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 おせわになっております。明治~昭和の学者南方熊楠さんの言葉の意味がわからないので、解説をお願いいたします。
「宇宙万有は無尽なり。ただし人すでに心あり。心ある以上は心の能うだけの楽しみを宇宙より取る。宇宙の幾分を化しておのれの心の楽しみとす。これを智と称することかと思う」
という言葉なのですが、難しくてわかりません。自分が考えるに、宇宙は広いものである。だから、身近にあるものから楽しみを見つけるのが賢い生き方である、というように解釈しました。
 もし、本当の意味、解釈がわかる方がおりましたら、教えてくださるようお願いいたします。

A 回答 (4件)

言い回しを現代的にすれば良いのです。

こうなります。
「宇宙すべての物事は無限であり全部を知るのは無理だが、
人には宇宙の物理とは別に心がある。
人にとって物事は、楽しめることに価値がある。
宇宙の全部は無理でも、知れば知るほど楽しい。
これを「智」と呼びたい」
つまり、彼にとって知識は、実用性はなくても知ること自体が
楽しいプレイなのだ、ということでしょう。
南方熊楠は博物学者であり、
それは「唯一の真理や法則を求める」学問ではなく
「広く深く知ること」自体を目的としています。

ようするに「博物学万歳!」
という意味ですね。
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学者にとって「心の楽しみ」とは、真理の探求に他ならないでしょうから、私は次のように解釈します。



宇宙は広大無限で、人知が遠く及ばない世界だ。しかし、我々人類には考える力がある。ありったけの考えを廻らせて、たとえ僅かでも宇宙の真理に近付こうと努力を続ける ─ それが人類の叡智というものだろう。

この文章は、考えることにこそ人間の尊厳があるとした『パンセ』(B.パスカル)の有名な件を彷彿とさせます。まさか熊楠は‥
いや、考え過ぎかな?( ^^;

考える葦の文章
http://www.alpha-net.ne.jp/users2/eijitkn/bunsyo …
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私なりの解釈ですが。



この世界(宇宙)の中にあるものは無尽である。尽きることなくたくさんある。
ただし、人には心というものがある。
心があるからには、心が受け入れられるだけの楽しみを世界の事物の中から取ることができる。
世界の事物のいくらかを消化して自分のものとし、心の楽しみとする。
これが智ということだと思う。

森羅万象は無限にあるけれども、人間は自分の裁量に従って森羅万象の一部を受け入れ、理解すること、それを楽しみとする。人間のキャパシティには限界があり、無尽にある森羅万象のすべてを得ることはできないけれども、限界まで探求していく心構えがあれば、多くのことを得ることができる。

という感じじゃないかと思うのですが、如何でしょうか。
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宇宙というものは尽きることがなく無限なものだが、


心があればその宇宙から何かの楽しみを得ることが
できる。宇宙に分け入って何かを手にして心の楽しみ
とすること、それが智というものだと思う。

という意味でしょう。探究心あふれる熊楠らしいこと
ばですね。
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