけが恐怖であっても、ある部分に恐怖があっても構わないと思います。見方(見る角度)によっては、源泉のように見えてしまう事もあるでしょうし、実際にそういう人もいるかもしれません。

源泉であるかないかは、人の成長にどのような関係があるのでしょうか?わたしは、それ自体はあまり関係のないことだと思います。

宗教を必要とする源泉が恐怖であれば、そこから何かを学び成長する方向に進んでいけば、プラスです。

恐怖であってもなくても、プラスもあればマイナスもあります。

恐怖のようなものと向き合っていくこと、受け入れて乗り越えていくこともあっていいと思います。

また、そのようなことを気にするのはわかります。私も同じです。あまり、こだわらないで、プラスの方向に気持ちを切り替えています。

3については、人はそれぞれいろいろな物の考え方があり、見る人の角度(経験・生き方・性格・思考の方法など)によって物事は違ってくるのではないかということです。ですから、あまり気にしても仕方がないという意味です。

みなさん同じ山を登っているのだと思いますよ。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

再度回答ありがとうございます。
お気になさらないでください。
私自身、失礼な質問の仕方だったと反省する次第です。

恐怖なども、じゅうぶん、1つのものの見方であるから
きちんと冷静に判断していこうと思います。
人間的に成長することも、もちろん大事ですし。
多種多様な価値観を認められるよう私自身頑張ります。

お礼日時:2008/02/05 22:21

宗教は2つあります。


一つは信じるという宗教
もう一つは信じないという宗教です。

神がいない宗教もあるのに・・・
ありましたか?本人達は宗教と呼んでいないはず
    • good
    • 0
この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
そうですね。信じるか信じないか。
もしかしたら見苦しい点を多々お見せしたかもしれません。

確かに。彼らは宗教とは呼んでいませんでしたね。

お礼日時:2008/02/05 22:08

1、それが神となる理由はなぜか?(神がいない宗教もあるのに)



人間の考えの及ばない無限の愛の存在を信じるからです。

2、恐怖以外に何か原因として考えられるものはあるか?

自分以外の人の幸せです。

3、世界中の信仰者は病人か?

「目に見えない、科学で解明できない神仏を信じる人は病気である」という考えを持つ人からみれば、病人にみえるかもしれません。この意味がおわかりですか?
    • good
    • 0
この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
やっと恐怖以外の回答がいただけました。
一体、宗教の源泉=恐怖の初の出典が何か気になるところです。
特に心理学に心得のある人たちの共通理解のようで。
3番目の質問に関しては、私自身の見解ではなく、
むしろ、私がそんな扱いだったので、質問させていただきました。
気分を損なわれましたら申し訳ありません。

お礼日時:2008/02/05 21:11

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!