メモのコツを教えてください!

大日本帝国憲法の政治機構(見かけの)外見的、権力分立制といわれるのはなんでですか?

A 回答 (4件)

「統帥権の独立」について言いますと、実はこれが大問題になった昭和初期の時点では本来ならば問題になるような事ではありませんでした。


それまで政府は勿論、軍部の大多数も統帥権は純粋な作戦に関する権限と認識しており、近代的な軍隊では当たり前の話でしかなかったのです。
ところがロンドン軍縮条約調印時に野党政友会が政府批判の為に「軍令部の反対意見を無視した条約調印は統帥権の干犯である」という、極端な拡大解釈を行って政府批判を行いました。
この後、議会では軍の行動を統制しようとすると「統帥権干犯だ」と揚げ足を取られる事になってしまい、議会は自ら軍に対する統制機能を放棄してしまったのです。
これについては当時から批判も強く、現役の海軍少佐だった石丸藤太は著作で

『統帥権の独立が、時代遅れの思想であり、之を国内的に見れば二重政府の樹立という珍妙にして有害なものとなり、之を国際的にみれば、軍部と政府の無統制となりて、ここにも亦極めて有害、延ては世界の平和に悪影響を及ぼす』

と酷評しています。

「天皇機関説」が大問題になったのも美濃部達吉にとどまらず機関説の提唱者である一木喜徳郎(枢密院議長)や金森徳次郎(法制局長官)を失脚させて当時の岡田内閣の倒閣をもくろんだ政友会が火に油を注いで問題を深刻化させています。
議会における目先の駆け引きの為に国政を大きく誤ったと言えるでしょう。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
なんで問題になってしまったのかのかのながれがわかりやすくとても参考になりました。本当にありがとうございました。

お礼日時:2008/05/10 12:28

大日本帝国憲法は、第3条に「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」と書かれているように、天皇大権を明示していました。

しかし、同時にその中には帝国議会や裁判所などの存在も明記され、立法、司法などの面である程度君権を制御する内容でもありました。
例えば37条の「凡テ法律ハ帝国議会ノ協賛ヲ経ルヲ要ス」や57条の「司法権ハ天皇ノ名ニ於テ法律ニ依リ裁判所之ヲ行フ」などです。
また天皇自身も、4条に「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ」と書かれているように、憲法上の制限を受けるものでした。
これらの内容から、大津事件で有名な司法権の独立の問題(大津事件が裁判官個人の「司法権の独立」を守ったとはいえませんが)や、美濃部達吉の「天皇機関説」などが出てきます。昭和天皇も、自身を立憲君主として考え、議会を通過した案件については異議を唱えず承認するだけだったといいます(審議段階は別だと言う意見もあります)。
ただし、不備はいくつかあり、行政については、各国務大臣が天皇を「輔弼」(助けること)して行うものとされ、「内閣」と言う制度は憲法には書かれませんでした。また軍隊の指揮も、11条に「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」と書かれているように、天皇の大権とされていました。「国務大臣単独輔弼制」と「統帥権の独立」と呼ばれるこの二つの規定は、昭和期に軍部が政治を掌握するための道具として用いられてしまいました。
いずれにしても、大日本帝国憲法は、専制君主制のように君主の思うがままに立法・司法・行政を動かせるというものではなく、立憲君主制を規定するものであったので、見かけ上は(不十分であったとしても)権力分立制であったと言えると思います。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
例えと何条に書かれているなど、あげられてい分かりやすくて助かりました。本当にありがとうございました。

お礼日時:2008/05/10 12:23

#1です。



外見的な権力分立制というよりは、明治憲法の特徴全般を書いてしまいました。逆に惑わせてしまったら申し訳ないです。
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明治憲法にみられる特徴・外見的立憲主義のキーワードを適当に挙げますと、



・制定過程…英仏(議会重視)を見習わずに、絶対主義的な内実が立憲主義的な外皮によって包み込まれていたドイツ諸邦の憲法を手本とした。
・欽定憲法。天皇が主権者、統治権の総覧者。神勅(ににぎのみこと)。神権主義的。神聖不可侵。憲法と同位の皇室典範。
・天皇の大権を中心とした憲法:統帥大権、宮務大権、国務大権…大権ごとの補佐機関。大権中心主義の憲法。統帥権の独立。
・裁判官の独立あり。しかし司法権は「天皇の名において」裁判所が行った。裁判官は司法大臣の監督下におかれていた。違憲審査権なし。国家の無謬。
・立法の主体はあくまで天皇。天皇の立法権に対する協賛機関にすぎない議会(裁可権の留保、緊急勅令・独立命令)
・民意を反映しない貴族院(貴族・勅撰議員)
・議院内閣制ではなかった(内閣は単なる官制上の機関)
・総理大臣は国務大臣に対して罷免権・指揮命令権を持たず、「単なる同輩中の首席」にすぎなかった。国務大臣の責任は、大臣助言制の下、天皇に対する単独責任であった(憲法上、大臣は議会に対して一切責任負わず)。枢密院の存在。憲法規定外の内大臣・元老の存在。
・国民の権利は人間固有の生来的・自然権的なものではなく、天皇の慈恵によって付与された「臣民権」にすぎなかった。天皇が臣民を支配、臣民はそれに隷従するという構図、あくまでその範囲内での権利保障。思想良心の自由や学問の自由、平等権の保障も規定されず。
・憲法上の権利規定は行政府と裁判所に対して拘束力を有するのみで、議会を拘束するものではないかった。→法律の留保。

権力分立制といってみても、中身は天皇の大権を翼賛する機関にすぎなかったということですね。
憲法の体系書を読まれると一番最初に載っていますから読まれてみるといいと思います。(ただ芦部憲法あたりは明治憲法の記述が薄かったと思います。)

参考にならなくてすみません。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。
しっかりと参考になりました。
特徴がとってもまとめてあって本当にわかりやすかったです!
本当にありがとうございました。

お礼日時:2008/05/10 12:17

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