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面白くない考えにいたりました。

ものの憐れというのか、茶道の精神というのか、いわば、ささいな物事に対する生まれながらの(あるいは後天的)な感受性が鋭い人と鈍い人は、それぞれ、独立独歩的な雰囲気の人間になるのか、迎合性もしくは協調性のある人間になるのかという傾向があるのではないかと思いました。

つまり、野球のたとえで言うと、
○キャッチャーが捕球する音とかバットでボールをひっぱたく音とか、そういうものが面白いと感じる感性があると、それが聞きたい→適当にやじるくらいの応援になる(一種アメリカ西欧的)
○そういうささいなものに対する感受性が希薄→より勝敗とか選手の人間性的な面に関心が行く→迎合的に鳴り物やテーマ曲を歌って応援する

というような雰囲気がある。この差というのが、「茶道的な対象を面白がれるかどうか」に結構かかっている気がする。

もちろん、そういう侘びさびがあることが人間にとって上質であるとか言うものではないです。ただ、そういういわば要らない無用の感性があることで、迎合的でない傾向の人間ができる下地になるのではないかと思われるのですが、どうなのでしょうか?

つまり、言い方を変えれば、大衆的な志向とは「人間的」な志向だということです。反大衆的な志向とは、「自然的」な志向だということです。

またあえて言えば、大衆的な「人間的」志向とは、表面的なレッテル貼りの思考です。対象の人間を掘り下げたりしません。

何事も「掘り下げない」ということが、大衆的迎合的であるというエネルギーであり下地なのではないでしょうか。それは毒も多いですが、考えようによっては社会に必要かもしれません。個人的には反対ですけども。

A 回答 (3件)

当たってると思います、とてつもなく鋭い感性をお持ちですね、はじめこの文章を読んだときには全然ワカリマセンでした、3回目でようやく理解できました、そうですその通りです。

多分間違いないと思います、結構すごいところ突きましたね、うわ~凄いですね、学会に出してみたらどうでしょうか?結構良い線いくと思いますよ、ただその前にこの文章を理解させることに苦労なさると思いますが・・

この回答への補足

たとえば、こういうサイトで、よく回答者のお定まりパターン、世間一般感覚、お説教調自己満足など、何の益もない回答が多いですが、そういうのは実は、心情的な薄情さが露呈しているというよりも、物事を感知する能力がない、心を動かされるだけの想像力が働かないところから来る「貧」な心情によるところが多いのではないか。だから、薄情な人といって非難する前に、心が貧しい人と哀れむほうが道理なのかもしれません。

補足日時:2008/06/20 08:11
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この回答へのお礼

感性が鋭すぎてつらいです。。半分冗談ですが。しかし、そのような「感受性能力」というのが、結構潜在的な迎合的精神の核になっている面もあるのではないかと、どうしても考えますね。ふと思いついたんですがね。ひとつの「快楽原理」です。もし、そういう「バットとボールの音」なていうのも、面白い人には面白いわけで、そういう「快」を買った負け他のドンちゃん騒ぎでかきけすわけはないじゃないかと。

関係ないですけど、いろいろなことに「はっ」とします。人がそこまで考え至らないことを。そして、それが世の中の悲惨、集合的にも個人的にも思い当たります。世の軽薄薄情製と、個人個人の悲惨さ。

お礼日時:2008/06/20 07:57

お書きになっている文章を拝見するとどうも日本VS西洋という


精神性で線引きしているように感じられます。
長年アメリカで生活していた私からすると、アメリカにも日本的
な「感受性」を持った人はいます。それも少なくありません。
禅のコンベンションに出席したことがありますが、彼らが求めて
いるものって、平均的な日本人以上のものです。
人って経験からしか考えを進められないものだと思います。
世界のあちこちで生活してみればお考えも変わるのではないで
しょうか。
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この回答へのお礼

別に、対西欧でなくてもいいのですが、西欧人は野蛮である悪いところがある反面、静と動のメリハリが利いているというか、夜は趣がある暮らしをしているのではないかと感じます。

お礼日時:2008/06/20 07:52

「茶道の精神」というのは、たぶん、内省的というか、自己の内面を見つめる心といったようなものの象徴として例にあげたのではないかという気がします。


内面を見つめようというベクトルは本質を見つめたい精神でもあるでしょう。
その意味で迎合的な精神に発展して行く可能性は低いように思います。
(むろん茶道と真剣に取り組んでいる場合の話で、単なるステータスとしての位置づけは除外します)

>何事も「掘り下げない」ということが、大衆的迎合的であるというエネルギーであり下地なのではないでしょうか。
:大衆迎合的というのは、より広い範囲の人々の共感を得るということでしょうか。
そのためには、確かに「掘り下げない」ことが必要になるでしょうね。

ただ、各人の底が深くなっていけば、掘り下げてもいい部分は増えていくでしょう。
それが進化ということになるのかもしれません。
それまでの過程として、
>それは毒も多いですが、考えようによっては社会に必要かもしれません。
:というのは、まさにそのとおりと同意します。
ちょっと違うかもしれませんが、夏の夜に打ち上げられる花火の音なんかもそういった効果は持っているでしょうね。
 
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この回答へのお礼

たいへんよくわかりました。
各人のそこが深くなるという、全体レヴェルアップで、掘り下げる程度、民意の程度というものが形成されるようです。

花火は、あまり騒いでかき消されることはないのではないでしょうか?

お礼日時:2008/06/20 07:50

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