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「御油や赤坂吉田がなくば なんのよしみで江戸通い」という戯れ歌を知りました。それから思うに「夏の月 御油より出でて赤坂や」の句が解りません。なんの感興も感じさせない句に思えるのですが。17世紀に日本を訪れたドイツ人医師ケンペルの紀行記にも、それ以外の本にも御油と赤坂の紊乱した様子が書かれています。
2kmも離れていない遊興街なら熾烈な競争となったはずで、われわれには楽しい自由競争が繰り広げられたろう事は想像できます。
芭蕉を研究している方が沢山おいでのようなので、当時芭蕉は何人の女の相手をしたのか、料金はどのぐらいだったのか、
万万が一、登楼しなかったとしたら、無粋の極みとしてどの程度の嘲笑を受けたのかなど研究し尽くされているのでしょうか。
夏の空を眺めながら、教えていただきたくなりました。 良くテレビ等で、芭蕉はいついつ、どこそこの庄屋に家に泊まり、どのような献立の夕食を食べた等と紹介されます。
それよりはモチョット興味深い史実は、どこどこの茶屋で何人の女性と懇ろになったのかということの方だと感じての質問です。
味も素っ気も無い「夏の月」の句にその辺の事情が映っているのでしょうか?

A 回答 (2件)

ああ…取り間違えていましたね。

すみません。>ケンペル
ただ、
>登楼しなかったとしたら、無粋の極みとしてどの程度の嘲笑を受けたのか
遊郭遊びをしないこと、ではなく、「遊郭で粋人らしく遊べない」ことが嘲笑を受けたのです。(田舎侍が遊郭で田舎丸出しの態度をとって遊女にバカにされる、という場面はさまざまに描かれています)
つまり、遊郭に通わないことは粋でも無粋でもない人間だと言うことです。


まあ…私も書翰などで「大変な生活だな…」と芸術家の苦労にしみじみするのですが、芭蕉の句のおもしろみについては全く理解しがたく思ってるので、つまらないのは理解できますが。3年勉強しましたが、無理ですね。肌に合わない。
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松尾芭蕉の書翰を読まれたことがあるでしょうか。


風流に句を作り、旅などに出て好きに生きているような印象の強い芭蕉ですが、実際問題彼の家計はかなり逼迫して、門人という名のパトロンに実際へこへこしながら生きていたようです。生家からは成功したんだからと金を無心され、創作活動もはかばかしくなく…という状況が続いているときもあります。俳句の神様のように扱われる芭蕉ですが、実生活をひもとくとそれほど良い暮らしをしていたわけではなかったようですね。なので遊郭に遊びに行くと言っても言ったとすれば門人による接待ででしょう。おそらく、自発的には行っていません。

そんな彼がどこどこの茶屋で何人の女性と懇ろになった………石川啄木は女房たちに借金を負わせてまで自分はタクシーに乗って動き回っていた見栄のはりっぷりだったそうですが、それと芭蕉と、どちらが無粋でしょうか。
茶屋遊びが粋なのはお金持ちに限ったことです。むしろ金のない人間の遊郭遊びは身の程知らずとあざ笑われていたものです。金持ちの遊びですら、身を持ち崩してみじめになったことは西鶴などを読めばよく判るでしょう。

ところで、茶屋遊びに自由競争云々を持ち込むのは少々疑問です。全て幕府の管轄内のこと、非公認であろうとも、ほとんど公認と変わらない扱いでしたから。特に芭蕉の生きた時代は、ケンペルの観た江戸後期と違い、まだまだ幕府の目が行き届いている元禄期です。江戸時代は300年近くあったと言うことを思い出して下さい。

この回答への補足

確かケンペルは1690年から1692年までつまり元禄三年から元禄五年まで何度か長崎と江戸を往復しています。つまり「幕府の目が行き届いている元禄期」にその紊乱ぶりに眉を顰めています。
それにしても「夏の月」の句は面白くない句ですよね。若い頃の句であったとしても。

補足日時:2008/08/23 12:57
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