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先日古い友人と久しぶりに80'sWRCの話で盛り上がったのですが、

「86年にランチアのヘンリ・トイヴォネンの死が契機となってグループBは廃止になったが、それまでにも事故は多発しており、トイヴォネンという若きヒーロードライバーの死をもってしてやっとオフィシャル側は重い腰を上げた」という認識であっていますか?

それが正しいのであれば何故、事故を重ねつつもグループBは頑なに存続し続けたのでしょうか?

・「命のやりとりをするような危うさもラリーの華」というような認識が当時のファンにはあった気がする

・危険だからこそ人気もあり、興行収入?の面から止められなかった

といったことが二人で話していて思いついたのですが、実際どうだったのでしょうか?

なにぶん二人とも当時は中学生…深い事情は知る由もありませんでした。

よろしくお願いします。

A 回答 (2件)

85年ツール・ド・コルスのベッテガ、86年ポルトガルのギャラリー突入で死者は出ていますがドライバーはトップの一段下のレベル(失礼かもしれませんが)であり、死者は出ていなかった他の事故も「ドライバーが車に慣れれば何とかなるだろう」というレーシングアクシデントとして取られてたのではないでしょうか、ところが当時絶好調のトップドライバーであるトイボネンがまともな回避行動をする間もなく逝ってしまいましたのでドライバーの技術云々どころではないという事で即刻廃止の指示が出たのでしょう。



あと、ワンオフの車両ではなく生産車をベースとしているラリーですので、一応プロモートをかねてベース車両を200台採算度外視で制作している以上メーカーとしては簡単に廃止→撤退、もしくは新レギュレーションに移行という訳には簡単にいきませんから致命的なトイボネンの事故までメーカー側としては存続させたかったのでしょう(実際グループBの廃止に対してプジョーがFIA相手に訴訟を起こしましたし)、WRCの場合メイクスあっての競技という面がかなりあるのでFIAも簡単に辞めるわけにはいかなかったと思います。

当時グループBは既にグループS(よりワンオフに近い生産台数、少ない排気量により安全性が向上すると見られていた)に移行する予定でしたが当時の技術では公道をミッドシップの四駆で競技する事はグループBの顛末から危険と判断されて凍結されて世界選手権はグループAに移行する事になり現在に至っています
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この回答へのお礼

詳しい回答有難うございます。

>実際グループBの廃止に対してプジョーがFIA相手に訴訟を起こしましたし
初耳でした。確かにメイクスにとってみれば簡単に移行されてはたまりませんものね。

「好き放題できた夢のような時代でもあったし、誰もが狂気に駆られた悪夢のような時代でもあった」と、どこかの国のモータージャーナリストの言ですが、まさにそんな感じがしますね。

お礼日時:2008/02/26 21:46

現在発売中の雑誌「WRC plus」がちょうど Group B の特集をしていますよ。


http://www.news-pub.com/magazine/details.html?pi …
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この回答へのお礼

お礼が遅くなって申し訳ありません。早速書店行ってみます。
有難うございます。

お礼日時:2008/03/03 20:35

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