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豊臣政権末期で、徳川家康が「内府」と呼ばれています。どうして内府と呼ばれていたのでしょうか? 国内の政府の代表だからですか? 家康以前にこの様に呼ばれていた人はいたのでしょうか?

呼び方(読み方)も「ないふ」と「だいふ」とあるようですが、どちらが正しいのでしょうか?

「内府」があるならば、「外府」「小府?」等と呼ばれたりした人がいたのでしょうか?

宜しくお願いします。

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A 回答 (6件)

「内府」とは朝廷の官名「内大臣」の漢名です。


徳川家康は「内大臣」の命を受けていたので、「内府」と呼ばれました。
豊臣秀吉のことを「太閤」と呼ぶのも、
「太政大臣」の官名が「太閤」だから。
ということだったかと。
中納言のことを「黄門」と呼ぶとか。
(水戸黄門ですね)

尊称として呼ぶときに、中国由来の呼び方をしたと思われます。
たしか、総理大臣のことを「首相」とよぶのもそういう意味合いですね。

外大臣はいないから、外府と呼ばれた人は、いないと思います。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。
>中納言のことを「黄門」と呼ぶとか。
ウーム、そうゆう事だったのですか。知りませんでした。

お礼日時:2002/12/12 21:43

みなさんの回答に「屋上屋を重ねる」形になりますが...


目上の人に対し名前で呼ばないのは、「日本語の習慣」ですね。でも、それは昔に限ったことではありません。今でもそうです。

徳川家康へは、「家康殿」と呼びかけることはなくて「内府殿」となります。
織田信長へは、「信長殿」なんて呼ばなくて「右府殿」。
豊臣秀吉は、「秀吉殿」ではなく「太閤殿下」。

でも...
小泉純一郎総理大臣は、「純一郎さん」でも「純ちゃん」と呼ぶのは街のオバちゃんくらいで、あらたまった席で面と向かって呼びかける時は「小泉総理」や「首相」です。
扇千景国土交通大臣のことを、「千景さん」と呼びかけるマスコミはありませんね。大抵は、「扇大臣」か単に「大臣」です。
普通の会社でも自分の上司を「宗一郎さん」とか「耕一さん」とは呼ぶ人はいません。やはり「社長」や「部長」です。
..自分の親だってそうです。
自分の母親を「まなみ」とか「みさえ」と名前で呼ぶのは、くれよんしんちゃんぐらいなもので、普通は「母さん」とか「ママ」でしょう。

もし、当時の人が家康のことを「家康殿!」なんて呼んでいる現代のドラマを見たとしたら..きっとものすごい違和感を感じるでしょうねー。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。

>徳川家康へは、「家康殿」と呼びかけることはなくて「内府殿」となります。

信長が朝倉義景を攻めた時に、浅井長政が織田家との同盟関係を破棄して挟み撃ちのような状態になっていますね。大河ドラマなどでは、家康がしんがりを申し出た時に、秀吉など織田家の家臣たちが、「徳川殿は・・・」と言う様なセリフを言う事がありますが、あれは「三河殿は・・・」が正しいのですね。

お礼日時:2002/12/13 08:23

こんにちは。


概ね今まで書かれた方の回答でいいかと思うのですが。

昔の人たち、殊に官職を持っている人は名前で呼ぶよりも官職名(もしくは
姓+官職、名字+官職)で呼ぶ事が多かった様です。
有名なトコロでは「水戸黄門」「大岡越前守」「吉良上野介」などなど。

さて、「内府」ですが、これは律令制度に照らし合わせると「内大臣」です。
さらにまたこの官職名を中国風に呼ぶ事も多かったようで、「内大臣」を中国風に呼ぶと「内府」となります。

ですから、歴史上「内府」と呼ばれる人は「内大臣」に任ぜられた人の数だけいらっしやいます。
たまたまTV・小説などで家康が取り上げられる事が多く「内府」=「家康」のイメージがついてしまいました。
   (*注意:ですから鎌倉・室町時代を舞台とした小説に「内府」と
    出てきても家康と早合点されないように・・・)

さて、先にも「水戸黄門」等の例を挙げましたが、この「黄門」も官職名の中国風の読みです。
太閤=関白(但し、現職ではなく、前任の・・・という場合に用いられます。)
黄門=中納言(これも同じかな?・・・違ってたらごめんなさい)

他に幾つかの例を挙げますと
相国・大相国=太政大臣(平相国=清盛など)
内府=内大臣
右府=右大臣
亜相=大納言
宰相=参議
都督=太宰府帥

また読み方ですが「ないふ」で正解とは思いますが、実は「内府」に限らず
「正しい読み方」が解らないものも非常に多いです。
故に諸説ある読み方もあり、書物によって若干、フリガナが異なる場合があります。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。
>たまたまTV・小説などで家康が取り上げられる事が多く「内府」=「家康」のイメージがついてしまいました。(*注意:ですから鎌倉・室町時代を舞台とした小説に「内府」と出てきても家康と早合点されないように・・・)

まさにその通りでした。 多分このような事が自分には沢山あるのだと思います。

>また読み方ですが「ないふ」で正解とは思いますが、実は「内府」に限らず
「正しい読み方」が解らないものも非常に多いです。

納得です。

お礼日時:2002/12/12 21:57

以下の参考URLが参考になりますでしょうか?


「豊臣政権下の官位について」

ご参考まで。

参考URL:http://plaza2.mbn.or.jp/~nari/faq29.html
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。
URL大変よく判りました。官位はその政権によって違うものですね。

お礼日時:2002/12/12 21:51

辞書で内府を調べてください。

「内大臣の別称」とあるはずです。

このころは官位で相手を呼ぶことが多かったのでそう呼ばれているんでしょう。関白とか筑前の守とか。そういうのと同じです。

参考URL:http://www.sol.dti.ne.jp/~hiromi/kansei/o_kan_da …
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。
>関白とか筑前の守。
これはイメージが感覚的には判ります。

お礼日時:2002/12/12 21:47

家康は朝廷から「内大臣」の官位を受けていました。


その後の歴代将軍も内大臣に任ぜられているようです。
「内府」とは「内大臣」の通称みたいなものだと思います。
ちなみに、織田信長が「うふさま」と呼ばれているのを、テレビの時代劇で見たことがあります。信長は最高位が右大臣でしたから、「うふ」というのは「右府」つまり「右大臣」のことだと思います。
参考になりましたでしょうか?
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。
信長が「うふさま」ですか。初めて聞きました。なんか新鮮に聞こえます。

お礼日時:2002/12/12 21:39

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中学校1年生の子供からの質問なのですが、

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お恥ずかしながら的確に説明できません。
教科書には説明が載ってないし、「先生に聞いてみたら?」と言うと
「先生は授業が終わるとすぐに職員室に戻ってしまうし、あまり質問しやすい先生じゃないもん!o(;△;)o 」
とのこと・・・(´_`;)

どなたか教えていただけますか?
私も勉強したいです。よろしくお願いします。<(_ _;)>

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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%81%E5%A4%B7%E5%A4%A7%E5%B0%86%E8%BB%8D
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ただ、今の天皇陛下も政治的な実権はまったくなくて象徴として存在しているわけなので、それとちょっと似ているというような説明は、できるかもしれませんね。(今でも首相を任命するのは天皇と決まっています。ただし天皇が首相を選ぶことはできず、国会が選んだ人を形式的に任命するだけです)

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歴史に出てくる、例えば「筑前守」などは、律令制における公家官職で、地方官の長のことです。律令制の官職では、省庁には4等官というものが置かれ、「かみ・すけ・じょう・さかん」という4官があります。大体、この名前ですが、漢字は違った字を使います。

地方官の「国」を治める官職は、国司と呼ばれますが、この場合の四等官は、「守・介・掾・目」ということになります。江戸時代には、大名や大身旗本に対し与えられる称号として、正式に朝廷が任じました。大名・旗本のなかには、例えば、江戸初期に下馬将軍と呼ばれ権勢をふるった、酒井雅楽頭という人物がいますが、この場合、雅楽寮という官庁の長官(かみ)は、「頭(かみ)」と呼びます。忠臣蔵に出てくる、浅野内匠頭(あさの・たくみのかみ)も、国司ではなく、内匠寮の長官で、頭(かみ)という漢字を使います。

それはとまれ、律令制において、日本全国は朝廷の領土となり、朝廷は日本全国を、「国」という単位に分け、国を統治する官職として、国司の四等官を置いたのです。この場合、「守」とか「介」は、現在の県などの行政に当たる県知事などとは違い、「行政・司法・警察」など、権力を一手に掌握した官職でした。(更に、徴税なども監督しましたから、税務署長官も兼ねています)。

平安時代では、この官職は、現実の統治権力を持っており、受領階級と呼ばれる、中級貴族が、守や介を交互に任官し、彼らは、領国で、絶大な権力を持って、大金を賄賂や様様な方法で獲得しました。(国司の三等官や四等巻の目は、普通、地元の人間を任命しました。守や介は、京に済む中級貴族が任命され、任国に普通は赴きました)。

しかし、鎌倉幕府が起こると、頼朝は、名目を設けて全国の国に守護を置き、幕府任命の守護と、朝廷任命の国司の二重統治になりますが、次第に守護が実権を握り、国司は名目的なもの、名誉職になって行きます。しかし、「称号」としては、意味を持っていたのです。室町幕府も守護制度を置き、応仁の乱の後の混乱では、守護が独立勢力となって、守護大名となります。戦国時代のはじまりになります。

国司の官職名を、有力武士や大名が勝手に名乗ったりし始めます。例えば、織田信長は、「上総守」を自称します。しかし、東国三国、つまり、上総・常陸・上野の三国は、伝統的に親王が守になることになっており、臣下は、介になるのであり、実質的に、これらの三国では、次官の介が、守の役割を果たしたのです。

臣下であって親王などでない、信長が上総守を名乗るのは、信長がよほど無知であったか、または何か意図があったのかも知れませんが、とまれ、織田上総守などと名乗れば、「馬鹿か」ということになるのが、一応、当時の教養人の常識でした。上総介も上総守も、官職として存在したのです。ただ、上総守などは、一般の人間・臣下はなれないのです。三国は、皇族の親王のための領地だったのです。

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秀吉は信長逝去後、親しかった政治公家の京極菊亭大納言を通じて、正五位近衛少将の官職を朝廷から授かり、それに続いて、どんどん昇進し、関白太政大臣にまで昇ります。

戦国時代も末期になると、信長の例のように、朝廷の権威を利用して、官職を部下に朝廷を通じて与え、権力の正統化を行うようになります。家康の三河守や内大臣、また秀吉子飼いの武将の官職などは、すべて朝廷が授けた正式なものです。

家康は将軍となって江戸幕府を開き、源氏の氏の長者、武家の統領として、臣下に当たる大名や大身旗本に、それぞれ朝廷を通じて、官職を授け、大名も旗本も、基本的に、代代、その官職を継ぐことになります。例えば、土佐の山内家は、藩祖が対馬守で、代代、山内家の当主は、対馬守ということになります。

「守」というような官職は、一種の大名や大身旗本の「称号」となったもので、本来、律令制では、一国に、同時に複数の守などが任命されているのはおかしいのですが、山内対馬守の例のように、代代、称号を名乗る者がおり、対馬守は知りませんが、越前守とか伊豆守などは、複数の人がその称号を使っていました。

これらは、従五位(下)相当で、先に挙げた、雅楽頭や内匠頭なども、従五位(下)です。しかし、御三家と云われる、尾張、紀伊、水戸の三つの家は、当主は、尾張と紀伊が大納言、水戸が中納言で、大納言は普通、正三位、中納言は、従三位でしたから、これらは、官職だけでなく、朝廷での位も高かったのです。

江戸時代になると、武士などが、勝手に、公家官職を名乗ることは禁じられました。また、職人で、例えば、日光東照宮を建築したような、業績のある者には、官職を与えて、顕彰したというようなことがあります。
 

 
歴史に出てくる、例えば「筑前守」などは、律令制における公家官職で、地方官の長のことです。律令制の官職では、省庁には4等官というものが置かれ、「かみ・すけ・じょう・さかん」という4官があります。大体、この名前ですが、漢字は違った字を使います。

地方官の「国」を治める官職は、国司と呼ばれますが、この場合の四等官は、「守・介・掾・目」ということになります。江戸時代には、大名や大身旗本に対し与えられる称号として、正式に朝廷が任じました。大名・旗本のなかには、例えば、江戸初期...続きを読む

Q「輩(やから)」ってどういう意味ですか?

テレビやラジオで関西の芸人さんが「ヤカラや」って言ってるのを聞いたことがあるのですが

意味が分かる方、教えてください。

関西方面の言葉(大阪弁)なのでしょうか?

Aベストアンサー

大阪出身のものです.
疑問に思われたということは,一般に使われている「・・・する人たち」というような意味ではなく,いきなり一つの名詞のようにして「やから」が出てきたのではないですか?
もしそうなら,それは「やくざや不良など,理不尽な言い分を押し付ける人」という意味に使われているものです.特にやくざ限定というわけではなく,街のおっさんでも,変な因縁をつけてきたら,やからです.
また,「やかられる」(=因縁をつけられる,からまれる)などという言葉もあります.

Qリベラルとは?

・左派、革新、社会主義
・右派、保守
という分類ができると思うのですが、
リベラルや自由主義は、どう考えたらいいのでしょうか?
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

 政治思想は、下記のXY軸に表す事が出来ます。(リベラルを日本語に訳したのが「革新」あるいは左派です。)

 Y軸 Libertarian(自由・市場主義 = 小さな政府) - Statist(統制主義 = 大きな政府)
 X軸 Liberal(革新) - Conservative(保守)
 真中 Centrist(中間主義)

 各派の解説は下のURLの解説部分を参照してください。
   http://meinesache.seesaa.net/category/719933-1.html

 自由主義と言うとリバタリアンの範疇になりますが、アメリカの政治に例えると、レーガン大統領より前の共和党政策が旧保守主義(右派リバタリアン)で、それ以後を新保守主義(ネオコン)といい保守と名乗っていますが、実態は左派リバタリアン(左派が保守に転換し、現状を保守する為に革新的手法(戦争など過激な改革を許容する)を執ると言う主義)です。

 自由主義の反対となる統制主義も左派だと共産主義や社会主義、比べると右派に成るイギリスの「ゆりかごから墓場まで(高福祉政策)」などが有ります。

 簡単に言うと、積極的に変えようとするのが左派で、変わらないように規制するのが右派です。そして変える方向(変えない方向)が自由か統制かで分類できます。

 日本には明確に保守を謳う政党が無いので、イメージがわき難いのかも知れませんが…。
 (自民・民主党は中道で、共産党は左派統制主義ですから…。)

 政治思想は、下記のXY軸に表す事が出来ます。(リベラルを日本語に訳したのが「革新」あるいは左派です。)

 Y軸 Libertarian(自由・市場主義 = 小さな政府) - Statist(統制主義 = 大きな政府)
 X軸 Liberal(革新) - Conservative(保守)
 真中 Centrist(中間主義)

 各派の解説は下のURLの解説部分を参照してください。
   http://meinesache.seesaa.net/category/719933-1.html

 自由主義と言うとリバタリアンの範疇になりますが、アメリカの政治に例えると、レーガン大統領より前の共...続きを読む

Q少納言、中納言、大納言さんの仕事ってなんだったの?

よくわからないのですが、
少納言、中納言、大納言さんて
何をして暮らしていたのでしょう?

貴族だから、歌を作ったりして生活していたのですか?
具体的に貴族って人数も少なかったと聞きましたが、
詳しく教えて欲しいです。

Aベストアンサー

こんばんは。

まずは、太政官の官位の流れです。

左大臣⇒右大臣⇒内大臣⇒大納言⇒中納言⇒参議⇒左大弁⇒右大弁⇒少納言

大納言ですが、貴族だけが任命されるのではなく、氏族他も任命されています。人数は時期によって様々ですが、少ないときで2人。多いときで8人ほどいたとの記録が残っています。後鳥羽天皇の時代以降になると、6人で固められました。ただし、後年、大納言のほかに権大納言(例えば、豊臣秀吉などが任命された。)という職が出来、大納言がなかなか任命されなくなります。大納言は、上官である大臣と共に国政に務めます。その他、大臣の仕事の補佐にまわる事も多かったようです。時たま大臣が不在の時がありましたので、その際は国政の中心をなしました。

中納言は大納言につぐ官位で、大納言の仕事を補います。大臣や大納言と共に国政の会議に出席します。人数は変動(多いときは10人!)を経て、後鳥羽以降8人に定められます。水戸黄門さまで知られる光圀は中納言に該当しますね。

少納言は当初は、大納言につぐ官位でしたが、中途に中納言等の職が置かれ、国政での影響力は持たなくなります。3名がその職にあたります。(国政に影響力があったのは、基本的には参議以上でしょう。)詔勅・宣旨などの清書、叙位などの儀式・印の管理などなどを担当します。少納言に関しては、名前の響きやインパクトはありますが、そこまで重要な職とはいえないかもしれません。

歌を詠んだりした方も多いでしょうが、常にのんびり優雅に暮らしているわけではありませんでした。

ご参考になりましたら幸いです。

こんばんは。

まずは、太政官の官位の流れです。

左大臣⇒右大臣⇒内大臣⇒大納言⇒中納言⇒参議⇒左大弁⇒右大弁⇒少納言

大納言ですが、貴族だけが任命されるのではなく、氏族他も任命されています。人数は時期によって様々ですが、少ないときで2人。多いときで8人ほどいたとの記録が残っています。後鳥羽天皇の時代以降になると、6人で固められました。ただし、後年、大納言のほかに権大納言(例えば、豊臣秀吉などが任命された。)という職が出来、大納言がなかなか任命されなくなります。大納言は、上官であ...続きを読む

Q徳川家は八百万石なのに、どうして江戸の面積は狭いのでしょうか。

こんにちは。

私の手元に、「江戸(嘉永)時代大名紋章及び城郭図」という地図があり、それを見ていて疑問に思ったのですが・・・。
徳川家は八百万石という力を持っていたにも拘わらず、江戸と呼ばれる範囲はあまりにも小さいと気が付きました。
他の裕福な藩は(加賀など)広々とした領土なのに、どうして徳川家の領土(城下町?)はこんなに狭いのでしょうか。
江戸以外にも、直の領土があったのでしょうか。
それとも、広い城下町を持つ必要がなかったのでしょうか。

教えていただけたら、ありがたいです。

Aベストアンサー

徳川家は八百万石なのに、どうして江戸の面積は狭いのでしょうか。

日本全国の総石高が3000万石といわれている中、幕府直轄領の石高が400万石(13%)~450万石(15%)、旗本領が約400万石、合わせて800万石(27%)を上回り、全国の30%近くを占めます。面積について乱暴な言い方をすれば、同じ様な比率で直轄領及び旗本領を持っていたものと考えられます。ですから、全国の1/4近くの支配地を持っていたことになります(直轄領だけでいえば1/7程度)。
直轄領は、江戸時代には御料、御領、御料所などと呼ばれ、明治以降は天領と呼ばれますが、天領と呼ぶのが一般的です。全国に散在し、直轄地がなかったのは蝦夷地くらいのものでした。ただ、蝦夷地も、寛政11年1799に東蝦夷地を直轄領とし、文化4年1807には西蝦夷地も直轄領にします。この処置は、文政4年1821に東西共に松前氏に返却しています。
大きな直轄領としては、九州の日田地方、石見東部、愛媛東部、備中西部、播磨西部、但馬西部、大坂・堺・京都周辺、近江南部、大和南部、飛騨一国、中期以降の甲斐一国、三河・遠江・駿河・伊豆の過半、武蔵・安房・下総・上総の過半、常陸南部、会津西部、山形北部、秋田南部など全国に及んでいます。
一般に10万石以上の地域を支配する場合は郡代を、それ以下は代官を派遣して支配をしています。また、一部では譜代大名などに預けている場合もあります。
この他に全国の主要都市を、江戸・京都・大坂以外に、伊勢神宮門前町の山田、貿易港長崎、金山の佐渡、旧貿易港堺、他に奈良、伏見を直轄地として、遠国奉行を派遣しています(幕末には神奈川、下田、兵庫、新潟、函館などの開港地も直轄領化し、奉行を派遣)。
佐渡、伊豆、生野、大森などの主要鉱山も直轄地ですから、全国展開していました。

以上、参考までに。

徳川家は八百万石なのに、どうして江戸の面積は狭いのでしょうか。

日本全国の総石高が3000万石といわれている中、幕府直轄領の石高が400万石(13%)~450万石(15%)、旗本領が約400万石、合わせて800万石(27%)を上回り、全国の30%近くを占めます。面積について乱暴な言い方をすれば、同じ様な比率で直轄領及び旗本領を持っていたものと考えられます。ですから、全国の1/4近くの支配地を持っていたことになります(直轄領だけでいえば1/7程度)。
直轄領は、江戸時代に...続きを読む

Q『更迭』と『罷免』の意味

皆様、こんにちは。

最近何かとよく耳にする『更迭』と『罷免』ですが、意味が同じように思えてなりません。(他にも『解任』などもあったりして)

どちらも、『人を辞めさす』という意味で間違いないと思いますが。
gooの国語辞典で調べると、『罷免』は単に辞めさす事。
『更迭』は他の人に変える事とでてきます。
だとしたら、『更迭』の用法としては『○○を△△に更迭する』という形となると思うのですが、新聞やTVなどメディアでは『○○を更迭』と使っている気がします。
これは単にメディアがきちんとした使い方をしていないという事なのでしょうか?

なんだかうまくまとまりませんが、『更迭』と『罷免』について分かりやすい用法や明確な違いをご存知の方がいらっしゃれば是非教えて下さい。
よろしくお願い致します。

Aベストアンサー

罷免--免職と同じで、辞めさせる事. **を罷免する。はやくいえば首
解任---任を解く  課長の任、地位を解く。**さんを解任するはその人の任(地位)を解くで、**さんを辞めさせるという事ではない。結果的には首もあるでしょう.
更迭---人を変える。**を更迭する。--に***を更迭でもいいし、**を更迭するでも、どこへ行こうが更迭をされる事実がわかれば、いいのだから、**を更迭でもかまわいと思います.地位を下げられる人もあり.

Q本能寺の変 信長の「是非も無し・・・」とはどんな意味?

本能寺の変で、謀反が明智だと知らされた信長は
是非もなし
と言ったと伝えられていますよね。
これって、どういう意味でしょうか?
・しかたない
という意味なのでしょうか?

Aベストアンサー

 「是非もなし」でも「是非に及ばず」でも同じなのですが、日本語としては「良し悪しを論じても意味が無い(実力行使しかない)」という意味です。

 ちなみに、「直江状」でも家康の言いがかりに対して「是非に及ばず候」と言っていますね。「やるなら受けて立つ」と言っているわけです。

Q本日天気晴朗ナレドモ波高シ……は何故名文なのか?

東郷平八郎が丁字戦法を使ってバルチック艦隊を破った時、
秋山参謀という人が東京にこんな打電をしたそうです。

「敵艦見ユトノ警報ニ接シ 連合艦隊ハ直チニ出動 コレヲ撃滅セントス、
本日天気晴朗ナレドモ波高シ」

高木彬光先生の歴史小説の中で「名文中の名文」と謳われていましたが、
どうもしっくりきません。

だって、単なる指令と天候を伝える平叙文じゃないですか。
これだけシャープに必要なことをまとめた、ということが
賞賛されているのでしょうか?

教えてください。

Aベストアンサー

この電文はロシアの大艦隊を迎え撃つ前に打電されたものです。大国ロシアを相手に小国日本が寄せ集めの軍艦で海戦を挑む直前の決意を示したものです。

名文として後に有名になったのは
1.先ず海戦に勝ったこと。(負けたら名文も残らない)しかも世界が驚く一方的といってもいいくらいの勝利をおさめた。
2.これから出撃します。と短く報告すると同時に海の実戦経験者だけに分かる短い言葉で、これから起こる戦闘がどのようなものになるかをうまく伝えているからです。

つまり、兼ねて準備していた連合艦隊は予定どおり、故障艦も脱落艦もなく、直ちに出撃し敵を撃滅することを前文で伝えています。後半の天気の文章も海軍の現場の人にはいろいろな情報を伝えています。即ち、本日は天気に恵まれ海上の見通しは非常に良い。砲撃戦に理想の天気である。しかし、海上には高波が見られるので、魚雷艇などを使った細かな作戦を実行するには難がある。本日の戦いは砲撃で決着がつくだろう。

ようやく近代国家の仲間入りをしたばかりの日本の存亡を賭けた戦いを前にして、七、五調の短い電文でこれだけの情報を送れるのは名文でなければ出来ません。しかし、これが決意表明ではなく作戦の変更や指示を仰ぐ電文であれば、決して名文とはいえないでしょう。読む人によって理解が異なるような文章は戦時に使用すべきではないでしょう。やはり戦争に勝ったということと決意表明の電文だったからこそ後世まで語り継がれたのでしょう。

この電文はロシアの大艦隊を迎え撃つ前に打電されたものです。大国ロシアを相手に小国日本が寄せ集めの軍艦で海戦を挑む直前の決意を示したものです。

名文として後に有名になったのは
1.先ず海戦に勝ったこと。(負けたら名文も残らない)しかも世界が驚く一方的といってもいいくらいの勝利をおさめた。
2.これから出撃します。と短く報告すると同時に海の実戦経験者だけに分かる短い言葉で、これから起こる戦闘がどのようなものになるかをうまく伝えているからです。

つまり、兼ねて準備していた連...続きを読む


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