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私は数年、心の問題で悩みを抱え、いろんな精神科医を渡り歩いてきました。一般書から少しつっこんだ専門書なども、それなりに読んで勉強し、そのためもあり、治療法や治療方針の違いに混乱しつつあります。

例えば、様々な心の病の原因は幼児期の親の養育態度に原因がある、とか親の愛情不足、子どもの甘え不足が原因であるから、何歳になっても親がその子どもの甘えを満たすのが良い、という考え方が一つ。

原因や過去に立ち返って、イメージによって子ども時代の自分を、おとなになった自分が愛情をかけることによって、インナーチャイルドと呼ばれる心を癒すという考え方。とその方法。

また、それらとはまったく逆の考え方のように見える、過去は変えられない、親は変わらない、治すのは自分である、というもの。

例えば、明橋大二先生の著作などは、子どもの甘えを満たすことが治療であるという趣旨と私は解釈していますが、それでもその治療法が生かされるのは、子どもであって、20代のおとなに向けて書かれたものではない(おとなにも甘えが必要であると言っていますが、あくまで補足程度の記述に収まっています。)

なぜ、20くらいになれば、もう自分自身の問題となってしまうのか、私は疑問です。
年齢というものは、単なる月日の経過に過ぎず、内面の成長はなされないままということではないのですか?

いったい、どの先生の言うことが正しいのか、わからなくなってしまいます。

A 回答 (7件)

ciboneさん、始めまして。



>様々な心の病の原因は幼児期の親の養育態度に原因がある、とか親の愛情不足、子どもの甘え不足が原因であるから、何歳になっても親がその子どもの甘えを満たすのが良い、という考え方が一つ。
私もこの方法をとっています。
「中学生のオネショ」(私が書き込んだ直後に締め切られてしまいました。)
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4023605.html
「子供の頻尿」(悲しいかな、信じて頂けませんでした。)
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4110337.html

>なぜ、20くらいになれば、もう自分自身の問題となってしまうのか、私は疑問です。
仮に、そうだとしましょう。
では、あなたは、ご両親に対して素直に甘えることができますか?
あなたのご両親は、20才を超えたあなたに対して素直に甘えさせることができると思いますか?
あなたは理解することが出来ても、世代を超えたあなたのご両親には無理だと思うのです。
そのときの時代背景や知恵・知識が邪魔をするからです。

参考になると思います。
「サイボーグと呼ばれる私」(まだ、現在進行形ですが…。)
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4232444.html
まだまだ、書きたかったのですが、これがこの掲示板の限界だと思います。

>具体的な療法と、その療法が正しい、或いは有効であることの根拠を説明していただきたい、…
難しい問題ですね。
では、ciboneさんは、「心の存在」を信じますか?いかがでしょう。
唯心論を取るか、唯物論を取るかの選択になりますが。

心は可視不可能で科学的にも未解明であり、西洋医学的には「存在しないもの」と解釈されています。つまり、心は存在しないから心が問題視されないのです。そして、近年、心に変わる「脳」がクローズアップされ、「脳の機能障害」が病気の原因だとの説が有力視されるようになりました。

治療方法や、その基本原因は、常にシンプルだと理解しています。
一般的に、身体を動かすと、そこにはエネルギーが生じます。(これは、物理学の基本です。)
単なる紙切れにも、髪の毛一本にもエネルギーが存在します。
同時に、「言葉」にも「想い」にもエネルギーが存在します。

恋煩いという言葉があります。まさに、真剣な恋をすると心が痛みます。
これは、恋する気持ちにエネルギーが存在するから、身体に異変(心の緊張)が起きるのです。
感情にもエネルギーが存在する。つまり、肉体上に物理的な動きが生じます。
自律神経失調症、更年期障害、めまいや片頭痛、のどの痛みなども心の動きから生じます。

心の存在を認めていらっしゃる方のサイトです。
EFT-Japan
http://www.eft-japan.com/
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この回答へのお礼

回答、ありがとうございます。
>では、ciboneさんは、「心の存在」を信じますか?いかがでしょう。
はい、心はあると思います。

お礼日時:2008/08/28 22:50

禅思想が私を救ってくれるのでしょうか・・・


>>>と言うことなので又書きます、貴方が抱いている疑問は『誰が疑問を抱かせているかと言うことです。』貴方の中には『二つの考えが有ると言う事です。』

一つは貴方の自我意識です。もう一つの意識が『何か?』と言うことです。この事が分かった時に貴方は『全て今まで抱いてきた疑問が氷解します。」これが自分自身を知ると言うことになるからです。その事によって、貴方は新しい見方が出来るようになります。『全てを肯定出来る』認識を持つことと思います。

『禅』の中には『全ての精神疾患の『完全解決』と言うものが有ります。心の究極的な開放と言っても良いものです。精神疾患そのものが『もう一つの意識』が起こしているものだからです。今の貴方には信じられないかもしれません。何時か機会が在ったら思い出してみてください。
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この回答へのお礼

回答、ありがとうございます。
機会があれば、禅の思想に触れてみたいと思います。

お礼日時:2008/08/26 23:11

又の書き込みに成ります。

人間に二つの人格が有ると言う事を書きました、その補足に成りますが、自我意識に対立と矛盾を起こしている者は、自分の命の働きそのものの意識と書きました。

それは自分の『無意識』を司っています。余程のことでないと出会うことは難しいかも知れません。私の場合は「死にたくない」と言う悩み又「人生は何だろう、或は自分は何ものか」と言うことの疑問に相当悩ませられたものでした。余りにこの事を追求したために『神経症』中でも『離任症』と言うものになってしまって、随分と苦しんだことがありました。

14歳から考えさせられて、27歳で『ニッチモサッチモいかなくなって、』そのときにふと本屋で見た鈴木知準先生の所へ転がり込んで『入院森田療法』というものを2ヶ月間受けたことがありました。そこで『鈴木大拙博士』の著書と出会いました。大拙博士は25才で「見性」しています、そうして90何歳で亡くなるまで『禅』の研究をして本に残してくれています。

私はその両者のお蔭で32歳で『見性』というものを体験させていただきました。その体験で得たものを前回の投稿で書かせていただきました。精神疾患の症状を「18年間」苦しみ続けました。大変辛い思いをした者です。「見性」後は大変安楽に過ごさせて頂いています。

貴方の場合も『人生』に対する「疑問に」苦しんでおられる様子ですがその解決は『禅』の中に在ると思います。貴方の悩みは有限と永遠との矛盾かと思います。有限は分別脳の専門。永遠は『無分別脳』の専門ということから、貴方の場合は『貴方の計らいが尽きた』時点で全ての疑問に「終止符」が打たれて疑問の解消と言うことになるはずです。

時間が掛かるかもしれませんが粘ってみてください。上記の文献も参考になるかと思います。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
森田療法は知っています。身内が、入院森田療法を受けたことがあり、そのことから知るようになりました。
鈴木大拙先生は存じ上げておりませんが。。。

私の悩みは、深刻なものではありますが
そんなに大それたものではありません。
「死にたくない」という感覚も、わからなくはありませんが、そういうことで真剣に悩むことはあまりありません。
私は、病名ということで言えば、人格障害ということになるそうです。
(自己愛またはボーダーライン)
これは医学的に見ると神経症より重いものです。
そして、森田療法もおそらく、私の抱えているものには適さないかもしれません。というのも、或程度の成熟がないと、神経症にはならない、という医師の見解を聞きました。
私は神経症になるよりもっと未熟な段階のようです。
今、考えているのはおとなとは何か、こどもとは何か、成熟とは何か未熟とは何か。そのように考えるのは、私がいつまでたっても大人になるのを恐れる心性があるということです。
もっと現実的な問題もあります。
文面は、私には理解できない部分が多々ありました。
禅思想が私を救ってくれるのでしょうか・・・

お礼日時:2008/08/25 16:45

子供の甘えを満たすというのは、子供を育てたことのある母親なら、自然とわかることです。


マタニティモーツアルトのCDについてくる冊子を読むと、産婦人科医の言葉に、「私の人生で一番幸福なことは、八十になっても甘えたり、話したりすることのできる母のいることである」という文章が書かれています。私はある意味真理だと思いますよ。私にも四十半ばになっても、毎日、屈託なく電話で話せる母がいます。その存在がどんなに大きく癒されることか。明日も、地元の梨園に行って、秋の果実を実家の母に送ってあげようと、いそいそしています。
家族、とりわけ母の存在が、物凄く大きく、人生に影を落としていることは、間違いないと思います。
子供が自立していく、過程には、母親が手をかけ、愛情をかけていくと、ぽっと手が離れ、外に向かっていくそうです。同じく、幼い時期に突き放された子供は、なかなか外には向かわず、不安を絶えず抱えていく、いわゆる不都合が起きるのは自然です。それが、病気の原因ではありませんか。
しかし、母親の存在が、いつまでも生きているというわけにもいかず、いつかは、離れ離れになります。そのときのために、過去を振り切り、過去にとらわれないで生きていく、哲学はあると思います。
私自身、産婦人科医でしたが、過去に囚われると精神病になる、という言葉を聞いたことがあります。その先生の子育て観というのは、母親にできることは限られている、できることだけ子供のためにしてあげればいい、というさばさばした考え方でした。良い母親になろうとしなくてもいい、ともいっていました。
親との家族の歴史は、動かしがたい人生の礎ですが、そこを悪い思い出だとか、責めて行くと、病気になると思います。
あまり良い思い出でなかったら、忘れて、未来に向けて生きていくのも大切ではないでしょうか。
世の中の大人を見ていると、皆が優等生で、成熟した考えを持った大人ではなく、子供っぽい人も、未熟な人もいろいろいます。それは、母親の子育ての度合いによっても、段階が違うし、置いてかれている人もいます。その精神的な発達を進めていくためには、やはり、インナーチャイルドの考え方も大事だと思います。そうやって、自分を癒しながら、親のように甘えさせながら、次の段階にいけるわけで、それはそれでいいことではないでしょうか。
母との対話は、最初の産婦人科医の話のように、母がこと切れるまで続く一生の対話であり、それが西洋の聖母マリア思想にも通じると思います。母は永遠です。人類が続く限り、永遠なる母との対話は、続いていくと思います。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

子供が自立していく、過程には、母親が手をかけ、愛情をかけていくと、ぽっと手が離れ、外に向かっていくそうです。同じく、幼い時期に突き放された子供は、なかなか外には向かわず、不安を絶えず抱えていく、いわゆる不都合が起きるのは自然です。それが、病気の原因ではありませんか。
>私は、幼い頃に突き放されたのかどうかはわかりませんが、
外に向かわず、不安を抱えている、という状態です。おそらく、それが乳幼児期からの、私の欲求が満たされていないことが原因ではないと考え、原因であると考えるからこそ、過去に固着してしまうのです。
そして、過去に囚われると病気になる、というなら、私は病気でもあるし、過去に囚われているのもそうです。

それで、どうしたら良いか、ということを考えていました。
いえ、ずっと考えているのですが。
特に、過去の一点に囚われているつもりはありませんが・・・

心の病全般に、母親の存在が関わっており、根にあるという仮説は嘘ではなさそうです。関係のない場合もあるのかもしれませんが・・・

インナーチャイルドワーク、というのにも多少、疑問があります。
それで、そのワークやセッション、セラピーが無料なら、いくらでも試してみたいと思いますが、そうもいきません。
それらのセッションが有効かどうか、それを判断するためには、それを熟知することが必要だと思いました。
インナーチャイルド、という言葉は魅力的な響きがあります。
実際のワークでは、小さな子どもをイメージさせる、とありますが、私はそこに疑問を感じます。というのは、ワークでの「内なるこども」は幼い子どもで、現在の自分と別人格のものに対して働きかけているからです。
実は、インナーチャイルド(内なる子ども)は、今ここにいる自分なのです。つまり、子どもの頃の自分を想起するというのはおかしいような気がするのです。
というのは、本当にワークを受けたことのない段階で、私が考えたことです。
さまざまなワーク、セッション、セラピー、それらは、言葉によって、上手に飾られてしまいすぎているのではないか、という風に考えています。たとえば、不味いハンバーグであっても、そのパンフレットを作るとすれば、いかようにもうまそうに書くことができ、おいしそうな写真を撮って、貼り付けることができるのですから・・・

お礼日時:2008/08/24 21:59

余り今の精神科医やお釈迦の弟子達は教えてくれませんが、『精神疾患』の原因は人間の脳の構造に有ります。

それは左脳に在る人格(是は顕在意識です、自我意識です。)専門とする処の能力は『分別』することと言えます。問題を論理的に、分析的に解決できる能力と言えます。又『分別』できる事は「有限」『限りがある』と言うことに属しています。

この左脳の人格だけを認めていることが問題を難しくしている事を教えてくれません。是が『精神疾患』の治療を難しくしている原因と言うことも教えてくれません。

約20年くらい前に、アメリカのスペリー博士が、ノーベル賞を貰う事になった研究が有ります。テンカン治療の一環として、左右の脳を、つないでいる脳梁の切断が、あの当時行われていて、その分離脳の研究が、その対象になった訳ですが。

その研究で、判った事が有ります。只ここでは、一つの事だけを書いてみます。『右脳にも人格がある』それは、自我意識とは全く別な人格である。と言うことです。

話が長くなりそうですので簡単にしてみます。もし詳しく聞きたいことがあったら、その時は又回答します。

『精神疾患』の原因は「心の矛盾です」今の教育方法や育て方などによって、余りにも『左脳偏重の論理的な考え方』に陥ったと言うことが精神疾患の増加と比例しているはずです。

心の問題とは『心の矛盾』が解決しないと言うことです。それは『右脳の意識』是は『自我意識ではない本人を働かせている意識』と言えば少しは分かるかも知れません。是はお釈迦様が「仏性」と言ったものです。或はキリスト者なら「神」と呼んでいるものですが。是を云いますと『宗教的』になりますので、言い方を替えて『もう一つの意識』と言うことにします。

精神疾患の症状である、罪悪感、漠然とした不安、どこから来るか分からない違和感、等挙げ始めたら限がないほどあるかと思います。これ等は『もう一つの意識』からのメッセージと言えます。

そうして貴方が抱えている「深い悩み」と言うことも説明してみます。貴方が今まで学んできた中にはその悩みの解決法は見つからないかと思います。その答えは『貴方自身の中に在ると言えるからです』貴方が提示した問題は、結局あなた自身しか答えを提示できないと言えます。言い方を変えるなら『あなた自身に疑問を抱かせた者』が貴方自身の中にいると言うことです。

誰が貴方に疑問を抱かせたのか?それは貴方以外の人では在りません。貴方は自分で自分に疑問を投げかけています。その答えは貴方自身の中に有ります。ソクラテスが『汝自身を知れ』と言った訳はここに有ります。お釈迦が「悟りを開いた」と言う事は「自分の性を見た」と言う事です。

悩みと言っても精神疾患と云っても全てがこの事が原因と言えます。人間が自我意識だけで生きていると言う勘違いをして『もう一つの意識』を無視している事が原因です。

もう一つの意識は『全てを肯定的に考えています。又他の人達と繋がっています。見るもの聞くもの全てと一体と言えます』この事が分かるなら『二度と孤独感は無くなります、生死の問題でさえ頭を悩ませなくなります』

もう一度云います、『精神疾患、人生苦、深い悩み、深い苦しみ、孤独感、肯定的になれない』これ等は左脳の自我意識だけを認めていて『もう一つの意識』を無視した生き方と言えます。無視されたことで『自我意識が立ち往生している姿を見て』助けたいとの意思表示が『訳の分からない者からの圧迫感』と言えます。

頭の中が混乱してどうしようもない感じと言う事は、正に心の矛盾の最たるものかと思います。矛盾の有る人生を論理だけで割り切ってゆこうとする所に、今日のような悩みが出てきます。物事を論理だけで渡ってゆくことは、『禅問答』を左脳で解こうとすることと同じです。是は出来ない事です。何故ならば脳の機能が分別脳と言うことで、分別と言うことが『有限』と言うことしか解く能力がないと言うことを物語っています。有限と言うことと永遠と言うことの矛盾の解決にはどうしても『もう一つの意識』の力が必要になります。

自我意識ともう一つの意識との出会いは『精神疾患』の完治を意味しています。心の矛盾が解消するからです。お釈迦の教えは『究極の心の癒しの治療法』と言えます。『絶対の心の静寂』と言うものが何時も心を満たしてくれます。その事を2,500年も前から『お釈迦様は』云い続けています。『不安の解消は』精神科医の専門領域です。
『不安解消は』全ての宗教の専門領域です。もっと研究して普及してもらいたいと思う者です。
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この回答へのお礼

回答、ありがとうございます。
tumaritou1さんの文章の全てを把握できたかというと、半分も理解できていない、という程度なのですが、、私なりにまとめさせていただくと、、、
「精神疾患」は左脳の司るところの、分析的、論理的思考偏重によるものであり、右脳の司るところの人格である「もうひとつの意識」を無視することから起こる。
心の病や苦悩は、矛盾が解決しないことであり、それが解決されれば治る。それは、左脳と右脳の出会いということである。
釈迦の教えは、不安の解消になり、心の癒しの治療法である、、
といったところでしょうか・・・
私自身の例にあてはめてみると、やはり、矛盾(葛藤)が悩みの本質であると言っても良いと思います。
こうあるべきである(これは論理的、分析的思考というよりは、社会的文化的に要求される、その年齢における情緒面での発達)という像に、もうひとつの自分、本当の自分の情緒、思い、欲求がそれにそぐわないということです。
世間に数多ある療法・・・精神医学、心理学、または最近の精神世界と呼ばれる範囲にまで及ぶセラピー、セッション等が、その「あるべき自分」、つまり成長や成熟を促すことができるかどうか、それを検討していました。精神世界は、宗教ではないが、共通するものがありますね。
精神世界の領域にも、進んだ考え方があるように思われますし、宗教、仏教の方向に、私はわりあいと向かないところがありますが、前に漫画で「シッタカブッタ」という本を読んで、あれは仏教とは言っていませんでしたが、読んでずいぶん助けられたことがあります。
あの本は、私はかなり苦しみの深い状況のときに読むと、光明が差す感覚を覚え、なんでもないときには、それほどの感覚を覚えないので、不思議です。
私は仏教は哲学である、という認識があります。ですが、それが治療という言葉を使っていないからといって、治療にならないわけではないと思います。「シッタカブッタ」で言えば、偏見を取り払ったゼロの状態で、物事の真理を見極めるもの、という風に捉えられました。
私も仏教も少しかじってみるべきかもしれないと思いました。
例えば、本などで良いものはありますか?

お礼日時:2008/08/24 21:34

様々な治療法や考えがあるというのは、人間は様々な人々がいるということでしょうか。

Aという方法が有効であるからといって、Bという人に有効かというとそうではありません。人それぞれに、個性がありその生きてきた過程が違っています。それで、その対処方法が違ってくると思います。
精神分析で有名なフロイトやユングなどの伝記などでその人達の生きてきた過程を読んでみると、その人達が提唱している治療方法に彼らが生きて過程が大きく影響していると思います。10人の心理学者がいたならば、その10人の生きてきた過程が違うと思います。それで、その治療方法は10の方法になると思います。例として3つあげられていましたが、私は最初の2つは精神分析的な考え方、3つめは行動療法的な考え方と捉えました。

2つめの質問ですが、それは自我の問題があるからだと思います。幼児期は自我が未発達で、保護者などの庇護が必要です。しかし、思春期を過ぎてくると、自我が発達してきてその庇護が必要なくなります。それで、自分自身の問題になると思います。
「年齢というものは、……」ということにたいしてですが、エリクソンという心理学者は、発達課題という考えを提唱しています。その年齢に対して、それぞれにその課題を達成しなければならないものがあるとしています。その年齢において、その課題を達成できなければ次の年齢においてその課題も達成できないとしています。もし達成できなければどうするかということですが、前の発達段階に戻ってやり直しをしなければならないと思います。

質問文を読んでいていて、思い出した言葉があります。それは適時性ということです。あることをなすためには、ちょうど適した時期があるということです。母子の親子関係を構築するのは、第2次反抗期前までかなと思います。それを過ぎたらどうするかということですが、いくら愛情不足の解消ということで、20の男性が母親にべたべた抱きつくというのは、どうかなと思います。その時には、それと同じ効果を持つ別な方法を考えるべきかなと思います。
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この回答へのお礼

回答、ありがとうございます。
ひとつ断っておきたいのが、私のこの質問文の趣旨は「どうしていろんな療法があるの?」でなく「どの療法がほんとうなのか」ということになります。
具体的な療法と、その療法が正しい、或いは有効であることの根拠を説明していただきたい、というのがあります。
適時性、という言葉が、その応えのヒントになりました。
しかし、ユング、フロイトなどが、その療法を編み出した過程を知る、というのも、遠回りではあるかもしれませんが、それを知る手がかりになりそうです。
また、私に有効な療法は何かを知りたいというのがあります。
個性に合わせた様々な療法が存在するとしたら、医者や専門家はあなたにあったものを選びなさいと言うでしょう。ところが、実際は、自分の治療方針と違うものは、否定する傾向にある、というのが実感です。
それもそのはずで、例えば、肉体面の健康、栄養という問題に関して言えば、ある研究者は、牛乳はよくない、と言う。牛乳は、消化され難いもの(日本人に)という理由によります。が、ひところは、カルシウム補給に牛乳が賞賛されていた。これは、牛乳を飲め、飲むな、という間逆の方法です。それが、心理療法など心の問題にも言えるのです。
私はどちらかというと原因に立ち返る、エリクソンの言う低い段階の欲求を満たさなければ、次には進めないと考えるほうです。行動療法はどうも、表面的という気がしてならない。しかし、適時性という言葉も無視はできません。私はこの言葉は知りませんでしたけれど。
確かに、理論的には、愛情や甘えを満たすことで、次の段階へ進める、という理屈に納得するのですが、現実的に、幼児が甘えるように、母親に甘えたところで、真の幼児が甘えたこととまったく同様の心理的な充足が得られるかといえば、どうしても不自然さがぬぐえないものですね。参考になりました。

お礼日時:2008/08/24 17:27

私なりに感じることを書きます。

極端に言えば、現在自分だと思っているものも、もとをただせばすべて借りものであるということです。た追えば今使っている言葉だって昔誰かが使っているのをそのまま真似して手に入れたものです。いちいち覚えていられないのでいつの間にか自分がはじめから持っていたもののように思うほかないわけです。ただ借り物の寄せ集めがそれなりに一つの統一されたまとまりのあるものになっているのが普通の人の自分だと思います。成人してから、ほかの人の話を聞いた場合、自分の中に取り入れると調和を乱すような考え方に対しては拒絶反応が生じるのは当然のことです。もちろん人は一生変わっていくはずですが、成人になってもすべてを取り入れていたら成熟した自分がない証拠だと思います。つまり相手の話を聴く場合自分にとって都合がよいか悪いかを自分で考えて取捨選択をしないとまずいのではないかということです。長くなりますからこの辺で失礼いたします。今の自分を大切にすることがやはり唯一の方法ではないでしょうか。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
確かに、現在の私の思考、もちろん私以外のすべての人が、借り物の言葉、借り物の思想で成り立っている。
それが真実だと思います。
人間の人格が思想でできている、といったようなことをどこかの本で読んだことがあります。
心理療法その他の治療方法、治療論も、思想の一つととらえることができますね。
私は、どちらかといえば、行動療法的なものに反発を覚えるところがあります。ですが、今、受けている治療法は行動療法的なものではないかと思います。
思うに、精神科医の多くは、精神分析的な、過去に立ち返ってそれを根本的に癒すという方法よりは、過ぎてしまったことはそのままで、現在、さしかかる問題にどのように対処するか、或いは、考え方の誤りを正すか、といった方向性で考えられているのではないか、、そういう印象を受けます。
どちらかといえば、自分の考えに矛盾するものの治療法を受けているようなのです。
精神分析の考えに基づいた療法、例えば退行催眠などは、無意識にある感情の意識化とか、過去の痛み、感情の再体験をすることを薦めていますが、これらの方法を医者から進められたことはほとんどない。
だいたい、民間の支援機関で行われている。
心理職の世界などを、患者の立場ではなく、提供する立場から見れば、わかるようになるのか・・・といって、そのために、心理学部や精神医学を学べる学校に入るわけにもいきません。
何か、専門的な立場にある方などの、納得できるような説明が欲しいのですが・・・

お礼日時:2008/08/24 17:40

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