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個性の尊重とか個性を生かせとか、個性の大切さをいわれるが、そのような主張の理由にどのようなことが考えられると思いますか?教えてください。よろしくお願いします。

A 回答 (4件)

そう言われる“状況”にもよると思いますが、


3通りあると思います。
みんな(団体)の前で、みんな(全体)に言っている時は
心の中ではこう考えていると思います。
『あなたたちはみんな一緒で、甲乙つけられません。わたしはあなたたちに順番をつけなければならないので、わたしはみんなとここが違います、ここが抜き出ていますと主張してください』
(学校の推薦で人数の枠が決まっている時や、スポーツのレギュラーのベンチ入り人数が決まっている時などのケース)
2つ目は・・・
『将来、自分の行動や発言に自信を持って、周りの人に活力を与えて元気にさせたり、大きな壁にぶつかってもそれを乗り越える力をみにつけ、大切な人からも必要とされる人になるためには他の人と同じことをしていてはいけない。自分で考えて、自分で運命を切り開いていくには、自分の“軸”が必要です。人がなんて言おうが「私はこう思います!」と胸を張って大きな声で言える。それが個性の尊重だから。』
(哲学的な意味で、将来立派な人間になって欲しいという願いがこめられてるケース)
3つ目は 1対1 の状況で言われたケースで、
『わたしはあなたに大きな期待している。もっとあなたはすごい人物のはずだ!今の自分に満足せず、もっと上をめざすんだ!まだまだあなたはできるはずだ!』という強い期待感。愛情表現の1例。
だと私は思います。
深く考えずに、今自分のすべきことを“正確に”把握して
一生懸命頑張る。で いいんじゃないでしょうか?
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こんにちは。


このような提言が専ら成されるようになりましたのは、恐らく四十年くらい前のことであり、経済発展の裏側を支える「社会の画一化」が問いただされるようになったころだと思います。このころは「学校教育のブロイラー化」などという言葉が用いられました。
「受験戦争」というのもこのころです。また、「中流意識」なんてのもあり、豊かさの恩恵を伴う「等所得層」が圧倒的多数を占めました。「社会的価値観」が画一されることにより、教育や個人の意識に自由度が失われていったということですね。
このような背景から教育現場に「個性教育」といった提案が成されてからかなりの年数が経っています。ですが、これが何らかの結果を出した、あるいは実際に採用されたという例さえもほとんど聞きません。
因みに、私が卒業した中学には「自主性」というスローガンがありました。
自主性ならば個性の発揮に比較的自由度があります。ところが、これはこれで素晴らしいことなのですが、高校に入学したとき、私は同級生からこう言われました。
「お前の中学から来た奴は、みんなボールいびりがへたくそだ」
何ということでしょうか。自主性という方針の基に教育を受けた私の中学の生徒は、みんな団体競技が苦手だったんです。

何故「個性、個性」と口にするばかりで親や学校はそれに踏み切ることができないのでしょうか。
個性というのはひとそれぞれに違います。ですから、言うまでもなく、それぞれに合った考えややり方というものがあります。これは当たり前のことです。
ですが、幾ら個性教育といいましても、これで人生を決めてしまうわけにはゆきません。何故ならば、当然、自分の好きなことだけやらしてもらうというのは許されることではありませんし、何よりも、社会の側にまだこれを受け入れるだけの認識がありません。
では、かつては社会の画一化に対する「改革」という意味で個性の重要性が問われていたのですが、ところが、果たしてこの改革が一向に進まないため、現在では精神医学の観点から「個性の保護」というのが見直されている有様です。

個性教育といいますと、そのひとの能力を伸ばすためのものと受け取るひとも多いと思いますが、実は、現実に解決しなければならない問題といいますのはその逆であり、これによって差別・抑圧を受けるひとの救済の方が先決です。
そのひとの個性が社会的価値観にそぐわないものであるならば批判を受けます。親や学校はそれを容認することができませんので、子供の個性は何らかの形で抑圧されます。当然、子供にはそのような判断は付けられませんから、社会の要求の対して懸命に応える努力を強いられることになります。
ひとつの例を挙げますと、「外向性・内向性」という研究を行ったのはユングという心理学者です。これが発表されるやいなや、成功を美徳とするアメリカ社会では「外向性とは優秀な成功者である」という認識が広まってしまいました。研究発表にはそのようなことは一言も述べられていませんでしたので、ユングはこれでアメリカ人が嫌いになってしまったそうです。
このような間違った価値観が社会から払拭されるまでにはまだ時間が掛かると思います。では、仮に内向性が人類の半数としますならば、世界中で圧倒的半数の子供が親や社会から精神的な抑圧を受けているということになります。そして、特に社会との協調を重んずる従来の日本型の教育ですと、この可能性はダントツに跳ね上がります。
反社会的行為が批判されるのは当たり前のことです。ですが、上記の一例は、これは飽くまで「社会の誤った認識」であることに留意しなければなりません。

社会の認識が及ばないのならば個性教育など絵に描いた餅でしかありません。それどころか、逆に抑圧や差別が発生してしまいます。
ある出版社が発行した英語の教科書に黒人の挿絵が載っていました。文部科学省は、「鼻が大きくて唇が厚い」、このようなイラストは黒人差別に当たるのではないかと指摘したのですが、ところが、ある学者さんは、「現在は民族が個性を主張する時代、文科省は頭が固過ぎるのではないか」と仰いました。
そのイラストは差別でも何でもありません。逆に、その黒人の顔を白人の標準に合わせろと言う方がおかしいんです。果たして、我々の社会が民族の個性を積極的に受け入れることにより、これによって初めて差別や格差がなくなります。

では、我々の社会はどのようにして個人や民族の個性を受け入れてゆけば良いのでしょうか。
それが思想統制という結果となって現れた社会主義革命の実験は尽く失敗に終わりました。ですが、これが実現しようとした「効率的な平等分配」というのは自由主義経済ではまず不可能です。まして、現在のグローバル経済では民族のナショナリズムさえも保障されるものではありません。
全ての個性を受け入れようとするならば経済は必ずやスロー・ダウンしなければなりません。では、昨今のアメリカ経済が世界にもたらした悲劇とはいったいなんだったのでしょうか。職を失ったひとは「そのひと個人には」何の責任もないんです。
我々の社会には、まだそれを学ぶという課題が残されています。ここに、個性というものを正しく論議する必要性があると思います。
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 個性とは何かについての世間一般の共通理解なしに


尊重せよとか生かせとか主張されているのではないでしょうか。
 個性と言う言葉には良し悪しの判断は含まれていないと思います。
 たとえば、行動に落ち着きがなく粗暴な子供がいたとすると、
その粗暴さはその子を特徴付ける個性そのものですよね?
 ですが、その粗暴さを尊重し生かすべきでしょうか?
 個性の尊重を声高に主張する方々は、
官製教育反対、画一教育反対、詰め込み教育反対を叫ぶ方々と
かなりの部分で重なり合うのではないかと思うのは偏見でしょうか?


 
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御質問の動機にもよりますが、私は養老孟司さんが個性について述べていることが納得できます。

具体的に示せないのですが、いろいろなところで書いておられます。個性という言葉はあまり良い意味でないような印象を持ちました。
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