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律令制の成り立ちを知りたいのですが、
大宝律令、養老律令、また弘仁格式などの関係もよくわかりません。
中国のものをもとにして、日本のものは少し緩和されているというの
は本当でしょうか?
よろしくお願いします。

A 回答 (3件)

 御質問が曖昧で、核心の回答になるかどうか不安ですが。


 日本の律令は唐のものをもとにしています。「日本のものは少し緩和されている」というのは、「律」に規定された刑罰のことでしょうか?刑罰なら、確かに緩和されていますし、恩赦が繰り返され、さらに緩和されています。
 701年に完成した大宝律令が、「律」(刑法に相当)と「令」(行政法・民法などに相当)が揃って日本で編纂された最初です。その前に飛鳥浄御原令がありますが、律は完成しなかったようです。
 718年に養老律令ができますが、大宝律令と本質的に変わるものではなかったし、長く施行されず、大宝律令が現行法として通用しています。養老律令が施行されたのは757年のことで、時の権力者藤原仲麻呂が、養老律令編纂の中心人物であった祖父藤原不比等の功績を讃え、藤原氏の権威付けに利用しようとしたようです。
 現在、養老令の大部分は『令義解』・『令集解』で残っています。また、大宝令は失われていますが、『令集解』が引用する大宝令の解釈書「古記」が大宝令の本文を引用していますので、かなり内容が分ります。
 養老律は散逸してしまいましたが、これも逸文(引用する文献)がかなりありますので、相当部分は分ります。
 格は令の改正法(有名なものでは墾田永年私財法など)、式は施行細則に当たります。平安時代に三回これらの編纂作業が行われ、それぞれ弘仁格式・貞観格式・延喜格式といいます。このうち、格は『類聚三代格』(三つの格を種類ごとにせいりしたもの)がありますが、散逸した部分もあり、この書物は全部残っているわけではありません。式でまとまった形で残っているのは『延喜式』のみで、他は逸文が残っている範囲に限られます。

参考文献
岩波書店『日本思想大系3 律令』
吉川弘文館『新訂増補国史大系』のうち、『律』・『令義解』・『令集解』・『類聚三代格』・『延喜式』など(『延喜式』前篇には『交代式』・『弘仁式』、『類聚三代格』後篇には『弘仁格抄』を収める)

この回答への補足

分かりにくい質問に丁寧に答えていただき、
参考文献まで教えていただきありがとうございます。

岩波書店『日本思想大系3 律令』
は手元にあるのでさっそく
吉川弘文館『新訂増補国史大系』
を探してみます。

補足日時:2008/10/22 15:18
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まぁ順番に律令を作って、その補足資料を格式として作った。


その程度かな。

で、日本のが緩いというのは成立の背景があります。
中国は後漢末、6000万人くらいいた中国人が、政治の乱れで数百万人まで減少します。んで、指導層同志で飽くなき殺し会いのトーナメントをするわけです。その結果が唐王朝でして、律令制で言うところの全国は王様の土地で、人民に分配しますなんてことが建前でなくリアルな実態だったわけです。
400年ほど、グタグタ殺し会いをやった結果できたシステムと、蘇我氏をぶっつぶして、「唐が攻めてくるかも知れないから、皆さん一致して対抗しましょう」というレベルで出来た日本の律令制では根性の度合いが違います。
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この回答へのお礼

非常に噛み砕いて説明していただき、
分かり易過ぎて笑ってしまいました(失礼)。

確かに、根性の度合としては日本は緩いですね。

ありがとうございました。

お礼日時:2008/10/22 15:16

>律令制の成り立ちを知りたいのですが、


大宝律令、養老律令、また弘仁格式などの関係もよくわかりません。
中国のものをもとにして、日本のものは少し緩和されているというの
は本当でしょうか?
よろしくお願いします。

こんにちは。
律令制の成り立ちですが、589年隋そして続く唐による中国の統一によって東アジア世界は統一中国への対応で激しく揺れ動くことに政治的関係があります。その中で朝鮮半島の高句麗・百済・新羅そして日本は国内の統一を目指し、それぞれの国内で政治的な変換期を迎えます。高句麗は隋及唐と対立・戦争関係に陥ります。そして泉蓋蘇文を中心とする豪族連合政権により国内を統一し中国に対します。隋との戦争に勝利し、隋の滅亡のきっかけを造ります。唐の明主太宗にも勝つなどの力を見せます。百済は高句麗・日本と結んで唐に攻められ滅びます。新羅は金春秋中心に王を頂点とする中国律令型中央集権制度を選択して隋・唐に接近し、百済・高句麗を唐と挟み撃ちすることにより最終的な勝者として勝ち残ります。
このような激動の東アジア世界において日本も政治的混乱期を迎えます。蘇我氏中心の豪族連合体制をとるのか、天皇中心の中央集権体制をとるのか。そして、日本と関係が深い新羅と百済のいずれと結ぶのか。その結論が大化の改新(乙巳の変)であったと思いますます。(この段落は私見)

推古天皇の時代、聖徳太子を中心として、先進国の中国隋朝の制度に倣い、王族中心の中央集権制度を導入しようとし始めます。冠位十二階や憲法17条などはその目的のために制定されたとされています。聖徳太子の実在や、制度制定に実否について議論がありますが。
その後大化元年(645)の大化の改新とそれに続く改革により、天皇中心の中央集権体制・公地公民制などへの移行が示され、天智天皇治下の668年に中臣鎌足の編集で「近江令」が制定され、671年に施行されます。近江令については実在について議論のあるところですが。また、最初の戸籍である庚午年籍が670年に作成されます。しかし、一方で663年に白村江の戦で敗北し、唐・新羅連合軍の進攻が現実化すると、部曲を認めるなど大豪族と妥協的になります。
672年の壬申の乱で勝利した天武天皇の時代には、壬申の乱で大豪族が没落したこともあり、中央集権体制の完成を目指して体制の整備が進みます。675年には部曲の廃止と豪族の山林を収公しています。官僚制の整備や、八色の姓を定めるなどしています。681年以降と想定される「飛鳥浄御原令」を制定します。施行は持統天皇治下の689年になります。近江・飛鳥浄御原令共に律は作られていません。
701年文武天皇治下で刑部親王と藤原不比等らによって「大宝律令」が制定され、翌年に施行され、形の上では律令制は完成します。
その後、藤原不比等は元正天皇治下の718年に「養老律令」を制定しますが、どうしたわけかお蔵入りして40年後の孝謙天皇治下の757年に施行されます。この施行も藤原仲麻呂が祖父の不比等を顕彰し、自己の権威を高めるために実施したとされています。また、内容的にも大宝・養老律令間に根本的な違いは無いと言われています。

平安時代になると桓武・平城・嵯峨天皇を中心に政治改革や法制の整備が進み、現実に合わせて律令体制の再編成されます。律令制定後の律令の補足・修正する詔勅・宣旨・太政官符・官奏などを集めた「格」と、律令の施行細則の「式」の編成が進みます。弘仁格式・貞観格式・延喜格式を三大格式と言います。格の原本は全て伝わっていませんが、11世紀に作られた「類聚三代格」に記載されているため(全て残っているわけではないが)、復元されている。
弘仁格式は嵯峨天皇治下の820年に藤原冬嗣らにより編纂・施行される。
貞観格式は清和天皇治下に藤原氏宗らにより編纂される。格は869年に編集・施行。式は871年に編集・施行される。
延喜格式のうち格は醍醐天皇治下の907年に藤原時平らより編纂され、翌年に施行される。式は醍醐天皇治下の927年に藤原忠平らにより編纂され、その後も改定が続けられ、967年に施行される。

格式の編纂と共に、令の官撰注釈書である「令義解」が清原夏野らによって、833年に編纂、翌年施行。
これとは別に、惟宗直本が令の私撰注釈書「令集解」が貞観年間に完成したとされている。

隋・唐の口分田に関する規定は、21~59歳の男子に対して、5ヘクタ-ルを口分田として与えることになっていますが、59歳を過ぎると、8割を返還することになっています。これに対して日本では、男子が24ア-ル、女子が2/3の16ア-ルを死亡時まで口分田として与えられます。隋・唐が税の取立てや耕作を主に考えるのに対して、日本は面積が狭いものの、福祉型といわれています。
また、中国では科挙の制度が採られますが、日本では科挙は形式であって(大学の試験を通っても上級貴族になるのは大変稀-菅原道真など)、5位以上の子には父親の位階に応じて一定の位階につける貴族に有利な蔭位の制が厚く、貴族制が維持された。この制度は唐にもありますが、科挙をたて任官した官僚に圧倒され、貴族層は崩壊します。
このような面から、日本の律令制は中国に比べ貴族の特権が残り、貴族層に妥協的な部分を中心に「中国のものをもとにして、日本のものは少し緩和されているという」ことに
なります。

うまくまとめられなくて、長くなってすみません。参考まで。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

アジアのあたりから説明してくださり、
大変分かりやすく、長文まったく気にならず一気に
よませていただきました。

律に興味があって調べたかったのですが、
>近江・飛鳥浄御原令共に律は作られていません。
ということなので、大宝律令以降格式も含めて勉強してみます。

お礼日時:2008/10/22 15:13

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