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鬼平犯科帳のDVDをよくみるのですが、次の2点を教えてください。
1.Wikipediaによると、長谷川平蔵の禄高は400石だそうですが、  奥方は彼を「殿様」と呼んでいます。「殿様」と呼ぶにしては禄高  が少ないように思います。普通の時代劇だと「旦那様」と呼んでい  るようですが?
2.奥方がいつも長い裾の着物を引き摺っていますが、禄高からみて、  ちょっと大袈裟過ぎるように思いますが?

A 回答 (3件)

1.一応「お目見え」許される禄高ですので、殿様でも良いみたい。


なお、足高の制により千石以上の役である「火付盗賊改方長官」に付いていますね。
2.で千石なら長い裾を引きずらないと他の与力、同心に示しがつかないので、着ている設定ではないでしょうか。

話は違いますが、NHKの時代劇、藤沢周平さんの「風の果て」では、主人公の奥様は夫が筆頭家老になってもみじかい裾で、主人公の同門かつ政敵になって失脚させた代々家老職のお家では、失脚した後でも奥方は長い裾でしたね。
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この回答へのお礼

明快なご回答有難うございました。
また、後段で「風の果て」の例までお示しいただき、恐縮しました。
蛇足ですが、あのドラマで石田えりが裾の長い着物を引き摺ったとしたら、いささか不似合いかな?と余計なことまで考えました。
またの機会によろしくご教示ください。

お礼日時:2008/10/05 17:50

こんにちは。


私は、自称「歴史作家」です。
池波正太郎さんですね。
1.Wikipediaによると、長谷川平蔵の禄高は400石だそうですが、奥方は彼を「殿様」と呼んでいます。「殿様」と呼ぶにしては禄高が少ないように思います。普通の時代劇だと「旦那様」と呼んでいるようですが?

確かに、長谷川家は三方原の合戦での功績を認められ、旗本・家禄400石となりました。そして、将軍近習(きんじゅう)の御書院番組として続いてきました。さて、ここからが池波正太郎さんと若干違うかも知れませんが、天明6年(1786)に、かつて父宣雄が務めたことのある御先手弓頭に昇進し役高1500石となりました。元々は400石ありましたので1100石を加増されたわけですが、これを「足高(たしだか)」と呼びました。さらに、天明七年(1787)9月に「火付盗賊改方長官」という「加役」を任命されました。
ちなみに、町奉行や寺社奉行などは3000石ですが、同じく、自分の「家禄」に「足高」を加算して、3000石にしています。
なお、町奉行や寺社奉行は「老中」の支配下ですが、「火付盗賊改方」は「若年寄」の支配下です。しかし、どちらも「お目見え」以上であったので「殿様」と呼ばれました。しかし、配下の者は「長官(ちょうかん、または、おかしら)」と呼んでいました。

2.奥方がいつも長い裾の着物を引き摺っていますが、禄高からみて、ちょっと大袈裟過ぎるように思いますが?

実は、「裾」を引きずるのは、武家の奥方だけではなく、明暦年間(1653~)からの「流行」で、ある程度の商家の娘でも結婚、または、19歳位になると、裾を引きずる着物を着ていました。家の中では、裾を引きずり、外出の時は「おはしょり」と言って、帯の下へ着物の裾が下駄や草履にかかるくらいまで、折り込んで(たくし上げて)いました。
従って、武家の奥方は「当然」のことでした。
色々な「倹約令」などが出されましたが、生地や柄については、厳しかったが、長さについては「規制」されませんでした。

(よもやま話)
(1)長谷川平蔵
先祖は、平安時代の鎮守将軍藤原秀郷のながれをくむもので、当初は「下河辺」を名乗る。後に、次郎左衛門政宣の代に大和国長谷川に住むようになり「長谷川」を名乗るようになった。
その後、駿河国田中に住し今川義元につかえ、さらに、徳川家康に召抱えられ400石を知行。長谷川平蔵家としての当主藤九郎正長(ながまさ)は、長篠の戦いで奮戦し37歳で死亡。
平蔵の父宣雄(のぶお)は5代目当主伊兵衛の末弟で、部屋住の「冷や飯喰い」であった。その頃、下女として長谷川家に奉公していた巣鴨村の三沢仙右衛門の次女お園と情を通じ、生まれたのが平蔵であった。
宣雄は平蔵とともにお園の実家の巣鴨村で暮らしていたが、長谷川本家の宣安(のぶやす)が死亡し、さらには、跡を継いだ宣尹(のふただ)も若くして病死。宣尹の妹「波津」が養女となり、宣雄が本家に呼び戻された。
しかし、波津と宣雄の間に女子が生まれたが男子の誕生はなく、巣鴨村から平蔵(宣以=のぶため)が呼ばれて嫡子となる。
17歳で本家に入った平蔵であったが、義母波津にいじめられ、その反発もあってか、家を飛び出し、本所、深川界隈を根城にして放蕩三昧の生活を送る。
のち、義母波津が亡くなり、平蔵も長谷川家に入った。やがて、父宣雄が死亡して嫡子平蔵が400石の旗下・長谷川家を継ぎ、御先手弓頭となる。この時、「足高」として1100石が加えられ、1500石となる。
天明7年(1787)9月、加役として「火付盗賊改方長官」に就任。以後、途中で一時その任をはずれるが、通算8年間その任をまっとうした。

(2)「鬼平犯科帳」では、清水門外が役宅として設定されているが、史実は、「火盗改メ長官」の自宅で執務する仕来りであった。自宅に与力や同心の詰所や白洲、留置場を造り、その任にあたった。

(3)目白台の長谷川邸の設定は、池波正太郎さんの史料の読み違い。実際には、平蔵が19歳から死ぬまで「本所三ツ目」で、現在の都営地下鉄新宿線の「菊川駅」の真上が正しい。現在の住所としては、墨田区菊川3丁目16番。「長谷川平蔵住居跡」という記念看板が建てられています。1,238坪の広さがあった。

(4)町奉行なども、3代将軍家光が寛永8年(1631)に、加賀爪民部少輔忠澄を北町奉行に、堀民部少輔直之を南町奉行に任命し、この時、北は常盤橋御門内に、南は呉服橋御門内に、正式に奉行所を造ったのが南北奉行所の始まりです。
それまでは、つまり、2代将軍秀忠の頃までは、町奉行を任命された者が、やはり、自宅の庭に御白洲を造ったり、留置場を造ったりしていました。

(5)町奉行や寺社奉行、京都奉行、佐渡奉行、火盗改メ長官などは、通例、2~3年で交代し、さらに昇進する者が多かったが、鬼平は寛政7年(1795)に死ぬまでの8年間を務めた。異例の長期間であった。

あなたの「お役」にたてたでしょうか。
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この回答へのお礼

当方後期高齢者の老生ですが、貴兄の博覧強記には感服させられました。早速コピーをとって「鬼平犯科帳全集」に挟んでおきます。本当に有難うございました。

お礼日時:2008/10/06 10:55

>鬼平犯科帳のDVDをよくみるのですが、次の2点を教えてください。


1.Wikipediaによると、長谷川平蔵の禄高は400石だそうですが、  奥方は彼を「殿様」と呼んでいます。「殿様」と呼ぶにしては禄高  が少ないように思います。普通の時代劇だと「旦那様」と呼んでい  るようですが?
2.奥方がいつも長い裾の着物を引き摺っていますが、禄高からみて、  ちょっと大袈裟過ぎるように思いますが?


殿様と呼んだのは意外に簡単な理由で旗本だったからです。ちなみに御家人は旦那様です。テレビなどの時代劇によく出てくる町奉行所の同心は御家人の端くれなので、旦那様と呼ばれます。ですから耳にすることが多いのだと思います。
旗本は石高が1万石以下ですが、将軍直臣であることと、将軍にお目見えできること、一般に知行取りで領主であることから、大名と石高の差はあっても同列であり、殿様と呼ばれます。これは、石高に関係なく、また、役職の有無、役職の高下にも関係ありません。(御家人は一般にお目見えできず、蔵米取りですので領主でなく現在の給料取りのような存在です)
石高の多少ですが、旗本の9割が五〇〇石以下だったので平蔵の石高は多いわけではないのですが、決して低いわけでもありません。特に平蔵の家系は分家ですので、分家としては恵まれたほうです。
裾については擦って歩くので不思議な歩き方だとは思うのですが、当時は普通だったようです。国立博物館に展示されている江戸期の着物も裾が擦れて、ほつれたり、する切れている物が見られるくらいです。

足高の制について。足高は加増ではありません。加増とは石高(禄高)を増やすことで、増やされたか増分は子々孫々に伝えられます。八代将軍吉宗の時代までは、石高の少ない旗本を石高の高い格式の役職に任ずるときには一般に加増しました。ですからその加増分が幕府の永久的な負担となります。また、そのためもあり、石高の少ないものを高い役職に就けずらいということも起こりました。そこで吉宗は足高の制により、石高の少ないものを石高の高い格式の役職に任ずるときには、差額分を役料として任期中支給し、退官後は支給をやめるようにしたのです。それにより、財政的にも貢献するとともに、石高の少ない者も登用しやすくしたのです。たとえば 町奉行は3000石相当の役職ですが、1000石の旗本を任じた場合、3000-1000=2000石を役料として任期中支給するということです。なお、寺社奉行は旗本が任命されるのではなく、1万石以上の譜代大名が任命されるのが普通でしたから、3000石ではなかったと思います。

書院番組について。幕府の職制は大きく番方(武官)と役方(文官)に分かれています。書院番組は番方で、それも小姓番組と両番と呼ばれ、番方では格式が最も高いものでした。一般に三河以来の旗本から任じられたとされています。しかし、将軍親衛隊と訳されても、近習ではありません。近習は役方で、小姓・御納戸・側衆などを言います。

以上、参考まで。
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この回答へのお礼

大変参考になりました。有難うございました。

お礼日時:2008/10/20 10:31

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