プロが教えるわが家の防犯対策術!

この領域を歩む人、または天才と呼ばれる人は芸術的な生き方をすべき、なのか。それとも芸術的な生き方がより芸術家を、天才を生む基盤になるのか、いずれなのでしょうか?

質問の意義をうまく解説できないので、回答をいただいてお礼や補足などでそれを説明していこうと思います。

A 回答 (21件中1~10件)

一方的な回答がつづく形となってしまっていますので、 いままで書いたことへの責任から言葉を尽くすという形にして、 一応、今回でまとめさせていただきます。

 一応です。    いつでもご要望があればつづけます。

イ、家族病理について、

家族は、一度、子供も親も自律する必要があるわけです。 さらには絶対個としての、人間と人間のリスペクトの関係を知った上で、こちらから人間として思いやりや励ましを与えてあげられるようになることで、家族という社会単位は 一つのまとまった「再生された揺るぎのない肉感的愛情の世界の自覚」の世界にまで成長するのではないでしょうか。  すくなくともflauさんは その正しい過程の内を歩まれているかとおもいます。

苦しいこともあるでしょうが、 女性としての落ち着きもあるflauさんこそ、其の問題にも解決の糸口をつけてゆける主体だとおもいます。 心の中でですが、応援しています。

ロ、歌について、

もともとの、ジャズは、アフロアメリカ人の明日をも知れないような過酷な奴隷状況の中から、ほとんどいじけてもいただろう心の中にも、むしろ明日を期待できないからこそ、 「今」の命がよく見えてきて、恋や友情やほんとうに自律した家族の愛情の世界が リズムとなってはじけたような明るい、健康な精神の世界でもあったはずです。

やがて、ロックのシャウトの世界から、其のエネルギーは、ジャズのスイングの世界にも入ってきて、 ジャズこそ狂気をも内に包みこむような真剣なシャウトの世界でもあるようなジャズ魂の世界も生まれていったのではないかと思います。

狂気といっても、 むしろ健康な精神がその裏にゆるぎないからこその、命をもかけるような叫び(シャウト)の世界です。  そのコピーが そちらの歌の世界でしょう。

これもflauさんの 女性としての落ち着いた魂が、そのすべてを包み込みますうに、  心の中でですが、期待し応援しております。

ハ、ドメスティック・バイオレンスについては、書いておく必要のあることがあります。

「彼」の暴力の中に、そのけがあるときには、 それは時には毅然とした態度で対応しつつも、 その身内的な暴力の部分からは逃げるしかないと言われている世界です。  避けることだけがその努力のあり方となってしまう世界です。    距離を置くという そちらの落ち着いた態度は正解であるわけです。     

でありつつ、 大きく包み込むようなそれこそ「大きな哲学」が必要だと思っています。   それができる友人は 落ち着いた大人の女性だけだろうなと 思うのですが。

一応 これだけ書いておきました。

二、 恋や男女関係は、書けば現代では複雑ですが、 基本として「セックスは もし深く感性豊かにその中に入って行けるならば、どこにもいやらしい世界は無い世界であり、 むしろ美や安らぎの究極の世界がそこに待っているすばらしい世界だ。  恥じらいの心が大切だと昔の日本に言われていたのは、そのすばらしさにたいする自己の未熟さの自覚としての恥じの文化がまだ日本にあった頃の、 肌文化の世界、と理解できたりする。」これだけ しっかりおさえておけば、 後はflauさんのような落ちついた女性ならば、  その世界を 強く泳いでゆけるのではないかと思っています。

尻切れトンボですが、 後はhulauさんなら、ご自分ですべて自己研鑽しつつ解決してゆけると思います。

これからこそ、お互い、よりタフに、生きていきましょう。

以上です。
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今回は、私の“他の方への回答”の紹介です。



「美は社会に強力な作用を起こしえるでしょうか?」という質問への回答です。

URL: http://okwave.jp/qa4418314.html

そのうちの、先ほど書きましたANO19に、 私自身の考える《「美」についての大きな視野からの見方》が書いてあります。

参考になればと思います。



この質問者様は、コメントで「醜悪美」という概念を提出されています。(ANO14のコメントでです。)

そちらの追求は その文脈の流れでゆくと、「狂気美」でしょうか?  
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今回はこちらの反省の世界にて。



ANO18からつづけますが、 最近私の回答の文章は読むのが大変な文章にもなっていたりします。

「わかりやすく、楽しく」ということを普段は気お付けているつもりなのに、紙数の限られた回答枠の中で、何かあせってしまっている感があります。

きょうは、まずそのへんの反省についてなのですが、 藝術と表現という世界にても 関わりの無いことではないですし、この私自身の反省点についても触れておきますね。



抽象的表現の世界は、雲の上から地上の物事を見つめた描写の世界に例えられます。  時には、それは文字通り雲がかかったような表現となりますが、 時には雲の晴れ間から見渡せる大きな展望からの「おおきな見通し」の世界の力強い表現の世界となります。

でも、いすれにせよ抽象的表現の世界は、それだけですと、あくまで具体的な生活の中での個々の問題を解くには 大きすぎる展望の世界なのです。 

結局 具体的な生活の場面にも必要な箇所に トンビが獲物を捕らえるように正確に降りてきてそれをも「おおきな見通し」とともに表現できるならば それが一番しっかりした総合的な問題解決の道にもなるのですが、

はてさて、わたしの最近の回答は、 そのへんのバランスが欠けていて、下手な人の今にもおっこちそうなゆとりのないパラグライダーからの展望みたいになってたのです。

ごめんなさい。  そのへんでも専門家失格でしょうね。



まず、前回の(ANO18の)回答に書きました。 常識についてのたとえ話の話が わかりにくい表現となっていたので、 そこから訂正します。

《「常識」とは大勢の人がおいしい魚を客観的にみんなが握って捕まえるための網に例えることができたりします。》と書きましたが、

そこまでは解りやすい例えだと思っています。

でもその後が いきなり抽象的言葉の積み重なりの世界となってしまってます。  自分自身は解ってる言葉によってその重層性のある豊かな表現をしてるつもりになっていても、 これでは他の人には通じないですし 読み取るのが大変です。

もう一度書き直しますね。

常識って 漁師さんの網を人間みんなで 必死に握ることで捕まえている生きるための魚を得ることのできる網に例えることが出来るわけですが、

ところが ここに「常識」に対して「真実」と言う言葉を対比させるなら、

人間にとって大きな視野からはもっと大切でもある「真実という宝」については、その常識の網の目が粗すぎてこぼれ落ちてしまうのにもかかわらず、  みんなが必死にそれを握っているため、つい気がつかないでそれらの宝石価値の世界を見落としてしまう。 

というふうにも 「真実」の世界を例えることができます。

あるいは、その真実は「藝術や芸術的な生き方」の世界です。まさに宝石であり、 おいしい魚をよりいっそうおいしくいただく心の世界の宝であり、まわりの海のさまざまな光の変化や 空との色合いの変化に生きていることを理屈を越えて楽しむ世界であり、 命を満喫するユトリの世界であり、 必死に常識に生きるだけでは見失いがちな世界です。

あるいは、その真実は「哲学や そのより明晰でわかりやすい表現」の世界です。 もしかしたら、その海には嵐がやってこようとしてるかもしれません。必死に常識の網にしがみついてるだけだと、それに気がつく巨視的見通しの世界は見えません。 あるいはただ懸命に魚を大量にとるだけに一生懸命なだけだと、漁獲量に対応する知恵を忘れてしまうかもしれません。  

常識だけにとらわれていると見えないことがいっぱいあるということです。

ここまでは、 わかりやすかったでしょうか?



上記の常識的な思索が見落としがちな二つの大事な世界の中で、 ここで問題視されてるのは「藝術」の世界のことであるわけです。

ここには、常識と真実との間に大きな壁があります。

またこの壁がさまざまに、時には深刻でさえある問題をも引き起こしていたりします。

(そのへんは、そちらには、べつにこれ以上説明するまでも無い世界でしょう。)

★では、その壁は どうしたら突き破れるのか?

ここに 哲学と藝術を両方追求しているflau様や私のような人間の役割とその責任の世界があるかと思います。


藝術の世界のほうも、そのままでは、私たちの文明の社会の中では、たいへん抽象的なままに、それがわかりにくいまま進んでいってしまっていたりします。 (私が言うのもなんですけど(^^)\。)

ジャズの世界も 天才の直感の世界のコピーコピーから入るのですよね。
その天才の直感の世界は いったいどのように確かな世界なのでしょう?

それは一般常識人の世界にいつごろ、どのように理解されるようになってきたのでしょう?

そのへんを哲学は どのように明晰に誰にもわかりやすく表現できているのか?

私の場合は、ジャズ音楽については特に知識が少なすぎます。  でもデキシーランドジャズですか、 その新鮮なリズム感の根拠ならばその原点のエネルギーの部分として人にも語れるものをもってます。

コルトルレーンでしたっけ、アフリカの音楽をアフロアメリカ人の心の奥の郷愁として表現したのでしょうけど、それもまた私には ある意味さまざまな観点から解りやすく論を展開できたりします。

すくない知識であっても その心の世界(技術以前のエネルギーの世界の哲学)に関しては 私の総合文化哲学から語れるものはすでに多いです。

flauさん、 私こそ このまま肉体労働者だけでありつづけてはいけない人間なのかもしれません。

物事はすべて それが総合化されると、個々の総和以上の力と創造性を宿すと言われていますが、 私自身が今その状態にあるのかもしれません。


私自身が もっと今こそ実践的に 常識を超えた世界に飛び出してゆくべきなのかもしれません。 

flauさん、 私こそ今「彼」にぶっとばされるべき状態なのかもしれないですね。

なにをまわりに気兼ねしてるんだ。なにを常識にとらわれてるんだ。 求道の過程ではしかたなかったかもしれないね。 そんなおとなしいやつではね。 でも、今はおとなしいもなのもないだろ。 いっちょどかんと爆発してやれ! そんなどやしが聞こえてきそうです。

常識的にはいろいろ問題ありの人なのでしょう。 でも真実の世界にては「彼」は多くの宝も持ち合わせている人なのだと思います。

哲学カテは、双方向的に 教え教わる質疑となりますね。 常識を超えてときには、こうして進んでゆくようです。

今回は こちらの反省の世界にて。
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一連性から、 とりあえずもう一回つづけます。



つづけてとなりますが、 自分の状況に関わる本でも読むみたいな感じで、ゆっくり読んでいっていだだければいいかと思います。



ここで話をもとにもどしましょう。  明るくはじけるのも時には必要ですが
バランスはやっぱり必要ですからね。

でもすく次に私の方から浮かんでくるのは、 やはり親の不条理というあたりの問題です。(「彼」の方がやはり深刻そうですが、まだよく解らないで何か書いても意味なさそうですので、「彼」のことは一度おいておきます。  一般論から書いてみます。)

前回の「あれ」のお話のような「荒れ」たお話、品行方正に欠けるようなお話は「もってのほか」となってしまうような生真面目さが 親から仕込まれた「超自我」の世界なのでしょうか?

常識のお話も、ここで書いてしまいますが、

「常識」とは大勢の人がおいしい魚を客観的にみんなが握って捕まえるための網に例えることができたりします。

そうすると、保守性の傾向はあっても、かなり価値的な概念が「常識」ということになります。

しかし、これを守る仕組みは、そのことの理解から生まれているとは必ずしも言えません。  昔私たちがまだ森とともに暮らしていたような時代においてはみんなの常識というものは、単純にその価値を持っていたものでしょう。

ですから逆に言えば、そんな時代にては、その常識の網の目を潜り抜けてしまうような繊細な心の宝物とかは、みんながかえって理解もでき常識とともに大切に出来たりもしたところ(厳密に言えば そうとも言えないのですが ここは簡単に考えてください。)

やがて世の中が複雑になり 言葉が発達するにしたがい、「常識」を守るという形にて、無理な道徳の押し付けが行われるようにもなった歴史があります。  道徳自体も複雑化もしていたりします。

そこに偽善という問題も出てきています。 真心の裏にウソが混じったりしてきたのです。 それごと無理やりの押し付けるのが道徳の常にもなったりしてきました。   それなのになのです。

親という責任に対してまじめな人は、ここで「常識を守る」という意識が強くなるのです。 大勢の人にとって価値のあること、意義のある大切なことそれを得るために大勢の人が守ってること、それを守れないやつは 人間として評価できないんだぞ。 という強制です。

「常識」自体が ウソでもまみれてるのにです。

実際には こんな簡単な状況ではないかもしれないですが、大体は解るかと思います。



上の記述したことから言えることは、一つには「彼」のような人にしても本来ならば“「常識」も大切にする人なのだ”ということです。 その上で“常識では捕らえられない何かを感じたらそれも誰よりも大切にしようと努力する人だ”ということです。

でも、ここで肝心なのは、親という存在です。 親がその子供の社会性(社会価値)を認めない時に子供への影響力の大きさです。 文明の中ではそれは世間体とも結びついた強力で頑固な親の心の世界ともなってますからよけい始末が悪いところです。

子供の中には、深い劣等感が芽生えるだけじゃないです。 能力すら時にはそれによって規定されることもあります。 これは反発しない場合には下手すると命取りになる場合もあったりします。 

次に書くのはそのへんの極端な例ですので、ふつうは想像もつかない世界でしょうが、 今のflauさんや「彼」の状況を生きてるかたなら解るかもしれないと思い書いてみます。

アメリカという善悪両極端が 驚くような形でみられたりする国での出来事です。 家族病理の典型的臨床例としても語られている話です。

あるとても頑丈な体のフットボールプレーヤーでもあった青年が 親の過保護に対して、その裏にいつまでもかわいい子であって欲しいという裏心を察知するところからそれは始まりました。  とても優しい青年の彼はそれを知ってからは、だんだんと病弱になっていきました。

とうとう心配した両親によって精神科医の下につれてこられるのですが、との臨床にたけた精神科医はすぐさま、これは親元を離さないとこのまま衰弱して死んでしまうと気がつき、彼を無理やり両親の下から引き離し、遠い療養所にあずけます。

もちろん、徐々に彼の健康は取り戻されてくるのですが、あるとき、親が精神科医に内緒でその病院に手紙を出していたのを 病院側でかくしていたにもかかわらす発見してしまうことで、

彼は とうとう帰らぬ人となってしまったいう ウソみたいな臨床例、どう思いますか?



海外では、神の下の人間の平等というところから親と子と言えども、人格は別に尊敬されるべき存在という常識もあったりしますが、 逆にそのへんが空想的でつかめない人は、かえって免疫が無いというか、 極端に子供を子ども扱いしたりもします。

日本の場合、村社会の影響とかもあります。 が、まだおだやかなところもあるのです。

簡単には 親離れ子離れの問題としても語られているとことですが、その極端な例の世界は 人の心身を破壊するような作用までしてしまうところがあるということです。



が、「希望」は、 あります。  この問題自体の中にあると私は思っているのです。

すこし間を 空けますが 続けます。  いつでもコメントください。
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ANO16は、詰め込みすぎですね(^^)。



flauさんの書かれた内容からのテーマ群ですが、 いっぺんにたくさん書きすぎました。

うまくまとまらないからの質問なのでしょうから、これではかえって頭が混乱してしまうかもしれないですね。

「頭で考えすぎない」という課題もあるんですよね。

かといって、総合的な学問には期待したい、という心の葛藤があると想定して

ならば、そのへんから書き始めてしまいますね。



「ホ、子供の健全さと幼児性の間」と書いたテーマでもあるのですが、テーマはどうでもいいです。

私は 人間全体の成長課題として、キリストの言う「子供のような人が天国にはいる。」という命題を考え続けてきました。

子供は、たしかに新鮮な心を持っています。 都会ですとすぐ大人の文明の世界にさらされるので一見表面はもう濁ってるようにも思える時もあります。その都会の子供の問題はここではともかく、 素朴な国の子供達の感性の新鮮さにはすばらしいものがあります。   

でも 彼らには免疫が無いとも言えます。  子供は弱くてその新鮮さも周りの影響によってはすぐ曇らされてもしまいます。

素朴な国の人達こそ、すぐに文明病にもかかりやすかったりもします。

もし、新鮮な心のままならば、たとえば権力欲のおぼれるはずもないところ一度それにおぼれた素朴な人達は  まるで人情を何もかも忘れたような残忍性を示す時もあります。  「彼」の暴力とかは 一見ドメスティックバイオレンスそのものでもありながら、 心は人情を忘れてなどいないのです。 恒常的な暴力ではなく あくまで衝動的暴力であるはずです。

哲学とか心理学が 同時に深い人生の哲学としてすでにまとまった論理をさまざまに展開しているものであるのならば、その哲学や心理学こそ、「頭で考えすぎない」でも 子供のように新鮮な心を私たちにとりもどさせてくれるものとなっているはずでしょう。

おそらく、人間的であろうとして その観点からあらゆる文化を謙虚に学習しつづけ考え続けた人ならば、 そのような人こそ、やがて、もう崩れることの無い「素朴な子供達のような新鮮な心」に回帰していることでしょう。

〇〇〇

後者の学問や哲学を自身に身につけないかぎり、flauさんも難しい概念や言葉にふりまわされて、かえって頭で考えすぎる結果になり終わってしまう、 というところは無いでしょうか?

〇〇〇



ところで 「あれ」の話ですが、 「あれ」はネットではお見せするのは困難です。 わたしは特にネット音痴な年寄りですからね。  

ですので一番興味があるかもしれないですが、その話は無しです。

ある旅館に ある人たちの旅行に参加して泊まった時のことですが、 その旅館の近くに クリスタルガラスの展示場があり、それを見にいったことがあります。

私は子供の頃、田舎にもいたことがあり、記憶の中では庭に落ちていたただのガラスのビンの欠片(かけら)を 何時間も なんてきれいなんだとながめていたことがあります。  太陽の光に微妙に変化するその光の世界にすっかりとりこになっていたんです。

一方 最初はその展示場のガラスはたしかに ただの壊れたビンの破片なんかよりもはるかに色合いも形も美しいものであったでしょうが、 何もも感じたりしなかったところ、 その内に私は ただの破片でさへあんなに感動したことがあったことを思い出したのです。

するとすこしづつすこしづつ、 周りの違って見えてきました。

光の芸術として 今はやりかけてるのが万華鏡の世界です。 この世界については親戚の人にその専門家のような女性がいますので、私もすこしは知っています。

でもその最先端の世界にしても、もしそこに《感じる側の心》の方の新鮮さを失われていたら それは意味が無いというか それなりの楽しみの段階でとまってしまう世界でしょう。

両方が大切なんです。 技術も心も。 そのシンフォニー、その共鳴、そのシンクロが、スイングが必要なんです。

と その展示場をすっかり すがすがしい気持ちで後にした私は、とある大きなバーがあったので、好きなお酒を飲みたくなり立ち寄りました。

大きな舞台のある客席には、接客の女性達とお客さんでごった返していました。 100人以上もいたかと思います。

わたしの席には 日本の女性とフィリピンの女性がすわりました。 

いつしか話がはずんでくるうちに、私は昔新宿の歌舞伎町に住んでいましたので、水商売の人を乗せるのがうまいのでしょう。 すっかり上気したフィリピンの女の子が服を脱ぎ始め、 とうとうパンツまで脱いでしまったのです。

しかたなしに、わたしも背広を脱ぎ 最後はパンツも脱いですっぽんぽんになりました。 

するとその女の子は 私の手を引き舞台に駆け上がったのです。

全員が おしゃべりを止め、こちらを見つめ 大騒ぎとなりました。 おおおお、ブラボー♪ 拍手の渦が起こったのです。

なんて粋な人たちなんだと 思いましたが これはもしかしたら私の「あれ」のオーラだったのかもしれません。   そのオーラがそこにあれだけのシンクロを呼び寄せたのでしょう。

中には舞台にかけあがって握手した人もいたりしました。 あの握手は手と手でするものであり、「あれ」とするものではないのに(--):。

ああああああああ  書かないつもりだったのに、

つい、か  書いてしまいました。  

flauさんが いけないんですよ(笑)。 要求なんてするから♪



この破天荒ぶりには、 きらわれてしまったかもしれませんね。
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現在の私の状況であるワーキングプアー状況は、84歳の母と暮らしてるためということもありますが、肉体労働で生きてきた者ですので まだまだ働かないとならぬ身ということでもあるのです。

 

そういう61歳ということは、正直かなりきつい状態です(^^)。

PCも会社のを使わせていただいてますし、これが実はメールが機能しなくなったままで パソコン音痴のこの世代の者には直せないところ、 これがまた、 いちいちこちらから検索してみないと「Q&A」状況を把握できないという始末、 等々の理由で 回答が遅れがちとなっています。



最初の質問の短さに較べて大変な問題であったことが浮かび上がっていますね(^^)。    

ほんとうは はたして専門家なのかどうかもよく解っていない人間で、本はあまり読まないで生きてきてしまった者ですが、 最初に書きましたように、この問題には一言で言えば命を懸けて生きてきたようなものですので、最後まで「結果までへの責任」とともに書く意志を持ちたいことになんら変わりはありません。

そちらも そこまで書かれたことで、それを(最後までうやむやにしないことを)覚悟していただけるとうれしいところです。

私情がある程度は すでに公にもなっていますが、さらにもう少しは多くのことを公にしてしまうことになるかとも思います。 OKウェブにはアンサリストという非公開の「Q&A」システムもあり、藝術と関わる問題とかにはその資格を取りたい気持ちもあるのですが、なにしろ時間がなくてそれはまだ無理と思ってるのです。 

が、哲学カテは質問する人が多いせいで、どんどん後ろのページになっていますので、 そのぶん、真剣な問題意識を持ってる人とか同じ悩みを持ってる人とか以外の人にはあまり目に触れなくなってもゆくでしょう。

それならば、ほんとうに個人的なことはどうせここに必要とは思われませんし、むしろすべてを包み隠さず、ここによい結果を求める論議を展開してゆく覚悟と強い意志を持って欲しいと思ったのです。

私の方は その覚悟で この回答をつづけています。

よろしいでしょうか?



先生と生徒の間とは、先にそれを理解した生徒(生きる道の徒)とまだそれを理解はしていない生徒(生きる道の徒)との、がゆえの「教え・教わる」間であり、  理解してしまえば同等の理解となる間であり、生きる道自体は どこまでも(強くなるべく)先へと続いている。

基礎教育を超えた地点での教育は特にその面をもっともっとしっかり把握して行うべきである。

それがさらに哲学の道であるならば、 そこにはお互いが先の徒ともなり後の徒ともなる そういう相互的なものとなるのが理想。

心理学、哲学、その他の学問の総合を意味する人生の学問としての火花をそこに求めるような論議であるならば、  その火花は、お互いが心の目を見開いての刃をよく見つめ相手の動きの(文の)ほんの揺らぎも見逃さないかのような真剣勝負の火花であるべきである。

急ぎ書いた上記に文にて、その覚悟をここに求める者なのです。

もちろん、ユーモアのゆとりも忘れないようにしながらですが(^^)。



まず、こちらから、いくつか 最初の論議のテーマをしぼります。

イ 家族病理とは。  ロ、歌の本質とは。 ハ、ドメスティックバイオレンス。 二、心理学で恋愛を扱えないのは本当に理由はそれだけか?

ホ、子供の健全さと幼児性との間。 へ、不運の問題と生物としての弱さ。
ト、一般常識と深い常識(良識のことではない)。 チ、絶対個と人間関係。
リ、オリジン。ヌ、理想の教育。 ル、「彼」の最大の長所とは。 ヲ、二律背反と人間の大きさ。 ワ、欲欲見つめてみれば(^^)、いいものだ。(道徳を越える力。) カ、存在(神あるいは「謎」)と人間の小ささ。

ひっくるめたテーマを「自己への回帰」としてみませんか。  個々のテーマの順は そちらで選んだり、またその場その場の論議とかで自由に変えてゆきましょう。  別な新たなテーマの方が核心をつくかもしれないですしね。



最後に、質問です。(補足要求質問)

★まずは、今 急ぎ書き上げたイロハ…のうち、どれに興味がありますか?

★「職人」と「藝術家」の違いをどのように考えられていますか?

★「超自我」という言葉は 心理学用語ですか? 私は今では考える力はあると思っていますが、無学なものでよく解りません。  自我を抑えてしまう何かなのですか?

★同じく「自己愛性人格障害」についての定義のようなものをご存知でしたら教えてください。 私はこの言葉自体からこれを病理としてではなくよりおおく哲学の問題として捉えているわけなのですが、 心理学での定義とかはまだ知りません。

★同じく「共依存」とは? 「同一視してしまうような感じでの依存」といった意味合いのものですか?

★同じく「回避性」とは? 最初、常識や自信を失わせるものからの逃避、つまりわがままとかを先に通してそうしたものは後回しにしてしまうことだと思っていましたが、 それだと「水と油」のあたりの対比がうまく通じません(^^)。 人を避ける(けむたがる)と依存’(愛されたい)の対比でしょうか?


いっぱい書いてすみません。 今 何か いやに物事に真剣になってしまっています。  もしさしつかえなければ おつきあいください。 でなければ、哲学熱病患者のことは 放っておきま笑。
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すみません。

 どうしても中途半端に思えますのでいくつか補足させていただきます。

私は精神疾患自体が 藝術の直接の因になるとは思っていません。  

哲学カテでの質問は、あくまで本気で質問しているのであっても、 その質問自体が長い体験や 感銘をうけた知識や、考えの繰り返しの上に生まれる場合もあり、 質問者自体の方が質問してる立場なのによく知ってたり考えられていたりする場合もあったりします。  ですが、哲学カテというのは 車で言えばよい走り(人生行路の)のための車軸のような大事な部分だけに、それがしっかりかみ合い回転するためには そのへんユトリ(歯車のゆとり)も必要なのですよね。    

おそらく「孤独~自己への回帰」というい本はほんとうにすばらしいのでしょう。  私の考えは そのへんはその本の内容とこそすりあわせなければ 止揚された真の回答とはならないことと考えます。

だだ、 苦しいことやそこからの幻想とか 精神的な欠陥からも多くの哲学の深みを生むこともできますし、 それゆえに真の健康や 大自然を愛するような感性を誰よりも大好きになる道も開けたりもしますし、 孤独ということのうちに、他の人へのリスペクト(尊敬)の意味やその心の幅を豊かに気づいたりもしてゆくことも多々あるとも思ってます。



上記の考えは 卓上での考えではなくて 子供の頃いじめでとうとう恐怖症が高じ、 実際に二度ばかりですが、気が狂ってしまったとう体験のある人間からのものです。  それ自体は苦しくなくても その状態の記憶はむしろ鮮明なので、その前後はよけい 子供ならなおさらですが、苦しい体験の世界でした。   そのへんを どうしても私の場合 簡単に表現してしまいたくないのです。  できればアンソニーでしたかその人の本を読みたいですが、 今現在、私はかなりのワーキングプアー状態を生きてますので 月に一冊の本を買うのもなかなか大変なんです。  

質問自体の中に答えがあるとよく言われますが だれにとってもそうなのではないでしょう。 しかし frauさんならば、答えは自らも見つけてゆける地点にあるかと思います。

ですので、このへんの思索は、 ここではあとはそちらのおまかせします。



もうひとつ、言いたいのは、ルックスについてです。  女性の場合のその世界についてです。

多くの人がそのへんを卒業できていないと 私は思います。 自分が そのへんを一応卒業できたと思えたのは59歳ぐらいですから、そんな自分が言うことなんてあてにならないとも思いますが それだけ簡単に思えるこの問題は無視できない問題でもあるという印象をわたしはですが、持ってしまっています。

かなり特徴的は強烈な恋の体験が2つありますが、 2つとも 考えてみればいわゆる美人ではありませんでした。 しかし、美的な魅力も拡大されて見えたことはあります。  ルックスの一部の長所がです。  であっても恋は そんなことを確かに越えています。   淡い恋しか知らなかったときには想像もつかなかった世界です。

が それはなんら自分の力で勝ち取った安定した心とか見方見え方の世界ではなく、あくまで陥って知った世界です。

その以外の人たちは あいかわらずブスはブスでしたし、美人は美人でした。

そのゆえ、これはいったいどうゆうことなんだろうと、 普通ならあまり考えないで通り過ぎそうな そのへんについても私の場合簡単にはとおりすぎることが出来なかったのです。

そのことで悩んでいる女性の心の奥に触れることとなってしまった体験もありますしね。

でも 簡単に言える範囲での回答とかもあります。

美人は 大勢の人にとってその魅力の何もかもがわかりやすい顔立ち体形というのがあるために、 大勢の人を巻きこんで存在している問題なのだというのがその回答の一つです。

心が純粋ならば 美人であれば多くの人にその魅力まで解り易いのです。

つまり、ここでははっきり言ってしまいますが、二重に得なのです。

逆に 心が薄っぺらかったら、努力とかをしないぶん、化けの皮がはがれた時はよけいに飽きられてしまうということとかもありますが、 通常であれば 美人の方が まさに二重に得なのです。  そこにお化粧とか美容とかが価値ありとされてしまう世界が広がっているわけです。

しかし、歌の世界は、また本当のダンスの世界もそのはずなのですが、心の魅力を誰もが表にはじけさせる場ともなります。

無心に打ち込めば そこに答えがいつか出てくる世界ですね。

歌の場合は、特に弱さ自体も想いの強さとなりうねりとなりパワーとなりえる世界、 女性のかわいらしさも 歌の中ではそのまま力強く表現できます。   これは人間は弱くていいというのではないです。

人間自体が 木の葉のように弱い生物でもあるのです。 さまざまな弱さを持ってるはずの存在です。 いこじになりすぎると、勝ちにこだわりすぎるとかえって見えなくなり、 ほんとうの強さへの道も見失います。

その自覚が 女性なら女性のかわいらしさの魅力になりますし、その上で努力もしている姿は全部こんとは女性らしい健気さの魅力として 人の胸に伝わります。    歌という表現ジャンルの特権ですね。

まわりは、たぶん、ビジネス的なユトリの無さからそのことに気がついていないだけだと思います。  一般にはあくまでルックスもあったほうが心の中の美でさへ 多くの人にとって解り易いのですから ついそのへんに気がつかないのです。

おもしろいじゃないですか。 貴女は 別にけんか腰になる必要もなくただ落ち着いて無心に打ち込むことで、 堂々とそんな周りの鼻をあかしてやるだけでいいのです。

ポーカルの世界は、建前だけが実力の世界ではなく、 本音の部分でも純粋な学習者がいつか白鳥となれる世界だと思います。  それこそタフでこそありつづけてください。

ただ、別に美容の努力もごく普通に大切にしていい世界だとも思います。それも表現のたしなみという人たちに、それこそ表面上普通にあわせてればいいのだと思います。  でも心の奥の奥では「いまにみてろ」とか思ってれば(^^)いいんで、 で   でででで笑。

実際には、私たち文明病の渦中にいる人間達には、簡単にはいかない問題でもあるかと思います。 

私の場合はですが、  東洋医学の原点の仁の世界から生まれた気脈を知ることで最終的にどんな異性の魅力も恋人と同じぐらい つまりそれ以前に感じていた最高の美女の魅力以上に感動できる美として見えるようにもなりました。   そういう世界を実際に発見してます。  あれのコントロール力も含めてですが、今が一番充実してるんです。 人間のあれはそういうものです。 そのコントロール力がゆえに、もう別に生涯セックス(あれ、 書いてしまいましたが^^)をする必要性も感じませんけどね。    

隠す必要は無いですね(^^)。  恋であれなんであれ、深く感じ感動できるセックスには いやらしさとかは一切無い世界です。

ならば自然に戻ろう♪ この歌こそ ロックやジャズの究極のメッセージだと思う♪ ♪♪。(かくれた天才シンガーより^^)

と自分で言っております(笑)。

この回答への補足

>私は精神疾患自体が 藝術の直接の因になるとは思っていません。 

確かにそうかもしれません。精神疾患が負の要因だとすれば、正の要因でそうなった仮定や定義と出会ってないだけかもしれません。またそれは私が無意識にそうした方向を選んでいたのかもしれませんね。 

>子供の頃いじめでとうとう恐怖症が高じ

これは私の半生を作ってきた大きな要素ですので人事ではありません。そうですか、そういう状態になった方もいらっしゃるんですね。

>美人は ・・・ 大勢の人を巻きこんで存在している問題なのだというのがその回答の一つです。

いやぁ、顔にコンプレックスをもつ私にとって励ましになりました。またまた「彼」の話でスミマセンが(たまたま顔の話になったので)この人もブスだなんだと言われてきた私に「一般的な美人には入らないが俺は美人だと思う」と言ってくれた数少ない人の一人でしたね。

>落ち着いて無心に打ち込むことで、 堂々とそんな周りの鼻をあかしてやるだけでいいのです。

これは・・・かっこいいですね!そういうスタイルでいってみますね。

>それこそタフでこそありつづけてください

ありがとうございます。強くなることには限りが無いと思ってます。

> 東洋医学の原点の仁の世界

これはとても興味深いですね。

>人間のあれはそういうものです
なんですか「あれ」って。気になる~!私も見たい!(笑)

補足日時:2008/10/19 23:04
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「境界例」について ネットで調べていましたら、 アダルトチルドレンと比較された形で おおよそ次のような資料が見つかりました。



アダルトチルドレンは、 1、境界性パーソナル障害、2、依存症人格障害
3、自己愛性人格障害 4、回避性人格障害 いう4つの場合の特性を持った障害があるようで、その混ざり具合とかは記されてはいませんでした。

しかし、もう一つの「境界例」の方は 、
1、見捨てられた不安、2、理想化とこき下ろしに特徴づけられる不安定な対人関係 3、同一性の障害 4、衝撃性、 5、自殺企図 6、感情不安定、7、感性的は空虚感、 8、怒りの制御の困難、9、一過性の妄想様観念/解離

とあり、そのうちに5項目があてはまると「境界例」という「病気」という診断がなされるとのこと、 そして問題なのは 其の全体特性がアダルトチルドレンの1である「境界性パーソナリティ障害」という言葉で共通な形となってしまってる点です。

一方アダルトチルドレンの方は 心理学では病気とは見なされていないとのこと、 そうすると病気とはみなされていない概念のうちの一つの場合が「境界例」という病気であるということにもなり矛盾してることになります。

そこを其の文では、一応は「境界例」には、二種類あるという形で解決してるような書き方となっていますが、 これは、おそらく 薬で解決しやすい、また其の臨床例を検討しやすいところを 「境界例」とした歴史的臨床的な経過から 生まれた区分けだからだと思うところです。

わたしの考えでは アダルトチルドレンの性格の中の2,3.4は、まず哲学的な理解度の問題でもあるかと思います。 深く理解すれば解決してしまう問題です。 1の、問題の「境界性パーソナリティ障害」ですが、それは確かに体の問題も大きいかと思います。

また 確かにそれだからといってやはり、哲学的な理解の深さも大いに関係してる世界だとも思います。

そのかぎり長い間の 心理学の積み重ねとか臨床性、統計性、科学性とかいったものの区分け自体には、なるほどというその根拠ならあるのだと思ってもいます。

でも すこし狭さもある専門性の世界ですね。 閉じこもってしまっている専門性であり、 ほんとうは、もっと広い世界でこそ総合的に考えてこそ いろいろな場面でさらに有効に使える科学的知識なのに… と思えてしまう世界ですね。

薬が有効ならば さまざまな健康法や 体操やスポーツとか あるいは呼吸法や歌で 一気に解決して治ってしまう例だってたくさんあるだろうところ、そうした例は彼らが大学でおそわってはいないという感じで、大学を出ればもう「先生」と呼ばれる人生が待っているというあたりの狭さです。

あるいは それぞれの項目の中身の哲学的な考察については 別になんら学んでいないのに 先に応用の世界に入ってしまったという感じの世界がそこにあるのではないでしょうか?



さらに言えば 芸術家の生活からは、おそらくそちらが言われるような違和感があって当然の狭さがあっても当然そうだと言えてしまいそうです(^^)。

これらの項目は 全部 文明病として哲学されるべき問題でもあるかと思ってます。

そうしてこそ真に解決してゆく問題であり、私たちがまだ森の中で生活していた頃にはおそらくほとんど存在しなかっった心の問題だと思います。

藝術によって そのへんが回復されてゆけば 治ってしまうはずでもある問題です。

其の過程に生きておられる存在とも言える藝術家の方々にとっては、それらの統計性からの見解にはよりいっそうの現実とのズレを感じて当然かと思います。



「彼」については、もし暴力という攻撃性にも問題があるということであるならば、 それはアダルトチルドレンで問題とされている学問的見解からは 其の裏にかくされたトラウマとかは解らないと思います。

もし、そういうことで、「彼」のような魅力的で精力的な人間とのつきあいが難しいのであれば、 真の因を共有してあげられるような「友」の存在が彼の力となるかもしれません。

アダルトチルドレンにて問題視されてるような アルコール依存症だからといって 両親とかの肉親のアルコール依存症が彼の バイオレンス的な(まだそうとは私は解っていないわけですが)行動の因となっているとは限りません。   

彼の酒の飲み方は、むしろ普通なら醒めている強靭なものと思います。 でも、それが暴力とつながるのであるのならばですが、 それはむしろ彼の方が本当は両親から 道徳的な品格とかの抑圧を受けていて、それだけならまだよかったところ、其の両親とか肉親の誰かに何か強烈な矛盾を見てしまい、それが心の奥に生涯にもわたるトラウマを生み出してしまってる可能性があります。 その反発から自由や純粋性を誰よりも求めているとう感も受けますしね。

むしろfrauさんご自身のご両親からの不条理の中身のほうが、想像できないでいますが、  いずれにせよ単なるアルコール依存症とかと関わるような問題ではない気がします。  もし そちらも ついお酒で怒りっぽくなるとかでしたら、 そちらもその気の抑圧を受けているのかもしれませんね。

恋愛とかセックスだけが 男女関係の中から得られる力じゃないです。 友としての関係だって 異性の方が深くあることが出来る場合だってあります。  そこまで「彼」のことを気遣っていられるのならば、何か力なれたら最高なのにな。 とも かってに思ってしまいました。

これこそ よけいなことだったかもしれませんが。



frauさんも「彼」も   タフであり続けてほしいです。  いつか多くのことを総合的に考えることができるようになれば、多くのことを解決しているでしょう。  そのためには、一つのことに打ち込むことも悪いことではないでしょう。 私が50歳までただ「踊り心」のことしか考えていなかった自分を馬鹿と思っていた人間だったのに 考えてみれば広い海にまでたどり着いていたのと同じようにです。 

ジャズ一筋の道が やがて、あらゆる表現の世界の海のように広い広い世界にまでたどりつくこともあるでしょう。

この情報化社会は、多元性(どこからでも 真実の宝探しが出来る)時代といわれています。 いよいよ、ジャズのようにそれ自体がさまざまなこれからの音楽と関わるような世界は、すばらしいものでありえると思います。  がんばってください。

ただ、あらゆることからそれを学ぶ心の広さは忘れないでください。



歌も、がんばってください。 ♪ ♪ ♪。

この回答への補足

再度のご回答ありがとうございます。

>恋愛とかセックスだけが 男女関係の中から得られる力じゃないです。

まさにそうです。「彼」と同じ問題を互いに投影して、同一視したあげく、お互いを傷つけあって別れました。まさに「あなたなしではいられない、でもあなたとは生きられない」と思える人でした。
私は自分の問題や親や人間のことを知りたくて心理学や哲学を学んできたのですが、彼はそういう客観性からも逃げているんですね。カウンセリングなどを勧めることは(実際勧めましたが)野暮といえるでしょうし、本などはお釈迦様の本くらいしか読んだことのない彼が、私が興味あるこのようなテーマと結果論について書かれていることを体現しているわけです。

彼は一見自己愛性人格障害だと思いますが客観性も持ち合わせているので完全な病気ではないでしょう。DMSでの診断基準は社会への適応性ですから。
又回避性も含まれているのと思います。私自身共依存症者なので、回避性とは水と油、しかしお互い出会った時から一瞬で惹かれあう存在でした。この場合「出会う」というのは言葉上の世界です。つまりそれまで相性の悪い相手と冷静に感じてはいても、「愛している」という一言で「スイッチ」が入ってしまうということです(共依存は特に)。

心理学で恋愛というカテゴリがないのは恋愛というのは自分のルーツである家族関係の反映なので、あえて作る必要はないそうです。また恋愛も時代や文化によって変わるので統一性が無いためだそうです。後者については比較文化論みたいにすれば面白いのにと思いますが、前者については納得です。となると私も相手にも共通するのは、親に逆らってきたことなのですが、この部分においては、よくぞ正気を保ってきたと断言できます。しかし実際「毒になる親」に洗脳されてきたことは現在の私達の心の病気で知ることができます。「二つのもの」への葛藤や自己矛盾、愛し愛され方が分からないという、ドロドロした混沌を、しかも彼は(私も深酒を飲むと)それを隠しませんから、むき出しの自分を見せてそれでも付いて来いというのですから、そういうところは呆れるほど認知能力を欠いています。

とにかくあらゆる二律背反の矛盾、両者へのゆらぎをそのまま体現している人です。自他との世界、相手や自分の気持ちや言動、境界の線引きが分からないのはお酒を飲むと顕著なります。エリートの厳格な父親以外、親戚連中は教育水準も低い家系であるそうです。また過保護の母親に父親と全く相関するように甘やかされてきたそうなのですが、

>両親から 道徳的な品格とかの抑圧を受けていて、・・・其の両親とか肉親の誰かに何か強烈な矛盾を見てしまい、

それが原因なのだと推測しています。またアルコールに関しても家系的に皆酒好きというのでこれは遺伝でしょう。弱いくせに限りなく飲むんですね。

まぁ2人とも極度に抑圧されてるんですよ。私は真面目すぎる、つまり超自我が強すぎると思うんですが、社会的、秩序的なものは当然必要ですが、自分を苛むための必要以上の部分は明らかに病です。


>「彼」については、もし暴力という攻撃性にも問題があるということであるならば、

ずっと不良でいた彼は暴力とは縁が切れません。もう40代ですが、酒を飲むと人にからみ、見知らぬ人に難癖をつけケンカをします。私も二度ほど髪をひっぱられたことがあります。

また友人が必要とありますが、恋人や彼の知人や友人が手をさしのばしたり、温かく見守っても彼自身がそういう相手ほど甘えるんです。私もそういう相手だと思われたのでしょう。

だから

>そこまで「彼」のことを気遣っていられるのならば、何か力なれたら最高なのにな。 とも かってに思ってしまいました。

そこまで甘いものではありません。力になろうと近づくと皆、ターゲットにされるんです。だから離婚も2回、恋愛遍歴も多数ですが「振られた」と嘆くのなら、その原因である自分をなぜ直そうとすればいいだけなのに、また同時にめちゃくちゃモテるので、自分がいかに恵まれているか、憧憬されているかが分かればそんな悩みなど相殺されてしまうはずなのに(笑)と思います。

補足日時:2008/10/19 22:57
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この回答へのお礼

>全部 文明病として哲学されるべき問題でもあるかと思ってます。

私も全ての学問の領域はお互い近接、または融合すべきであると思っているので、中でも心理学などは哲学と同義語と言っても過言ではないと思ってます。でも学問の表現の違いなのでしょうか。

確かに心理学、哲学的な方面で狂気は創造性の基盤とありますが、しかしだからと言って自分もそうした萌芽を持つという傲慢さや怠慢さ、そして芸術家の端くれという武器でもって勝手気ままにやるのは許されることではありません。彼のようなタイプがその道を貫くのでしたら、私はむしろ職人になってほしいと思います。

お礼日時:2008/10/19 23:04

またまた、お邪魔虫が登場します。

 あくまでお邪魔でしたら無視してください(^^)。

でも、超人でも神でもない凡人の私には この前の私の回答がかえってそちらの考えをかを混乱させてしまっただけかもしれない、し そうでなく単に虫してるだけなのか(^^) 解るはずが無いので、    時間がたっていろいろそのへん心配になってしまったというわけです。

ともかく 別な観点からの回答を書いて見ることにしました。

「天才と努力」については、どう考えられていますか? という別な設門での回答です。


まず、私自身の大学時代の子ども会サークルでの ある例を書いてみます。

なんとその4日前になって 私は4日後に僻地の子供達の前であるパントマイムを一人でやることになってしまったのですが、   その地の合宿地にはその晩には到着し、さっそく三日前から私のその練習が始まりました。

かわいそうに、パントマイム劇なんてやったことの無い私は、練習が始まると早速みんなの批判の餌食となったのですが、 たしかに自分でもへたできごちないだけであることが解るし、どう動いたらいいのかさっぱり解らなかったので、  しかたなくみんなの意見をとりいれつつ、なんとか動いてみるのですが、やはりうまくいきません。

でも そのとき、私の中には何か知れない底意地のようなものが沸いてきたのです。  なにくそ そんなによってたかって批判の餌食にするなら今に見てろという、理屈ではよく解らない意地でした。

もちろん私は 食事時間以外は、批判にさらされつつも、その練習をやめませんでした。  

そしてです。なんとそれから三日間は 私は一睡もしなかったのです。

夜みんなが眠った頃あいを見計らって それから朝方まで地下にあった共同トイレで ずっと単純なそのパントマイム劇を練習しつづけたのです。

しかし、やはり次の日もだめでした。 批判の餌食も変わらなければ自分でもこれはだめだと思いました。  

とうとう 最後の日の朝がたです。

私はそのトイレに朝の光が当たるころ、 つかみかけていた何かがほんとうにつかめた感触を得たのです。  そうか これだ  この動きなら確かだ!

早速 その日の最後のリハーサルの時が来ました。

今までにもまして 最後の仕上げのチェックをともかくもしようとみんなが待ち構えてるのがわかりました。 おもしろいぼどにです。

私が動き始めたとたん、なんと 全員が駆け寄ってきたのです。 これにはおどろきましたが、もちろんいつものように動きを直すためなのです。

おもしろいといえばおもしろいのですが、 これ、ほんとうにみんながぶつかるんじゃないかというぐらいの勢いでなんです。

ところが、とつぜん、ほんのすこし手前で一人を除きみんなの動きが止まりました。 一斉にです。  一人はぶつかって言おうとしてたことを一言言ってからですが、やはり黙りこくってしまいました。

みんなが 私の動きに魅入られていました。

もちろんその日の午後の本番も、成功したようです。 子供達がひきつけられてたよ とうことでしたからね。


でもfrauさん、私は その後、町の演劇サークルに入りましたが 同じ努力をしてもなんと「せりふ」は私には言えませんでした。

どうしてもみんなのようにうまく出来なかったのです。 

私はその演劇サークルでは効果音担当者としてのみ参加することなった人間でもあるのです。  天才の逆さまの鈍才というやつでしょうね。

それはそれで楽しいことはたくさんありましたけどね。 コップに水を入れて風の音を楽器のように吹いて出すのですが、それをテープにとって編集して舞台で使うというのもありました。  こいつでは、大失敗していたりします。  ドアが開いた時に風を音を舞台の袖で流すのですが、私はふと その逆をやってしまったのです。 ドアが閉まった時に風の音を強め開いた時に小さくするという顛末をです。  幸いお客さんに聞くと気がつかなかったとのこと 喜んでいいのやら    ううむ(^^)。

でもflauさん、私は その後、その演劇サークルをやめてから何年もしてからですが、 あるふとした簡単なコツを捕まえたら「せりふ」がみんなと同じように言えるようになりましたよ。

プロ級の人が何人かいた演劇サークルで市では賞ももらったりもしてましたが、その人たちとほぼ同程度には、そのコツをつかまえただけで 出来るようになってしまったのです。   

ん・?   私は天才なのだろうか?  何年もかかったのはわたしだけですから そのへんはやはり鈍才ですが、 鈍才の勝利でもあったところです。

さて、実は私には自信のある表現ジャンルがありました。 それは踊りの世界です。 当意即妙、ジャズのセッションののりで即興で「表現舞踊」を踊れてしまうという特技です。   他の人はまずたくさんの動きを憶えてからその組み合わせの練習をしてるうちにやっと即興も出来るようになったりするのですが、 私のようには自然にはなかなかできません。 どこかぎこちないのです。   さて、私はその道には天才なのでしょうか?
しかし、それには それの原因が 私の人生にはありました。 演劇におけるコツは実は「表象」という概念とかかわるものなのですが、それがなかなか本当には理解しがたいと同じように 簡単ではないですが、やはり理由とか原因とかコツの世界はあるのです。  そしてそれを超えれば みな同じです。

感性の問題はあるといえばあります。 でも これも たとえば、私がすっかり心身疲れて、物事になんの感動も感覚も無くなって灰色のような状態だった時に、たまたま川原で何時間も、 疲れてドテーーと寝転がってた時のこと、やがてせせらぎの音とかが私の心を安らげてくれるのを感じ始めたのですが、   それから やっと、青空や白い雲の流れが意識の中にああ向けになってる自分の中に それも心を癒してくれるものとして感じ初めたのですが、

おそらく、そんな時にすら、長い時間くつろいだ形で大自然に触れているだけで私がすこし変われたのなら、やはりそこにも因果があり、やがては誰にも感性が豊かになる可能性ならあるということになると思います。

そちらの、最初の質問自体への、このあたりからの回答は、 

1この領域を歩む人、または天才と呼ばれる人は芸術的な生き方をすべき、なのか。

2、それとも芸術的な生き方がより芸術家を、天才を生む基盤になるのか、

のいずれかということなら、 その両方ということになるかと思います。

もともとからうまくコツを捕まえたり そういう素質の一般の人より早くうまく出来てしまう人もいるでしょうけど、 そういう人もさらにその道の努力はしてみるべきですし、 その領域を歩む人は 鈍才だからと言ってあきらめずに、その道の努力を 生き方も含めて探求すべきだと思います。

たぶん、ほんとうは、天才と努力の間も問題は難しい問題でもあるでしょう。 しかし、 諦めないことタフでありつづけようとすることは、この道の一つの解答となる回答であるかもしれません。

センスを求め求めつつ、 努力も無駄も何も無心にすべし。私の体験からはそんな答えが歌えそうです♪

この回答への補足

こんにちは。またまたお礼が遅れて申し訳ないです。
長くなってしまいましたので補足とお礼とにかけてお返事します。

>あくまでお邪魔でしたら無視してください(^^)。

何をおっしゃいますか!投稿しっぱなしで、忙しいを理由に放置していた質問者の非礼をお詫びします。

まず前回のご質問者様の補足要求を補足させてください。
私事ですが、私は心に病を抱えています。境界例という人格障害です。専門家でもお手上げという不治の病らしいのですが、面白いことに臨床心理士のところではそういう見立て、しかし精神科にかかると「正常の範囲」なのだそうです。
この病、情熱と芸術の国フランスではあえて治さないそうです。才能の萌芽を育てるためにだそうです(笑)。私自身もこの話を聞くまでもなく彼らに違和感を感じましたのであえて治療しないということを選択しました。もちろん私は天才ではないですし、才能を育てるという前に、私らしさというものを守るためです。もちろんその代償として、これまでと変わりなく生き辛さを抱えていくというのは覚悟しています。
でもそれまでまったくなかった自信というものを私は音楽を通して自然に身につけてこれました。音楽は私にとって、私に変わるもうひとつの魂そのものといっても過言ではありません。

実はかくいう私も、この夏、初めてのライブというものをしました。それまで世間から身を隠すように生きてきた私が、不特定多数の人々の前でフロントという最も目立つ役割(つまりボーカルですね)を担いまして、自分的には大失敗。ヘタだのなんだのさんざ叩かれました。身内の気楽なライブなので来年も出してくれるとのこと。しかも比較されるように経験と技術では圧倒的に差があるボーカリストと対バンなのでした。
確かに今でも悔しい。夢にすらでてきます。もう何ヶ月もたってやっと立ち直ってきましたが、根っからの負けず嫌いな性格なのでしょうか、辞めたいというよりもやり直したいという気持ちの方が強くて、ならば今度は何も言わせないように、ちゃんとボイトレもして、自信もつけて、この1年で成長したと思わせてやろうと発奮している次第です。
面白いことに、こういう失敗があって、そこから自分らしさを出すこと、表現の難しさ、人を惹きつける難しさ、プレッシャーに負けないための強さなどが分かりました。またそれまで自分がいかに抑圧されてきたか、ということも分かりました。

このトピの質問のモデルというか、元になった人というのは、このライブの企画者なんです。地元ではその圧倒的な存在感や、行動力、狂気すれすれで生きている彼の生やアルコール依存症などなど有名になるにはエピソードや要素をたくさん持っている人なのですが、このライブというのは彼の依頼だったんですね。プライベートでも彼にこちらが安定剤を飲むくらい振り回されましたしトラウマとなっていますが、やっぱり気になるんですね。今はお互い距離を置いている状態ですが。
でも私が抑圧されているということを感じた指摘したのは彼が初めてでした。自由奔放に生きていいね、と言われますが、それはイメージであって、親の不条理な育て方に翻弄されまして、超自我にコチコチに拘束されてたんですね。音楽を通してそれが分かったんです。表現するって物凄く厳しいんです。彼だけではなく、先輩方から「頭で考えすぎるな」と言われていました。そういう言葉で解放され、新しい自分というより、隠されていた自分が見つけられたとき、そこになりたかった自分というものがあったんです。

>私の中には何か知れない底意地のようなものが沸いてきたのです。

私はその底意地だけで生きてきたような気がします。それこそ私と似ているその彼の原動力でもあるし、わがままであろうと、私も彼も自分や他人に求め続けていることなんですね。

補足日時:2008/10/18 00:11
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この回答へのお礼

でもやはり自然は偉大な芸術家ですね。
その前にもライブをひとつやって、それは一応成功したのですが、歌を歌っているとき青い空に白い雲しか目に入ってこなかった。まぁお酒を飲んでいたこともあって多少緊張してたものの、そのうち大衆の目よりもそういう風景が切り取られて今でも脳裏に焼きついてます。そのとき生まれて初めて幸福だなと感じました。それは生涯忘れられない風景、音楽をやる上での原風景となるでしょう。つまり音楽を辞められなくなってしまいました。

この彼も自然がテーマだそうです。というより本人が生まれっぱなしの自然児なんですが(笑)。でも天才が自然児なのなら、物理的な自然そのものにも感じる感性は絶対的に必要なんですよね。都会や今の教育方法では天才を育む土壌が失われていると思います。

さて、努力についてなのですが、この業界、必ずしも純粋な世界ではないんですよね。初めての相手とセッションをして、いかに気持ちよい音楽が作れるか。それが前提なんです。で、ボーカリストとなると女性が圧倒的なので、やっぱり華やルックス的なものが求められることが多い。勿論建前では実力なのでしょうが、そうばかりでもないんですよ。そういうものに乏しい私は、補償を求めます。こういう実態への怒りや、劣等感、惨めさも上のように負けず嫌いの原動力となります。

>諦めないことタフでありつづけようとすることは、この道の一つの解答となる回答であるかもしれません。

まさにそれが回答かもしれません。私は理論に逃げ込むことによって、実践から逃げてました。誰かが苦手な楽曲をやらないように、又自分よりうまいプレイヤーとやりたくないように、私も人を責められませんね。
「悔しさをバネにする」というのは自分と対象への純粋さ、情熱そのものなんですね。私は同じ仲間の表現者について、いかに才能があろうと、恵まれてても、器用にやってても、情熱のない人、努力しない人、挫折に弱い人というのはたとえ作品は認めても、その人自身にはまったく興味がありません。

鈍才は鈍才でも、その努力や葛藤、苦悩の中で得る「悟り」というのは実は天才の閃きとまったく変わらないものであると思ってます。

お礼日時:2008/10/18 00:37

ANO11の続きです。



シアトルのロックの世界で、自殺した音楽グループのリーダーがいたようで、なんとシアトルの弟(写真家でもある)の子供(女の子、今は大学受験にいそがしい)が、 その人の絵をじょうずに書いています。 私の家に飾ってあります。 さびしそうな目をしています。

たしか庶民的で素朴なロックグループだったと思いますが、ビジネスで成功してからそれに規制されてしまうことで生き方に疑問を持ち、 そこから麻薬におぼれていった人です。

さて、ほんとうに深く感じるならば セックスであろうと酒 タバコであろうと、シャブであろうと(この場合醒めてもいられなくなるそうで私は体験してませんのではっきり言えないのですが、 酒なら 私は今は一切飲んでませんが ビール大ジョッキ27杯を一気飲みしても 二日酔いもしないぐらい醒めていられたこともあります。)、その深さによりますが、むしろ健康的だと私は思います。

家族病理にしても 病理の世界は感性や知性のどちらかのかなりの欠陥から生まれます。 また、芸術家はジャンルによっては病理に関してさへ人間の心についてなら体験的に知りたいとも思う場合もあるでしょう。

ですから、 破天荒さや自由奔放性や、奇行、癖(人と変わった習慣のこととします。)が必ずしも、 精神病理とはつながらない という事が、この問題の裏の真実につながっていたりします。

ゴッホは、奇行(耳を過ぎ落とす)により、精神病院のお世話ともなった人ですが、 まさにここで問題の「天才そのものの人」ですよね。   いや 「天才というふにいつしか言われるようになった人」とかいう懐疑を持つ人もいるかと思います。  でも 実は私自身が34歳頃までは 後者だったのが、あるときに絵っ(これはじょうだんですが)とある広々とした畑の絵の前に立ち止まって見入ってしまいました。  信じられませんでした。 あまりにもすぐれた絵がそこにあると知ったからです。  そこから考えると彼は精神を病んでなんかいないです。 

 人と違った行動をとる人は 何か押圧去れた人である場合もありますし、 そうでない場合も精神が安定しなくなる因果もいろいろ想定もされます。 しかし それでも健康な人ならば それだけでも 普通より以上に健康だという考え、見方も出来ることなのです。  そのへんを深く考えれば、ゴッホは天才であり 精神病理にかかってると誤解された人間であり、実はその逆の人だったと言えます。

frauさんは、そのへんをどう思いますか?  ゴッホについてでも 実際に身をくずしてからは精神も病にかかってはしまっただろうロックの天才についてでも いいですが、 本来的に天才は精神病理と関係あると思いますか?
 
そのへんをまず最初に frauさんに補足要求質問をしておきたいと思います。 

いっぺんに二回にわたる長文となってしまいましたが、 これは もし興味が惹かれましたらでいいです。  それに、悩みとかがなければ おせっかいにすぎない話ですからね。

宜しくお願い致します。

この回答への補足

こんにちは。

補足要求があったんですね。お礼が遅くなりすみません。
では補足させていただきます。

>あまりにもすぐれた絵がそこにあると知ったからです

「作家に会うと失望させられる」という言葉があります。人格と作品は比例しないということです。それは当方も身近でよく感じていることです。世に出ている人よりも市井に埋もれている天才が実際身近にいるからです。

同様に、やっぱり欠如の補償や抑圧あってのものだと思うんです。
生き方ということを質問にしたのも同様で、精神的に欠如やアンバランスがあって才能が開花されるのなら、同様に生き方でその人が凡人か、そうでないかのバロメーターとなるのではないか?ということです。

私はジャズをやっているのですが、とにかくコピーしろ、の世界です。でもこれは芸術に限らず、文化というのは模倣の積み重ねの歴史です。そういう意味では芸術家というのは腐るほどいます。しかし先駆者、誰も作らなかった道を作るのが天才です。オリジナリティですよね。(語源である「オリジン」というのは起源という意味です)。でもその天才も先駆者が作った既存の道を歩んでいるわけです。無から何かを作り出すというのは神以外いないと思います。

>そこから考えると彼は精神を病んでなんかいないです。 

確かにそうです。人は潜在的に皆、狂気というのを孕んでいます。負の刺激や強いストレスがかかれば容易に精神疾患者になります。ナチスドイツの社会心理などがその例です。すると皆誰しもが天才になる可能性を孕んでいるということになりますが、やはりそれは神に選ばれし存在なのだと思います。
また自らが天才となりうるような、その可能性をもたらすのような土壌の上にいるような人(つまり芸術的な人々ということですが)も、やはり一般的な人々と一線を画していると思います。

天才という存在が精神疾患や孤独前提あってのこと、というのはアンソニー・ストーという精神科医が書いた「孤独~自己への回帰」という素晴らしい本がありますので、もし興味をもたれたら一読してみてください。表題は孤独、天才論になっています。ですが孤独というのは決してネガティブな状態ではない、とても創造的で自己保全の人にとって不可欠なものだ、という明るいメッセージが根底にあります。

補足日時:2008/10/17 22:22
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