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徳川一門でも、徳川を名乗ったり、松平を名乗ったりしていると思います。
親族でこの2つの姓名はどのように使われているのでしょうか(2つの姓のボーダーラインはどこで切られているのでしょうか)?
又、松平姓は、徳川の遠縁を含んで、皆、徳川家の親戚なのでしょうか?
親戚の中で2つの苗字を分けるのは何の為なのでしょうか?理由があるとおもうのですが・・・。
教えて下さい。m(__)m

A 回答 (8件)

他の回答者さんの答えにもありますが


松平姓には3つあります。
1家康が徳川姓に改姓する前から松平姓であった松平姓の諸家。(十八松平)
2家康が徳川に改姓した後に松平姓を名乗った諸家(会津・御三家の連枝等)
3有力外様大名で松平姓を与えられた諸家(伊達・毛利等)

徳川姓の緒家は徳川将軍家、御三家(尾張・紀伊・水戸)、駿河大納言家(忠長)、御両典(綱重・綱吉)、御三卿(田安・一橋・清水)がありますが、家康に息子は多くいましたが徳川姓を与えられたのは義直、頼宣、頼房のみです。
他の兄弟は次男秀康は結城家に4男忠吉は東条松平家に、5男信吉は武田家、6男忠輝は長沢松平家…と養子に出されてました。
つまりたとえ家康の子でも一度他家へ養子に行ったものは徳川姓は与えられなかったと言う事です。

同様に秀忠の4男保科正之も高遠藩主、保科正光の養子となっていて兄忠長と異なりのちに与えられたのは松平姓でした。
徳川家宣の弟・松平清武も越智家の養子となっていたため、のち松平姓が与えられています。

御三卿に関しては吉宗長男・家重に障害あると言うことで、そのスペアとして次男・宗武、4男・宗尹を江戸城内に住ませたのが起源ですので、存在目的が「将軍継嗣」でしかないと言う事もあり、将軍継嗣の条件である徳川姓が与えられたと言う事情によるものです。

なお水戸頼房に関しては徳川姓が与えられたのは徳川忠長死後であり、それまでは松平頼房と名乗っていました。
水戸家に関しては将軍継嗣になれないと言う事柄は公武応勅法制十八ヶ条を根拠としています。しかしこれは偽書であり実際にはこう言う規定はありませんでした。事実水戸綱条が将軍候補者としてに名前が上がった事もあり、水戸光圀も綱条が尾張・紀伊がダメなら水戸が将軍になると発言しています。
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この回答へのお礼

非常にわかりやすい説明を有難うございました。
将軍家を絶やさない為に、色々の工夫があり、又、血がつながっていなくても、力のある外様大名にまで、松平姓を与えるとは、驚きました。

お礼日時:2008/06/09 00:03

#4のものです。


補足として、江戸幕府に副将軍と言う制度は実際には有りませんが、実質水戸藩が将軍家の補佐役をしていたという事で、副将軍家としてしまいました。
実際、水戸徳川家からは将軍家を出さない代わりに副将軍的役割をしていました。
五代将軍綱吉の就任にあたり徳川光圀の意見が大きく左右された事は周知の事実です。悲しいかなその後は大きな役割はなっかですが。

ご質問と大きく離れてしまい申し訳ありませんでした!!
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この回答へのお礼

有難うございました。
水戸徳川家の、力があるような無いような微妙な立場がよくわかりました。

お礼日時:2008/06/09 00:33

早い話が大名統制のための家の格式・序列の差です。


松平は。。。
家康が徳川になる以前に存在していた十八松平と言われる分家が名乗っていた松平。
徳川を名乗ってから創設された松平。→将軍家の兄弟や家康の子孫など御家門。
島津・伊達などの格式ある外様が授与された松平。
徳川は。。。
将軍家・御三家・御三卿。

参考までに
http://homepage3.nifty.com/ksatake/kakaku01.html
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この回答へのお礼

有難うございました。
早い話が大名統制のための家の格式・序列の差です。←納得です。
松平姓と徳川姓の説明、とてもわかりやすかったです。

お礼日時:2008/06/09 00:30

厳密にいうと, 「徳川」を名乗るのは「江戸・尾張・紀伊・水戸と御三卿の当主」くらいじゃなかったかな?


これらの家の人間であっても, 当主以外は原則として「松平」を名乗っているはずです.
なお, 「副将軍」というものが制度として存在したわけではありません.
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この回答へのお礼

有難うございました。
江戸・尾張・紀伊・水戸と御三卿の当主のみが徳川を名乗れると言うのは、家の存続を重視の表れなんでしょうね。

お礼日時:2008/06/09 00:25

徳川姓は御三家(将軍家・紀州家・尾張家)と御三家に準じる水戸家の4家のみで、その親藩及び親族に許された苗字です。


その他、政略によって戦国末期~江戸幕府時代に外様大名に与えられた人です。
例・・・仙台・伊達氏 薩摩・島津氏 能登・前田氏 土佐・山内氏・・・等々

又なぜ苗字を分けるかと言うと、将軍になる事の出来る藩と代々副将軍と決められた水戸家のみ(15代将軍の慶喜は水戸藩出身ですが、将軍の弟の一橋家の養子になり将軍へ・・・水戸藩は副将軍家)

因みに、御三家=紀州・尾張・水戸の説もあります。(この説の方が多い)
しかし、私は御三家=将軍家・紀州家・尾張家が信憑性が有ると思います。
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この回答へのお礼

有難うございました。
御三家=将軍家・紀州家・尾張家が信憑性が有ると思います←説得力がありますね。

お礼日時:2008/06/09 00:22

徳川を名乗らせるのは、将軍になる(権力者になる)家だけです。


これは徳川に限らず日本の権力者の権力を分散させない手法です。
古くは藤原氏がそうでした。藤原氏は、最初中臣鎌足が藤原姓を貰った際に、嫡系以外中臣姓に戻しました。
室町以降では、将軍家の嫡系以外は寺に預けられたり、後継者のいない大名などに養子に出されたりしました。

権力者ほど子供を多く作りやすい傾向にあります。それだけの女を囲えるわけですが。
しかし、その分財産分与するには多すぎる人数になってしまいます。
すると、せっかく作り上げた権力も、また争いの元となります。これは日本に限らず欧米も同じ。
有名なのはフランク王国。
フランク王国は、フランス、ドイツ、イタリア北部、東欧などにまたがっていましたが、
遺言で3人の兄弟に財産分与で土地を分けて与えたため、あっという間に衰退しました。

ということで、権力者が、権力を分散させずに保持する手法が、日本では姓の後継権でした。
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この回答へのお礼

有難うございました。
徳川家だけでなく、藤原氏も家を維持するのに苦労したのがよくわかりました。

お礼日時:2008/06/09 00:19

徳川姓は他にも御三卿が名乗っています。

あと、徳川と松平を分けるのは将軍の血筋とその他の松平一族は違うんだと示すためです。徳川家康は松平宗家ですが、宗家といっても一族に対する力はあんまり大きくなくて、一族の中には日記や書類に家康と呼び捨てにしているくらいでした。それが御屋形様とか殿様という表現に変わったのは家康が東海甲信5カ国の大大名になったぐらいからだそうです。家康は自分だけが徳川に改姓することで松平一族とは別格だと言いたかったんでしょうが、やはり実力で圧倒できるぐらいでないと一族の意識を変えるのは難しかったのではないでしょうか。
将軍を継承する資格を有するのが徳川でそれ以外は松平ということではないでしょうか。あと、同じ松平でも将軍の血を継ぐ松平は親藩、家康以前の松平は譜代に分けられます。他に外様大名にも松平を名乗っている家があります。江戸期の地図には長州藩のところに毛利でなく松平と記されてたりします。
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この回答へのお礼

有難うございました。
徳川と松平を分けるのは将軍の血筋とその他の松平一族は違うんだと示すためです←わかりやすいですね。
長州藩まで毛利でなく松平と記されてたりします←それだけ徳川家との特別な関係を誇示したかったのでしょうかね。

お礼日時:2008/06/09 00:12

家康は、1566年に朝廷から徳川姓を名乗ることを許されてから、将軍家と御三家だけに徳川姓の使用を認めたようです。



従って松平姓は家康の血を引く親藩の家で用いられたようです。

参考URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3% …
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この回答へのお礼

有難うございました。松平姓と徳川姓との関係がわかりました。

お礼日時:2008/06/09 00:05

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