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いろんな学問の中で哲学だけは道楽のように思えるのですが、哲学は何かに貢献することはあるのでしょうか?
何か例があれば教えてください

子供のころは哲学って意味も分からずにすごいものだと思っていましたけど、大人になってなくても良いような気もしたので質問しました

A 回答 (28件中11~20件)

こんばんわ。



他の回答は読んでません。
このご質問に回答を書いてみたくなっただけです。
気が向いたら他の回答も読んでみます。


道楽って最高の仕合せです。
マツタケと神戸牛をつまみながらドンペリを飲み、
大好きな隣人と言葉を交し合う、
そんな、ものすごく贅沢な行為で、

交し合いながら、
「痛いではないか。この痛みを如何いたそう。」とか、
「そうですか。痛いのですね。そうですか。」とか、
「べつに如何ともしなくてもいいんでないの?」とか、いろいろを、

(交し合うものの合意のもとで)意思を表明し合って、
その中でよろこびを創り合うことができ、
よろこびを得たものの中に感謝の気持ち(仕合せのようなもの)
が発生する、ということかなあと思います。


【貢献】【価値】ですか。
【価値】の奴隷であることから解放されるかもしれません、
それが【価値】のようなもののひとつだと思っているのですが、

このようなことを話しているわたしは【価値】から解放されていないです。

たぶん回答のようなものは書いたと思います。
ではでは。
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この回答へのお礼

そういうこともあると思います

>【価値】の奴隷であることから解放されるかもしれません
この意味だけはさっぱりわかりませんでした

お礼日時:2009/03/16 03:59

 Pain_Painさん


 このように対応されたのは、私には初めてでした。
 初めての経験をさせていただけましたことを深く感謝し、私の勉強とさせていただきます。
 ありがとう御座いました。
 それにしても、ご質問の文章とその後のお書き込みの文章とはずいぶんとご肖像が違っておられますね。

この回答への補足

質問内容は子供が’どうして””なんで”ていうようなレベルの内容でうからね^^
回答と比較するとそう思うでしょうね。
第一印象で人は決められませんね。
だけどこいう素朴な質問はとても大事な事だといつも思っています。

当たり前のことを見失うことがないようにするにはこういう質問も必要かもしれません。
それとQ&Aに関係ないことはこれで終わりにしましょう。
削除されてしまうと回答を頂いた方に申し訳ないですから^^

補足日時:2009/03/15 11:57
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 Pain_Painさん


 まことに残念です。
 ご誠実なお方と存じ、私なりに、少しでもお役にたつかとも思い、また、地上に生きる一人の人間として認めてもらい、参加させてもらいたく、誠意を以ってできる限りの思いを振り絞り投稿をしてまいりました。
 何かお心を傷つけましたことをお詫びし、早々に退散申し上げます。
 どうかご健勝で、このご質問も長く皆様に愛されますように祈ります。またどこかでお教えを期待しております。
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この回答へのお礼

私は傷などついてないですよ^^
私がここの回答が7つぐらいだったかに、あなたにだけ”みなさんに返事はします”と書いたのを覚えていますか?
その時にこうなることは予測できていたのですよ。
だから怒ってもいません

それがあなたにだけ真っ先に返事をした理由です
(何故分かるか不思議だと思いませんか?)

私は回答できる内容を頂ければ必ず返事はします
もし、またここに見に来たならば、宗教と哲学を比較して共通する事で何か知っていれば答えて頂ければ有り難いです

お礼日時:2009/03/15 11:47

 回答番号:No.14


 それでいいのですか?
 みなさんのご回答とは異なるものなのですが。
 ならば、そういうふうに質問の段階で、回答の質などを表現するか、質問内容を明確にご説明して欲しいですね。
 
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この回答へのお礼

回答を頂ければ必ず返事はさせてもらいます^^

お礼日時:2009/03/15 11:14

 回答番号:No.11のお書き込みから:


 自然にやるものだし、自然にやっていくものですから。
 意識したり、的をしぼったりは無用ですね。
 遣っていく中で、意識し、的を絞っていくものでして。
 無宗教も無哲学もけっこうではないでしょうか?
 実を言うと、この世も何もかも、意味とこんきょがありますが、この世も何もかも意味も根拠もありませんでね。
 究極者自身はそれ自身が意味で根拠ですが、その向こうには意味も根拠もありませんでね。
 だから、この世も何もかも、一面意味も根拠も無い(超越でして、ないのではない、)側面ではあるのです。
 究極超越者の遊び、神遊。単なる夢です。我らを通しての夢の経験でしかない。
 あなたに何を回答していいのか、全く手探りで、なにがどう質問か意味が不分明でしてね。
 でも同じ文言的疑問を先輩に、観念的遊びとしてよく投げつけた経験者として、回答としてチェックを入れます。

この回答への補足

大変申し訳ないのですが、いままで回答してきた内容を見て書かれているのだとは思いますが、No14まできているにも関わらず再度回答を頂いた内容の意味が分かりません

それと、根拠なくしていきなりこんな質問は出ません
それは回答の中にも書いています
私が具体的に書かなくてもそれがぐらいは読み取れるはずですよ

補足日時:2009/03/15 09:14
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この回答へのお礼

お礼日時:2009/03/15 09:36

>その時代はデカルトの時代ですか?それとももっと以前から哲学ていうものがあったのですか?



私は専門家じゃないし哲学史を専門に学んだわけでもないので細かいことはわかりませんが、今みたいに科学とかナントカ学とかっていうように色んなジャンルの学問がいっぱい出来てきたのは、そんなはるか昔のことではなく、人類の歴史の上で言えばつい最近のことと言ってもいいのです。

哲学を指す「フィロソフィー」という言葉ができたのは大昔のギリシャのことですが、もともとは「知を愛する」という意味だそうです。
私たちはその時代からかなりの時を経た日本で教育を受けて育ったので忘れがちですが、学問がいきなり学問として人間の前に置かれてたわけじゃありません。やっぱ学問は人間がつくりだして発展させてきたもので、なんで人間がそんなことをしてきたのかというと、それは世界がわけわかんないことばっかりだったからです。驚くことばっかりだったからです。それをなんとかわかりたかったから、みんな一所懸命頑張って長い時間をかけて、それを正確に理解できる方法をあれこれ模索してきたのです。ものすごーくおおざっぱに言えば、これが人類の歴史だったわけです。
で、ラファエロか誰かの描いた有名な絵で、「アテネの学堂」というのはたぶん何度かテレビや雑誌なんかで見たことがあるでしょう。あれはギリシャ文化が花開いていた当時の哲学者のオールスターをかき集めて描きこんだ豪気な絵ですが、あの中に、プラトンとかアリストテレスに混じって、なんかはしっこの方で分厚い本かノートみたいなものに一所懸命ペンでなにか書いているおじさんがいるので探してみてください。あのおじさんがなにをしているかというと、今で言う数学の計算をしているのです。ピタゴラスの定理で有名なピタゴラスっていうのが彼です。でも、当時彼がやっていることに「あれは数学だ」という人はいなかったし、彼自身もそんなこと思っていなかったはずです。まだ「数学」なんていう学問はなかったからです。つまり、今で言う数学みたいなことをやっている人も、アリストテレスみたいにもっと抽象的で形而上学的なことをやっている人も、みんな同じ「哲学者」としてひとつの枠の中に描かれているのは、彼らがやっていることの根本的な目的が同じだったからです。その目的はまぁおおざっぱに言えば「世界とか人間とかを頭でちゃんと理解すること」といった感じでしょうか。これが当時でいう「哲学」というものです。当時「哲学」とは、もっとボンヤリとした漠然としたもので、人間の知的な活動を全部それで呼んじゃおうといったものだったのです。

で、時代は下って、徐々に学問が枝分かれしていきました。それがいつ頃はじまったかはわかりませんし、いろんな説がありそうなので正確に知っている人はたぶんいないでしょうが、どっちにしてもそんなに昔のことじゃありません。数字であれこれ記述する学問を数学と呼び、ピタゴラスも「数学者」と勝手に呼ばれるようになり、さらに数学の内部でも色んなジャンルが生まれて「純粋数学」だとかなんだとか数え切れないくらい枝分かれしていきました。科学もしかり、政治学もしかり、法学もしかり。それでいっぱい枝分かれしていった結果、最後まで取り残された部分、つまりかなり抽象的で恣意的で現実的な有用性が低い部分のジャンルが、いま普通にみんなが考えているような哲学として、その名前を与えられたわけです。それがちまちま発展してたまに経済学や政治学と混じりあって、一部の現代思想みたいなしょーもない思想をも生んでいるわけです。

まぁこんなところでしょうか。かなり大雑把にいい加減にまとめたので、そのまま鵜呑みにはしないでくださいね。
とにかく、はるか昔は、哲学がもっとも主要な学問だったのです。ギリシャ以外でも、たとえば中国にも老子とか荘子とかっていう人たちがいて、彼らの言葉はいまでいう「哲学思想」みたいなものですが、当時の彼らは別に「おれは哲学やろう」といって選択したわけではなく、単に統一的で絶対的な考え方を表したかったんだとおもいます。もちろんブッダとかも。

それからデカルトについては、たぶん彼の時代も、まだ明確に学問のジャンルが分かれてたわけじゃないと思います。彼は数学者でもありますからね。ただ、ギリシャ時代ほど漠然としてたわけでもないでしょう。
さきほども言った通り、デカルトの「方法序説」なんかに書かれていることは、タイトル通り、思考する方法やプロセスについてのものです。例えば現代の科学なんかでは、ちゃんと実験をして他人が見ても明らかな説じゃないと、真実とは違うということになります。数学は、色んな証明を行うことによって真実を求めます。「そういう真実に辿り着くための方法とプロセスを僕なりに考えてみましたよ」というのがこの本の内容なのです(まぁ途中から「神の存在証明」とか変なことを言い出しはしますが)。だから、時代的にはなにやら漠然とした大きな学問から、数学や科学とかいう学問が独立しようとしていた最初のほうの時期にあたるんじゃないでしょうか。あんまり自信ないけど。
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この回答へのお礼

時代で見るとこれまた漠然としていますね・・・
しかし、探し出す手がかりのひとつにはなるので助かります^^
やりたいことが少し見えてみました
ここの回答をもう少しみて決めたいと思います

お礼日時:2009/03/15 09:13

「哲学は道楽」に噴き出しました。


たしかにもう今はそんな感じだと思います。ほとんどが年寄りの慰めか若者の軽薄な虚栄心を満たすだけのものになってしまってます。
科学なんかの有用性を考えると、信じられらないくらいのしょぼさですよね。とくに現代哲学やら現代思想は。

ただ、「哲学」という学問は今でこそナンだかよく判らない無意味なお遊戯みたいなことを指すと思われていますが、むかーしむかしはあらゆる学問が「哲学」と呼ばれていたのです。学問は「哲学」ひとつしかなかったのです。
そこから時を経て科学やら数学やら文学やら細かく枝分かれしていったのです。

だから、やっぱりあらゆる学問の基礎にはなっているんですね。科学なんかでも。デカルトの「方法序説」なんかを読むと、「あー人類はこういうふうに現在の確実な思考の方法や手続きを確立してきたんだなあ」というような感動はあるので、そういう古典を読む価値はあるんじゃないかとは思います。
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この回答へのお礼

たった今下の方に回答をしてきたばかりです^^
>学問は「哲学」ひとつしかなかったのです

これが事実ならすべてに納得がいきます
その時代はデカルトの時代ですか?それとももっと以前から哲学ていうものがあったのですか?

その基礎となった時代に戻りたいと思います
これに詳しい方は教えてください^^

お礼日時:2009/03/15 02:31

 回答番号:No.4です:補足を頂きまして恐れ入ります。


 でもご補足でも何をどうお話していいのか、こみ上げてまいりません。
 哲学って、勝手に思って書いていいのだよということなのでしょうが、反って難しいですよね。
 回答番号:No.4で申し上げましたように、哲学も様々ですよね。
 ヒンドゥの、私が勉強している哲学は、宇宙や創造界とそれを構想している根源者の認識と経験をするものでして、理論であり、精神や心理の条理であり、その原理と当為を提示するものですね。単なる科学や知性の認識ではなく、実現ですから、行法(ぎょうぼう:マントラの日本語ではそう読まされました(40年も前のことですが))もきちんと理論的にあります。はっきりいえばヨガです。ヨガは体操などに一部分の一部分が取り入れられている、ハタ、信仰のバクティ、叡智哲学のジャナアーナ、行為のカルマなどなどに分類されますが、ハタを二十年ほど必死にやりましたが、いまはここ四十年はラージャです。
 これらはそういう哲理をもって一致するというのがヨガの語義です。
 何と一致かというと、宇宙の原理、根源です。
 東洋の哲学は理論と体系であり、知的であり、且つ、根拠(立脚・そもそもの出発)と価値(理念)を持っています。
 中学のときは孔子でしたが、夫子を哲学にいれても、宗教に入れない考えもありますが、孔夫子は完全に宗教者であり、東洋の哲学者です。
 
 西洋では、カントとラートブルッフですが、どちらも根拠と理念を明確に出しています。
 根拠と理念を提示することは得てして理論性を超え、逸脱するかのようですが、根拠と理念に肉薄しない認識や説明は、認識と説明としては真に不十分です。
 机や電車のことを説明するのに、その目的やよって立つ基盤をいわないで、木製品だとか、線路の上を移動するだとか、ごたごたいっても説明としては完成しておりません。
 イマニュエル・カントとグスタフ・フォン・ラートブルッフはこれを理論性の中で提示しております。
 後者は、司法大臣、法律家ですね。
 法律は当為命題、定義体系ですね。
 当然根拠と理念を中心にして、当為として納得させるものでなくては為りませんから、哲学の無い法理論は無意味でありますね。
 特にラートブルッフは、人間の生きること、人間の探求すること、そして人間の知的探求とその中での哲学の位置、そして法哲学の位置とあるべき根拠と理念を知性と論理の中で提示しております。
 道楽ということばはここには当てはまらないと存じます。
 阿部次郎、倉田百三、出隆もそういう意味で、知性の人間の探求をしております。
 これも決して道楽ではありえません。
 その他のというと失礼ですが、多くの西欧哲学の中には、道楽といえないものもないかもしれませんが、それはどんな世界でもそういうものってありうるものだと存じます。
 どんな思想も、その時代の側面を映している、写している側面があり、そういう意味では、どんな思想もすばらしいと存じます。
 空海、これはちょいと意味が違いますが、親鸞上人やそれに続く他力のご信仰も、実はヒンドゥの思想として既に説かれているものです。
 だからといって、親鸞上人やそれに続く他力のご信仰が、やきなおしだというのではありません。
 日本の心性、民俗性に、民族性に生かして提示することにおいて、皆さんのものは正に新たな創始、創設で在らざるを得ないからです。
 ヒンドゥのことばを、日本の生きた言葉に示すことは偉大なことであると存じます。
 偉大な創建のお仕事でした。禅も無論そうですが、日本の禅は日本の禅です。
 同じものが中国にもインドにもありますが、それは違うものです。
 哲学は道楽ではなく、人間としてのやむにやまれぬ思いからの、人生の義務、生まれてきた任務であります。
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この回答へのお礼

>でもご補足でも何をどうお話していいのか、こみ上げてまいりません

その通りでしょうね 私は哲学を意識して考えたこともないし、宗教も必要性があるのかわかりません
それで、哲学の価値を理解することで何か的を絞りたいと思っているのですが・・あまりにも漠然としすぎてなにもかも哲学と言ってしまえば良いのかな?それが本当に哲学なの?って思うんです

本来は何か目的があったものが形が変りすぎたということはないのでしょうか?
正直まだ的が絞れないでいます

お礼日時:2009/03/15 02:23

<<ごめんなんさいね><無宗教です>>



いえいえ私も宗教嫌いですw
信仰を好まないということですかねw

<<子供の頃に宗教を信じることをやめたのです>>

信じること自体が他俳的で差別思考であるように感じますからねw

<<1つ前の回答に宗教と哲学の関係を知りたいと書いたので丁度良かったです^^>>

仏教はもともと現代科学の反証を受け入れるような姿勢で生命について心理学的な分析と、生き方を、事実を知ったお釈迦様が、論理的に道徳的に実証的(確かめられるものをその方法とともに)に教えたものだと思います。

「信じろ」というような性質は無いですねw

<<ひとつ聞きたいのですが、悩みや苦しみがなくなる事を目的にと書かれているのですが、何故なくなることが(平常心に戻るまででも良いです)出来るのですか?>>

生命は「事実」を知らない、もしくは『エゴ・自我・自分勝手な尺度』で支配され、納得していない「無知」な状態にあると思います。

当たり前のこと。あるがままの事実を認めないほどに苦しむことになると思います

…簡単に知る範囲で数多ある実践法から一つを書きますね。

まず生命に関する希求を認めてないと言うことがあると思います。

幸福になりたい。
悩み苦しみは嫌だ。
努力が実って欲しい。
今なすべきことがすぐにひらめいて欲しい。

このような希求は生命に当然あると思うのですが

自分にさえ認めていない場合が多いと思います。

それを認める。回りの生命にもあると認める。全生命にあると認める。

そのような考え方・心を心理学や日々の生活の観察などから理解する人も多いと思いますが「心にある慣れという法則」を利用して、腹のそこから納得できるように念じて生きてみます。

これは慈悲喜捨の感情といい、『エゴ・自我・自分勝手な尺度』を育む欲・怒・無知の感情の逆の感情なので徐々にこの煩悩が出にくくなると思います。

そのように暮らしていると徐々に、

暴力・殺生・欲に関して間違った行為(邪淫)・盗み・嘘・噂・悪口・無駄話・激怒・強欲・『エゴ・自我・自分勝手な尺度』を育む間違った見解をもつ

これらの行為が、生命のネットワークの中で他者の迷惑になり自分を苦しみ多い生き辛い状況においてしまうこと。『エゴ・自我・自分勝手な尺度』を育むとともにその行為をなす感情自体が苦しみだ。という理解が生まれると思います。

この十悪をやめるように心がけること「十善」を実践すると、生命のネットワーク内で問題少なく生きれますし、『エゴ・自我・自分勝手な尺度』を薄めることにもなりますし、苦しみが減ってくると思います。

そのように実践すると、

見解・思考、感情・言葉・体の行為・命のつなぎ方、仕事など・何に努力するか・何にどのように集中するか・気付きに対して

どのように『エゴ・自我・自分勝手な尺度』を薄め、離れ、現実に沿った正しい生き方が出来るかという考えと理解が生まれると思います。

「八正道」が指標になります。

そのように実践するとなると

もろもろの『エゴ・自我・自分勝手な尺度』を育み、苦しみそのものである感情に支配されないようにしようという理解と努力が生まれてくると思います。。。

。。。。。。。。。。。。。。。。。。

とチョッとこの辺にしときますねw

妄想から感情などを生み出してしますので、妄想をカットし、集中力や気付きの能力を育む「ヴィパッサナー冥想」と言うものもあります。

<<私は悩みや苦しみは空間と時間が解決してくれるとは思います。好きな言い方ではないですが”去るものは日々に疎し”です。>>

そのような方法もあるでしょうね。

<<しかしそうではない人もいますよね そういう人達は宗教で救われるのでしょうか?私は宗教では救われなかった、しかし時間がそれをいつの間にか忘れさせてくれました(空間もあったかもしれませんが・・)悩み・苦しみが何故時間が忘れさせたのか・・・時が解決してくれるのに救ってもくれない宗教に何故たよってしまうのか・・・そういう経験をしながらでも答えは見つかりません>>

一般的な宗教は事実との矛盾とは関係なく信じることですからね。

僕に聞かれても僕は反証を受け入れる姿勢で科学的に生きるとは何か探求し、悩み苦しみを具体的に無くすことを重要視するのでw

仏教(パーリ語の初期仏教)自体も救ってはくれませんw

ブッダは自身で見つけた「自力で幸福になる方法」を語る先生ですw

「やさしいってどういうこと?」
「現代人のための瞑想法」
などのスマナサーラ長老の書籍をオススメします。

参考になれば幸いです。
幸福であれノシ
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この回答へのお礼

いろいろありがとう^^
私の疑問が死ぬまでに解かれるものかどうか・・・
解けなくてもそれで苦しむことはないですけどねw

>一般的な宗教は事実との矛盾とは関係なく信じることですからね
これは宗教・神を信じている人はそれを分かっていながら信じているのでしょうか?

そういう人の回答もほしいですね

お礼日時:2009/03/15 02:14

<<ここで大きな疑問なのですが宗教と哲学が結びつくのがこじつけにも思えるのですが・・>>



ゴータマ・シッダールタ(お釈迦様)が語られたものをまとめたパーリ語の仏典のことですか?

私の見解では宗教じゃないと感じますよ。

私の知っている中で唯一反宗教的反信仰的な柔軟かつ実践・実証的な態度で理性的な思索やしていく方法を説いてますから。

信仰してやってる人もいるでしょうが、教え自体は「信仰には煩悩を増す危険性がある」から「徹底的に理性的に実証すること」を勧めます。

悩み苦しみがなくなることを目的に。

参考になれば幸いです。
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この回答へのお礼

ごめんなんさいね><  無宗教です^^
下のほうの回答にも書いたのですが子供の頃に宗教を信じることをやめたのです

1つ前の回答に宗教と哲学の関係を知りたいと書いたので丁度良かったです^^
ひとつ聞きたいのですが、悩みや苦しみがなくなる事を目的にと書かれているのですが、何故なくなることが(平常心に戻るまででも良いです)出来るのですか?

私は悩みや苦しみは空間と時間が解決してくれるとは思います
好きな言い方ではないですが”去るものは日々に疎し”です

しかしそうではない人もいますよね そういう人達は宗教で救われるのでしょうか?
私は宗教では救われなかった、しかし時間がそれをいつの間にか忘れさせてくれました(空間もあったかもしれませんが・・)

悩み・苦しみが何故時間が忘れさせたのか・・・時が解決してくれるのに救ってもくれない宗教に何故たよってしまうのか・・・そういう経験をしながらでも答えは見つかりません

もし、詳しいのであれば答えて頂ければ有り難いです

お礼日時:2009/03/14 12:44

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