一般には、明智光秀の私怨だと言われていますが、本当にそうでしょうか?

当時、すでに、織田信長を忌避する雰囲気があったと聞きます。
朝廷も、信長が死ぬと、すぐに、明智光秀に官位を与えるなど、動きがヘンです。

信長を一番恐れていたのは、朝廷のはずです。
信長は、既存の権威を無視しています。

光秀は、みんなが喜んでくれると思って、信長を殺したけど、結局、してやられた、と言うのが、本当で、「加藤の乱」と同じだったのではないでしょうか?

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A 回答 (9件)

信長が最も信頼した忠臣が明智光秀で、信長がいわば丸腰でいられたのも、何かあったら明智軍団に身辺を守らせればよいという目論見で、今でいえば身辺警護のSPが裏切ったのですから、ビックリでしょうね。


江戸幕府も関東には石高の大きな大名を置かなかったように、権力者が身近に大勢力の者を置くのは、よほど信頼しないとできないことで、だからこそ不思議な事件です。
動機は当人以外わからないと思います、光秀も戦国を生き抜いたつわものですから、もともと野心もあり、今が信長に代わり天下人になるチャンスと考えたのかもしれません。
また、昨今人間的にも立派な大人が、些細なことで切れて、家族を皆殺しにするという事件もありますから、ストレスが溜まって切れたのかも知れません。
朝廷も保険のつもりで、光秀に甘言を言って、裏切りを勧めたかも知れませんし、中国道で戦っている秀吉と毛利が足利義昭を仲介に結託して、信長を殺したら味方するといったのかも知れない。
珍説としては、織田信忠が黒幕で、津田信澄を連絡役に光秀と組んでおり、口封じに殺されたという考えもできる。
このあたりの事情は、光秀が敗者になった時点で、勝者によって書き換えられますから、後世には推測以外伝わりませんが、私は計画的な犯行で、一番利益を得た人間が怪しいという原則に従えば、秀吉黒幕説ではないかな。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

確かに、中国大返しなど、秀吉は怪しいです。

光秀には、信長に対する、大恩があります。
譜代の家来より、よそものの新参者を取り立てるなど、戦国大名多しといえども、信長しか、やっていません。
秀吉も、光秀も、信長がいなければ、世に出られなかった人物です。

光秀には、信長殺しの大義があったはずで、光秀にとっての大義とは、すなわち、朝廷だったのではないか、と推測するわけです。
比叡山焼き討ちは、朝廷にとって、真っ青になるような事件で、「次は、うちらかも」と思ったとしても、しかたないわけです。
信長が、15代将軍足利義昭を、追い詰めても、決して殺さなかったことから、朝廷にも、弓矢を向けることはない、ということは、わかりそうなものですが、朝廷にとって、足利将軍家は、新参の成り上がりで、比叡山のほうが、心理的に近かったとも考えられます。

お礼日時:2008/08/18 13:08

ひとりの人間の心の内の問題ですから、自分を明智光秀の立場に置き換えて、推測するしか、ないと、思います。


ドラマの「明智光秀」の、「自身が、次世代のための捨石になる」は、無いな~と、思いました。
私の中の光秀は、反乱を成功させる・・・プライド奪回のため。
その先は、あまり、考えていなかった・・・です。
周囲への人望は、自信が、あったが、コンタクトの不徹底、内応者のなさで、己を悟った。
一切をかなぐり捨てて、這い上がるハングリーさは、自分には、ないし、そんなのは、耐えられないと思った・・・あきらめた・・・です。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

今となっては、真相はわかりません。

でも、それを想像するのが、歴史の楽しいところです。

お礼日時:2008/08/19 13:50

これは佐久間、林の追放が引き金になっていると思います。



光秀は非常に家臣思いで、家中の結束が固く、領民にも愛された領主だったとのことです。
何をおいても一族や家臣を守ることに彼の価値観はあったはずで、そのために信長に忠節をつくしてもいたのでしょう。
しかし、だからこそ、長年の忠臣であってもいきなり首を斬ってしまう信長そのものが、逆に彼の中で問題化していったのだと思います。

そのプレッシャーの中で、信長がまったく無防備に首を差し出してしまったわけです。
そのまたとない機会に面して、魔が差してしまったのでしょう。

陰謀説が語られますが、陰謀があったにしては、他家との連携が全く取れていません。
朝廷からなにがしかの接触があったのなら、少なくとも舅の細川などは巻き込んでいるはずです。
なので、「プレッシャーの中で魔が差した」が正しいのではないか、と自分は考えます。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
「本能寺の変」の変わったところは、謀反人の光秀が、悪く言われず、殺された主君の信長の非ばかりが、取りざたされることです。
「親に孝、主に忠」をモットーとする江戸時代を経てもなお、そうなんです。

お礼日時:2008/08/19 13:48

いろいろな見解はあるでしょうけれども、明智光秀が「単なる裏切り者」扱いにされたのは、山崎合戦に敗北したことが全てではないかと思います。

山崎合戦に敗れて「敗軍の将」になったのでみんな(きなくさい人たちは)口をつぐんだのでしょう。それをあまり深く突っ込まなかった秀吉にも腹にイチモツあったと勘ぐられても仕方ないでしょう。

ちなみに加藤の乱ってあの国会議員のアレですかね。彼が演台にしがみついて泣いていたシーンがありましたが、あの真相は「加藤さん、ここまで来たんだから国会に行きましょうよ」「イヤだよ、イヤだ。僕、怖いよ」って演台にしがみいていたと思われるので、彼と一緒くたにするのは光秀公に失礼かと思われます。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

加藤の乱は、定まった定義がないので、なんとも言えませんが、頭もよく、常識もあり、派閥の領袖だった、総裁候補ナンバーワンの加藤紘一が、ほんの少し、流れを読み間違えただけで、一転、奈落に落ち込んだ事件でした。
加藤紘一自身には、悪い点はなかったと思います。
少し甘かったんですね。

お礼日時:2008/08/18 12:58

領地召し上げの話は元禄時代の「明智軍記」に初めて出てくる話で、信じないほうがよろしいでしょう。


光秀の信長への怨恨の理由として、まことしやかに語られる話のほとんどが、江戸時代にこしらえられたお話にすぎません。例えば、丹波八上城を開城させる際に母親を人質に出す話などは、状況的にありえません。光秀が兵糧攻めで食い物のない城へ、大事な人質を送るほど馬鹿だったとは思えないわけで。

動機については、まったく不明です。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

素直な回答で、ありがとうございます。

今となっては、推測するしか、ないわけです。

加藤の乱を経験(見た)した私たちからすると、政治とは、本音と建前が乖離していて、まともな人間が、ほぞをかむことがよくある、ということがわかるわけです。

お礼日時:2008/08/18 12:51

明智光秀は本来保守的なの性向の持ち主でした。


これに対し織田信長は進歩的というか革新的思考の人であり、性格的に相容れない同士という関係でした。

さらに信長は重臣といえど役に立たないと判断すればどんどん更迭し追放していました。

光秀は対朝廷工作に秀てて重用されてきましたが、信長が自身を神として朝廷を蔑ろにする意思を示したことからすでに彼の役目が終わり、いつかは追放の憂き目をみるかもしれぬと恐怖を感じていました。

さらに中国攻めで苦戦している秀吉への援軍を命じられ、合わせて長年苦労して経営してきた丹波や近江の領地を返還させられ、代わりに当時まだ毛利の領地であった因幡などを与えられたのです。
しかも当年の年貢を徴収することを許されず、即刻援軍に出発せよと命じられました。

光秀としては裸同然の状態で出陣することになり、信長からいよいよ冷遇されることになったかと誤解したわけです。
過去の信長に対する奉公が無に帰したと考えたわけでそれくらいならいっそ反乱して信長を倒すほかはないと決意したわけです。

まさに窮鼠猫を咬む行動でした。  急な決定であったので組下の武将や縁戚の武将にも連絡をとるひまもありませんでした。
反乱に同心してくれると考えた武将たちに裏切られ、結局山崎の戦いに敗北しました。

朝廷が信長に恐怖を覚えていたのは事実で最初は光秀を支援する動きを見せましたが天下の趨勢に従わざるをえなかったのです。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

信長に冷遇され、追放された武将は大勢います。
織田家譜代で、信長と次弟との争いで、信長に味方した者(名前は忘れました)まで、追放されています。

私は、光秀の教養や人格から考えて、彼自身と、周りをも、納得させられるだけの大義がなければ、光秀は、信長殺しを、しなかったんじゃないか、と思ったからです。

お礼日時:2008/08/18 12:47

 こんにちは。



 意外とこういうとかも知れませんよ↓。

http://www.geocities.jp/sou_nihonshi/honnnoujino …

参考URL:http://www.geocities.jp/sou_nihonshi/honnnoujino …
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

そうなんでしょうか。

お礼日時:2008/08/18 12:41

主家を倒すことは、あの当時ではよくあること。


光秀に関して、特別にその理由を求めるのは、光秀を倒した秀吉の後継である家康が徳川300年を築いたからです。

信長自体も、織田家本家と尾張守護家である斯波家を倒して尾張を統一しています。

二君に仕える
1568年 信長上洛段階では、幕臣は織田家と合体中というか、今の感覚で言えば、「天下ホールディングカンパニー」という持ち株会社の名誉会長が足利義昭で、社長が織田信長。その下に織田株式会社と、幕臣株式会社、浅井株式会社があったというような感じ。
細川昭元とか一色義道とかが幕臣グループといえば幕臣グループです。
足利将軍家旗本軍団ともいえる諸家が、近畿から濃尾にかけて存在し、明智光秀もその一人ではなかったかという説もあります。他の例で言えば和田惟政も同様です。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

確かに、主家殺しは、よくあった時代です。

光秀の謀反だけは、ことさらに、有名です。
時代の流れを変えたからです。
また、光秀本人が、教養人であり、秀でた武将だったからです。

お礼日時:2008/08/18 12:39

色々と説があるので何とも。


ただ、明智光秀には付け入られる隙が多かった感じがしますね。
戦国時代にあって二君(足利家&織田家)に仕えていたのは明智光秀くらいだったとか。
織田家に仕えた時点でおかしいよ。

ちなみに細川藤孝はちゃんと切ってから織田家臣になったのにね。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

今となっては、「真相は、藪の中」ですね。

お礼日時:2008/08/18 12:35

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Q本能寺の変の裏幕は秀吉!?

本能寺の変の裏幕に秀吉説があると聞き驚きました。
その説の根底となることが知りたいです。いったいどういう理由で秀吉が考えられるのでしょうか?
また、「~の変」という語はこの「本能寺の変」でしか聞いたことがありませんが、他にこのような使われ方があるのでしょうか?

Aベストアンサー

秀吉には信長を恨む理由はありませんでしたが、信長の性格にある残酷さには常々恐怖を感じていたと思います。

そのため人一倍信長の意を迎える工作には気を遣っていました。

作戦にも一々信長に上申して許可を求めたり、多額の献上品を送ったり、信長の子供を養子に迎えていずれは領地を信長に献上するという意志を示すなど忠勤の姿勢を表していました。
これらの工作は他の家臣には見られない行為です。

従って秀吉は自衛の為、信長の意向や行動のパターンを絶えず把握していたとかんがえられます。
領地の兵庫、播磨は近畿にも近く情報の連絡路も設定していた筈です。

さらに水攻めしていた高松城の救援の為秀吉の軍勢に数倍する毛利軍が目の前に布陣しており、急激な攻撃はなくても次第に敗色が濃くなる為、信長の救援を要請した訳です。  これには勝利の名誉を信長に譲る目算もしていたとおもわれます。
この受け入れ準備は支障のないよう兵糧、道路の整備など手配がなされていた筈です。
和議の交渉は毛利軍の攻撃を遅らせる手段でしたから信長の到着までの時間稼ぎでした。

従って本能寺の変を計画していたとは考えられませんが変が起こってみると信長からの呪縛が融けて自由になった喜びは人一倍強く、毛利との講和を急いだのです。
それでも毛利軍の追撃を恐れて、水攻めの堤防を一斉に切り付近を水びたしにして撤退し、さらに宇喜多勢を殿にのこしています。

秀吉にしてみれば必死の退却ではありましたが将来の夢を実現できるチャンスで意気込みが違ったとおもいます。

秀吉には信長を恨む理由はありませんでしたが、信長の性格にある残酷さには常々恐怖を感じていたと思います。

そのため人一倍信長の意を迎える工作には気を遣っていました。

作戦にも一々信長に上申して許可を求めたり、多額の献上品を送ったり、信長の子供を養子に迎えていずれは領地を信長に献上するという意志を示すなど忠勤の姿勢を表していました。
これらの工作は他の家臣には見られない行為です。

従って秀吉は自衛の為、信長の意向や行動のパターンを絶えず把握していたとかんがえられます。
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Q本能寺の変の明智光秀

どうも、見込みで事を起こして全部裏目に出たような気がするのですが・・・。

「細川親子は親戚だから味方につくだろう」
「筒井順慶は寄騎だから味方につくだろう」
「摂津の国人は京都を押さえた自分になびくだろう」
「近江の国人は信長がいなくなったら頼るものがないからなびくだろう」
「四国遠征軍が崩壊したら婿の津田信澄がこちらにつくだろう」
「事実が知れたら毛利も上杉も長曽我部もこちらについて他の織田重臣を攻撃して足止めするだろう(毛利の場合は先に秀吉に知られましたが)」
「朝廷も足利義昭も本願寺もこちらについて動くだろう」

どうも「だろう」が全部そうならなかったように見えます。
どうでしょうか?

Aベストアンサー

光秀の反乱は多分に偶然の産物であったので根回しの余裕もなかったと考えられます。
彼の場合信長に対し含むところはありましたが、直接の引き金は、敵地への領地の国替えしかも当年の収穫も取り上げられ、京都という都会から因幡、伯耆という僻地への赴任、しかも羽柴秀吉の指揮下に入るという多くの屈辱に耐えかねての反乱でしたから。

質問に揚げられた種々の思惑は頭脳によぎったでしょうが、なにより頭に血が上った末のことですから前後のわきまえもなかったでしょう。
本能寺が焼け落ちた後呆然としていて、はかばかしい指揮も出来なかったといいます。

謀反の働きかけは天皇周辺、一説秀吉の陰謀説など色々考えられますが私は秀吉陰謀説を採ります。
彼の中国大返しはかなり周到な用意がないと出来ない筈ですから。

Qもし本能寺の変がなかったら戦国時代はどうなっていたでしょうか。

もし本能寺の変がなかったら戦国時代はどうなっていたでしょうか。
想像もつきません。

Aベストアンサー

 本能寺の変が無かったら…

 全国統一はして、戦国時代は終わらせたかもしれませんね。
 でもその後安定した政権が作れたかは疑問です。特に後継者が…

・信忠(嫡男)
 かつては暗愚な凡将との評価が有力でしたが、現在ではそれほど暗愚でもないとの評価になっているようです。
 ですが本能寺の変の際、脱出できる可能性がありながらも父と共に散る事を選んでしまったあたりが限界かも…
 
・信雄(次男)
 この人は・・・暗愚だったみたいですね。
 本能寺の変の後の立ち振る舞い…小牧長久手の戦いでの単独講和…移封命令に逆らって改易…関が原の時の立ち振る舞い…
 何と言うか気位が高い”だけ”の無能な二代目になるのがオチかも。

・信孝(三男)
 この人は信長の息子たちの中では一番容貌が父に似ていたと言われています。
 兄・信雄より器量に優れていたと言われてますが、暗愚な兄に比べて…ですからね…。
 本能寺の変の際、自らの兵をまとめることが出来なくて秀吉に『名目上の総大将』とされてしまうあたりが…

・信包(信長の弟)
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Q【日本史・織田信長の死際の行動の謎】織田信長は本能寺に滞在中に家臣の明智光秀が攻めて来たという一報を

【日本史・織田信長の死際の行動の謎】織田信長は本能寺に滞在中に家臣の明智光秀が攻めて来たという一報を受けて、自分が普段座る鎮座に影武者の家臣を置いてその影武者に短い手槍を渡した。

織田信長本人は奥の間に移動して、明智光秀が攻め込む前に自害することを決意してすぐに自害用に家臣を連れて奥の間に行き介錯(かいしゃく)=自ら切腹した織田信長の首を跳ねる役の家臣を同行させて奥の間で自害した。

明智光秀がまだ攻め込こんでいないのになぜ明智光秀が攻め込むという一報を聞いて、明智光秀が攻め込む前に奥の間で自害したのか。

自害する必要がどこにあった?

なぜ織田信長は明智光秀と戦うという選択ではなく、最初から自害の道を選んでいたのか不思議じゃないですか?

おかしな話ですよね。

何かひっかかりませんか?

Aベストアンサー

光秀が攻めるときは、理詰めの確実な方法を取るはず。信長が前に出て戦闘状態になったら光秀の注文通り。
信長自身がしばらく生死不明という状況にするのが、あの夜の最善手だったからでしょう。
 事実、秀吉が引き返して山崎の合戦になったとき、秀吉側は、信長は脱出に成功、自分は信長の指示で指揮を取るという噂を流して、精神的動揺を誘ってます。

Q本能寺の変と贄の関係

「贄」という字の使われ方について調べようとネットで検索していたところ、グーグルで「本能寺の変」と「贄」が、「関連検索ワード」として表示されました。
色々なサイトをまわって読んでみましたが、その2つが「関連検索」として表示されるほどのつながりは見つかりませんでした。

しかし、関連検索で表示されるからにはその組み合わせで多数の方が検索した、ということですよね?
いったい「贄」と「本能寺の変」とどんな関係があるのでしょうか?

Aベストアンサー

たぶん 質問するところが違うでしょう。

どうも、推測ですが、戦国無双というゲームで「贄」イベントが生じる。
http://sgm.s235.xrea.com/h-m-j-nobunaga.htm
ここの 本能寺の変がたぶん 難しい。
なので、攻略法を探すために 本能寺の変 贄 と検索するので、Googleが関連検索を表示する。

ってなところでは?

といういみで、ゲーム関連で質問すると即答だったかもしれない。

Q質問です。 明智光秀は岐阜の可児市にある明智城(長山城)で出生されたらしいですが、同じく岐阜の明智市

質問です。
明智光秀は岐阜の可児市にある明智城(長山城)で出生されたらしいですが、同じく岐阜の明智市の辺りに明知城という城址があるらしいです。地名も明智ですし、昔、岐阜は明智の先祖である土岐一族がおさめてた時代もあっ
たと聞きました。そういう事からそのお城も
明智光秀に何かゆかりがあるのでしょうか?

Aベストアンサー

>同じく岐阜の明智市の辺りに明知城という城址があるらしいです

岐阜県に「明智市」という市はないですよ、、、。
現在は恵那市に編入されている「明智町」では昔から明智光秀の誕生地と云われています。

Q歴史 if - 織田信長が本能寺の変を回避できたら

お世話になります。

織田信長さんが本能寺の変で明智光秀さんによって討ち取られたことは事実です。
(反論は、あくまでも小説的ミステリで、マユツバものとします)

しかし、当時の食生活から一日50g前後の塩分が摂取が報告されています。
(WIKIなどで確認してください)

現在では、塩分摂取量10g以下を厚労省は推進しています。これは、塩分摂取による生活習慣病を軽減するための勧告です。即ち、戦国~江戸時代初期までの人は、塩分取りすぎでによる健康被害は充分に推察可能です。早い話が、寿命は短いはずで平均寿命50としても、信長さんはまさに「寿命」です。即ち、本能寺の変がなくても、多少の遅れあるにしても寿命は尽きたものと考えます。

そこで、標記の質問です。信長さんは、本能寺の変がなければ、大志どおり日本を掌握できたでしょうか?

Aベストアンサー

私は大の信長ファンなので片寄った意見になると思いますが。

信長は高い確率で全国を統一していたと思います。信長は新しい事を積極的に取り入れたことで有名ですよね?そこから推察すると本能寺の変がなければ信長は医学さえも先進的に取り入れることができていたかもしれません。

Q本能寺の変。その後の本能寺と遺骨。

本能寺の焼け跡を誰がいつごろ片付けたのですか。
遺骨は埋葬されたのですか。
これらに関する記録や言い伝えはありますか。
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

諸説ありますが、本能寺で信長が討たれた後、明智光秀が捜索し、死体等は阿弥陀寺・清玉上人が供養したというところまでは概ね間違いがないようです。
ただし、供養した死体の中に信長の遺体があったかという点については不明です。

Q本能寺の変の黒幕は誰だと思いますか?

本能寺の変の黒幕は誰だと思いますか?

Aベストアンサー

信憑性のある見解としては,秀吉と家康でしょうね。しかしいずれにしても、当初の計画通りには進展しなかったことが、解り難くしてしまったのだと思われます。
実際、光秀単独犯行という史実には無理があります。犯行後の行動を見ても、また事前の根回しがまったく見られないことも、光秀の性格からは考えられません。
ただ、秀吉と組むはずはありませんから、秀吉が黒幕だとすると光秀ははめられたと解釈する以外にありません。井上慶雪氏の「秀吉の陰謀」には本能寺を襲ったのは秀吉の別働隊だとしています。ただこの場合、変後の光秀の行動が疑問です。自分が行ったことではないにもかかわらず、その結果を受け入れる行動をとってしまっているからです。
家康が黒幕だとする説は、明智憲三郎氏が「本能寺の変431年目の真実」で述べていますね。この場合家康は光秀との当初の約束を破ったのでしょう。あの場合光秀は本能寺の変後堺にいた家康をいの一番に攻めるべきでしたが、そんなそぶりは微塵もありませんでした。これは何らかの約定があったからと考えることが出来るのです。家康も伊賀越えで帰城した後、光秀に対して攻撃の兵を差し向ける手順があまりにももたもたしています。なので約束どおりには動かなかったのかと・・・。
誰が見ても常識では考えられない秀吉の大返しが、すべての計画を狂わせてしまったとしかいえません。もちろん秀吉が黒幕なら、これも彼の計画に一部でしょうが・・・。

信憑性のある見解としては,秀吉と家康でしょうね。しかしいずれにしても、当初の計画通りには進展しなかったことが、解り難くしてしまったのだと思われます。
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ただ、秀吉と組むはずはありませんから、秀吉が黒幕だとすると光秀ははめられたと解釈する以外にありません。井上慶雪氏の「秀吉の陰謀」には本能寺を襲ったのは秀吉の別働隊だとしています。た...続きを読む

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殺されていなかったら、外か内かはわからないが違う武将に殺されていたのではないでしょうか?


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